2020/1/31

「今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていく」〜ものごとの考え方のB  教育・学校・教師


 日本の教育は世界一だが完璧ではない。
 政府もマスコミも、完璧でないことをもって教育改革を叫ぶが、
 ほぼ健康な体にメスを入れるのはいかがなものか。
 もうしばらく、対症療法で様子を見てはいけないのだろうか?

という話。
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(「休日の校庭」 PhotoACより)

【日本の教育は世界一だが完璧ではない】

 日本の教育は世界一だといえば当然、「そうではないだろう」「イジメはどうした?」「不登校はどうなった?」「PISAの読解力は15位といった体たらくだ」ということになりかねません。
――確かに。

 ただし私は「日本の教育が完璧だ」といっているわけではありません。完璧ではないが世界一だと思っているのです。
 そんな例は世界中にいくらでもありますでしょ? 例えば最先端であって世界一の自動運転車というものは(たぶん)ありますが、完璧な自動運転車はまだできていません。それと同じです。

 もっとも教育と自動車産業を並べるのはあまり適切な例ではないのかもしれません。
 完璧な自動運転車はいつか完成しますが、完璧な教育というものが成立するかどうかはかなり疑問だからです。教育を構成する様々な要素は有機的に絡みあっていて、一か所に手を入れることがあちこちに予期せぬ影響を与えるとこともあると考えられるからです。


【不登校といじめ問題を劇的に減らす方法】
 不登校やいじめ問題を例に考えてみましょう。実はこれらをほぼ完全になくす方法というのも、あるにはあるのです。

 不登校の専門家の富田富士也という人は、かつて、
「不登校の子が学校に行けないのは、そこが人間関係を強制するからだ」
と言ったことがあります。まさに慧眼の至りです。

 特に日本の学校の場合は、部活に行けばチームワークを強制され、校内にいる限り委員会活動や学級内係、日直当番や清掃活動と常に誰かと協働することが強制されます。授業も話し合い重視、実験重視、体験重視ですからどうしても人間関係が絡んでくる。

 もちろんそれには理由があって、日本では学校の責任として児童生徒につける力(生きる力)の中に、わざわざ「豊かな人間性」を入れて(他の二つは「確かな学力」「健康・体力」)、学校は全エネルギーの三分の一を費やして人間関係づくりをするよう求められているのです。
 それが一部の子には煩わしい。

 もし学校が三本の旗のうちの2本を降ろし、「確かな学力」一本にすれば、いずれは一部の識者の言う通り、インターネットを通してAIが指導する在宅学習が主流となっていきます。
 子どもにとっては登下校の手間が省け、行政は学校施設の維持管理・給食補助などの一切を減らすことができます。特に人件費の大部分がなくなることは大きく、教育予算は激減します。
 そもそも登校しないのですから“不登校”という概念も変わらざるを得ないでしょう。

 いじめ問題も100%なくなります。
 なぜなら平成25年度から使われている「いじめの定義」は、
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」
だからです。AIによる在宅学習では「一定の人的関係のある他の児童生徒」自体が存在しませんから、定義に当てはまる事象は起こりようがない。

 最近、主として教員の働き方改革の観点から「部活動の縮小」「行事の削減」「教科教育への専念」などが叫ばれていますが、教員はダシに使われているだけで、真の理由は子どものどうしの関係を希薄化することで、不登校やいじめを少しでも減らそうということなのかもしれません。


【今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていく】
 さて、ここでようやく話は、私の両足の裏にできたウオノメに戻ります。

 昨年4月に、ダイエットを目的に始めたジョギングは、同時に私に健康と筋肉をもたらしました。長距離の歩行に対する自信も重要な賜物です。ところがその、良き方向に進んでいた流れが、ここにきてウオノメの復活という形で阻害され始めたのです。
 健康も自信も、ウオノメも、ともに同じところから生まれてきた――そこがミソです。

