2020/12/25

「アイデンティティとそれぞれの同調圧力」〜同調圧力の話B  政治・社会・文化


 同じでありたい、同じであってほしいという願いは、
 いずれの国・地域であても同じだ。
 「同調圧力」などという言葉で、
 みんなでこの国を良くして行こうという意志をくじいてはいけない。
 多少の行き過ぎはそのつど修正していけばいいだけのことだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【勇み足――自由と命とどっちが大事だ!】
 数カ月前、ネット上で海外動画を拾っていたら、韓国の電車の中で演説する青年というのが出て来ました。ボックス席のない通勤用車両の端に立って、宗教家らしい白服を来た若者が文在寅政権のコロナ対救を批判しているのです。日中の電車らしく青年を真横から移した映像には乗客は映っていません。
 批判の中心は韓国政府がコロナを理由に個人情報を吸い上げていることで、彼は深刻な自由の侵害、自由主義の危機だと考えているようなのです。
そしてさまざまな角度から激しく語ったあと、彼はついに叫びます。

「自由と命と、どっちが大事なんだ!」

(そりゃあ命ダロ)
と私なんぞは思うのですが、演説の流れから、彼は自由の方が大切だと考えているようです。

 もっとも青年の名誉のために付け加えると、彼の言っている「命」は自分の命もしくは自分の仲間の「命」のことであって、電車の乗客にまで差し出せと言っているわけではありません。自分の命を捨ててでも韓国国民の自由を守りたいという決意を語ったのですが、不用意に言葉にすると何かトンチンカンな感じになってしまいます。
 一般論として韓国人は「命より自由が大切」とは言いそうになく、その点では日本人も同じでしょう。
 しかし世の中には、本気で自由の方が大切と思っている人々も少なくありません。


【命よりも自由が大切な国―フランス】
 芥川賞作家の辻仁成(ミポリンの元夫、と言っても若い人は分かんねェだろうなあ)は、今月号の月刊文芸春秋でロックダウン中のパリをこんなふうに報告しています。
「知り合いのカフェやレストランはシャッターこそ半分下ろしているけど、窓の隙間から中を覗けば、近所の暇を持て余した連中が集って、暗がりでコーヒー片手に談笑している。行きつけのバーはさらに酷く、ドアには鍵がされ、窓ガラスは戸板で塞がれつつも、ノックすると、隙間から店員が覗き、ぼくだとわかると、扉を開けて、飲んでいくか、と笑顔を向けられる。カウンターには地元の常連が居並び、片手にジョッキ。完全に法律違反だけど、通報でもない限り、警察も一軒一軒チェックは出来ず、パリは水面下でこういう違反者が溢れかえって、むしろ三密は避けられず、感染が逆に拡大しているという悪循環にある」

 フランスという国は二百数十年前、たいへんな数の市民を死なせたうえで、世界で最も早く国民の自由を獲得した国です。そうした誇りもあるのか、自由が何よりも大切で政府の言うことをなかなかききません。
 この国の同調圧力はむしろ自由であることに向いていきます。どんなに感染が広がって死者が増えても、自ら自由を制限することが許されていないかのようです。

 下は最近パリから戻って来た日本に永住権を持つフランス人の報告ですが、「エマニュエル・マクロン大統領は、連日ように、まるで王様ように国民に話しかけます」といった調子で、政府に対して非常に好戦的です。
2020.12.25 東洋経済『フランス人が日本に戻って心底感じた「自由」 同じコロナ禍でもフランスとは様子が違う』

 今やフランスはひどい官僚主義と中央集権、そして国民の政府への信頼性の欠如により、恐怖に基づいたシステムができてしまいました。国民を守る代わりに、国民を脅し、「規則」を守らなければ罰を与えられる。何とも気が滅入ってしまう話です。
 とんでもなく激しい調子で責めますが、ここには人口が日本の半分ほどの国で62000人以上もの人々(日本は3100人ほど)をコロナで死なせてしまったことへの悔恨とか恨みとかはほとんどありません。あるのは自由を奪われたことに対する激しい憤りです
 自由の国フランスで、人々はそのように躾けられてくるのでしょう。


【それぞれの国の同調圧力】
 たまたま目についたのでフランスを例に取り上げましたが、それぞれの民族にはそれぞれの「あるべき姿」があります。それは民族のアイデンティティですから、暗黙の裡に強制し合います。今の論題で言えば、同調圧力です。

