2019/10/31

「誰もが誰かと友だちなれるわけではない」〜”東須磨小、教員いじめ事件”C  教育・学校・教師


 「東須磨小、教員いじめ事件」の4人の加害教諭たち
 彼らにはとんでもない思い違いがあったのかもしれない
 友だちになれないものを友だちのようにあつかって非道を行った
 しかし被害者も なぜイエローカードを出せなかったのか

という話。
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(「夜の学校」PhotoACより)

【誰もが誰かと友だちなれるわけではない】
 友だちのような親子というのがいて、ずいぶん羨ましがられたりすることがありますが、あれは子どもが優秀で親の期待通り育つことができたり、親が幼すぎて子に合わせやすかったりといった特殊な場合であって、安易に素人がまねをするとろくなことになりません。
 指導しないで済むような子を持つか、指導することを放棄しない限り、親は子の友だちにはなれないのです。

 同様に教師が児童生徒と友だちになろうとすることはとても危険です。安易に友人めいた関係になって一緒に遊んでいる最中、アルコールが持ち出されたらどうします? 選択肢は「一緒に飲んで友だちの地位を維持する」か、「飲むのをやめさせて裏切り者になる」か、二つに一つです。「真の友だちだったら止めるはずだ」などと言う正論は通じません。子どもの人間関係に「正論」を持ち込むようなヤツは面倒くさいだけです。
 期待させてあとで裏切るくらいなら、最初から友だち付き合いなどしない方がよほどうまくいきます。


【年長者の心得】
 そうした人間関係のすれ違いというのはどんな場合にも起こります。私たち年長者がしばしばしてしまうのは、職場であっても、若い世代と友だちのように付き合えるかもしれないという思い違いです。
 そんなことはありません。

 例えば30代40代にとって20代という年齢はすでに経てきたものですからいつでも当時の気分に戻ることができます。昔の気持ちに還って昔のように楽しめます。しかし20代にとって、30代40代は未知の世界ですからそこに生きる自分など想像することもできないのです。

 どのくらい想像できないかというと――二十歳をとうに過ぎた人は思い出してみましょう。
 あなたが20代のとき、勤め先の30代40代の先輩たち、あるいは50代60代の人々はどんなふうに見えていましたか?
 気楽に付き合える友だちはいましたか?
 まったく気が置けず、小指の先ほどの緊張感も持たずに付き合えた先輩は何人いましたか?
――ここで10人も20人もいたと答えられる人は、あなたの方がおかしい。ひとりもいないのが普通です。職場ですから。

 それを考えれば、10歳以上年下の同僚とも友だち付き合いをしようという野心が、いかに愚かであるかは自ずと理解されます。
 もしかしたら東須磨小の加害教員たちは、その点に甘さがあったのかもしれません。


【無自覚な、あまりにも無自覚な・・・】
 学校というところは20代でも30代でもそれぞれが学級という仕事場を持つ職人の集団です。管理職といっても校長・副校長(あるいは教頭)しかいない鍋蓋構造、つまみ部分以外はみな同じです。したがって平等意識は非常に高く、仲間意識も持ちやすい。
 もちろんそれだからいいこともたくさんあります。しかし経験年数に差があるのに立場はみな同じというねじれ構造は、ときに思いもよらない危険を生み出したりもします。

 仲間意識が強すぎて、友だちになれない関係を友だちのように思い込み、そのくせ年長者らしい傲慢さで説教をしたり指示したりするといったチグハグな関係です。

 今回の「教員いじめ事件」も、そう考えると、年長者が若者を“いじめた”というより、30代40代が20代の若者と同じ気分になってやったバカ騒ぎといった側面が見えてきます。
 「掃除機で乳首を吸う」だの「大量のお菓子を口に詰める」だのはその典型です。マスコミにたびたび登場した「被害者の自家用車によじ登る加害者」の写真も、嫌がらせというよりは稚気に類するものかもしれません。