 同じように、和を貴び、思いやりやおもてなし・忖度・場の空気を読むと言った高度な技術を磨き、大規模災害でも余すことなく機能する集団性や協働性を育ててきた日本の教育は、まさにその働きによって不登校やいじめを生み出してきた――そう考えることに何の矛盾もありません。
 ならばどうするのか――。

 考えられる方法は四つです。
 一つ目は、前述のとおり「豊かな人間性」を求める教育をやめてしまうこと。
(これには賛成できません)

 二つ目は「豊かな人間性」を追求しながら不登校もいじめ問題も発生しない、まったく新しい教育の目標と方法を編み出すこと。
(ただしこれには私の能力は追いついていません)

 三つ目は、今やっていることをさらに徹底すること。不登校もいじめ問題も飲み込むほど徹底した集団性、協働性を育てること。
(この方法にはさらなる不登校といじめを生み出す可能性もあります)

 第四に、放置すること。
(もちろん不登校やいじめ問題を放ったらかしにはできませんからその都度対処します。いわば弥縫策です)

 私の答えは4です。
 完璧ではありませんが現在の日本の教育は、少なくとも150年の歴史がつくった世界の宝石なのです。これを根底から覆す決定的な教育方法論が生れない限り、あるいは現在のやり方が完全に行き詰まらない限り、「将来はこうなるだろう」といったあいまいな予言によって変化を加えるべきではないと思うのです。

 私はウオノメをナイフで削りながらジョギングを続けましょう。同じように、基本的には非常にうまくいっている日本の教育には、根本的な変更を加えるのではなく、今のまま静かに、丁寧に、ことを進めていくべきだと思います。


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2020/1/30

「教育内容の自然淘汰・適者生存、そこから生み出される世界最高の教育」〜ものごとの考え方のA  教育・学校・教師


 公立の普通の学校は教育の研究室ではない。
 実験的なことは行ってはならない。
 仮にやっても、その試みはいつか自然に消されてしまう。
 ただエネルギーがムダ遣いされ、時間がかかるだけだ。
 こうして日本の学校教育は、成熟した、最先端のものとなった。

という話。
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(「帰り道」PhotoACより)

【普通の公立小中学校で、先端的な教育を行う気になれない】

 私は臆病者の保守主義者です。容易に新しいことに取り組みませんし、いったん決めると簡単には手放しません。もっともたいていの臆病者は保守主義にならざるを得ないのですが。

 学校というところは非常に保守的な場でしばしば批判を受けます。臆病なのです。
 しかし私は臆病でいいと思っていますし、そうであるべきだとも思っています。

 もちろん大学の教育学部の付属学校だったら革新的であっても構いません。付属学校というのは最初からそれを承知で入る学校であり、学者の実験に供されるのはかなわないという家庭の子どもは入学すべきではないのです。また、付属学校のもう一つの機能――大学生・大学院生・教員の研修の場――ということを考えると、半分素人の学生の授業を受けてもなんとかなるくらいに頭のいい子でないと、やっていけないのも事実です。

 そうした学校では実験的な授業を試して「ああ、やっぱりだめだった」でも構わないのです。優秀な子たちですから、ムダに失った数時間も1時間で取り戻せます。しかし普通の公立学校ではそういうわけにはいかない。

 見通しの甘かった計画、悪い授業でグチャグチャにされた頭は、真っ白な頭よりよほど厄介です。普通の学校では基本的に「やり直しの授業」はできないのです。

「これからのグローバル社会は英語やプログラミング的思考ができないと生きていけない」
と言われて瞬間的に身構えるのはそのためです。
 そんなはっきりしない未来予測のために、大切な教科の時間を削ったり子どもたちに無理をさせていいものか?
 結局のところ子どもたちは、優秀な自動翻訳機を振り回し、プログラミングはコンピュータ自身が行う時代が来るのではないか?
 私の脳の奥の声が、そんなふうに叫ぶのです。


【エリートのためのゆとり教育】
 あの悪名高い「ゆとり学習」も、その始まりは、
「これからのグローバル社会は知識だけでは生きていけない。そこで必要なのは『問題を発見する力』『問題を解決する方法を考える力』そして『すべての資源を組み合わせ、操作して実際に問題を解く力』、一言でいえば『問題解決能力』だ」
といった考え方でした。
 一般的にはここから、“知識偏重を排し、ゆとりあるカリキュラムの中で「考える力」をつける新しい教育が始まるのだ”と考えられましたが、そうではありません。

