2020/4/1

「対新型コロナ戦争は自由の戦い」〜“自由主義は国民を守らない”という結論にしてはいけない  政治・社会・文化


 あれほど大きな犠牲に見えた中国の新型コロナ死亡者3300人。
 それが霞んで見えるイタリアの1万1591人、スペイン7340人。
 やはり強い政府、強い指導者が必要だ、共産党万歳! 習近平万歳!
 ――だが、もちろんそんな結論にしてはいけない。
 イタリアやスペインやフランスが敗れたあと、
 今や日本が自由を守り、民衆を導く女神にならねばならない!

という大げさなお話。
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(ドラクロワ 「民衆を導く自由の女神」パブリック・ドメインQより)

【なんとも憂鬱な4月】

 ほんとうに憂鬱な4月の始まりです。こんな4月がかつてあったでしょうか?

 私にとって4月は、見た目に大きすぎるランドセルを背負った6歳児が、たった一度しか着ないかもしれない盛装をして、桜の下を駆け抜ける月なのです。中学校では、袖の中に手がすっぽり入ってしまいそうな学生服を着たまるっきり小学生みたいな子が、ゴリラのような大男やほとんど女性と言っていい先輩の間を恐る恐る抜けて、「新入生」と表示された席に向かう月なのです。
 教職員も一年にいっぺん、襟を正し、さあ、またやり直そうと背筋を伸ばす清新な月です。
 それがこんなに重苦しくなるとは――。

 新型コロナ感染について、なんとか持ちこたえてきた日本の防御壁が今、破られるかもしれないのです。東京や大阪がナポリやパリやニューヨークのようになる、そう考えただけでも身震いがしますが、今、私がそれと同時に思っているのは、これはコロナとの戦いであると同時に文化の戦いだということです。
 サミュエル・ハンティントンが『文明の衝突』の中で、単一の文明圏とみなして特別な地位を与えた日本が、他の国々と同じようにコロナウイルスに負けるのかもしれない、そう考えると我慢ならないのです。


【衛生の民】
 私たちの祖先はかなり以前から衛生に心がけてきました。
 それはこの国が基本的に高温多湿で病原菌が容易に繁殖する国だったからです。稲作を始めて低湿地に住むようになってからは、なおさらその傾向を深めました。
 幸い清潔な水が豊富にありましたから手足を洗ったり行水をしたりが容易にできたこともあります。しかしだからといって、手洗いやうがいが自然に身に着くものではありません。誰かが熱心に勧め、いつか定着してきたものなのです。

 私たちは簡単に路上に痰を吐いたり唾をまき散らしたりしません。昔からそうだったというわけではなく、私が子どものころには駅の構内にはあちこちに“痰ツボ”というものが置かれていて、大人の一部はわざわざそこまで行って「ゲーッ、ペッ」とやっていたのです。それもいつの間にかなくなりました。必要な場合はポケットに入れたティシュを使うようになったのです。

 これだけ欧米化しても日本人どうし、安易に握手をしたりハグしたり、キスしたりといったことはありません。いくら外国のものを無批判に導入しても、そうした慣習だけは選択的に拒否して来たのです。
 奈良時代、すべての制度を唐風にしても宦官制度と城郭都市は入れなかったのと同じです。
「他人との間には一定の距離を保つ」、それがこの国の一貫した礼儀・流儀です。感染予防という点ではこれも意味ある態度でしょう。

 同様に私たちは、公共の場で大声でしゃべるのは“してはならないこと”として幼いころから躾けられてきます。この国で口角泡を飛ばしてしゃべっているのは、たいていが酔っ払いか外国人だと相場が決まっています。

 また、この国の人々はなぜかマスクが好きです(おそらく恥ずかしがり屋の国民性の合うのでしょう)。繰り返し「感染予防の機能はない」と言われてもなかなか離そうとしません。今回これほどマスク不足が叫ばれても実際に着用している人が多いのは、日ごろから買い置きしている人がたくさんいたからでしょう。
 国民の8割〜9割がマスクをすれば、その中には確実に無症状・無自覚の感染者もいます。こうして彼らが病原体を拡散させるのを防いでいるのです。
 日本でいま起こっているのは、そういうことです。