 “もの隠し”や“もの壊し”は普通、誰も見ていないところで密かにやるものです。証拠になる写真など撮ったりはしません。それをわざわざ撮影して残したというのは、いかに“加害者”が無防備であったかをよく表しています。
 一歩間違えば器物破損か何かで現行犯逮捕されかねない所業を平気でできたのは、悪意のかけらもなかった証拠です。同じ仲間内の悪ふざけ、許容の範囲だと思っています。
 ところが被害者教諭には友だち意識なんかありませんから、加害者のやったことは嫌がらせ、あるいは“いじめ”としか映らなかったのです。
 そのことに4人はまったく気づきません。


【被害者はイエローカードを出すべきだった】
 事件が報道された初期のころ、タレントの梅沢富美男は「あいつも男なんだろ。さっさとやり返せばいいじゃねぇかよ」と発言してネット上で大バッシングを受けました。

《本人の対応も大事だけど、やめろと言ってやめる相手なら、ここまで酷いことにならない。いじめる側が悪い。それを徹底しないと》
《やり返せるなら被害男性は苦しくて辛い思いしないだろう》
《そんなわけにはいかない人もいる。そんな勇気出ない人もいる。言っても信じてもらえない人、相手にされないひともいる。この被害者もやり返せばいいとか安易に言うのはさすがに違うと思う》
(以上、2019/10/12女性自身より)

 それも一理ありますが、しかし被害者は成人男性です。“男だったら”ではなく、“成人だったら”何らかの手は打たなくてはならない――梅沢冨美男ならざるとも、同じような感想を持った人は少なくなかったと思います。

 子どもではないのです。やり返す必要はありませんが、もっと早い段階で、加害者のひとりに「本当はつらいんだ」と打ち明けるとか、他の教師に相談するとか、あるいは直接的に決然と「私は嫌だ」と宣言するとか、何かできなかったのか。
 報道ではあてにならない校長に相談した以外に、これといった対応をした様子はうかがえません。

 人権は、それを持つものが不断の努力で主張し続けなければ奪われてしまうものです。香港では今日もそのために命を懸ける若者が大勢います。
 せめてもう少し早い時期にイエローカードは出せなかったのか。それさえやっておけば、被害者も4人の加害者も、人生を奪われることはなかったのです。


                   (この稿、次回最終)



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2019/10/30

「いじめ問題における主観主義と仮説の物語」〜”東須磨小、教員いじめ事件”B  教育・学校・教師


 どう考えても許せない悪逆非道
 しかし訴えにひとつひとつを見ていくと
 どうしてもちぐはぐな印象がぬぐえない
 このバラバラな印象は 何に由来するのだろう

という話。
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(「レーマー広場」PhotoACより)

【いじめ被害に関するバラバラな印象】
 被害者教諭の訴える被害に関して、加害者はどうしてあのような非道ができたのか、被害者はなぜ警察に逃げ込まなかったのかという点について、昨日は時間軸および“恩とあだの見積もり”という観点から考えました。
 しかしまだぴんと来ない感じが残ります。
 それは激しい暴力とともに、「乳首を掃除機で吸われる」「車での送迎を強いられる」といった何とも滑稽な、あるいは「それはいじめとは言えないだろう」というような内容が含まれているからです。

 「コピー用紙の芯で尻を叩かれる」も最初何のことかわからなかったのですが、ロール式のコピー用紙の芯で長さ30p、太さ4pほどのボール紙の筒です。紙の厚さは5oほどありますからこれでたたかれれば、痛くないとは言いませんが木の棒や鉄パイプで殴られるのとは印象が違います。しかもお尻です。

 考えてみればVTRで繰り返し流された「羽交い締めされ激辛カレーを食べさせられる」もあまりにも子どもじみていて、不謹慎を承知で言えば「いじめるならもっと効果的な方法があるだろう」とツッコミたくなるような代物です。

 昨日は触れませんでしたが、これが「物的被害」「嫌がらせ・悪口」となると、
・鞄に氷を入れられビショビショにされる
・携帯電話を隠される
・車にトマトジュースをかけられる
・質問すると「誰に許可得てしゃべっとん!くずがしゃべんな」と言われた
・毎日「性病」「ごみ」「くそ」「くず」などと呼ばれる
・指導案に落書きされた


