2019/10/7

「完璧な避難・心の準備」〜被災地をめぐる旅E  教育・学校・教師


 突然の地震・津波であったにもかかわらず
 十分な計画と準備のできていた学校がいくつかある
 彼らはどのようにして準備を重ね
 避難することができたのだろうか

というお話。
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(仙台市立荒浜小学校屋上から海を望む)

【石巻市立門脇小学校から】
 一日目の終わりは石巻市内のビジネスホテルに泊まり、二日目は石巻市立門脇小学校を見学して、それから仙台市立荒浜小学校に回って計画は終わり。疲労を考えながらあとは気ままに、今日自宅に戻ってもよし、明日以降帰るのもよしと、そんなふうに考えていたのです。ところが計画は最初から躓きます。
 お目当ての門脇小学校は震災遺構として来年の公開に向けて工事中だったのです。
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 校舎全体に幕がかかっていて中を窺い知ることはできません。手前に墓地があるのは何か象徴的ですが、これは以前からあったものなのでしょう。墓石は妙に新しい一群と古いものがあり、がれきの中から回収できたものとそうでないものの違いかもしれません。あるいは一部は、津波の被害者が入る、そもそもまったく新しい墓なのかもしれません

 防災という意味でのこの学校の特徴は、津波警報の際の避難所に指定されていなかったということです。「津波に対しては危険」というお墨付きだったのです。

 金曜日にお話した“市教委に最も早く報告にきて帰れなくなった女性校長”はこの学校の人で、震災の年の3月末に定年退職が予定されていました。過去の宮城沖地震(近いところから2005年、1978年など)に記憶があり、地震や津波に対する感性の強い人です。

 3月11日も過去の地震と対比してこれはただごとではないと察知し、津波警報が出ると迷わず裏手の日和山に児童を避難させる決心をします。300名あまり児童はこうして津波を生き延びました(ただし避難の前に一部、迎えに来た保護者に子どもを渡してしまったことは、のちのち深く後悔することになりました)。

 門脇小学校を襲った津波は一階部分を半分ほど沈めただけでしたが、校庭に集まっていた自家用車が大量に流入し、それに引火したために校舎全体が焼け落ちてしまいます。周辺の住宅地も以前の姿に戻されることはなく、門脇小学校も閉校となりました。
 現在は学校を中心として復興祈念公園を整備しており、校舎も震災遺構として来年には公開されるようです。

 どうやら私は中途半端でした。陸前高田では道の駅「高田松原」の8年ぶりの再開当日、しかも時間前に行ってしまいましたし、門脇小学校も、訪れるならもっと早く、あるいはもう少し遅く来るべきでした。

 次の目標は石巻から1時間ほどかかる「震災遺構・仙台市立荒浜小学校」。開館は10時です。余った時間を市内で少しつぶして、それから仙台に向かいました。


【仙台市立荒浜小学校へ】
 仙台市立荒浜小学校は「釜石の奇跡」と並び称されるほど完璧な準備ができていたことでつとに有名になった学校です。


 砂浜海岸までわずか500m。日常的に海の見える学校で、気仙沼向洋高校と同じく「危険だから安全」だった学校です。ただ高校と違って小学校は地域との関係が濃密で、避難計画には最初から住民が織り込まれていました。

 避難計画の見直しは大震災の前年のチリ沖津波のときに行われました。そこで住民から出された要望、
@ 正規の避難所である七郷小学校とは4kmほど離れており、移動するのが困難。
A 特に高齢者は一時避難所である荒浜小学校に避難するのがやっとである。
B また高齢者、特に足の不自由な者が4階まで上がるのは難しい。
C 学校前の市道は渋滞を起こし、スムースに通行できない。
はすべて考慮され、荒浜小学校は正規の避難所に格上げされて災害備蓄も1.5倍、800人の住民が最低3日間は生活できるようになったのです。いざ津波となったら荒浜小に籠城する――そういう覚悟で毛布や扇風機なども体育館ではなく、校舎3階に蓄えられました。

 3月11日の津波は高さ10m、校舎2階の半分ほどにもなりました。しかしすべて計画通り、「住民の割り振りは教室に町会ごと」といった配慮もできていたので、その後の“籠城生活”は非常にうまくいきました。荒浜小学校に避難した320名はヘリコプターで釣り上げるなどして、翌朝まで全員が被災地を後にしています。
 ちなみに東日本大震災は教職員が在校中に起こりましたが、これが深夜であっても、地域の担当者が学校を開き、住民を割り振る手はずができていたようです。

 震災遺構としての荒浜小学校には、ほかの遺構にはない極めて特徴的な展示がありました。それは小学校の開校まで遡って振り返るものです。
 ある意味で私のような震災の様相を見に来た者には必要ない展示ですが、地域の人々にとっては切実です。津波によって町は失われ、荒浜小学校も閉校となったからです。地域も学校も二度と戻ってこない中で、校舎は記念碑的な意味合いも持っているのです。地域といかに密接だったかがうかがえる事実でもあります。
 
 門脇小学校や荒浜小学校のように完璧な避難のできた学校があったことを思うと、大川小学校の事件はあまりにも残酷で愚かなようにも見えます。しかし一部の例を除けば、他は決して万全の態勢で津波から避難できたわけではなかったのです。

                        (次回最終)





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