 この表現の肝は「知識だけでは」です。「知識はなくてもいい」もしくは「知識をつける教育はそこそこにして」ではなく、「知識をつけるなんて当たり前、十分な知識をつけた上に『考える力』もつける、それが新しい時代の教育だ」と高らかに宣言しているわけです。つまり、
「エリートにさらに高い能力を!」
が、本来の趣旨だったのです。

「そんなレベルの高い教育は、普通の公立学校ではムリだ」
という声は無視されました。
 そして予想通り、知識という土台さえ不確かな子どもに「考える力」という壮大な構造物を乗せようとした試みは、うまくいかなかったのです。
 社会は学校に「脱ゆとり」を望むようになりました。考える力も大事だが、知識も大切だと揺り戻したのです。


【教育内容の自然淘汰、適者生存】
 日本の教育は明治以降の近代教育だけでもすでに150年の歴史をもっています。
 その間さまざまなものが試され、あるものは残りあるものは消えていきました。

 私が実体験したものだけでも、子どもの活動としては全校書初め大会、全校縄跳び、百人一首大会、短歌・俳句教室、社会科一研究、教師の側では一年間のすべての授業内容を明らかにしたカリキュラムづくり、絶対評価、全授業時間における評価基準づくり、授業内評価、ひとり一公開授業、参観週間等々、これらは全部消えていったものです。たとえ文科省からの直接的な指示であっても価値の低いものは消えていく――。

 一方、音楽会や合唱コンクール、運動会や体育祭、手の込んだ文化祭、卒業式の細かな手順、部活動などは、かなり面倒だったり苦労も多かったりするのですが残りました。いまとなれば教師自身も十分に説明できないのですが、それらには高い価値があって必要だったからです。

 価値あるものは残り、価値の低いものはなくなる――あえて言えば教育内容の自然淘汰、適者生存です。

 日本の公教育はこうして、考えうる世界最高水準にまで高められたのです。
 異論がある方は、総合的に見て日本よりも優れた教育を行っている国・地域を示してみてください。納得すれば私も持論を取り下げ、従います。
 日本より優れた教育の行われている国が特定されれば、真似をすればいいだけですからずっと楽になるのです。

 しかしそんな国や地域はどこにもないでしょう? まさにそれが、日本の教育が世界最高であることの証明です。

(この稿、続く)


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2020/1/29

「健康を生み出す努力が健康を阻害する」〜ものごとの考え方@  教育・学校・教師


 きつくなったズボンに体を合わせようと、
 筋トレ・ジョギングを始めて10か月。
 まだ目標は達成できていないが、方向は見えてきた。
 しかし運動は、同時に目標を阻害する要因も生み出すようだ。

という話。
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(「脚3」PhotoACより)

【ズボンを履くために始めたジョギングの顛末】
 昨年の4月から1日置きのジョギングを始めてまもなく1年になります。
 きっかけは腹周りがメタボ基準を越え、昔、履けた十数本のズボンがまったく履けなくなってしまったからです。中には新しいものもあって、捨てるにはあまりにももったいない。
 その十数本を履けるようにしたいというそれだけの理由で、一昨年、まずテレビ体操と腹筋運動を始めたのですが、若いころとは違ってまったく減りません。そこでジョギングなのです。

 ウォーキングではなくジョギングにしたのは、「後期高齢者じゃあるまいし、のんびり歩いたって腹が減って余計に食べるくらいがオチだ」という友人のアドバイスがあったからです。一日置きにしたのは「筋肉は一日破壊し、一日修復することで増える」という、これも別の友人のアドバイスによるもので、おかげで筋トレとジョギングを交互に行う羽目になってしまいました。
 年を取ると健康に関する助言者は次々と出て来ます。