 昨日あつかった「平手打ちされる、蹴られる」「熱湯入りのやかんを顔に付けられる」「ビール瓶を口に突っ込まれて飲まされ、瓶で頭を叩かれる」「激辛ラーメンを無理やり食べさせられ嘔吐、けいれん、しびれ」などと比べるとその落差の大きさにあきれます。

 このように印象の異なる“いじめ”が一気に並べられるのには、二つの理由があると考えられます。


【いじめ問題における主観主義】
 まず大前提となるのは、一般には軽重の異なるこれらの“いじめ”が、被害者には同じレベルの巨大な恐怖として感じられたということです。
 ボクシングでボディブローやジャブを繰り返し受けているうちに、加わる力に大差はないのにダメージが次第に大きくなるのと同じで、ひとつひとつの異なる打撃がすべて最大級に感じられ、区別がつかなくなるのです。
 「ばーか」といった他愛ない悪口も、毎日毎日、代わる代わる十数名から言われたら、たとえ深い意味はないと思っていてもいつか参ってしまうのと同じです。

 また軽重の異なる “いじめ”が一緒くたに出てくる背景には、事件を調査した教育委員会の主観主義が大きく影響したとも考えられます。
 現在、教育委員会はいじめ問題に関して被害者の訴えをそのまま報告する方向で動いています。加害者の話を聞いて「これは“いじめ”だ」「これは“いじめ”ではない」といった判断はしないのです。

 話は少しそれますが、学校における児童生徒のいじめ件数は、これだけ問題視されているにもかかわらず毎年増え続け、昨年度(2018年度)は前年度比で32%(約13万件)も増え54万3933件に及んでしまいました(2019.10.17産経新聞いじめ過去最多54万件 重大事態も急増 文科省調査)。
 これは徹底的な主観主義を取っているためで、子どもが対人関係で少しでも嫌な思いをしたらすべて“いじめ”として計上しているからです。
 もちろん表向きは「客観的には些細なことであっても本人の心の傷は計り知れない」というのが理由ですが、「いじめはありました」「学校として把握していて指導中でした」ということにしておかないと、あとで問題が起こった時に取り返しがつかないという事情もあろうかと思います。
 いずれにしろ本人が嫌な思いをしたことはすべて報告するという習慣が教育委員会にはあるのです。(*注


【客観的にはどうだったのか】
 教育委員会が公表しマスコミが引用した“いじめの実態”は被害者の主観をそのまま映したものであって、何に傷つき何を恐れたかはよくわかります。しかしひとつひとつを切り離し、別の事象として見ると、客観的にはそこまで大変なことではなかったようにも見えてきます。

 事実「蹴ったり殴ったり」について、目撃した児童は「じゃれていると思った」と証言しています(2019/10/5神戸新聞NEXT)。
 熱湯入りのやかんを顔に付けられたといっても火傷で病院に行き、顔に大きなガーゼを当てて帰ってくるほどのものではなかった、ビール瓶で頭を叩かれたといっても小突く程度のことだったのかもしれません。

 もちろん私は「だから大した問題ではない」と言うつもりはありません。被害者教諭は本当に苦しんだのですから。
 しかし、
「客観的には大したことではないように見えた」
「だから加害者たちは問題を軽く考えた」
という可能性は考えておかなくてはなりません。そうでないと曲がりなりにも30年、40年と生きてきて、教員歴も長い4人の男女が、かくも残酷ないじめの行為者となった理由がわからないからです。
 まさか自分のやっていることを十分理解したうえで、職を賭して“いじめ”ていたわけでもないと思うのです。

 私はあの「羽交い締めされ激辛カレーを食べさせられる」VTRの前後にも興味があります。そこでこんなやりとりがされていたとしたらどうでしょう。

【仮説の物語】
 ある日の午後、家庭科室では来月に迫ったキャンプの打ち合わせが行われていました。その日は子どもたちにカレー作りをどう教えるかという講習会です。

 一通りの活動が終わって、
「やっぱり子どもには中辛より甘口よね」
とか言い合っている最中、ひとりが、
「いや、いや、いや。子どもたちには食べさせられないけど、『激辛カレー』というのが売っていたので買ってきた。どうだい、これを入れて食べてみないか」
 そこで作ったばかりのカレーに激辛ルーを加えて食してみる。
「ギエー! こりゃすごや!」
「アラ、ホント。私、辛いの好きだけど、これは我慢できない」
 そしてのちに被害者となる若い教諭に、
「オイ、お前も食べてみろよ。オレたちだって食べたのだから」
「いや、私は辛いのは苦手なんですよ」
――あとは私たちが繰り返し見せられたとおりです。

