2019/11/29

「時代遅れの提案と最新の情報、そしてほんとうの決め手」〜子どものSNS問題についてA(最終)  教育・学校・教師


 ルールなんてつくっても守れない 守らせ切らない
 警察が膨大な予算と人員を使っても犯罪がなくならないように
 親たちが必死になってもSNS犯罪はなくならない
 だとしたらどうしたらいいのか
 私が古典的アイデアと 最新情報と 究極の対策をお教えしよう

という話。
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(「スマホ操作」PhotoACより)
 
【誰も抵抗できない「みんながやっている、持っている」】
 昨日は「スマホでつながった6世代(6人)先には何がいるかわからない」、それなのに親や政府は「めったにこない緊急時のために、日常を危険にさらし」「防犯のために子どもを危険に晒す」愚行を行っている、というお話をしました。
 ところで子どもたちは渡されたスマホで何をしているのでしょう?

 その答えは内閣府の資料「2019.02.28「平成30年度青少年のインターネット利用環境実態調査 調査結果(速報)」にありました。
 年齢によって順位は異なるのですが、「ゲーム」「動画視聴」「コミュニケーション」が、スマホと携帯いずれかを持つ小中高校生の使用目的の三本柱です。

 「ゲーム」と「動画視聴」については「勉強に差し支えるからやめなさい」で済みますが、困るのが「コミュニケーション」。
 「みんなLINEで連絡を取り合っているのに、私だけないので仲間外れにされている」とか、「ツイッターやインスタに写真をアップしたとか言われても、すぐに見られないので話についていけない」とか言われると親としては迷います。
 「SNSで犯罪に巻き込まれる」とは言っても可能性は極めて低いのに対し、「仲間に入れない」確率はかなり高いのです。だとしたらここはやはり無理をしても買ってやるべきか――。

 有力な反論として、
「ジョ〜〜ダンじゃあない!! 仲間はずれが怖くてスマホを買い与えて『陰湿なネットいじめにあいました』とかいうことになって、『やはり教師の不勉強、ネット社会にもっと精通して、いじめ問題に取り組むべきだ』とか言われたら、まったくやってられネ〜ヨ!」
というのを考えましたが、いちおう横に置いておきます。
「みんながやっている、持っている」はけっこう重大な問題だからです。

 ほんとうは以前のように、学校が「携帯の持ち込みは禁止。できるだけ家でも買わないようにしましょう。せめて高校生になるまでは我慢させましょう」とか言ってくれていればまだ楽だったのです。親も「学校がダメと言っているからダメ」と突っぱねることもできました。
 ただし今は親自身がスマホ・携帯の利便性に勝てず、文科省も「必要なら学校にもってきていいよ(できるだけ買ってもらうようにしよう)」という時代です。もう学校に頼ることができません。親たちだけで何とかしていくしかないのです。
 「みんながやってる、持っている」問題については、最後にもう一度考えます。


【ルールなんか守れない、守らせることもできない】
 今回のSNS問題に関して、情報番組でも“専門家”たちがさまざまな提言をしています。
1 まず親がネット社会の危険についてもっと勉強しなくてはならない。
2 子どもと話し合い、スマホの使用時間やアクセス先、個人情報をむやみに出さないことや知らない人と現実社会で会ったりしないなどについてルールを決める。
3 フィルタリングなど必要な対策をしたうえで、親は子どものスマホを調べる権利を確保し、ときどき中身をチェックすること。
4 違反があった場合の罰則についてもあらかじめ決めておくこと。
 そういった内容です。
 しかしそれが現実的な提案、家庭の現状を知った上での話なのか、私ははなはだ疑問です。
 
 スマホ・携帯を持たせるにあたってルールづくりをしなさいという話はずっと以前からあって、昨日お話しした通り、小学生の保護者の85.5%、中学生の保護者の79.5%がなんらかの対策を打っているのです。しかしそれでも今回のような事件は起こる。
 なぜ起こるのかというと、つくったルールを子どもが守らない、親が守らせ切らないからです。

 そもそも「話し合う」と言ってもその結果、「アダルト・サイトはお前の趣味だからアクセスは自由にしよう」とか「友だちとのやり取りは絶対見られたくないからパスワードを設定するね」とかいったことにはならないので、そんなものは「話し合い」とは言えません。交渉になるのは時間制限くらいなもの、あとは常識的な内容を申し渡すだけです。
 親からの申し渡しに唯々諾々と従う子は多くはありません。