【優れたガバナビリティとバカ者】 
 日本の国民は比較的よく政府の言うことを聞きます。
 だからダメなんだという考え方もありますが、公衆衛生、健康という点では大切なことです。

 村山内閣の時代だったと思いますが、一時期メディアの中で「ガバナビリティ」という言葉が流行しました。
「村山内閣のガバナビリティは十分なのか」
といった使い方をする単語で、「統治能力」という意味だと解されていました。
 ところが同じ時期、ビル・クリントン大統領が突然、
“日本人の優れたガバナビリテイが羨ましい”
 みたいな言い方をしたので、皆が困ってしまいました。
「ガバナビリテイ」は「統治能力」ではなく、実は「被統治能力」とも訳すべき言葉で、「適切に判断し、適切に批判したうえで納得すればきちんと従う、独立した社会人の能力」のことだったのです。
 それで突然、この言葉は消えてしまいましたが、警察権力や罰金制度を使わなくても国民が一定の動きをしてくれることはとても重要です。

 首長が「次の土日は外出を控えてください」というだけでJRの乗車率が7割も減るのは素晴らしいことです。それが基本的な日本国民の在り方です。

 もちろんテレビを見ていると情報番組には、
「自粛とか言われても、やっぱり退屈で出て来ちゃう」
とか、
「自分だけは罹らないと思っている」
とか答えるアホな若者が出て来ますが、これもどこまで本心なのか――。

 今の状況でマイクを向けられたらそう答えておけばカットされずに済む、そんなふうに考えての答えか(それだっておバカですが)、もしかしたら、
「自粛と言われてもカラオケやライブハウスに行く若者がいるみたいですが、そういう人たちは何を考えているのだと思います?」
とか訊かれて、上のように答え、最後に着けた「・・・んじゃないかな」という部分をカットされているだけなのかもしれません。

 もっともいつも言うように、「1万人にひとり」の大バカが1万2700人もいる国ですから、多少のバカ者については事前に計算に入れていくほかないでしょう。


【私が最も恐れること】
 私は熱烈な民族主義者ですからこの国と国民の底力を信じています。日本人は極めて優秀な民族ですから、新型コロナに制圧されるようなことがあってはならないのです。
 ところがここ数日、状況は驚くほどよくありません。
 感染者は急激に増加し、東京の都市封鎖もささやかれるようになった、いよいよ日本もイタリアやスペインのようになるかもしれない。
 ――そう考えると地の底に沈むような憂鬱に駆られます。ここで日本が敗れることは、単にこの国の損失に留まらず、世界の損失になるからです。

 昨日の発表ではイタリアの死亡者が1万1591人、スペインで7340人、フランスやアメリカはまだ3000人を少し超えたところですが、これからさらに伸びて行きそうです。しかるにあれほど巨大に見えた中国の死者はわずか3304人、しかもほぼ止まりつつあります。

 私が一番恐れているのは、
「ホラ、これだからやっぱり自由主義はダメじゃないか、強い指導者、強い政府によってはじめて国民の命は守られる」
という考えが広まることです。
「習近平、万歳!」
 少なくとも中国政府は国民をそうした方向に向けようとしています。

 政府の秘密主義が最初の感染拡大を許したという部分は早くも忘れ去られようとしています。
 それはいけない。

 自由主義の旗印を掲げる国のひとつである日本は、だから絶対に負けてはいけないのです。
 イタリアもスペインもフランスも、そしてアメリカ合衆国も敗れ去ろうとしている今、何が何でも勝利しなくてはならない!

 これはウイルスとの戦いであるのと同時に、文化の戦いなのです。

(なんか、書いているうちに元気が出てきた!)

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