 単なる妄想ですが、加害者4人が被害者教諭を家庭科室に呼び出し、無理やり食べさせたというよりはよほどしっくりくる話です。

                    (この稿、続く)



 文科省通達「いじめの認知について〜先生方一人一人がもう一度確認してください〜」では次のような事例も“いじめ”として報告するよう求めています。

(定期的に実施しているアンケート調査で、Bが「いじめを受けた」と回答した。そこで、Bと面談で確認するなどした結果、以下の事実があったことを確認できた。)
体育の時間にバスケットボールの試合をした際、球技が苦手なBはミスをし、Aからミスを責められたり他の同級生の前でばかにされたりし、それによりBはとても嫌な気持ちになった。見かねたCが「それ以上言ったらかわいそうだよ」と言ったところ、Aはそれ以上言うのをやめ、それ以来、BはAから嫌なことをされたり言われたりしていない。その後、Bもだんだんとバスケットボールがうまくなっていき、今では、Aに昼休みにバスケットボールをしようと誘われ、それが楽しみになっている。


 報告すべきは“いじめ”があったかどうかではなく、“いじめの訴え”があったかどうかなのです。訴えを受け取った以上、それは認知数としてカウントされなくてはなりません。



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2019/10/29

「恩とあだの見積もり」〜”東須磨小、教員いじめ事件”A  教育・学校・教師


 極悪非道の教師だから私刑にかけていいということにはならない
 真相を究明するためにも
 曲がりなりにも教師として10年・20年とやってきた教師が
 なぜこんなことをするに至ったのか
 加害者の内面も観てみなくてはいけないだろう

という話。
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(「天秤」PhotoACより)

【被害に関する違和感】
 殴る蹴る、熱湯入りのやかんを顔に押し付け、首を絞め、ビール瓶を口に突っ込んで飲ませた上に瓶で殴る――“よくこれで死ななかったものだ”、そう考える人はいるでしょう。“これほどのことをされてなぜ警察に駆け込まなかったのか”、そう疑問を持つ人もいるはずです。
 “殴られた跡、火傷の跡はどうなったのか”といった点に目を向ける人もいれば加害者に目を転じて、“ハングレでもあるまいし、これだけの暴力をなぜだれも止められなかったのか、これ以上やったらヤバイと言い出す者はいなかったのか”とあきれる人もいるでしょう。

 しかしそれは被害者教諭の訴えに時間軸が入っていないからそう見えるだけなのです。

 これらのことは1日とか1週間とかいった短期間ではなく、少なくとも半年以上の間に起こったできごとです。
 訴えられた暴力的被害・強要被害は11項目ですから、期間を半年として単純に割ると月二回程度、登校日数で計算すると10日に一度の割で、しかも11項目の中には「乳首を掃除機で吸われる」「車での送迎を強いられる」といった“残虐”とは多少距離を置く内容もあります。

 十日にいっぺんの残虐――では残りの9日間はどうだったのか?

 これは推測でしかないのですが、残りの期間は「関係が良かった」か「問題はあったがさほどのものではなかった」か、「具体的な接触機会が少なかった」か、そういった感じではなかったかと思うのです。もし毎日過酷ないじめを受けていたとしたら被害者はこれほど長期間に渡って我慢することもできなかったでしょうし、何より加害者の側に恐れが生まれるはずです。警察に駆け込まれても自殺されても困るのです。


【“女帝”が男たちを救う】
 マスコミよって“女帝”と呼ばれる一番年上の女性教師は、保護者説明会に向けて書いた文章で、
「本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです」
と書いて猛烈なバッシングにあいました。
 3人の男性教諭が平謝りに反省の弁を書き連ねたのに対して、女性教諭ひとりがこの期に及んで言い訳に終始しているととらえられたからです。

