2019/10/2

「旅の目的、繋がらない大川小学校の記憶の断片」〜被災地をめぐる旅B  教育・学校・教師


 石巻市立大川小学校跡地にきて ようやく旅の目的に気づいた
 私はここに来たかったのだ ここにきてあの日を感じたかった
 同じ教師として あの日の大川小学校職員がどう誤ったのか
 それを感じ取りたかった

というお話。

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(石巻市立大川小学校跡地《パノラマ画像》)

【旅の目的】
 ナビに従ってとんでもない山道を長く走らされた後、平地に出て5分ほど走ってなだらかな坂を上り、北上川の堤防に入るとテレビで見慣れた萌黄色の鉄骨が見えました。
 新北上大橋です。石巻市立大川小学校跡地は橋を渡った左下にあるはずです。

 震災以来すでに8年。三連休の中日にも関わらず駐車場にある車は4台だけ。大川小学校の周囲をめぐる人もわずか数人といった感じです。
 それでも絶えず人は訪れるみたいで、正面の慰霊碑には生花が置かれ、線香の煙がたなびいています。

 私はまず、子どもたちが流されただろう場所に行って、山の方を見ました。そして急に思い出したのです。私はここに来たかったのだと。
 新幹線で往復すれば楽な結婚式参加を、わざわざ自家用車に替え、往復1500kmも走る気になったのは大川小学校に来るためだったのです。


【大川小学校の特異性と疑念】

 東日本大震災の中でも大川小学校の被災は格別です。死者行方不明84名(児童74名、教職員10名)というだけでも慄然とさせられますが、震災の被害にあった東北3県で、学校管理下で亡くなった子どもはここにしかいないからです。

 大川小学校に続いて死者行方不明の多い石巻市立釜小学校の犠牲者は25名です。しかしこれは大半が引き取りに来た保護者の車で渋滞に遭い、そこに津波が襲いかかって亡くなったものです。
 大川小学校だけが唯一学校の管理下で、教師の責任で子どもを死なせてしまった場所なのです。
 そこで何が起こっていたのか。

 小学校の跡地には譜面台に似た説明書きがいくつもあって、一部にはこんなふうに書いてありました。
 校庭で待機中、危険を感じて「山に登ろう」と言った児童もいた。しかし教職員たちは避難方針を決めかねていた。そのため地震発生後50分間、児童たちは寒い中、校庭に放置された。ようやく避難を開始したのは津波がくるわずか1分前だった。(大意)

 私より少し先に来ていた家族の中で、お祖父ちゃんらしき人がこれを熱心に眺め、読み終わると、
「こんなところで50分間も待たせたなんて! ダメに決まってるダロ!アホンダラ!」
とか言っています。
 家族がだれも相手にしないのでさらにブツブツ言っては何度か「アホンダラ!」を繰り返しているのです。

 教員の無為無策を非難する声は当時からありました。
 あれほどの津波を見た後では、広報車が呼びかけていたにもかかわらず、そして手元のラジオが津波の高さは6〜7m、10mと叫んでいるのに、海抜1mしかない校庭で50分間も過ごしていたことは、ほんとうに“アホンダラ“としか言いようのない愚行に思えるのでしょう。

 しかし私は教員というものを信じているのです。愚かな教師のひとりや二人はいるにしても、組織としての教師が“アホンダラ”であるはずはありません。

 情報を持ちながら避難せず無為に時を過ごしたことには何らかの意味がある、教師たちが動かなかったことには理由がある、それを現地で感じ取りたかったのです。


【繋がらない記憶の断片】
 昨日お話した気仙沼向洋高校とは違って、小学校は6歳から12歳の子どもが徒歩で通うことを前提とした学校です。したがって集落から遠く離れたところに建てたりはしません。

 下の写真にある通り、今の大川小学校の周辺は住宅の土台さえない広野原ですが、津波以前には109世帯の街がありました。合併前の大川村役場跡もあれば法制局や登記所、学校のすぐ近くには郵便局や駐在所、診療所もありました。
 現在の大川小学校は、崩れた校舎とともに周囲に何もないことで津波の威力を伝える遺構であるとも言えるのです。
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 (下はありし日の小学校周辺《鎌谷地区》の航空写真)
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 写真正面の小さな山の向こうに海はあります。また学校の周辺は住宅で囲まれていますから、川に何らかの異変があっても気づくことはできません。

 当日、校長は中学生のお嬢さんの卒業式で学校を休んでおり、地震の際の対応は教頭の責任においてなされたはずです。“はず”というのは校庭で無為に過ごした50分間について、詳細に語る人がいないからです。

 当時現場にいて奇跡的に生き残ったのは4人の児童と一人の教師。
 子どもたちは普通、大人のやり取りにほとんど関心を持ちせんから断片的なやり取りしか覚えていません。また子どもを迎えに来た保護者の一部が見聞きした事実もありますが、これも断片的です。
 一番頼りになるのは最初から最後まで現場にいて生き残ったただ一人の教師ですが、この人はおそらく精神的な問題から、医者に止められて今日まできちんとした証言をしていません。

 したがって断片的な記憶をつぎはぎするしかないのですが、
「児童が『山さ、登っぺ』と言ったにも関わらず教師は相手にしなかった」とか、
「教員どうしでも高台へ避難するか学校に残るか意見が割れていた」とか、
 あるいは、
「教頭はせめて大橋のたもとまで移動したいと言ったにもかかわらず、現場にいた鎌谷区長が『ここまで津波が来ることはないから行かないでいい』と言った」とか、
 あるいは逆に
「区長の方が『橋のたもとの三角地帯』へ行こうと言っていた」
とかいった話が残っていてどうにも繋がっていきません。

 結論的に言うと、津波は海側から来たのではなく、凄まじい勢いで北上川を逆走し、大橋で勢いを失って堤防から溢れ、Uターンする形で「三角地帯」から鎌谷地区に襲いかかりましたから、「三角地帯」へいっても同じだったのかもしれません。

 もちろん早めにそこに行きさえすれば橋のたもとですから逆流する津波の様子は遠くから見え、楽なことではありませんが、そこから一人でも二人でも山を這い上がらせれてもう少し多くを助けることができたという考えもあります。

 しかしそれとて結果論です。

                    (この稿、続く)

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