 ほとんど唯一のルール「時間制限」にしても、これを本気で守らせようとしたら大変です。
 子ども部屋に持って行かれたら管理はできませんから帰宅したら必ず提出させます。ということは“親は子よりも先に帰宅していなくてはならない”ということです。夫婦どちらかはそういう職業を選びましょう。

「そろそろ約束の2時間よ。電源を切る準備して」
「待ってよ! 今大事なところなんだから、5分だけ延長して!」
 あるいは、
「昨日5分早くやめたのだから、その分を今日につけて」
(ホントに5分早くやめたっけ?)
「今やってるのは動画でもSNSでもなくて宿題の調べものなの。嘘だと思うなら見て! こんなのも2時間の中に入るわけ!?」
――そんな親子関係を悪くする一方の不毛な会話を、延々と1年365日続けるだけの胆力を持った親はそうはいません。結局ルールは有耶無耶になるのがオチです。
 警察を見たってわかりますが、罪を犯す者より犯罪を抑止する者の方が常に大変なのです。


【時代遅れの提案と最新の情報】

 ルールなんてつくったって守れない、守らせ切らない――だったらどうしたらいいのか? 
 その完璧な答えは古典的なものです。

 死んでもスマホを子どもに渡さない

 これしかありません。

 私は娘のシーナに対してそうしました(ケータイの時代ですが)。
2019/3/13「新たな戦い―対スマホ戦」〜学校が戦った昨日の敵、今日の敵、明日の敵 3
 とは言ってもその“ケータイを持っている小学生”もまだ少なかった時代で、今よりはずっとやりやすかったのも事実です。結局、高校に入学するまで待たせましたが、おかげで弟のアキュラは小中学校時代、正確に言えば高校に入学しても、ケータイが欲しいとは一言も言いませんでした。そんなことを言えば私より先に、姉のシーナが烈火のごとく怒ると知っていたからです。最初の子どもで勝負するのがコツです。

「それでも子どもの緊急時が心配、防犯のために持たせたい」という保護者の方には、通話とショート・メッセージだけのガラケー(最新式)を紹介します。これを持たせましょう。
(一例)通話とSMSに特化!こんな携帯も一台あったら便利かも

 それでもまだ不安な方には
(参考)まもるっく
 こちらだといざというときはALSOKのガードマンが駆けつけてくれます。通話もGPSによる位置確認もでき、非常ブザーか万歩計くらいにしか見えませんからスマホのように誘拐犯に取り上げられる心配もありません。
 月額利用料金1,100 円、機器料金21,500円、初期設定費用4,500円。スマホに比べたらバカ安です。

 「いや心配なのは犯罪ではなく、むしろ持っていないことによる仲間外れだ」という保護者の方には、同じような保護者を糾合して「お互いに犯罪やいじめにあわないために、絶対にスマホ・ケータイを子どもに渡さない保護者同盟」をつくることをお勧めします。すでにアメリカにはある仕組みで、もしかしたらこれが意外とうまくいくのではないかと私は思っています。少なくとも小学校だけだったらやって行けそうです。
(参考)子どもにスマホを持たせたくない親ができること

【ほんとうの決め手】
 最後の最後に、「スマホを渡しても、ルールをつくらなくても、SNSを使った犯罪に巻き込まれたり“いじめ”の加害者になったりしない」ための究極の方法をお教えします。簡単です。

 そういうきちんとした子を育てて、温かい家庭で見守る

 それに尽きます。
 不満があれば前向きに対処し、困ったら親や教師や良き友だちに相談し、いつも明るく素直で真面目で、周囲と調和できている――そういう子を育てて愛情ある家族で見守れば、スマホでも何でも安心して持たせられるはずです。

(この稿、終了)


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2019/11/28

「連続猟奇殺人犯はとなりの席にいる」〜子どものSNS問題について@  教育・学校・教師


 大阪で行方不明になって栃木で見つかった小学6年生
 以来 子どもとSNSに関する話題が情報番組で沸騰している
 しかしもともとスマホを持たせたがったのはおとなたちではないか
 親と政府と財界が 子どもを悪魔に差し出した

という話。
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(「光の青いネットワークテクノロジー地球と街並み背景」PhotoACより)
 