 アメリカ人にはおそらく、強くなくてはいけない、勝たなくてはいけない、陽気でなくてはいけないという同調圧力があります。しかし24時間つねに競争に曝され、しかも陽気でなくてはならないとしたら、私などはとてもではありませんがついていけません。

 私は日本に生まれて日本で育ったためか(おそらくそうでしょう)この国のやり方が性に合っています。
 街を汚さないとか、規律を守るとか、人に迷惑をかけないとかは、他人の目を気にしてやっていることではありません。確かに「世間体」という言葉があり、「人さまに恥ずかしくない生き方をしなさい」とかいった言い方もしますが、それらの言葉を使いたがる人たちに、「では、あなたにとって『世間』とか『人さま』というのは具体的に誰ですか?」と訊けばたいていの人が答えられません。
答えられないのは「世間」や「人さま」に実体がなく、それはその人の中に内在化された「他人の目」――「誰が見ていなくても自分だけは見ている」とか「お天道様が見ている」というときの「見ている主体」のことを言うからです。

 孔子は「70歳になったら自分の心のままに行動しても人道を踏み外すことがなくなった(七十にして心の欲する所に従えど矩をこえず)」と言いましたが、日本ではそれに近いことのできる人がかなりいると、私は信じています。


【お疲れさまでした! よいお年を!】
 長い2学期、ご苦労様でした。
 28日まで授業という学校も少なくありませんが、日本中のほとんどの学校で今日が終業式だったようです。
 例年だと懇談会をやって通知票を書いて、ようやくたどり着いた今夜は忘年会で一夜限りのバカ騒ぎ、というところですが、皆さま、今日は静かにお帰りになったことでしょう。
 その労をねぎらう言葉が、いまは見つからなくて困っています。コロナ禍での学校の実際が分からないからです。だからここは中途半端な慰労などせず、黙ってお見送りしたいと思います。

 年が明ければ何かが大きく変わるわけでもありませんが、先生方、しばらく心を休めて、また戦場にお戻りください。
 私も1月7日ごろまで休むつもりです。
 それでは皆様、良いお年を!


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2020/12/24

「相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと」〜同調圧力の話A  教育・学校・教師


 同調圧力だの自粛警察だの――、
 しかしそれらは結局、程度の問題なのだ。
 私たちは子どもの頃からお互いを見て、お互いを正すことになれている。
 それを大人になった今も続けているにすぎないのだ。

という話。
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(写真:フォトAC)

【シーナは同調圧力に負けたのか】
 年末年始の帰省を非常に楽しみにしていた娘のシーナが、新型コロナ感染第3波のために断念しました。
 親や祖母にうつしてはいけない、東京のウイルスを田舎に持ち込んではいけない、といった公徳心からではありません。とてもではないが今の東京に里帰りできる雰囲気がない、許される気がしないというのです。
 昨日残したのは、この事実をもって「シーナは同調圧力に屈した、負けた」という話になるのかという設問でした。

 答えはそれほど難しいものではありません。

 結局すべては“方向性”と“程度”の問題で、戦争遂行だの犯罪だの、あるいは「いじめ」といった悪い方向へ向けた有形無形の集団圧力とは戦わなくてはなりませんし、正しい方向への圧力であっても、コロナ自粛の最中の、他県ナンバーの車を傷つけたり、自粛要請に従わない飲食店への張り紙、マスクをしていない人の画像をSNSにアップするなど、行き過ぎは厳に慎まなくてはなりません。

 もちろんだからと言って「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人」を温かく見守る必要もありませんし、マスクをなくして困っているといった話なら助けてあげてあげればいいし、訳もなくそうしているなら思い切り冷たい目で見てやればいいのです。
 
 同調圧力という言葉に負のイメージを被せて、一括で扱ってしまうと社会の自浄能力や教育力さえ失ってしまいかねません。
 今年の年末年始に限って、里帰りは自粛しようというのはどう考えても正しい見方です。だったらその流れに乗ることは、決して負けたことにも屈したことにもならないはずです。