 しかし私に言わせれば男たちの謝罪文はどれもこれも似たり寄ったりで、行間から「こういう時は平謝りに謝っておけばいいんだ」といった不敵さが見え隠れしているような気さえします。
 ここで“女帝”が同じような文章を書いていたら、全員が不誠実に見えたでしょう。しかし女性教諭はひとり異質な言葉を並べることで非難を一身に集め、他の三人を救うことになりました。もちろん意図したことではないと思いますが。

 私は、主観的には彼女の言う通りだったのではないかと思うのです。
「被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです」
「彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです」

 男性教諭の一人が書いた、
「自分自身の相手への配慮に欠ける言動や、軽はずみな言動に、最低な人間だと実感しました。一社会人として、人間として、恥ずべきことと考えています」
なんかより、よほど人間的です。
 “女帝”は本気で若い教師を育てようと支援し、かわいがってきたと思っているのです。彼女が見ているのは、被害教諭が“いじめ”を意識することのなかった残り9日間の方なのです。


【恩とアダの見積もり】
 普通、ひとは自分が施した恩は大きく、与えられた恩は小さく見積もるのが常です。私は子どもたちにも、
「誰かに何かをしてあげたりしてもらったりして『五分五分だ』と思っているときは、たいてい“してもらったこと”の方が大きいものだよ。『ちょっとこちらの方が“貸し”が多いかな』くらいのときが五分五分だと、そんなふうに思っておくといいよ」
 そんなふうに言っておきました。

 また逆に、ひとは誰かに負わされた傷は大きく見積もり、自分が傷つけた際には気づかないことすらあります。
 無意識に人を傷つけることを恐れるなら、できることは“前もってその人に良くしておく”くらいしかありません。そして常に相手を尊重して過ごすことです。
 これも子どもたちに話しておきました。

 神戸の「東須磨小、教員いじめ事件」はその組み合わせが最悪の形で現れ、肥大化したものではないかと思うのです。

 女性教諭は、陰に陽に若い被害教諭を助けたことしか覚えていません。若い教師を精一杯育てようとした膨大な“思い”と“エネルギー”を考えれば、激辛カレーを食べさせたのも大量のお菓子を口に詰め込んだのも、単なる仲間同士のじゃれあい、取るに足らないできごととしか感じられなかったのです。《そりゃあちろん、やりすぎたこともあったけど・・・》

 しかし被害教諭からすればたまったものではありません。
《教えてもらったり助けてもらったことは確かにあった。しかしだからといって苦手な激辛カレーを口に突っ込まれたり、菓子を詰め込まれたりではたまったものじゃない。これでもいちおう大人なのに、殴ったり蹴ったり、こき使われるのは我慢ならない、許せない》

 こうして恩とアダの非対称は極限まで大きくなっていきます。

                           (この稿、続く)



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2019/10/28

「どこに鬼畜はいるのか」〜“東須磨小、教員いじめ事件”について@  教育・学校・教師


 神戸におけるいわゆる“東須磨小、教員いじめ事件”
 加害者4人に関するメディアの対応は、今や私刑の領域に入った
 しかし加害教諭4人のやったことも鬼畜レベルで許せるものではない
 この問題は どう解釈したらよいのだろう

という話。
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(「鳥とモノトーンの世界」PhotoACより)

【加害者4人に関するメディアの対応は、今や私刑の領域に入った】
「台風19号の被害でも、ラグビーワールドカップにおける日本の活躍でも、即位礼正殿の儀でもこの話題は消せないのか」
 先週木曜日にいったん載せようとして、迷った挙句、取り下げた私のブログ記事の書き出しです。「この話題」というのは神戸市における、いわゆる「東須磨小、教員いじめ事件」のことです。

 載せるのを躊躇したのは即位礼正殿の儀の翌日(23日)、さすがにおめでたい話題の多い中でこの件にかんするメディアの扱いがとても小さかったからです(私の知る限り、テレビのニュースワイドは1件、ネットニュースも1件だけでした)。このまま消えてしまうのかもしれないと思いました。消えるなら無理にほじくり返すこともありません。