【SNSでつながった6人の向こうには・・・】
 一応私もツイッターのアカウントを持っていて、毎日ブログの更新情報を出しています。
 ほぼ毎日ですからツイート数は1000を越えているのですが、フォロワーはわずか9人。おそらく普通の人なら恥ずかしくて口にできない数でしょう。

 ところで日本人のツイッターの、平均フォロワー数はどれくらいかというと、あるブログ(「はなちるのマイノート」)の単純計算で319.4人。圧倒的なフォロワーを持つインフルエンサーとほとんど誰にも顧みられていない私のようなインフルエンザ(ウィルス並みの弱小アカウント)、上位・下位それぞれ10%を除外して計算しなおした数はおよそ76.1人となるそうです。
 そう言われても多すぎるのか少ないのか、妥当な数なのかもわかりませんが、他にあてもありませんからこの数字で話を進めさせていただきます。

 私のアカウントに、実際よりもはるかに多い76人のフォロワーがいて、その人たち(これを第一世代と名づけます)のアカウントにも76人のフォロワーがいたとします。すると私の発した情報は第一世代で76人、第二世代で76×76=5776(人)に拡散することになります。
 同じ計算で第3世代は43万8976人、第4世代で3336万2176人。細かな数字は面倒なので3300万人ということで丸めて、第5世代は25億800万人、第6世代では196億800万人にもなって世界人口(およそ77億人)を軽く越えてしまいます。宇宙人にも参加してもらわないと足りません。

 もちろんフォロワーにはかなりの重複がありますからこんな単純な計算にはならないのですが、スマホでつながった6世代(6人)先には宇宙人がいる(かもしれない)ということは、SNSを考えるうえで常に頭に置いておくべきことです。


【時間と空間の壁がない=となりの猟奇殺人犯】
 今回の事件では小学生が犯人と知り合ってわずか一週間で拉致されてしまったことに驚きの声が上がっていますが、私が知っている例ではすでに10年前、小学生がわずか3日で連れ出されたことがありました。

“人間関係は付き合いの長さではない”
 そんな言い方をします。確認すべきはその一週間のあいだのやり取りの回数と深さでしょう。もしかしたら私たちにも納得できる、濃いものだったのかもしれません。

 大阪と栃木という距離も、ネット上、問題とならないことは周知です。
 3年前に東京都小金井市で起きた地下アイドル殺人未遂事件の犯人は京都市右京区の人間でしたが、本人の感覚からすれば隣町のアイドルに心を寄せていた程度の距離感だったのでしょう。
 我々はスマホを通してつながる相手を、ニューヨークいるか炬燵の反対にいるかで区別しません。

 世界は時間的にも空間的にもまったく違ったものになってしまったのです。スマホを通してあらゆる人間が直接子どもとつながってしまう。

 仮想現実的に言えば、
 台所から娘に、
「ちょっとォ! いつまでもスマホいじっていないで宿題やったら?」
と言って居間を覗いたら、娘のとなりに、
 ヤクザが、
 振り込め詐欺の元締めが、
 あるいは猟奇殺人の連続犯が
 座っていた

といったようなものです。

 もちろん娘はそれと気づいていない。
 仮想ではない現実の母親も、それを知らない・・・。


【スマホ携帯は防犯用品にならない】
 こんな危険なものがなぜ家庭に入っているのか。

 ある調査(*1)によると、子どもに携帯電話を持たせた第1の理由は、小学校の低中高学年・中学生のすべての保護者で「緊急時に連絡が取れるようにするため」です。言ってみればめったにこない緊急時のために、日常を危険にさらしているわけです。

 さらに小学校低中学年の第2位、高学年の第3位は「防犯のため」ですが、そうなるともうブラックジョークでしかありません。防犯のために子どもを危険に晒すわけですから。
*1「スマホや携帯電話の学校持ち込み、賛成?反対?小中学生の携帯電話利用を調査」2019.03.14 市場調査メディアホノテ

 2004年11月17日、奈良県で誘拐され殺された小学校1年生の女児は“防犯のため”に携帯電話を持たされていました。当時としては大変珍しいことです。しかしそれにもかかわらず女児はいともたやすく誘拐され、その携帯によって撮影された遺体写真は直接、捜索中の母親に送信されたのです。
 携帯電話は、防犯どころか被害者家族の神経を逆なでするために利用されたのです。今回の大阪―栃木の事件にしても、スマホは防犯のための何の役にも立っていません。