【頑固者はルーティーンワークが得意、望外な収穫もある】
 運動は大嫌いなのですが、私は「ケチでガンコ」な性格なので、「ズボンを棄てないためのルーティーン・ワーク」は生活によく馴染みます。10カ月も続けていられるのもそのためです。
 ただし1日たりとも楽しいと思ったことはありません。腹周りもまだズボンの9割が履けないままです。

 実は腹囲が減らないのも当然で、テレビ体操にジョギングと筋トレを組み合わせる40分間の運動は、調べたら熱量でせいぜいが200kcal、ご飯一杯分(269kcal)にもなりません。これでは減らしようがありません。
 体脂肪率は20%弱に減りましたから、脂肪が減って筋肉が増えるという面もあると思いますが、体重全体は10カ月で3s減っただけ、腹囲も3cm減りましたがまだまだメタボです。
 1年近く毎回泣きながら頑張っているのに、成果はあまりにも小さい。

 ただし望外のこともあって、歩くことがさっぱり苦にならなくなった。近くのコンビニに行くにも以前は自家用車に頼っていたのが、
「カギを開けて車に乗り込む手間を考えたら、歩いた方がいかな」
と思えるまでになっています。
 さらに良かったのは観光旅行や美術館巡りといった長距離を歩くことが予定される場合でも、気が重くならずに済むようになったのです。どんなに歩いてもたぶんへばらない――。
 近々、息子の赴任先である九州に遊びに行くことになっていますが、単純に楽しみにしていられます。

 筋肉には保水機能がありますから熱中症にもなりにくく、実感はありませんが代謝もよくなって健康状況も上向いているに違いありません。いまのところ血糖値や血圧にも大きな変化はありませんが、これから良くなっていくでしょう。

――と、いいこと尽くめだったのですが、ここにきて大きな問題が出てきました。
 ウオノメが復活した。


【私のウオノメ前史】
 10代のころ踵の高い靴が流行ったことがあって、それを数年履いていたら左右の足の中指の付け根当たりに大きなウオノメができるようになり、それが30年以上も続いた、私にはそういう悲しい病歴があります。
 特に教員になってからは状況が悪く、さまざまに薬を使い、血の出るまでナイフで削ってもついに完治しない。

 お医者さんからは、
「歩くからいけない」

 意外かもしれませんが教職というのはけっこうな歩き仕事・立ち仕事で、職員室と自分の教室を往復し、教科担任としてのあちこちのクラスを回り、清掃指導に部活指導、そんなことをしていると、日に最低でも1万3000歩くらいは歩いてしまうのです。「今日は少し大変だったなあ」と思う日で1万6000〜1万7000歩ほど。教室が3階だったりすると上下にも激しく移動します。足を休めている時間よりいじめている時間の方が長いくらいです。

「Tさん」
と医者は続けます。
「極端な話、寝たきりになれば治療をしなくても1〜2カ月で完治します。けれど生活が戻れば半月で復活します」

 そういうことで結局、現場にいる間じゅう治らなかったのですが、それが管理職になって歩く距離が減ったとたん、たぶん1年足らずで完全に治ってしまったのです。10年余り以前のことです。
 三十数年苦しんだウオノメが一年足らずで治って、さらに十年余りも穏やかな両足で生きて来られた――それが私の魚の目前史です。そこに「一日わずか30分間のジョギングを一日おきに10カ月続けたら元に戻った」という項目が加わったわけです。少しもうれしくありません。


【悩ましき課題】
 思えば古いズボンが履けるようになるための運動で、しかし付随的に望外の利益があり、全体として良い方向に進んでいたにもかかわらず、それを阻害する“ウオノメ”が復活してきた。
 ジョギングをやめて元の穏やかな足を取り戻すか、三日に一度はナイフで足裏を削り落とす昔の生活に戻って続けるべきか、運動の質を下げて“ウオノメ”の成長を計り、運動を続けながらも“ウオノメ”ができないレベルを探るのか――悩ましいところです。

と、そこまで考えたとき、私は急にあることを思い出したのです。

(この稿、続く)

 

