2019/11/11

「その辺にいる田舎のおっちゃんの義憤」〜日本の英語教育について@  教育・学校・教師


 大学入学共通試験における英語の民間試験導入延期
 文科大臣を守るためだったというがどうだろう
 そもそもこの件については議論が足りな過ぎた
 そもそも大学入試で そこまで高い英語力を問うべきだろうか

という話。
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(「受験」PhotoACより)

【英語の民間試験導入はなぜ延期されたのか】
 ここのところ英語教育に関する話題がニュース番組を駆け回っています。
 ひとつは荻生田文科大臣の「身の丈発言」に始まる「大学入学共通テストにおける英語民間試験導入」の延期、もう一つは8日(金)に発表になった「日本人の英語力は世界53位 『EF EPI英語能力指数』2019年版発表」(例えば朝日新聞GLPBE)です。

 荻生田大臣の件についていうと、閣僚として口にしてはならないことがこんなにあっさり出てきたことにも驚きましたが、それよりあとの対応――英語民間試験の導入延期が、あまりにも早く決まったことにも驚きました。

 巷では延期によって世論を冷まし荻生田大臣を守るのが目的だったと言われますが、私は英語の民間試験がこのまま実施されたら大変なことになると怯えていた文科省が、大臣の失言をもっけの幸いに試験導入を延期してしまったのではないかと疑っています。

 夏にはベネッセのテストで音声が聞き取れないといったトラブルもあったみたいですが、そもそも大学入試に民間の試験が導入されることについて、あまりにも議論がなされてきませんでした。入試本番で問題が発生して、それから「ところでどうしてこんな重要なことを民間に?」といった批判が沸き上がるようでは大変です。

 議論するならもっと早くやっておくべきでしたし、まったくしないなら今後も問題にしない保障でもあればいいのですが、そうもいきません。
 そんなところに荻生田失言が転がり込んで、もう我慢しきれず、いったん延期ということになったのではないでしょうか。
 政府のおかげで誰かが大儲けするということについて、何の議論もせずに素通しするほど、私たちは寛容ではなかったように思うのです。


【入試に民間業者が介入することの是非という問題】
 英語の民間試験利用について私はだいぶ出遅れてしまい、気のついた時にはすでに決まっていたので“もう十分議論を尽くしてのことだろうな”と思い込んでいたのです。
 少子化によって斜陽と言われて久しい受験産業に、“税金”というカンフル剤が大量に打ち込まれる今回の試験に関して、癒着だの贈収賄だのといった話の大好きなマスメディアや野党が、問題にせずに決まるはずがないと思っているのです。

 もう30年近く前の話ですが、埼玉県で起こったいわゆる「業者テスト問題」は、まさにそうした疑惑に端を発したものでした。
 埼玉県のほぼすべての中学生が長年にわたって同一の民間業者テスト(以下「業者テスト」)を受けさせられ、そこで割り出された偏差値を使って進路指導が行われていたという事実を知ったマスコミは、まず学校と業者の癒着(贈収賄)を疑いました。そこで全国の社会部の事件記者が埼玉県に大挙して押し寄せ、大変な騒ぎになったのです。

 ところが取材して分かったのは休日も返上して生徒のために試験監督を行っている先生たちの誠実な姿だけでした。テストの一社独占も資料の継続を重んじたという、ごく常識的な話だったのです。
 何日も県に張りついて取材した記者たちは拍子抜けしたうえに、振り上げた拳の落としどころに困ってしまいました。そこで話の矛先を変え、“公立学校の成績処理を民間に任せていいものか、機密保持や費用の面で問題はないのか”ということにしたのです。

 マスコミの激しい批判を受けて埼玉県はやむなく業者テストの廃止を決め、翌年、文科省も業者テストを自粛するようにと全国に通達を出します。
 このテストによってはじき出される偏差値は首都圏の私立高校のレベルに紐づいていましたから、廃止によって(少なくとも埼玉県の)高校生は東京の有名私立高校の受験ができなくなってしまいました。別な見方をすると、県は高校生人材の流出に歯止めをかけることに成功したわけです。
 だれが最初に業者テストを問題にしたか、推理したくなるような話です。

