2020/5/29

「家庭に居場所のない子どもたちと、子育ての複線化」〜自分の居場所がない!B  親子・家族


 普通の家庭なのに子どもの居場所がなくなるのはなぜだろう。
 子どもは親をどうみているのだろう。
 親と子の双方の立場から、
 どうしたら居場所ができるのか、考えてみる。

というお話。
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(「滑り台で遊ぶ家族」フォトACより)


【普通の家庭に子どもの居場所がない】
 世の中には虐待を日常的に行っている家庭もあれば、崩壊家庭もあります。年がら年中、夫婦でいがみ合っている家もあります。これらの家で子どもが「自分の居場所がない」と言っても、それは何となくわかることで、対処の仕方も想像がつきます。

 原因が他にある場合でも、とりあえず目の前の問題を解決しないと先へ進めないのは、いま罹っている風邪を治さなければ頭痛の原因がわからないのと同じです。
 したがってここでは、ある程度の幅で「ごくありふれた家庭」を前提に話をしたいと思います。

 普通の両親、普通の家族、なのに子どもが「家に居場所がない」と言い出すとしたら、それはどういうことなのか、ということです。
 その点で私がいつも考えてきたのは、
「伝わらない真実の愛より、伝わる偽の愛の方が価値がある」
ということです。


【子どもの理解力は思ったより低い】
 例外はあるにしても、口下手の、何を言っているのかわからない男の愛の告白より、結婚詐欺師の流れるような饒舌の方が勝利を得やすいことは容易に想像がつきます。女性はバカだと言っているのではありません。大きなニュースになる結婚詐欺はむしろ女性によって行われていますから男も女も同じです。
 問題はそこにあるのではなく、 “愛”はきちんと伝えておかないと伝わって行かない場合があるということです。

 日本の男性は愛情表現が下手で、妻に「愛している」などとほとんど言わないといわれています。しかし言えばいいものでもないでしょう。欧米の男性たちは年中「I love you」とか言っているみたいですが、欧米の奥様方だって眉に唾をつけて吟味しているに違いありません。
 日本の場合、「愛している」は、私のように妻に叱られているときだけ使えばいいのであって、普段は黙って雰囲気を醸し出していればいいのです。夫婦間であれば。

 また社会生活を送る上で、私たちは友人、同僚や先輩、後輩に対して、いちいち「オレのこと、信頼しているよな」とか「俺たち親友だろう」などと言ったりしません。そうしたことはすべて“読み”の中で行うべきことで、いちいち確認するようだとむしろ胡散臭いと言えます、大人の社会では。

 しかし子どもは違います。
 彼らはとても未熟で、日本独自の高度な“読み”の対話についていけないのです。ひとことで言ってしまうと、子どもたちは私たちよりずっと「言葉通りにとってしまう」傾向があるのです。だから必要なことはきちんと言葉に出して言わなくてはならない。


【子どもに理解できない親の言葉遣い】
 私の友人に会話のキャッチボールをいちいち変化球で行う男がいます。まったく素直でなく、根はいい人なのに妙に悪ぶったりふざけたりするのです。
 そこが面白くて50年以上もつき合っているのですから仲間内ではいいのですが、同じ語法を子どもに対しても使うのは困ったものでした。

 例えばまだ息子が小学生のころ、彼は近所にある県内随一の進学校の前を通るたびに、「お前はいつかこの学校にはいるのだ」と暗示をかけているという話をしてくれたことがあります。飲み会の席でのことです。
 これが教育パパのまじめな話だったらまだいいのです。本気で息子をトップ校に入れたいと考えているなら、暗示をかける以外にもさまざまな支援を行い、その結果を一緒に確認しながら成長していけばいいのですから。
 ところが、私たちの誰もがわかっていたのですが、彼にはそんな気持ちはまったくなかったのです。面白おかしいからやっている、息子がその高校に合格すれば敢えて反対もしないが、基本的にどうでもいいことだと、そんなふうに考える人です。

 私はすでに教員でしたので“これは危険なやり方だ”と思ったのですが、子育ての上では彼は先輩ですし、教員風を吹かせるみたいでそれも嫌だったので敢えて言いませんでした。しかしずっと後になって、彼と一緒に後悔することになりました。


【実は親には余裕がある】
 今の話は極端な例ですが、似たようなことは普通の親もしています。例えば「何が何でも県立高校(都会の場合は私立高校)へ入れ」とか、「野球で○○高校をめざせ」とか言った具合です。
 ただ、これもどこまで本気の話なのか――。

 目指す高校へ入れなかったら高校進学自体をあきらめるのか、一家心中でもするのか、ということになればそうではありません。親にサラサラそんな気はない。子どもが頑張ってそれでもできなければ諦め次善の三善の策へと向かう、そのための覚悟も余裕もあります。ただし最初から余裕を見せたら子どもが頑張らないかもしれないので厳しく言っているだけなのです。
 けれど思い出してください。「子どもたちは私たちよりずっと言葉通りにとってしまう傾向がある」のです。