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2020/1/28

「植松聖のために、傷ついても怯えても負けだ」〜津久井やまゆり園事件の裁判が始まるA  政治・社会・文化


 津久井やまゆり園事件について、
 自分の中に植松被告と同じものを発見して傷つくのも、
 その無慈悲な言葉を社会の声のように聞いて怯えるのも、
 ともに間違っている。
 私たちはもっといい人間だし、社会はもっと優しくできている。

という話。
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(「車椅子生活と女性」PhotoACより)


【私は臆病者だが差別主義者ではない】
 このブログにたびたび訪れてくださっている方なら、私が一貫して小学校英語に反対していることはご存知だと思います。
 もちろん英語が不要だと思っているわけではありません。小学校のカリキュラムに余裕があって先生たちが暇なら大いにやればいい。しかし実際には国語や理科・社会、特別活動などの時数を削ってようやくあれこれ入れている状態で時間的余裕などありません。教師の多忙はすでに周知のとおりです。
 そのうえプログラミング学習やら小学校英語やらを入れてよい教育ができるとは思えないのです。

 ただしそんな私でも、総合的な学習の一部である「外国語活動」が残した唯一の利点を、認めないわけにはいきません。それは日本人が外人に怯えなくて済むようになった、ということです。

 私は田舎の小中学校で育ちましたから子どものころはほとんど外国人(特に欧米人)を見たことがありませんでした。正確に言えば市内に宣教師一家が住んでおられて、何年かにいっぺんくらいは出会うこともあったのですが、ただ遠くからちらっと見るだけでした。

 都会に出てから外国人と会う機会は格段に増えましたが、近寄ることはなく、できるだけ遠巻きにしているように心がけました。うっかり近づいて声でもかけられたりしたら大変です。
 英語ができないことが一番の障害でしたが、それ以上に、あの大きな体が怖かったのです。喧嘩になったら勝てそうな気がしないじゃないですか。髪が金色で目が青とか緑なのですよ。
 さらにそれが黒人だったりターバンに髭モジャだったりしたら絶望的です。5mだって近づくことはできません。生まれてこの方、そんな異形な人々と付き合ったことがなかったからです。どこから手を付けたらいいのか分かりません。

 しかしその事実をもって、私が外国人差別をしているとか民族差別主義者だとか言われても困ります。
 私はただ対処の仕方が分からず怯えていただけで、のちに教員となってAET(英語指導助手)付き合わざるを得なくなってからは、外人に接したり話したりすることもずっと平気になりました。私はただ、経験の足りない臆病者だっただけです。

 しかし昔の日本人はみんな似たようなもので、だからつい最近まで訪日外国人の一番の不満は、「ジロジロ見られる」だったのです。
 現在は中長期の在留外国人だけで240万人、観光客は3000万人を越えています。それだけでも雰囲気は違うのですが、外国語活動で小学生のころから外人と接する機会をもった子どもたちは、白人も黒人もターバンの人も、まったく苦にしません。
 時代は変わりました。


【経験の足りない者が手をこまねいても当たり前だ】
 一般人の障害者に対する態度もこれと同じだと思うのです。
 私は元教員で学校には特別支援学級もありましたから、知的障害の子や車いすの子のあつかいには慣れています。妻は教師としての出発点が特別支援学校でしたから重度障害者の下の世話でも苦にしないようです。
 けれど普通の人の、普通の生活の中に、障害者と遭遇し、障害者と触れ合う機会はそうたくさんあるわけではありません。

 駅で電車を待っていたら目の前を白杖の人が歩いて行った、エレベーターが開いたと思ったら中に車いすの人がいた、公民館のホールで親に連れられた子が奇声を発している――そういったとき、経験のない人に何ができるのか――。
 たぶん実際にできることはほとんどありません。経験のない人間には相手が困っているかどうかの判断もつきません。困っていると分かってもどう支援したらいいのかわからず、手が出せない。そういう場合が少なくありません。
 先ほど偉そうに「慣れている」と言った私だって、視覚障害・聴覚障害・重度障害については経験が浅く、自信をもって対応することはできないのです。