 先の調査では他に、全学年で「日常的に連絡が取れるようにするため」が入り、中学生では「子どもが欲しがったから」が入ってきます。
 そのあたりが本音で、「自分が楽をしたいから」「子どもを指導しきれなくて」は言いにくいので、「緊急時」や「防犯」を言い訳にしているとしか思えません。


【親も政府も子どもを危険に導く】
 平成30年度の小学生のスマホ所有率(子ども専用)は35.9%、中学生で78%にも及びます。(*2
 スマホ・携帯を所有する小学生の保護者の85.5%、中学生の保護者の79.5%が「フィルタリングを使っている」「大人の目の届く範囲で使わせている」等のルール作りをしていると回答していますが、ルールがあることを意識している小学生は77.0%、中学生は62.3%とかなり減ってしまいます。

 親はルールを作ったつもりでいるのに、すっかり忘れている子どもがいるということです。
 またこの調査では、「ルールが守られているかどうか」は調べられていませんから、「ルールはあるけど守っていない」「守らせていない」といった状況もあると思います。

 小学生の5人にひとり(20.5%)、中学生の3人にひとり(34.2%)は「我が家にはルールはない」と答えています。
 管理できている親もいますが、まったくしていない親、しているつもりだけの親もたくさんいるのです。
*2 2019.02.28「平成30年度青少年のインターネット利用環境実態調査調査結果(速報)」内閣府

 本年2月19日、文科省は保護者・マスメディア・産業界等々の圧力に負けて、「災害時の連絡手段として有用」などの理由から、これまで小中学生が学校にスマホや携帯を持ち込むことを原則禁止としてきた方針を見直すと発表しました。

 「災害時の連絡手段として有用な場合もあるから、学校に携帯を持ってきていいよ」という言葉は、一部の児童生徒や保護者には「携帯を買って学校に持ってくるように」としか聞こえません。
 持たせないのは親として子どもに関心がないから、危機意識が薄いから、貧乏だから、そんなふうに思われてもかないませんし、祖父母の中には「ウチの孫だけが持っていないのはかわいそう」と、言われるままに1台十数万円もする「iPhoneX」を買い与える人だって出てきそうです(まさかと思うなら試してみればいいのです)。

 そんなふうに親も国も地方公共団体も、自身の安逸や利便性と引き換えにこぞって子どもたちに“悪魔の機器”を渡そうとします。
 あとは学校教育の成果に期待するだけということなのでしょうか。
 勘弁してほしいものです。

(この稿、続く)


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2019/11/28

20周年  歴史・歳時・記念日

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 メインサイト「ああ言えばこう言う辞典」が本日で20周年です。
 
 長い間ありがとうございました。

 そして、

 今後ともよろしくお願いいたします。




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2019/11/27

「死に逝く者にも義務がある」〜カフェは月に逝ったB(最終)  親子・家族


 金曜日の深夜に倒れて 4日かけてウサギは死んだ
 時間に余裕のあった分
 家族として できるだけのことをしてあげることができた
 私もそんなふうに 程よく病んで 程よく迷惑をかけ
 きれいに死んで行きたいものだ

という話。
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(シーナの結婚式の引き出物に添える写真のために、ウェディングベールをかけられたカフェ《オスなのに》4歳のころ)
 
【カフェを飾る】
 予感通り、カフェは私のいない時間を選んで月に逝きました。

 私にはカフェが死んだらこうしてやろうと決めていたことがあります。それは糞にまみれた体を洗ってやることです。
 カフェが冷たくなっているのを確認するとすぐに洗面所に連れて行き、お湯で下半身を温め、こびりついた糞を指でほぐしてひとつひとつ剥がしました。思った以上に大変な仕事でした。中には石のように固い粒もあったからです。
 それからシャンプーで洗ってリンスをし、ドライヤーで乾かし始めたのですが、これもびっくりするほど大変で、30分以上かけても十分に乾いてくれません。豊かな毛が風になびかない。それでもめげずに結局40〜50分もかけて元のふさふさな姿に戻しました。
 濡れていた時は切ないほどに痩せて見えた姿も、ようやく丸々とした感じに戻すことができたのです。