【私が子どもの時代の人民裁判】
 考えてみれば学校というところは、昔から同調圧力を借りて子どもを育てる場所でした。
 保育園でヤンチャだった子どもが小学生になったとたんにしっかりし始めると、保護者の中には、先生の偉大さだ、学校の凄さだととても感心して下さる方が出て来ますが、特別の技があるわけではありません。
 1年生になるにあたって、相当な覚悟をして入学してくる立派なお子さんがたくさんいるのです。教師はその力を借りて全体に枠を作るだけです。

 今は人権意識も広く定着して先生たちもとても優秀になりましたからそんな乱暴なことはしませんが、私が子どものころの帰りの会はまるで人民裁判でした。私などはかなり良い子だったはずなのに、それでも週に2〜3回は、
「T君は今日、〇〇をしていました。やめた方がいいと思います」
とか、
「今日、T君に○○されました。やめてほしいと思います」
とか言われて、そのたびに立って“お詫び”をさせられていました。毎週2〜3回というからにはよほど懲りない性格をしていたのでしょうが、吊るし上げる方も実に熱心でした。

 今の先生たちはそんな明け透けなことはしませんが、やっていることは基本的に同じです。常に正しい行い・善い行いを称揚し、悪い行いは陰で丁寧に潰すようにします。そうすることで学級内にモラルの枠を示すのです。
 するとそれだけで、子ども同士がお互いを正す”相互批正“が自然に発動してくるのです。特に小学校の低学年ではその力は絶大です。


【相互批正と同調圧力――子どもの頃からずっとやってきたこと】
 なぜそうなるのかというと、比較的自由で遊ぶことが主な活動だった保育園から、制約の多い小学校に入ってくると、どうしてもうまく順応できない子が出て来ます。その子たちは枠からはみ出しやすく、“良い子”から見ればひどく身勝手です。自分たちはきちんとやろうと努力しているのに、“悪い子”たちはまったく自覚なく、好き勝手に生きているように見えるのです。そこで正義の大鉈が振るわれるようになります。 “良い子”たちだって我慢しているわけですから、我慢できない子たちが許せないのは、ある意味で無理ないことです。

 この構造はコロナ自粛をかたくなに守っている“ハンマーの下の人々”と、常に枠の外に出たがる“踊る人々”の関係にそっくりです。
 別の言い方をすると、同調圧力だの自粛警察だのといったことは、私たちが小学校のころからずっと続けてきたことなのです。

(この稿、続く)

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2020/12/23

「子どもたちの帰って来ない正月」〜同調圧力の話@  政治・社会・文化


 結局、子どもたちは年末年始の帰省を諦めた。
 私も致し方ないと思う。
 しかし結論は同じでも、そこに至った理由は同じではない。
 私たちはどれをどう考えたらよいのだろう。

という話。
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(写真:フォトAC)

【正月、子どもたちが帰って来ない】
 結局、娘のシーナも息子のアキュラも、この年末年始の帰省を断念しました。シーナの家族は一年おきに夫の実家、妻の実家と交互に正月を過ごしますので、私の家で家族が揃うのは2年後ということになります。その間に孫のハーヴやキーツはどんどん大きくなってしまいますから、返す返すも残念です。

 ついこの間まで、
「直近一週間の10万人あたりの感染者が23・8人(当時)の東京に住むシーナが感染している確率は0・0238%。しかし踊る人々と耐える人々とでは自ずと危険性に差があるから、シーナの感染している可能性はさらに低いだろう。だったら第三波の真っ最中という体裁の悪いタイミングだが、帰省したってかまわないじゃないか」
と思っていたのです。しかし完全に様相が変わりました。

 全国知事会が暗に“帰省してはダメ”と言い、小池東京都知事が、
「年末年始は『家族でステイホーム』に、ぜひとも協力いただきたい。買い物や通院など『どうしても』という場合を除いて、外出はぜひとも自粛をお願いしたい」
と呼びかけた以上、何も考えずに帰省というわけにもいきません。
「お正月は田舎で、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に」
は通院や買い物と肩を並べるには、あまりにも不要不急です。

 周囲を見回して職場の人々やママ友、SNSでつながる友人たちの話を聞いても、あっちでも断念こっちでも「帰りまテン」では、その中にあって「帰ります」とはとても言えない。
 黙っていれば分からないという理屈は、5歳のハーブは保育園できっとしゃべるに違いないという現実的な面を差っ引いても、背負い続けることのできるものではありません。