 だから手をこまねいている、黙って見ている、何もしない、ただ怯えたように突っ立っている、その姿は無関心ないしは冷淡に見えるかもしれませんが、そうではありません。ただ経験がなく、どうしたらいいのかわからないだけなのです。


【植松聖のために、傷ついても怯えても負けだ】
 障害のある人を前に気持ちが臆して身動きが取れず、遠巻きに見て何もしなかったからと言って「津久井やまゆり園事件」の植松聖被告と根っこが同じと考えるのは行きすぎです。障害者を疎ましく思い、面倒くさいと感じることがあっても、植松聖とは違います。
 それは子どものころの私が、外国人に対してまったく腰が引けて何もできなかったのと同じで、機会があって経験を積めば、必ず接し方は分かるようになります。そうなれば気軽に手を差し伸べることも可能です。
 植松は特殊な人間ですから自分を重ねて傷ついてはいけません。

 一方、先週の金曜日の第一回被告人質問のあと、被害者遺族のひとりが語った「怒るというより呆れてしまった」も大切にしたい感じ方です。
 事件直後、“日本社会の底流に深く残る障害者差別”が植松被告によって浮き彫りにされたかのような報道がされましたが、そんなことはありません。その直前まで「やまゆり園」の入所者は地域の人々と長年ふれ合ってきたのです。その地域のあり方こそがこの国の縮図、その地域の人々こそが日本の代表者です。植松聖が代表するわけではありません。

 日本の国民は、まだ十分に信じるに足ります。あんな男の妄言をまともに聞いて日本中を差別者のよう感じ、怖れたり傷ついたりするのはバカげたことです。

 もちろん私たちはもっと勉強しなくてはなりません。さまざまな障害のことを学び、経験を積んで支援の仕方を覚えた人が120万人くらいになればこの国はずっと楽になるでしょう。しかし120万人いたとしても、それは全体のわずか1%にも満たないのです。
 私は植松聖被告にかき混ぜられることなく、この国の福祉のことを考えていきたいと思います。


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2020/1/27

「更新しました」  メディア評論




「キース・アウト」

京都市もまた、教員の働き方改革に真剣に取り組み始めた。ただし仕事を増やすことも忘れていないらしい。




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2020/1/27

「特別な脳、特別な心」〜津久井やまゆり園事件の裁判が始まる@  政治・社会・文化


 「津久井やまゆり園事件」の被告人質問が始まった。
 被告は、「自分には責任能力がある」といい、しかし、
 「意思疎通の取れない重度障害者は安楽死させるべきだ」
 とも言う。
 私たちはこの事件から何を学べばいいのか。

という話。
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(「分厚い本と金色の天秤」PhotoACより)


【裁判が始まる】
 先週金曜日(1月24日)、障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19名を殺害したなどの罪に問われた元職員・植松聖被告の被告人質問が行われました。
 その席上、植松被告は自らの弁護人の主張を「間違っている」と批判し、「責任能力はあると考えます」と述べました。そのうえで事件を起こした理由について「(世の中の)役に立つことだと思った」「意思疎通の取れない重度障害者は安楽死させるべきだと思います」などと従来の差別的な主張を繰り返したようです。
 これに対して終了後、コメントを認められた遺族のひとりは、
「怒りというより、それを通り越して呆れてしまった」
と感想を述べておられます。
 理解できる話です。

 私の感じ方としては、“怒り”は相手と同じ地平、あるいは同じ場で対峙し、燃焼し続ける激しい感情です。それに対して“呆れ”は相手を突き放し、距離を置いたり壁をつくったりしてとりあえず別空間に隔離することだと思うのです。
 そしてもし次があるとしたら、私たちはより本質的な問いに向かっていくしかありません。問いの中身はこうです。
「こいつ、何者なんだ?」