 お棺は特別なものを用意するのではなく、本来の飼い主であるシーナが買った靴の空き箱を使い、妻がレースで飾ってその中に横たえるようにしました。
 シーナが一番寂しい時、そばにいて慰めてくれた友だちです。親としてできるだけのことをしてあげなくてはなりません。


【最後の見送り】
 三日後、私たちは市の葬祭センターでカフェを火葬に付しました。奇しくも一年前のココアと同じ、雨の中でした。
 直前になって急に思い立ち、シーナに「TV電話で立ち会うか?」と問い合わせたのですが、あいにく第二子のキーツの予防接種で病院にいたのでそれはかないませんでした。シーナはその日までさんざん泣いたので、それ以上の苦痛も必要なかったのでしょう。
 天の差配に間違いはありません。

 遺骨は持ち帰らないことにしました。
 合葬される他の動物たちも、みんな葬祭センターで火葬にしてもらうほど大事にされてきたペットです。一緒に葬られるのも幸せでしょう。
 こうしてカフェと暮らす日々は終わったのです。


【ピンピンコロリの話】
 話は変わりますが、昨年の秋、私の叔母が91歳で亡くなりました。8年前に死んだ父の妹です。
 叔母は朝、新聞を取りに行った玄関先で倒れ、救急車で病院に運ばれたのですが、そこからすっかり元気を取り戻し、それでも念のため一晩泊まろうとした深夜、容態が急変して亡くなったのです。
 死ぬ1時間前まで翌日会うことになっていた友人のことを心配し、息子たちに連絡を依頼していたのにも関わらず、です。その息子たちが自宅に戻ってまだ靴も脱がないうちに病院から連絡があって、再度駆け付けると叔母はすでに息絶えたと言います。典型的な「ピンピンコロリ」です。

 その話を聞いて母が、「本当に羨ましい、あんなふうに死にたい」と言いますが、どんなものでしょう。苦しまずに済むのですから本人はそれが一番いいのでしょうが、残される側は簡単ではありません。
 突然の死に戸惑はなかったか、もっとああしておけばよかった、こうしておけばよかったと悔やむことはなかったか――。


【程よく病んで、毅然と死ぬ】
 8年前に88歳で亡くなった父は、最後の1週間を病院で過ごし、4日目からは意識のない状態でそのまま逝きました。
 母は一週間泊りがけで看病し、その母を休ませるために弟は勤務の終わった夕方から9時ごろまで、私は午前3時から出勤時刻までを病院で過ごしました。特に母は大変でしたが、それとてたった一週間のことです。

 ウサギと一緒にしては父に申し訳ないのですが、昨年死んだメスウサギのココアは半年も病院通いをした挙句、一カ月ほど食事を摂らなくなって最後は私のいないときにあっけなく逝きました。あっけないと言ってもそれまでに十分覚悟する時間はあり、世話もいつもより丁寧にできました。
 
 父もココアも今回のカフェも、皆、“程よく病んで”“程よく苦労をかけて”死んで行ったのです。それが私にはありがたかった。

 葬儀の席では「お悔やみ申し上げます」と言いますが、あれは「どんなに手を尽くしたとしてもやはり悔いは残る。ああすれば良かった、こうすれば良かったという悔いを、私もあなたと共有しましょう」という意味です。
 しかし父の時も、2羽のウサギについても、私は大きな悔いを残さずに済みました。

 ピンピンコロリはひとつの理想ですが、私は1週間くらい“程よく迷惑をかけて”死んで行きたい。
 そしてココアが最後は毅然とした姿を見せたように、さらにはカフェが自分の体を少しでもきれいにしようと糞をかじり取ったように、きちんとした姿で死んで行きたいものです。
 それが今回、カフェの死から学んだことでした。

 ケージの金網から指を差し入れると、頭を寄せて撫でてもらおうとしたのはカフェだけです。メスのココアはいつも一歩下がって喉を鳴らし、挑戦的に身構えて今にも飛びかかりそうでした。のんびり屋のミルクはたいてい尻をこちらに向けて気がつかないフリをしています。
 三者三様、どの子がいなくなっても寂しいですね。
 
(この稿、終了)



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2019/11/26

「暖かな陽だまりに包まれたように」〜カフェは月に逝ったA  親子・家族


 最初の危機から一カ月余り ウサギの死は目の前に迫った
 しかし命は簡単には消えない
 死ぬためにもやらなければならないことはあるのだ
 それがどんなにたいへんでも