【アキュラの場合、シーナの場合】
 アキュラの住む熊本は東京の多摩地区よりさらに感染率は低くなります。しかし根に妙に生真面目な部分を持つこの息子は、「すべての人が自分は“感染者である”という想定の下に行動すべきだ」という話をどこかで信じているみたいで、私たち夫婦(高齢者だそうです)や祖母(93歳ですから本物の高齢者)に感染させるのではないかと本気で恐れているのです。
 もっとも感染リスクを負いながら苦労して帰省しても、友だちと飲んで話に花を咲かせるわけにもいきませんから、重症化リスクの高い私たちと一週間も過ごして帰るだけならそれもかわいそうです。
 独りぼっちの大晦日は気の毒ですが、感染させる心配がないという意味では気楽でいいのかもしれません。

 ところでアキュラの断念はかなり自主的なものでしたが、シーナの断念理由は主に「周りが次々と帰省を取りやめている」「みんな我慢している」「それなのに私たちだけが帰るわけにはいかない」という、人間関係、社会関係から来ているものです。周囲のことを気にしさえしなければ、私と同じように感染の可能性は極めて少ないと考えている娘ですから、帰って来たと思います。

 そこで思ったのですが、日ごろから日本人の同調圧力について問題視している皆さんは、この事態をどう考えるのでしょう?
 シーナが直接「みんなに合わせて帰省を見合わせろ」と言われたわけではないので、同調圧力の問題とは言えないということなのでしょうか、それともシーナは無言の同調圧力に屈して自己を曲げたということになるのでしょうか?


【何か奇妙な言い回し】
 同調圧力についてよくわからなくなったのはこの4月、自粛警察が問題になったときのことです。これを扱ったニュースの終わりで女性アナウンサーが、
「私も人ごみでマスクをしていない人を見ると、思わず視線がきつくなったりしてしまいます。気をつけなくてはいけませんね」
とまとめたのですが、それがどうにもしっくりこない。

 言い換えて見ましょう。
「人ごみでマスクもせず咳き込んでいる人がいたとしても、温かい目で見守ってあげましょう」
「犯罪に走るような人たちは、たいてい不幸な生い立ちをしているものです。罪を憎んでひとを憎まず。警察に訴えるようなことをしてはいけません」
「政府が自粛を呼び掛けていたとしても、それに応じるか応じないかは個人の自由です。法律ではないのだから、彼らが群れようがマスクをせずに大声で叫んでいようが、冷たい目で見てはいけません」
 何か変ではありませんか?

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2020/12/22

「コロナのおかげで年賀状の書けない人がいる」〜ほんとうに何もなかった一年  歴史・歳時・記念日


 いよいよ年賀状も締め切り間際。
 毎年、近況報告のような賀状を書いているのだが、
 今年はコロナ、コロナ、コロナで、書くことがない。
 いったいどうしたらいいのだろう。

という話。
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【私のつくってきた三種の年賀状】
 12月も20日を過ぎて、いよいよ年賀状も締め切り間際となりました。私が自分自身に課した締め切りは12月24日。毎年クリスマスカード代わりにイブの日までに作成しています。

 例年、作ることにしている年賀状は2種類。
 ひとつは私自身の一年間を振り返るもので、できごとを1月から順次数え上げて一つひとつにコメントをつけるものです。3年前の戌年はこんなふうでした。
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 最近は老眼の進んだ友人たちからの厳しい声も聞かれるようになっているのですが、自分自身の記録の意味もあって、こうした形式はもう30年以上も続けています。

 もうひとつは家族に関するもので、一人ひとり名前を挙げて、近況を4行程度で記しておきます。主として親戚や家族ぐるみの付き合いのある相手に送るものです。
 Web上に出しやすいものをということで、さらに一回り昔の2006年のものを載せておきます。もちろん本名や素性のバレそうなところは仮名や伏字にしてあります。
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 まだ担任を持っていたころには「児童生徒からもらった賀状の返事」というのもありました。これも2006年のものが扱いやすいということで、載せておきます。それぞれの年の干支に関するウンチクで埋めています。
 かつての教え子たちもみんな大人になってしまったので、いまはこうした賀状をつくることはありません。
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 今年も2020年の年の瀬を迎え、さあ取り掛かろうと思って――ハタと立ち止まってしまいました。
 書くことがないのです。