【私たちは殺せない】
 「津久井やまゆり園事件」はその規模の大きさ残虐性などによって、直後から様々な議論を呼ぶものとなりました。そのひとつは事件を特異なものと考えず、差異を認めない日本人の偏狭さ、効率最優先の現代社会の弊害、あるいは根深い障害者差別の引き起こした極端な表現といったふうに考える見方です。
 多くの誠実な人々が自己の中に植松被告と同じ差別意識を発見し、恐れおののき、反省し、社会全体とともに変わっていかねばならないことを訴えました。けれど私は、そういうことではないように思うのです。
 仮に差別意識があったとしても、その意識をもって30人以上(死者19名、重傷者13名)の胸や腹にナイフを突き立てることのできる人間が何人いるのか、そう考えると100年にひとりだって出てくる気がしません。
 
 通常の私たちはネコだって殺せやしません。ハエだとかゴキブリだとかは躊躇しませんが、ネコ以上の大きさの四足歩行の哺乳動物を、意味もなく殺せる人間がいたらやはり異常とみなすべきです。少なくとも普通ではありません。ましてや対象が人間で、計画的に、大量に殺すということになれば、そこには特別の力がなくてはならないはずです。

 植松聖という人物は、特別な脳と心をもった特別な人間だと、私は思うのです。

 神戸連続殺傷事件の酒鬼薔薇聖人や、東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勉、座間9遺体発見事件の容疑者被告、先ごろ高裁で無期懲役判決の出た熊谷連続殺人事件のペルー人被告――彼らは皆、私たちが“自らの分身”“自分の将来の姿”と考えていいような存在ではなく、特別な人たちですからその範囲で考えるべきなのです。


【特別な脳を持つ人たち】
 “特別な人たち”といえば、すぐに思い浮かべるのはあまたの天才たちです。
 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトは13歳の時イタリアに旅行し、システィーナ公会堂で門外不出の秘曲とされていた聖歌を一回聴くと、宿に戻ってすべてを楽譜に落としたと言います。グレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』という曲で、一部分とはいえ、9声にも広がる難曲だそうです。
 
 コンピュータの開発者として知られるフォン・ノイマンは生涯に読んだ本は片言隻句漏らさず暗記していて、実際にそれを証明して見せたといいます。また世界初のコンピュータが完成したとき、「これでこの世で二番目に計算の速いヤツが生れた(まだ自分の方が速い)」と豪語したと言います。
 
 アインシュタインにとって数学は順を追って行うものではなく、答えは丸ごと天から降ってくるものでした。ただし降ってきた数式を解析する(自分はなぜそう考えたかを分析する)には多少時間がかかったようです。

 こうした天才たちが私たちに教えるのは、人間の脳には努力や鍛錬とは無関係に、独自に特殊な動きをする特別な領域があるということです。彼らはそれを動かしていて、私たちは動かせない、もしくはそもそも持っていない、そう考えない彼らの存在は理解できません。頭が違うのです。


【植松被告のユニークさ】
 私たちは今日、特殊な脳、特別な心、常人には理解できない思考や感じ方があるという例をたくさん知っています。その多くは尊重すべき個性、あるいは能力です。
 しかし全部が全部、素晴らしい才能、愛すべき偏向、あるいは役に立つ能力というわけではありません。

 植松聖被告の特異性は言うまでもなく、「意思疎通の取れない重度障害者は安楽死させるべきだ」と考えたところにあります。ただし考えるだけなら似たような人はほかにもいるかもしれません。
 特に運に恵まれず苦しい生活を強いられている人の中には、働かなくても生きて行ける重度障害者が疎しく、羨ましく、感じられる人もいるのかもしれません。
 しかしそんな彼らでも、「『重度障害者は安楽死させるべき』だという考えが社会から受け入れられない」ことぐらいは知っています。思うことと口にすること、行動に移すことは全部別なのです。

 ところが植松聖被告は、やまゆり園の入所者を多数殺しても、いったんは刑務所に入れられるものの結局は認められ、国民から賞賛を受けるだろうと信じ込んでいたのです。総理大臣をはじめ日本国民全体がそれを望んでいると本気で思い込んでいた――そこに彼のユニークさ、私たちには絶対まねのできない何ものかがあります。

(この稿、続く)


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