という話。
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(カフェ=4歳のころ)

【ついにその時が来た】
 普段、私は夜の時間を実家で過ごしています。
 介護というほどではないのですが、92歳にもなる母親ですから一日一度は様子を見ないと心配なのです。車で20分ほどの実家へ、夜、出かけて少し話をし、一晩泊まって用を足して翌朝帰るという生活をもう7年も続けています。

 先々週の金曜日の夜も玄関でカフェの鼻をツンツンとつつき、ミルク(もう一匹のオス)に声をかけて実家に向かいました。いつもと同じです。
 翌朝、目覚めて携帯をチェックすると妻からLINEメッセージが入っています。ケージの中で横たわるカフェの写真が貼ってあって、
「いよいよみたい😢
 凄く苦しそう
 のたうちまわっているって感じ
 何もできないけど、このままでいいのかな
 勝手に、涙が止まらない」

 見ると夜中の1時過ぎのメッセージです。もう3時間以上過ぎていることになります。

 昨年メスのココアが死んだときも同じタイミングで、私が自宅を出たあとで息を止め、その時は深夜でもなかったので直接妻と話をしてその死を知ったのでした。今回はまだ息のあるうちの連絡だったことや私が朝まで気がつかないという点で違いますが、何となく予感はありました。

 母は父の死に間に合わず、妻は大好きだった義姉の死に間に合いませんでした。いずれも直前まで誰よりも熱心に看病していたにもかかわらずです。
 ですからおそらく、ココアのときと同じようにカフェも私のいない時刻を選んで死ぬだろう、そんな気がしていたのです。
“やはり、そうなるな”
 そんなふうに思って慌てることなく、私は自宅に向かいました。ところがカフェはまだ生きていたのです。


【死ぬこと自体が大仕事】
 職業も全うし子育ても終わって、私はもういつ死んでもいい気持ちでいます。40代の前半で大病をしてそのまま死ぬつもりでしたので、以後の20年余りは余生のようなものです。定年退職後の人生は”余生のさらに余生”ですから、やりたいこともこれといってなく、やらねばならないことはさらにありません。ですからいつでも死ねる気持ちでいたのですが、死ぬこと自体が大変という意識はあまりありませんでした。

 カフェは起き上がれなくなった土曜日、それでもまだ十分な食欲を見せていました。通常のペレット(粒状の餌)はうまく口に入っていかないのですが、給水器の先を口元にもっていくと水はいくらでも飲み、キャベツの葉はバリバリと2枚でも3枚でも食べようとします。それが本物の食欲なのか生体の反応なのかはよくわかりません。死を察した肉体が、慌てて養分を欲しているのかもしれません。

 ときどき目をつむることもありますがほとんどは普段と同じように見開き、横たわって同じ姿勢でいるのがつらいのか数分おきに体を動かそうとします。ただし前回はスノコを引っ掻いていた右の後ろ足は宙に浮いてしまい、どうしたものか、暴れると前とは反対に左回りに回ってしまいます。しかしのたうち回るというふうでもなく、床ずれが嫌でときどき動いてみるといった感じです。

 排泄はその土曜日の昼過ぎに小水をしたきり、以後いっさいしなくなりました。便は翌日曜日まで数回、わずか4〜5粒を肛門の付近に落としただけで、それも日曜日の午後を最後に、出なくなりました。

 どう考えても左だけを下にして横になっているのはつらいだろうと思って裏にひっくり返すと、右の前足がまだ動くのでまた立ち上がろうとして大騒ぎになります。いっそのことケージの鉄柵に立てかけるようにしてみたらどうかとやってみると、なんとか寄りかかって立っているような感じになります。しかしせっかく立ったのに、まるで赤ん坊のように“立てば歩め”で前に進もうとしてまた転んでしまうのです。
 結局私もあきらめて、どうせ大便も小便も出ないのだからこれ以上糞まみれになることはないとケージのスノコ全面に柔らかなトイレシートを広げ、少しでも痛みが和らぐようにしてあげました。