【農業日記か介護日記か】
 今年あった思い出に残る出来事と言えば、2月末に行った初めての5泊6日の九州旅行です。
 もともと夫婦で忙しがっていて旅行などほとんどしない家庭で、泊を伴う家族旅行はディズニーランドとUSJに合わせて3回。それと娘が結婚する直前の家族解散旅行でそれぞれ一泊しただけです。
 退職後は温泉好きの義理の兄弟に連れられて、近場の一泊ということもありましたが、5泊6日の家族旅行など空前(そしてたぶん絶後)ですから、十分に年賀状に値する大事件です。

 で、それを書いて次は・・・と考えると、あとはひたすらコロナ、コロナ、コロナ。自粛、自粛、自粛。
 子どもや孫たちとは半年以上会っていませんから、家族の様子も報告のしようがありません。

 もちろん一年間、何もしないで生きてきたわけではないので、ムリをすれば書けないわけではないのですが、おそらくでき上るのは小さな畑でやってきた「農業日記」もしくは母の「介護日記」くらいなものです。実に味気ない。

 ああ、そうこうするうちに今日は22日。
 年賀状、ほんとうにどうしたらよいのでしょう?


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2020/12/21

「教師の首に突きつけられる匕首」〜35人以下学級が始まる  教育・学校・教師


 小学校の35人以下学級が始まるらしい。
 一方で熱烈歓迎みたいな扱いをされているが、実際は焼け石に水。
 それどころか、
 楽にしてやった分、教育の質も上がるはずだと、
 教師の首に突きつけられた匕首。
という話。
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(写真:フォトAC)

【35人以下学級制度が始まる】
 頭と心を新型コロナに奪われている間に、社会ではさまざまなことが起こっています。そのひとつは学校の長年の夢だった一クラスの定員の引き下げです。
 先週17日(木)、文科省の荻生田大臣と財務省の麻生大臣との折衝で、小学校の一クラスの定員を5年かけて35人以下に引き下げることで合意しました。文科省は小中ともに30人以下を要求したのですが、そこにまでは至りません。

 これを受けて学校もマスコミもお祭り騒ぎで、例えば産経新聞(2020.12.17『「よくぞやってくれた」35人学級に保護者ら歓迎の声』)では、堺市の小学校長が、
「よくぞやってくれた」と歓迎。「子供1人1人の活躍の機会が増える。教師はきめ細かい指導ができる」と話した
とか。
 大阪市の教頭も、
「担任が児童と関わる時間を増やせる」「配慮が行き届き、学力の安定や保護者の安心にもつながる」
と歓迎の声を上げています。
 さらに東大阪市の女性教諭は、
「40人と35人では、子供に割ける時間も力も全然違う」
 大阪府の30代教諭も、
「40人の子供には、勤務時間中に対応しきれない」
 保護者たちも、もろ手を挙げて歓迎している様子が紹介されています。

 しかし私は、これがほんとうの話かどうか、かなりまじめに眉にツバをつけて聞いているのです。


【35人以下学級でも変化は緩慢】
「40人と35人では、子供に割ける時間も力も全然違う」
 たった5人の差がそこまで大きなものですか?
「40人の子供には、勤務時間中に対応しきれない」
 35人だったら勤務時間中に対応できるのですか?

 実は35人以下学級というのは「児童数が35人を越えたらクラスを割りなさい」という制度ですから、1学年の児童数が35人だったら1クラスのまま、36人になったら18人ずつの2クラスになります。担任ももう一人入ります。
*これについて昔、「良い子30人と悪い子6人の二クラスに分けたらどうか」と本気で考えたことがあります。もちろん私はどちらの担任であっても構わないのですが。
*1学年が70人を越えたら2クラスでは収容しきれませんから、3クラスにします。その場合は23人・23人・24人といったふうにするのが一般的です。

