2020/1/30

「教育内容の自然淘汰・適者生存、そこから生み出される世界最高の教育」〜ものごとの考え方のA  教育・学校・教師


 公立の普通の学校は教育の研究室ではない。
 実験的なことは行ってはならない。
 仮にやっても、その試みはいつか自然に消されてしまう。
 ただエネルギーがムダ遣いされ、時間がかかるだけだ。
 こうして日本の学校教育は、成熟した、最先端のものとなった。

という話。
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(「帰り道」PhotoACより)

【普通の公立小中学校で、先端的な教育を行う気になれない】

 私は臆病者の保守主義者です。容易に新しいことに取り組みませんし、いったん決めると簡単には手放しません。もっともたいていの臆病者は保守主義にならざるを得ないのですが。

 学校というところは非常に保守的な場でしばしば批判を受けます。臆病なのです。
 しかし私は臆病でいいと思っていますし、そうであるべきだとも思っています。

 もちろん大学の教育学部の付属学校だったら革新的であっても構いません。付属学校というのは最初からそれを承知で入る学校であり、学者の実験に供されるのはかなわないという家庭の子どもは入学すべきではないのです。また、付属学校のもう一つの機能――大学生・大学院生・教員の研修の場――ということを考えると、半分素人の学生の授業を受けてもなんとかなるくらいに頭のいい子でないと、やっていけないのも事実です。

 そうした学校では実験的な授業を試して「ああ、やっぱりだめだった」でも構わないのです。優秀な子たちですから、ムダに失った数時間も1時間で取り戻せます。しかし普通の公立学校ではそういうわけにはいかない。

 見通しの甘かった計画、悪い授業でグチャグチャにされた頭は、真っ白な頭よりよほど厄介です。普通の学校では基本的に「やり直しの授業」はできないのです。

「これからのグローバル社会は英語やプログラミング的思考ができないと生きていけない」
と言われて瞬間的に身構えるのはそのためです。
 そんなはっきりしない未来予測のために、大切な教科の時間を削ったり子どもたちに無理をさせていいものか?
 結局のところ子どもたちは、優秀な自動翻訳機を振り回し、プログラミングはコンピュータ自身が行う時代が来るのではないか?
 私の脳の奥の声が、そんなふうに叫ぶのです。


【エリートのためのゆとり教育】
 あの悪名高い「ゆとり学習」も、その始まりは、
「これからのグローバル社会は知識だけでは生きていけない。そこで必要なのは『問題を発見する力』『問題を解決する方法を考える力』そして『すべての資源を組み合わせ、操作して実際に問題を解く力』、一言でいえば『問題解決能力』だ」
といった考え方でした。
 一般的にはここから、“知識偏重を排し、ゆとりあるカリキュラムの中で「考える力」をつける新しい教育が始まるのだ”と考えられましたが、そうではありません。

 この表現の肝は「知識だけでは」です。「知識はなくてもいい」もしくは「知識をつける教育はそこそこにして」ではなく、「知識をつけるなんて当たり前、十分な知識をつけた上に『考える力』もつける、それが新しい時代の教育だ」と高らかに宣言しているわけです。つまり、
「エリートにさらに高い能力を!」
が、本来の趣旨だったのです。

「そんなレベルの高い教育は、普通の公立学校ではムリだ」
という声は無視されました。
 そして予想通り、知識という土台さえ不確かな子どもに「考える力」という壮大な構造物を乗せようとした試みは、うまくいかなかったのです。
 社会は学校に「脱ゆとり」を望むようになりました。考える力も大事だが、知識も大切だと揺り戻したのです。


【教育内容の自然淘汰、適者生存】
 日本の教育は明治以降の近代教育だけでもすでに150年の歴史をもっています。
 その間さまざまなものが試され、あるものは残りあるものは消えていきました。

 私が実体験したものだけでも、子どもの活動としては全校書初め大会、全校縄跳び、百人一首大会、短歌・俳句教室、社会科一研究、教師の側では一年間のすべての授業内容を明らかにしたカリキュラムづくり、絶対評価、全授業時間における評価基準づくり、授業内評価、ひとり一公開授業、参観週間等々、これらは全部消えていったものです。たとえ文科省からの直接的な指示であっても価値の低いものは消えていく――。

 一方、音楽会や合唱コンクール、運動会や体育祭、手の込んだ文化祭、卒業式の細かな手順、部活動などは、かなり面倒だったり苦労も多かったりするのですが残りました。いまとなれば教師自身も十分に説明できないのですが、それらには高い価値があって必要だったからです。

 価値あるものは残り、価値の低いものはなくなる――あえて言えば教育内容の自然淘汰、適者生存です。

 日本の公教育はこうして、考えうる世界最高水準にまで高められたのです。
 異論がある方は、総合的に見て日本よりも優れた教育を行っている国・地域を示してみてください。納得すれば私も持論を取り下げ、従います。
 日本より優れた教育の行われている国が特定されれば、真似をすればいいだけですからずっと楽になるのです。

 しかしそんな国や地域はどこにもないでしょう? まさにそれが、日本の教育が世界最高であることの証明です。

(この稿、続く)


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