【暖かな陽だまりに包まれたように】
 月曜日。ついにカフェは目の前のキャベツにも水にも反応しなくなり、無理やり近づけると顔を背けて拒否するようになりました。一日の大半を眠って過ごし、たまに目覚めても半眼で、暴れ方も静かになっていつ動いたのかわからないまでになってしまいました。
 もう時間の問題だと思いながらも、これといってしてあげられることもなく、ただ動くたびにずれていくトイレシートを直してやり、ときどき胸に手を当てて呼吸を感じ、撫でてやるのがせいぜいでした。

 夕方、様子を見に行くとカフェはケージの隅で変な格好で座っていました。体を動かしているうちに鉄柵と干し草入れの隙間に背中から挟まってしまい、暴れているうちに上体が持ち上がって体育館座りみたいになってしまったのでした。そしてその姿勢になって初めて、目の前の糞まみれの後ろ足に気づいたようです。

 前にも言ったようにウサギは年じゅう体を舐めてキレイにしているような生き物です。それがこの一カ月余りまったく舐めなくなり、後ろ足やしっぽの裏は糞まみれになっていたのです。
 思いがけず妙な格好になってその汚れた後ろ足が鼻先に突き出され、カフェは切なかったのかもしれません。そのままの姿勢で口を伸ばし、硬くこびりついた糞をかじり取り始めたのです。繰り返しかじり取り、舐め、きれいにしようとします。

 しかし体力も限界に来ていて、口の動きが次第に弱まり、首がどんどん沈んで行ってそのまま眠ってしまいます。
 しばらくして目を覚まし、また頑張って糞をかじり、また同じようにうつらうつらと眠ってしまう。そんなことが3〜4回繰り返されて、やがて本格的に眠ってしまいました。
 その様子はまるで、縁側の陽だまりで編み物をしていた老婆が、何回も眠っては起き、起きては眠りながら編み物を続け、ついにはそのまま深い眠りに入ってしまったような、そんな感じだったのです。


【火曜日】
 翌火曜日、カフェはついに目をまったく開かなくなりました。それでも腹はゆっくりと上下し、30分か1時間おきに見に行くと、寝ている場所が移動したりしています。

 本格的に心配になった日曜日以来、私は実家で泊まるのを休むことにしました。メスウサギの時と同じように、ひとりで見送ることを妻が嫌がったからです。
 しかし92歳の母の方も心配ですから夕飯を持つなどして実家に行き、小一時間を過ごして自宅に戻るというようなことは続けました。

 火曜日の夜、実家に行く前に見たカフェの息は一段と浅くなっているようでした。しかし今が“その時”かどうかは誰にもわかりません。私はカフェの胸に手を当て、腰に向けて数回、撫でてやりましたが、反応はまったくありませんでした。

 それから2時間後、自宅に戻ると、カフェはすでに死んでいました。妻も気づかないほど、静かな死だったようです。


(この稿、続く)




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2019/11/25

「ウサギが来た日、消えていく命」〜カフェは月に逝った@  親子・家族


 カフェは私のウサギです
 7年前に我が家にやってきました
 その小さな生き物が 
 弱って 死ぬまでの日々


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(カフェ:4歳ごろ)

【ウサギが我が家に来た経緯】

 飼いウサギのカフェが月に向かいました。
 ピーター・ラビットのモデルとなったネザーランド・ドワーフのオスで、9年と1カ月9日の命でした。

 ウサギの寿命は6〜7年とも7〜8年とも言いますが、もちろん半数はそれ以上に生きるので、ひとの言うに「10年を目指しましょう」ということらしく、ですからもう半年くらいは頑張ってほしかったかなとも思います。

 カフェが最初にやってきたのは私の家ではなく、娘のシーナのところでした。
 シーナは自ら「環境見知り」というように、人とはうまくやっていけるのに環境にはなかなか馴染めず、特に大学への進学は学校の切り替えとともに初めての都会暮らしでずいぶん寂しい想いもし、不適応感も強かったようでした。
 様々なことがうまくいかず鬱々と過ごしていたある日、ペットショップで生まれたばかりのネザーランド・ドワーフを見つけ、どうしても欲しくなって私に頼んだのです。
 決して安い買い物ではありませんでしたが、めったにものを欲しがる子ではないので私は二つ返事でお金を出しました。
 カフェはシーナが最も寂しい時にそばで慰めてくれた友達なのです。

