2019/6/13

「まったく躾のできていない子とその親たち」〜電車で出会った傍若無人な親子の話 1  親子・家族


 地元に残してきた仕事もあって
 あわただしく東京を離れた電車の中で
 しばしばマスコミやネットで評判になる
 「まったく躾のできていない子」たちに会った
 まるで絵に描いたような典型で むしろ嬉しくなった
というお話。
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(エドゥアール・マネ 「鉄道」)

【まったく躾のできていない子たち】
 娘のシーナが退院して8日目、シーナより一週間余計に入院していた赤ん坊が退院して2日目、ようやく休みの取れた婿の母親、つまりシーナにとっては姑に当たる人が上京し、私と代わることになりました。やはり日常の世話となると女性の方が役に立ちます。

 その金曜日の午後は私にも懸案の仕事があって、お昼過ぎの列車に慌てて飛び乗ったのですが、そこで長年見たいと思っていたものにようやく出会うことができました。
 電車の中で騒ぐ「まったく躾のできていない子たち」です。

 元教員で小学校経験もありますから何千人もの子どもと付き合ってきたわけですが、学校でそうした子を見ることはまずありません。

 学校というのはあっという間に子どもをきちんとさせてしまうところです。一部からは「型にはめる」とすこぶる評判が悪いのですが、先生たちは子どもを、小学校の場合は「児童」、中高では「生徒」という型にはめないと何も始まらないと信じているのです。「児童」「生徒」はいずれも「学ぶ主体としての子ども」という意味で、とりあえず席に座っている、人の話を聞く、言われたらやってみるといった程度のことですが、そうした型にはめないと教育はまったくできないと教員は固く思っているのです(反論があればお聞かせください)。

 もちろんそれは教師の力だけでできることではなく、「がんばりなさい」「一生懸命やるのよ」「先生や友だちに迷惑を掛けてはいけません」などと両親や祖父母に言われて教室にやってくる児童生徒の、集団としての力によって果たされるものです。

 ですから「まったく躾のできていない」ように見える子どもは校内にはほとんどいません。いるとしたら学校の集団力の効かない場、例えば家の中とか街の中、児童公園やお店、列車の中などが考えられます。
 特に閉鎖的で一定時間おなじ空間を共有せざるを得ないレストランや列車の中での子どもの悪しき振る舞いは、しばしばマスコミやネットで評判になります。

 しかしそうした話を聞いてもなかなか出会わないので、もちろん荒唐無稽とも思わないのですがなんとなくイメージがわかず、一度見てみたいものだと密かに期待していたのです。そしてこの年齢になって初めて、期待通りの、だれが見たって眉をしかめる、立派な、「まったく躾のできていない子」とその親に出会えたのです。


【完璧な家族の行状】
 週日のお昼に出るローカル特急ですので乗客は少なく、座席は全体の3割程度が埋まっているだけでした。私は後ろから三列目の左の窓際にひとりで座っていましたが、これからお話する家族は同じ列の右側2席にとりあえず席を取りました。

 30代前半と思われる軽装の夫婦と、子どもは上が5歳、下が3歳くらいのフリフリワンピースの女の子です。下の子は乗車のときから眠たそうで、窓辺に座った母親の膝の上ですぐに眠ってしまいました。まずうるさかったのは上の子です。

 入って来るや否や「なんか食べたいの、おなか空いた」から始まり、父親がバッグから出したポッキーを手に、食べてはしゃべり、しゃべっては食べるのです。しかも父親の膝の上に乗ったり下りたり、一列前の空いた席に座ったりまた戻ったり。

 他に食べ物はないのかと言い、やっぱ飲み物も買っておけばよかったとぼやき、前の座席の背もたれに差してある物販のカタログを丸ごと引き出しては一枚一枚床に捨てていったり、挙句の果てには通路でくるくると回りながら踊ってみたり、
「パパ、パパ。パパも踊ってみて、ホラ、こんなふうに回るの」
 そういって父親の手を引いて立たせようとしたり、叩いたり。

 “パパ”は「ダメだよそんなこと、踊るなんてできないって・・・」と、基本的にやめさせるべきところを自分がやりたくない旨を訴えて別の空いた席に避難し、そこで娘にのしかかられて「やめろよ、やめろって」とか言って戯れています。

 あとから考えるとその逐一を記録しておけばよかったのですが、まさかそんなことが2時間も続くとは思いませんから、うかつにも書き残しておく(もしくは録音しておく)ことは思いつきもしませんでした。

 もちろん私という存在がありながらずっと近くの席で騒いでいたわけではなく、時々父子でフッといなくなり、しばらくたって戻ってきたのはデッキで遊んでいたか他の車両の探検にでも出かけていたのでしょう。
 その間、母親の方は下の子にかかりっきりで何もしません。

 やがて下の子も目覚めてそれからは二人で大騒ぎです。通路を端から端までにぎやかに歩いてみたり歌を歌ったり・・・そうするあいだ母親は、今度はスマホで何かをするに忙しく家族に声を掛けることもしません。

 父親は二人の子どもが手元からいなくなってホッとしたのか、しばらくはほったらかしだったみたいですが(というのはそのころには父親は私の背後の席に移っていて様子が分からなかったのです)、子どもたちがあまりにも元気よく歩き回るので、立って近くまで行き、指を唇に当てて「静かにしなさい」と指示したりします。
 なぜ口で注意しないのか、なぜ腕を引っ張ってでも近くに連れて来ないのか、まったく理解できません。

 そのうち通路を元気よく行進してきた上の子が、列車の揺れに体を飛ばされて、私のところに倒れ込んできたのです。そして脇に立てておいた私のスーツケースを倒し、上に乗せておいたスマートフォンを床に飛ばします。

 こうなるとさすがに父親は立ち上がり、後ろから覗き込んで「すみません」と言いますが、私は返事もしないで女の子を思いっきり厳しい視線で睨みつけました。
 普通の小学生だったら半べそをかくくらいの状況です。私の顔は怒らなくてもそのくらい怖い造りになっています。

 ところが女の子は怯えもせず、無表情でしばらく睨まれるままになっていましたが、それからすっと視線を外すとそのままデッキの方へ歩いて行ってしまいました。

 ここで、「パパァ、このお爺さん変な顔をしている」くらいのことを言ってくれたらブログネタとしてはかなり面白かったのですが、残念ながらそうはなりません。
 私はかつて威力を発揮した自分の「怖い顔」が何の役にも立たなかったことに少々傷ついていました。

 さて、この絵にかいたような完璧な傍若無人親子――これを私はどう解釈したらよいのでしょうか?
 あの人たちに恥という概念はないのでしょうか?

 そのとき、改めてじっくりと考えてみようという気になったのです。

                           (この稿 続く)



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