 産経新聞のインタビューに答えた二人の先生は、それが念頭にあって劇的に余裕が生まれるような言い方をしたのでしょう。しかしそんな大げさな変化は実際には起こりません。

 ニュースによると、文科省は35人以下学級を来年度から5年かけて小学校全体に広げると言っています。実は現在でも小学校1年生だけは35人以下ですので、来年度は新1年と新2年が同時に35人以下になることになります。つまり2年生以上では何の変化も起こらないということです。
 再来年は新1年から新3年まで、さらに翌年は4年生までが35人以下学級となる、というふうに順次のばしていって、5年間で全学年に生き渡ることになるのです。
 ということは現在40人の学級は卒業まで40人のままだということで、一村一校みたいな地域で中学校に進んでも40人だったら、そのクラスは最後まで40名のままということになります。担任教師も、児童生徒と一緒に進級している限りは、劇的な変化を味わうことはありません。もちろん下の学年に移れば別ですが――。
 

【35人以下学級でもそれほど楽になるわけではない】
 私は38人の学級担任から、転任のために13人のクラスの担任に変わったことがあります。
 それはもう劇的に事務処理は少なくなります。日記を見るのも通知票を書くのもテストの採点をするのも、すべて三分の一程度で済むのですから。

 しかし児童が三分の一だからといって国語の授業を三分の一に減らせるわけでもありません。
 児童のための授業プリントは印刷時間こそ三分の一ですむものの、原稿の制作時間は一緒です。家庭訪問も懇談会も確かに三分の一ですが、その分、通り一遍では済まなくなります。
 それがきめ細かい指導ということなのかもしれません。しかし対象の人数が減った分だけ内容が深まるなら、結局教師の多忙には変わりはないことになります。実際に事務処理の楽になった分は他の仕事に吸収されてしまいます。
 しかも私が13人のクラスの担任だったのは、今から四半世紀も前の話で当時は今よりもずっと余裕があった時代です。


【教師の首に突きつけられる匕首】
 産経新聞が『「よくぞやってくれた」35人学級に保護者ら歓迎の声』とはしゃいだ記事を書いた17日夜のNHKニュース9は、今回の35人以下学級のねらいについて、要領よく次のようにまとめていました。
「今回の定員の引き下げ、背景には感染拡大だけではなく、新たな時代を見据えた学びが次々と導入されている教育改革もあります。
 一方的な知識の詰込みではなく、子どもたちが対話をしながら思考力や表現力を育む教育が求められています。さらに情報化や国際化の流れに対応できるよう、今年度から高学年では英語が教科に、プログラミング教育も必修化されました。今、現場はこうした新たな学びへの対応に追われています」


 その上で、夜の10時過ぎまで小学校英語の教材づくりに励む先生の姿や、いきなり児童数分のコンピューターが送られてきて、その初期設定ができずに苦労している先生の姿が映し出されていました。
「子どもたちのために仕事をしているのに、これ(小学校英語やプログラミング学習の準備)で圧迫されて、明日の準備に影響が出るようなら逆効果」
とは、そこにいた情報教育担当者の弁です。
「(新しい学びのために)放課後の仕事の量も変わってくるし、授業中のみとり、一人ひとりへの対応も変わってくるので、少人数学級が実現してもらえたらうれしい」

 しかし少人数学級が実現したところで、次々と導入される新たな学びによる負担が減るわけではありません。
 マラソンの40km地点でフラフラになっている選手に栄養ドリンクを渡して、
「さあ楽にしたんだから金メダルを目指して走れ!」というようなものです。
 キジでもサルでもイヌでもないのに、キビ団子ひとつで命を懸けさせられる――。

 そういえばニュース9の有馬キャスターも、
「教員にゆとりが出れば、学びの質は上がるはず」
と教師の喉元に匕首を突きつけ、和久田キャスターも「ぜひ(35人以下学級が)学びの質が上がること、なにより子どもたち一人一人の成長に繋がって欲しいと思います」
とか言ってまとめていました。

 アメを渡されてヘラヘラしているとムチでブン殴られる世界の話です。
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2020/12/18

「踊る人々、耐える人々」〜コロナ禍のもと、年末年始をどう過ごすかB  政治・社会・文化


 もしかしたらファクターXなどなくて、欧米よりはマシだとしても、
 これから大変な感染拡大が始まるのかもしれない。
 しかし国民のすべてに自粛を呼び掛けるのも無意味だ。
 踊る人、耐える人、双方に呼びかけるべき別々のことがある。

という話。
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(写真:フォトAC)