 ところが24日になって「加害教員の給与差し止めへ 神戸市、条例整備を検討」(2019.10.24 神戸新聞)という記事が出て、神戸市が法の不遡及(法令の効力はその法の施行時以前には遡って適用されないという法の一般原則)を侵しても世論になびき、加害者とされる4人の給与を差し止めようとしていることを知って改めて記事にすることにしたのです。

 4人はすでにネット上で氏名も顔も晒され、学歴や職歴、家族構成から子ども通う学校まで調べられて拡散しています。

 週刊誌は『イジメ教師は後輩男女教諭に性行為を強要した』と確証のない話を記事にし(17日「週刊文春」)、それは夕刊紙(17日夕刊フジ)に「神戸教諭いじめで『性行為』強要か “女帝”40代教諭はあきれた謝罪、批判相次ぐ」という表題で引き継がれます。
 さらに25日になると「神戸教員いじめ・主犯格女教師に『元校長の愛人説』と『教壇復帰の可能性』」(デイリー新潮)といった表題が広告に踊り、メディアによって“女帝”と呼ばれた女教師は、「年甲斐ものなく若い男性教諭に肉体関係を迫ったり、別の若い男女に性行為を強要したりする異常性向をもった元校長の愛人」という形で人々の頭の中に記憶されます。

 記事を読めばどれも他愛ない伝聞ですし、“性行為”というのも字面ほどには生々しいものではなく、またそれを強要したのも“女帝”ではなく男性加害教諭のひとりということがわかります。しかし週刊誌や夕刊紙を次々と買って内容確認する人はまれですし、ネット上の要約記事ですらしっかり読まず、タイトルを眺めただけで済ませる人は大勢いますから、誤解は事実としてなって人々の記憶に彫り込まれる、まさにデジタル・タトゥーです。

 数年もしないうちにネット上の週刊誌やテレビニュースの記事は削除されますが、個人のブログやサイトから消えることはありません。
 “女帝”は生涯こうした記事に悩まされるはずです。もうそれで十分ではありませんか?

 しかしかなりの数のネット市民が「制裁は足りない」と考えたようで、神戸市はその声に応えて給与を奪おうとしているのです。

 私にはもうそれだけでも十分に私刑だと思うのですが、人々は古代ローマの闘技場の観衆のように、親指を下に突き立てて
「まだ足りない! もっとやれ!」
と叫んでいます。


【それにしても加害教諭4人のやったことは鬼畜レベル】

 ではなぜ人々はそこまで厳しい処罰を望むのでしょうか。
 それは被害者教諭が受けたという“いじめ”の中身を見てみればすぐにわかります。被害者教師の訴える“いじめ”のうち、暴力的被害と強要被害に絞って取り上げると以下の通りになります(以下、教育委員会調べ:関西テレビ報道による)。
・平手打ちされる、蹴られる
・コピー用紙の芯で尻を叩かれる
・熱湯入りのやかんを顔に付けられる
・乳首を掃除機で吸われる
・羽交い締めされ激辛カレーを食べさせられる
・首を絞められ呼吸困難
・ビール瓶を口に突っ込まれて飲まされ、瓶で頭を叩かれる
・激辛ラーメンを無理やり食べさせられ嘔吐、けいれん、しびれ
・焼肉のたれやキムチ鍋のもとなどを大量に飲まされる
・大量のお菓子を口に詰め込まれる
・車での送迎を強いられる


 こちらはまさに私刑そのもので、よく死なずに済んだと感心するほどです。
 さらに言えば学校という一段高い道徳性を求められる世界に、これほどの極悪非道を行える人間がよくも入り込んでいたものだ、しかも4人も――そうも思います。

 私など、飼っているウサギが病気で苦しんでいるのを見ることすら苦痛です。それが、殴るける、熱湯入りのやかんを顔に押し付け首を絞め、ビール瓶を口に突っ込んで飲ませた上に瓶で殴るわけですから、鬼畜の仕業としか言いようがありません。
 なぜそんな恐ろしいことができたのか――そう考えていくとさらに不思議なことに思い至るのです。

                        (この稿、続く)


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