 シーナのところで二年間暮らし、そのあとカフェは私の家に来ます。シーナが就職とともに引っ越したマンションは動物が飼えず、就職すれば忙しくて世話も十分にできそうになかったからです。
 私は正直言って動物なんて少しも好きではありません。というか子どものころ飼っていた犬が年老いて、気づいたら腰のあたりにハエが卵を産み付けていて、ウジに食い殺されるように死んでいったことが心の傷になっているのです。犬は私の腕の中で長い時間をかけて死んでいきました。どんな小さな生き物でも死なれるのはかないません。
 息子のアキュラが犬を欲しがった時も、だからまったく取り合わなかったのですが、シーナが困っている以上引き受けざるを得ません。こうしてカフェは私の家の住人となりました。

 ところが人生とはままならないものです。
 カフェが我が家にきて半年もしないうちに、今度は妻が、事情があって二羽のミニウサギを連れて来たのです。 “動物なんか好きじゃない私”が、三羽のウサギの面倒をみることになる――。
 新しく来たのはメスとオスの兄妹で、私はそれぞれにミルクとココアという名をつけました。兄(ほんとに兄かな?)の方がやや色が薄かったからです。ココアの方は昨年、6歳で病気のために死にました。
(参照)2018/5/8「ココアは死ぬことに決めた」〜連休中に考えたこと2 


【カフェ、弱る】

 カフェの様子がおかしくなったのは昨年の春からです。
 純粋種で野生味が強く、抱かれるのが大嫌いでいったん離すと捕まえるのが容易ではなかったカフェが、3歳になったばかりのヨチヨチ歩きの孫に捕まるほどに、動けなくなってしまったのです。
 今年の春にはさらに弱って、畑の端の草むらに置いたらたまたまそこが斜面になっていて、横ざまに転んでしまったのです。特に後ろの左足の踏ん張りが利かなくなったみたいでした。そこから体勢を立て直して走り出すも2〜3mがせいぜい、あとはうずくまって近くの雑草などを食べています。そんなことが半年余りも続きました。

 10月の誕生日の前夜、ウサギを置いた玄関の方がやけにうるさいので様子を見に行くと、カフェは人間で言う“横すわり”みたいな形で下半身を横にして、そこからなんとか立とうと暴れていました。後ろの右足一本で立とうとするのでプラスチックのスノコで足が滑り、立てない。今までにないことなので狼狽えていたのかもしれません。何度も何度も立とうとしてそのたびに失敗しながら、体は時計回りにぐるぐる回っていきます。

 子どものころ飼っていた犬は獣医に電話したら、“腰の抜けた犬は間もなく死ぬから連れて来なくていいですよ”と言われて、そのことを覚えていたので、もうカフェは2〜3日中に死ぬのだと覚悟しました。ただし本人(本兎?)には自覚がないみたいでいつまでも暴れています。
 そこでスノコの上にトイレシートを置いてやるとようやく立つことができました。


【糞にまみれる】
 人間の場合も、初めての危機では死なないことが多いようです。
 生命力がぐんと落ちて死が目の前にきて、それから持ち直ししてしばらく小康状態が続き、再び危機が訪れて死の淵に立ち、再び持ち直す――そんな繰り返しの中で、2回目に死ぬこともあれば3回目、4回目と持ち直す場合もあって、どの回で死ぬかは運命が決める、といった感じらしいのです。
 カフェの場合も、こうして一回目は持ち直しました。トイレシートのおかげで滑って倒れることもなくなり、庭に出してやってもなんとか普通に歩けるようになりました。

 ただしもともとトイレが下手くそでペット用トイレもあまり使わず、スノコの間からたくさんの糞を受け皿に落としていたのがすべてシートの上にたまってしまい、それを踏むので足や肛門の周辺、特にしっぽの裏にべったりとくっついて固まってしまいます。 
 毛に絡みついて硬くなったウサギの糞は頑固で、なかなか取れるものではありません。本来ウサギは暇さえあれば体をなめてきれいにしている生き物ですが、カフェはもうそういう力もなくなってしまったのか、大きな糞の塊を引きずってそのために歩きにくくなった様子もありました。
 それを私が手で取ってやるのですが、先ほども言ったように抱かれるのが大嫌いな子なので、除去も容易ではありません。結局ケージの左半分だけにシートを置き、もう半分はむき出しのスノコにしたら問題はずいぶんと楽になりました。

 そういえば昨年死んだココアも、最後は下(しも)の汚いウサギで死んでいったものです。

(この稿、続く)


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