【コロナウイルスは浴室の黒カビ】
 昨夜は「東京都 新型コロナ 新たに822人感染確認」のニュースでかなりへこみました。
 700人台は一回もないまま、一気に800人台です。今週は月曜日から300人台、400人台、600人台、そして800人台ですから、これから先どれだけ伸びて行くか分かりません。

 海外ではヨーロッパの大国で唯一危機を凌いでいたドイツが、ついに堤防を決壊させたみたいに爆発的感染拡大を起こしていますし、韓国も三日連続で1000人以上の感染者を出しています。
 私は韓国に対してある種の信頼を寄せていて、「自由主義でもあそこまで国家に情報を提供すれば感染拡大は防げる」という手本のように思っていたのです。その韓国ですらダメなら、何をやってもダメという気もしています。

 今でも感染者・死者の極端に少ない国・地域はありますが、台湾もベトナムもニュージーランドもアフリカの小国の多くも、何か特別なことをやってきたわけではなく、2月〜3月という極端に早い時期に厳しい出入国制限を始めて、とにかくウイルスの一粒も入れまいとしたことが勝因ではないかと思っています。

 浴室の黒カビと同じで、「何となく壁がくすんでいるかな?」という段階で丁寧に除菌して、あとは毎日水洗いをしていれば何ということはないのに、いったん全体にはびこらせてしまうと何度カビ取り作業をしても繰り返し生えてくる、あんな感じです。

 もちろん一カ月くらい入浴禁止にして毎日大量の塩素を降りかけ、そのつど丁寧に乾燥させるようなことを続ければ完全制圧も夢ではありませんが、国家の洗浄ということになるとそんな荒療治ができるのは一部の社会主義国くらいのものでしょう。
 ちなみにベトナムは一人でも感染者が見つかるとそのアパート一棟が丸々ロックダウン、村部だったら一か村まるごと封鎖だそうです。中国は言うまでもありません。


【ファクターXなんてなかった(のかもしれない)】
 日本についても、もしかしたら山中伸弥先生のおっしゃるファクターXなんてものはなく、たまたまマスク好きの国民性と花粉症の時期とがかみ合って、みんながマスクをしていたから黒カビの蔓延・定着を防げたというだけのことかもしれません。しかし10カ月の間に次第に蓄積し、壁の奥深くに根を広げた黒カビはついに一斉に胞子を撒き散らし、東京では1日に800人越え、全国で3000人越えという感染者を発生させるに至った――そうことなのかもしれないのです。

 もちろん相変わらず日本人はマメにマスクをつけていますからヨーロッパや南北アメリカのような悲惨なことにはならないでしょうが、それでもこれまでのように、
「たいそうなことはしなくても、このまま何とかなるんじゃネ?」
といった雰囲気ではいられないのかもしれません。

 このまま東京の一日あたりの感染者が1000人だの1500人だのということになったらあの都知事のことですから、
「トーキョー、ロックダウン。おウチを出てはいけません」
くらいのことは言い出しかねせん。
(もちろん本気でそう思っているわけではありませんが)
 そうなったら2021年の正月を家族で過ごすという私の夢も雲散霧消です。


【感染者の内訳を考える】
 ところで、現在爆発的に増加しつつある新型コロナウイルスの感染者、その内訳はどうなっているのでしょう? 年代別の数字は繰り返し報道されるのですが、男女別・職業別といった統計は見たことがありません。独身者か家族持ちかといったことはけっこう重要ではありません? 職業だって。

 例えば、私が感染拡大地域に住む家族持ちのサラリーマンだったら、コロナに対してかなり慎重になると思います。とにかく家族に迷惑はかけたくありません。それが第一の理由です。
 会社でうつされるのは仕方ないにしても、「会社で最初にコロナを持ち込んだ人間」には絶対になりたくありません。感染者を差別するなとは言いますが、私がコロナを持ち込んだばかりに企業活動が停滞し、顧客に迷惑がかかったとなると、それでも素直でいるのは誰にとっても難しいことでしょう。
 数年後、業績も実力も同じ誰かと出世を争うとき、最後の決め手が「危機管理能力」になることだってあり得ます。

 そう考えるとマスク・手洗いは徹底し、通勤電車内では息もしないように心がけ、家人にもうるさく言い続けるに決まっています。外食・会食・宴会等には不参加が基本となります。もっとも、会社から家庭に直行といっても、そこには家族とともに過ごす楽しい時間もありますから、極端な感染対策も苦しくありません。