 受験を例に話を続けると、子どもから見た場合、親が受け入れてくれるのは “目指す高校に進学している自分”です。それ以外ではありません。親がそう言っているからです。「何が何でも県立高校へ入れ」と。
 したがって“県立高校生でない私”“県立高校をめざす努力もできない私”はその家にいなくてもいい子です。その観点から家庭を見れば、明らかに自分の居場所はありません。
 こうして「家庭に居場所のない子ども」は生まれてきます。
“県立高校生でない”を“良い子でない”に置き換えると、子どもたちの立ち位置の大変な状況はさらに見えてきます。

 しかしだからと言って親にとって、「高校はどこでもいいよ」は本心ではありませんし、子どもの悪い部分を放置して「別にいい子でなくてもいいんだよ」と言うことも躊躇われます。
 生活指導の問題に関して、専門家はしばしば、
「“今のままのキミでいいんだよ。そのままのキミで大丈夫なんだ”ということを伝えなさい」
とか言いますが、昨日から引きこもりに入った子、今日、万引きした子、まったく勉強しないで遊び呆けている子に、“今のままのキミでいいんだよ”は、言ってもウソ色満載、伝わるわけがありません。

 一方で厳しい言い方で努力を促しながら、他方でどうしても無理なら受け入れるよという優しさも見せたい二律背反、いったいどうしたらよいのでしょう?


【日常の二律背反】
 この問題はきわめて現代的なものではないかと私は思っています。
 昔の農家や商家ですと一日中家族で暮らしていますから、自然と夫婦の役割分担ができて楽だったのです。お父さんは厳しく、お母さんは優しくといったふうに。
 ところが現代の役割分担は共稼ぎであっても「外で働く人」と「子どもを育てる人」で、どこもかしこも実質ひとり親状態です。そうなると一人の親が厳しい部分と甘い部分を使い分けなくてはならず、それが大変なのです。

 実はこれについて、私は答えらしきものを持っています。それはもうひとりの私の友人が教えてくれたことで、指導の複線化、お隣の国の大統領の大好きな言葉を借りれば、指導のツートラックともいうべき方法です。


【子育ての複線化】
 私は結婚も遅く親になるのも遅かったので、先述の友人を含めて友だちの子育てを参考にすることが少なくなかったのですが、これはいいなあと思って真似したのは、三人の子どもを代わる代わる膝の中に乗せて、体を揺らせながら語り掛ける別の友人の姿です。
 彼はこんなふうに言うのです。
「お父さんの大好きな○○(子どもの名前)。お父さんが世界で一番大切な○○」
 そんなふうに遊んでしばらくすると別の子と取り換えて同じように、
「お父さんの大好きな△△。お父さんが世界で一番大切な△△」
 三番目の子どもも同じです。

 面白いのは子どもたちにとって「世界一」が三人もいることがまったく問題とならないことです。あとで聞くとさすがに「じゃあお姉ちゃんとボクとどっちが大事なの?」と訊ねられたこともあるようなので、それでどうしたと教えを乞うと、
「いや、そんなのは簡単。“今は○○が一番”って言っておけばいいんだよ」

 私もそれを真似して、上の子が三歳のころから、下の子が父親の膝の中に入るのを嫌がるまで、繰り返し同じことをしていました。
 下の男の子はある日、
「でも、お姉ちゃんを抱っこしているときはお姉ちゃんが一番っていうんでしょ」
とか言いましたが、それでも満足そうでした。姉を大切にしてくれる人は、自分も大切にしてくれる人です。

 子どもが問題を起こした、子どもの問題が常態化した、そういった段階で打つ手は限られています。その状態で”今のままのキミでいいよ“と言って通じさせるのは、不可能ではないかもしれませんが、神技に近いものがあるでしょう。
 受容的な言葉、愛を伝える言葉は、順風の時あるいはどうでもいいときに投げかけておくべきものです。子育てをする以上はいつかは厳しい親子対立を経験しなくてはなりません、しかも何回も。だからその日のために、どうでもいい時間には子どもに“お前が一番大切だ”という言葉を浴びせておけ、ということです。

 小学生も高学年や中学・高校になったら、“大好き”は言いにくくなりますからどうでもいい時間に努めて誉めておく、問題のない時期の親子の会話は誉めて愛情を注ぐ時間としておく――指導の複線の一本は常に生かしておくことがいつ用です。。
 日ごろから「大好きだ」「素晴らしい」「いい子だね」と言葉のシャワーを浴びせられている子は、親の期待に反して“県立高校生”になれなくても、家に自分の居場所のあることをきちんと知っています。そんな子は、苦難の時も踏ん張れます。倒れても頼る家庭があるのですから。

 先日、孫のハーヴは母親に叱られて、
「お母さん、怒るけど、(ボクのこと)好きなんだよね」
と訊いたそうです。おそらくシーナも私と同じことをしているのでしょう。

(この稿、終了)

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