2019/10/3

「誰も書かなかった『あのとき大川小学校でほんとうに起こったこと』」〜被災地をめぐる旅C  教育・学校・教師


 なぜあの日 大川小学校の職員はぎりぎりまで子どもを避難させなかったのか
 なぜあの時 目の前の山に登ることを考えなかったのか
 なぜ 大した高台でもない「三角地帯」をめざしたのか
 なぜ 県道を通らず 細い裏道を通って避難しようとしたのか
――私は知っている

というお話。
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(石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像2》)

【津波はほんとうに来るのか】
 なぜあの日、大川小学校の教職員たちは高台に避難せず50分間にわたって校庭に留まったのか、なぜ津波到達の1分前になって避難を始めたのか、なぜ数十秒で登れる裏山ではなく橋のたもとの三角地帯を選択したのか、なぜ正面の県道を通らず民家の裏通りから三角地帯に向かおうとしたのか・・・。

 のっぺりとした草地の、おそらくかつては校庭だったと思われる位置に立ち、目の前に100人近くの子どもと教職員の姿を思い浮かべ、さらに地域から集まってきた多くの地域住民、子どもを迎えに来た保護者、就学前の子どもたちのことを想像した上で、当時の教頭の気持ちになって静かに考えると見えてくるものがたくさんあります。
 そのひとつは“津波はほんとうに来るのだろうか”という思いです。

 ラジオでは「高さ6m〜7mの津波が迫っているから海岸付近の人は高台に避難しろ」とさかんに呼びかけています。しかしここは海岸から遠く離れた内陸(実際には4km)です。学校の防災マニュアルを見ても「津波の際は高台に避難」とあるだけで具体的な場所の指定はありません。

 大きな津波が来るという情報に職員の一部から「山に逃げたらどうでしょう」という提案がなされます。しかしそれに対して「山は地滑りや倒木の危険があるからここに留まるべきだ」と主張する職員も出てきます。
 どちらが科学的に正しいのか、それも判断できません。
 ただしわずかな間に震度5弱、震度5弱、震度5弱・・・(計6回)、震度6と繰り返し余震のあるなかで、地滑りや倒木はなんとなく理解できるような気もします。

 地域の人たちはと見ると、皆、案外、落ち着いた様子です。
 地域の避難場所に指定されていた体育館では余震のたびに照明ランプが大きく揺れ、しばらく住民を誘導できそうにありません。庭に空の一斗缶が二個持ち出され、たき火の準備も始まりました。それを横目に、避難してきた人たちはあちこちでのんびりと話をしています。
 児童を迎えに来た保護者の中には、子どもから「もう少しみんなと遊んでいる」と言われて帰ってしまった人もいます。
 地域を良く知る区長に訊いても「津波はここまで来ないから大丈夫」と太鼓判を押します。


【津波の来ない場所】
 地域の人々の落ち着きや学校の防災マニュアルに津波の避難先がないことには理由がありました。
 大川小学校のある釜谷地区は市のハザードマップでも津波の浸水地域されていなかったのです。1933年の昭和三陸津波でさえ、到達先はそこから3kmも下流。チリ津波は防波堤を越えることができませんでした。
 誰も津波の到達を予想しておらず、防災マニュアルの「津波の際は高台に避難」も、単に市のひな型を書き写しただけのものでした(必要な学校はその部分を具体的な場所に書き換えた)。

 どんなに大きな地震があろうとも津波はここまで来ない――それが釜谷の常識で、カーラジオなどで情報を確認し、一刻も早く高台に逃れようとした人はほとんどいませんでした。ごくわずか、本気で逃げ出そうとした人も、集落の外れで逆に地区内に戻るよう説得されたくらいです。

 東日本大震災の津波のために、当時109世帯393人の集落だった釜谷地区から197人の死者・行方不明者が出てしまいます。人口のおよそ半分が一瞬で失われたことになります。日中の津波でしたから地区外に働きに出ていた人を考えると、そのとき釜谷地区にいた人の9割以上が亡くなったと思われます。

 地域にそれほどまでに津波に対する危機意識がなかった以上、学校の意識の低さだけを非難することは難しいのかもしれません。

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【教頭の逡巡】
 しかしそれでも教頭は迷っていました。ラジオが津波の高さ(6m〜7m)を10mに引き上げるとさすがに落ち着いていられません。
 教員が「山へ行ったらどうでしょう」と提案するのを押さえるのは簡単です。ダメだと言えば大人のことですからそこに何らかの事情があると察してくれます。しかし「山さ上がっぺ」と叫ぶ子どもたちを無視するのはつらい。より安全な策を取ろうという正論を潰すのは忍びない。
 どうしたらいいのか――。

 後に出された石巻市の報告書には、
「教頭先生は『山に上らせてくれ』と言ったが、釜谷区長さんは『ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう』といって、けんかみたいにもめていた」
という記述があるようです。

 校庭やそれに隣接する交流会館にはかなりの数の地域住民が集まっていましたから、児童が避難し始めたとなれば地域住民も動かざるをえない、区長はそんなふうに考えたのかもしれません。お年寄りが中心ですからとてもではありませんが山へは向かわせられません。そこで教頭も妥協します。

 そのころ釜谷地区の海寄りの外れを走っていた市の広報車は恐ろしいものを見ます。堤防すれすれまで水かさを増した北上川を、漁船が上流へと凄まじい勢いで流されていく姿です。車は津波が目の前まで迫っていることを広報しながら、全速力で釜谷地区を駆け抜けます。

 別の、川を見にきた男性が堤防で「津波が来るぞ!」と叫びます(この人は後に遺体で発見されました)。その声を聞いたのか実際に津波を見たのか分かりませんが、避難経路を確認に行った教頭は慌てて校庭に戻り、「もう津波がいているから、急いで!」と叫びながら、県道ではなく、裏道を行くよう指示します。川から少しでも離れた避難路を選択したのです。しかし教師たちにとっては通ったことのある道ではなく、実際には袋小路で脱出は不可能でした。そこに津波が襲いかかります。

 それが大川小学校跡地で私が感じた、「あの日、あの時、大川小学校の教頭の心の中に起こったことと見たこと」です。
 大筋ではこれまでに語られてきたことと大差ありません。

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【最後の疑問と答え】
 しかしそれにしても50分はかかり過ぎだろう――最後に残った疑問がそれです。私が行った時にそばで「アホンダラ!」と叫んでいたお祖父さんの怒りもそこにあります。大川小学校に関する多くの資料は同じ疑問を残したままです。
 けれど私は知っています。

 地震発生から50分間。そのうち最初の5分〜10分は児童の避難、人員把握、状況確認に費やしていたとして、残りの40分〜45分間、教頭は何をしていたのか。

 実は教頭は、ずっと校長と連絡を取ることに努力していたのです。

                           (この稿、続く)

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