 一方、私が地方からで出てきてアパートに住む、もちろん独身の大学生だったらどうでしょう? おまけに授業はリモートだとしたら――。

 三食作って食べるなどという生活スキルはありませんから最初はコンビニ弁当かホカ弁・レトルト、しかしさすがに10カ月にもなると耐えられなくなります。
 一日部屋の中で過ごして会話というものがほとんどない。リモート授業で発言はしますが、そんなの会話じゃない――と、そこに友だちからの誘いがあって、西村大臣も「5人以上がすべてダメというわけではない」とかおっしゃっていましたから出かけることにして、一次会、二次会、さらには酔ったついでのカラオケ。気がつけば午前5時で、なんだか寒気がして熱っぽくもなってきた――そういうことだってあり得ます。

――とここまで書いてきて、気づいたことがあります。


【それぞれのコロナ、それぞれのリスク】
 昨日の段階で、東京都の直近一週間の感染者数は10万人あたりで28・9人です。これは偶然会った東京都民の、感染している確率が0・0289%であることを意味します。しかし現実には先ほどの“家族持ちのサラリーマンの私”と“一人暮らしの学生である私”とでは可能性に大きな差があります。
 あるいは同じサラリーマンでも、独身者と妻帯者・子持ちとでは違うでしょうし、社員数10万人といった大企業の社員と、全員の顔が見える20人規模の会社員とでは、当然行動様式も感染リスクも異なってきます。

 リモートワークは企業や社会を守ることには役立つかも知れませんが個人を守るかどうかは分かりません。私が独身のサラリーマンで、アパートでリモートワークだけを続けていたとすれば学生生活と変わりないようなものです。孤独に耐えかねて行ってはいけないところに繰り出してしまうこともあるでしょう。

 最近の傾向として職場内感染と家庭内感染が中心となっていると言いますが、飲食店や接待を伴う飲食店も人によっては“職場”です。オフィス街の雑居ビルの一室が“職場”という人もいれば、だだっ広い工場や倉庫で、わざわざ歩かないと隣の人と話もできない“職場”もあります。
 家庭内だって例えば、夫婦ともに医療関係ということだと超危険で超安全(職場リスクの高い分、家庭内の防疫意識も態勢も万全)と言えますし、このコロナ禍でも毎日飲んで帰るのが楽しみという構成員が一人でもいれば、その家はかなり危険です。

 私のような田舎人からみると都会人は全員が“怪しい人”ですが、内実としてはかなりの差がある、そう考えて間違いはないようですが、すると、どうなるのか。


【踊る人々、耐える人々】
 小池都知事は以前、「ダンス&ハンマー」という言葉をつかいました。
「感染者が少ない状況では経済を活性化させるために踊らせ、感染者が増えたらハンマーで叩く」というずいぶん上から目線の考え方です。
 しかし現実としては都内に、あるいは全国にも、ずっと踊りっぱなしの人とハンマーの下で耐え忍び続けている人とがいるのです。前者を押さえるのも難しければ、後者を踊らせるのも厄介です。

 今は感染拡大の時ですから踊る人々を押さえるしかありません。
 耐え忍ぶ人たちに対してやれることはないのです。この人たちは一度だって気を緩めたことなどないので、前者と一緒くたにして「気の緩み」などとは言ってはいけません。いつも誉めてあげなくてはならない人たちです。

 感染拡大が止まらないのは踊る人々が浮かれすぎたからです。
 しかしこの人たちだって大切でしょ? 一晩に二軒も三軒もハシゴしてカラオケで朝まで遊んでくれるような人がいるから、飲食や観光娯楽業の人々は潤うのです。生きていけます。
 まだ十分に企業体力のあった4月ならまだしも、青息吐息でようやくここまでたどり着いた今、こうした警戒心の薄い人たちこそ救世主です。

 そう考えると踊る人たちは、ただ押さえつけなくてはいけない対象ではなく、“いまは控えていただく人”ということになります。誰にでも役割はある、しかし今は出番ではない。
 やがて感染が治まってきたら、その時こそあなたたちの活躍の時です。どうか死ぬまで飲んで、死ぬまで歌ってください――そんなふうに呼びかけ、現在の自粛をお願いしなくてはならないのは、こうした人たちです。

(この稿、終了)


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