 こういった経緯がある以上、公立学校の入試に民間業者が絡むのは絶対タブーだと私は思い込んでいました。ですから大学入学共通テストへの民間試験の導入を知ったとき、もう議論はつくして方向転換が図られたのだろうなと思い込んだのです。
 公立学校の入試を民間企業に任せていいものだろうか。
 そもそも50万人もの受験生に言語能力を、公平に測れるものだろうか。
 さらにそもそも、そこまでして英語を「聞く能力」「話す能力」をつけておく必要があるのかどうか。

 そういうことはすべて済んでいると――。

 ところが実際にはだれもこうしたことを問題にしてこなかったのです、荻生田大臣の失言までは。


【その辺にいる田舎のおっちゃんの義憤】
 この件に関して、最近読んだ最も下品な評論は11月8日付の文春オンラインに載った「『英語のできない英語教師』に縛られ英語ができない“身の丈”ジャパンの諸問題」という記事でした。

 その辺のおっさんが好き勝手に放つ「地方に住んでる奴は英語なんてどうせ使わねえんだから、やりたい奴は身の丈で勉強しときゃいいんだよ」というレベルの与太話を、我が国では良い背広を着た担当大臣が堂々と喋ってしまうわけですから、なんて言論が自由で開かれた国なんだと思わずにはいられません。

で始まる文章は、荻生田大臣とは少し違った意味で「やりたい奴は身の丈で勉強しときゃいいんだよ」と思っていた「その辺のおっさん」の私の自尊心を傷つけました。

 しかしそれ以上に、
 そういう英語教育を担う現場というのは先にも述べました通り英語など本来ネイティブでもなんでもない担任教師が教科書片手にディスイズアペンとやっているわけで、素人の適当な英語を時間かけて教わる小学生が可哀想であることぐらいは容易に想像がつきます。お前に英語教えてる担任教師、海外行ったことすらもないかもしれないんだよ。
などと言われると、46万人の小学校教員に成り代わって義憤で涙を流したくなります。中には「英語が堪能だったら教師になんかならなかった」とい人だっているのです。あとから仕事を押し付けて「その能力がない」とバカにされてはかないません。
 しかも言っている場所は私のような「その辺のおっちゃん」の与太ブログではなく、天下の文春のオンラインなのです。

 そして、日本の教育の目指すところは、大概において大学入試であります。東京大学や京都大学に何人入ったのか、国立大学や慶應義塾の医学部にどれだけ生徒が送りこめたのかが中学高校教育最大の関心事となり、学校も予備校も大学への入学実績ですべてを競っているわけです。
 いい加減にしろ! おっちゃんが勤めていた田舎の中学校で、「東大に何人いれた」などと言っている教師は一人もおらんぞ!!

 ただしこの与太記事の中には、一点、真実として光る部分がありました。それは、
 思い返せば、1973年生まれの私もよく考えたら大学で思い立って留学するまではたいして英語が喋れず、仕事で英語を使う時期に一気に英語力が伸びたことを考えますと、語学というのは単に習うものではなく、必要に迫られて初めて習得するものだという感覚がありますよね。
 という部分。全くその通りです。

 日本人がいつまでたっても英語ができないのは――正確に言えば中高と6年間学んだ英語をそのあと伸ばすどころか根こそぎ失ってしまうのは――この国で暮らしている限り、英語が「必要に迫られないから」なのです。

 では日本以外の国々――英語を母国語としないにもかかわらず日本より英語力の高い国々は、どのように「必要に迫られている」のか。
 それを教えてくれるのが、「日本人の英語力は世界53位 『EF EPI英語能力指数』2019年版発表」記事です。

                     (この稿、続く)



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