2019/6/28

「インフルエンザとヌーハラ」〜常識を疑うことを疑う  政治・社会


 常識を疑うことは大事だが 常識を捨てる前にやることがある
 それはもう一度 常識の価値を確認することだ
 注意しないと 大切なものを簡単に捨ててしまうことになる
というお話。
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【常識を捨てる前にやること】
 昨日のホテル・旅館の布団の話ではありませんが、私たちが常識だと思っていることに疑問を呈するのは大切なことだとしても、常識が常識として通用してきた背景には何らかの必然性があったはずで、それを「間違いだ」「すでに意味がない」「人権上問題がある」等々の理由によって転覆させようとするとき、一度は原点に戻って意味を確認する必要があります。

 例えば一時期、市販のマスクはウィルスを通過させてしまうからインフルエンザ予防にはまったく意味がないということで、「患者以外はマスクをつけるのはやめましょう」みたいなキャンペーンが行われたことがあります。
 しかし結局マスクには十分な予防効果がありましたし、何よりもインフルエンザ患者にマスクをしてもらうには、かかった人もかかっていない人も、少し疑わしい人も、自覚のない人も、何でもかんでもマスクをつける今の状況を大切にするしかないのです。患者だけがマスクをするなんてことはあり得ません。
 これについて私は何回か書いていますが、マスクの文化、捨てなくて本当に良かった。
(参考)2013/1/28 マスクの科学 2013/2/19こだわりのマスク 他 


【ヌードルハラスメント】
 ヌードルハラスメントというのをご存知でしょうか?
 日本人に多く見られる「麺類を食べるときに、麺をすすってズルズル音を立てる」食べ方が、猫舌の人や外国人に不快感を与えるとして慎むべきであるとする主張を示す和製英語。「ヌーハラ」と略される。Wikipedia
という話で、私は最初、何でもかんでもハラスメントにしてしまう現代の風潮を揶揄した冗談、または悪ふざけだと思ったのです。
 ところがWikipediaに記載のあるように、数年前からネットやマスコミ上でかなりまじめ目に議論された話題のようです。

 デビ夫人が「(麺をすするのは)教養のない田舎っぺ」と言ったとか、「落語の『時そば』の中で蕎麦をすする様子がラジオで広まったことで、『麺類はすすって食べるもの』という誤解が生まれた」とか、「すすって食べるのが許されるのは蕎麦やうどんなど和食由来の麺類だけ」といった折衷案も出たりしました。

 ただ全体的な流れとしては、「麺をすするのは日本の文化であり日本人の勝手」「日本の食文化に対して外国人にとやかく言われる筋合いはない」といった意見が強かったようで、現在、麺をすするのはやめましょう、みたいなキャンペーンは行われていないようです。

 私も基本的に同じ意見で、外国人が不快に思うからやめましょうということなら、私が子どものころ「そんなことをするのはエスキモー(現在のイヌイット)と日本人だけだ」と言われて気味悪がられた魚の生食(寿司や刺身)はとうに滅んでいなくてはなりません。デビルフィッシュ(タコ)や猛毒を持つフグが食卓に上る文化も滅亡するべきだったはずです。実際にクジラ肉はその憂き目にあっていますから。

 ヌードル・ハラスメントと言われる日本の“すする”文化についても、「外国人が嫌がるから」だけではやめる理由にはなりません。
 麺どころかスープや味噌汁まで音を立ててすすっていいのは日本の常識で、常識には必ず理由があるからです。やめるにしてもその理由を吟味せずに終わらせてしまうと、あとでとんでもないことになります。


【熱いものを食べる文化】
 ラーメンはすすって食べる方が絶対旨いという話がYouTube にありましたのでリンクをつけておきます。翻訳テロップのない英語の動画ですが5分56秒あたりから日本の歯医者さんが日本語で説明していますから、そこだけを見てもいいでしょう。外国人に麺のすすり方を教える方法なんてのもあって、なかなか面白い動画です。


 麺をすすって食べる第一の理由は、そうすることが一番旨いからなのです。

 しかし私自身が一番感じているのは、すすらなければ格好悪いし、そもそも熱くて食べられんだろう、ということです。

 実際にしばらく“すすらない(音を立てない)麺の食べ方”に挑戦したことがあるので分かるのですが、熱々のラーメンなど、すすらずに次々と口に押し込む姿はどう見ても美しくありませんし、実際にやってみると麺に絡んだスープが熱すぎて食べられないのです。すするときに一緒に空気を取り込むことで、ようやく冷やされてある程度の量を口に入れることができます。

 これはスープや味噌汁でも同じで、私たちは熱いものを口にするとき、自然とすする癖がついているのです。

 日本の食文化は強く中国の影響を受けていますが、それにも関わらず導入しなかったものがいくつかあります。代表的なものは象牙や鉄でできた箸と蓮華です。

 なぜ入らなかったのかというと、日本には豊富な木材があって箸は木でつくる方が楽だったからです。また高価な磁器ではなく、木器を中心に食器が発達しましたから中国・韓国とは別な道を歩み始めます。

 木器は熱い汁を入れても手で持てますから、わざわざ箸を蓮華に持ち替える必要がありません。直接口をつけて飲めばいい。ただし蓮華を介さないので熱い汁をそのまま飲まなくてはいけないことがあり、その場合に自然とすするようになったのです。

 欧米も中韓と似て汁物はスプーンで飲みますが、さらに熱いものが苦手みたいで、そのスープも前もって平皿に入れ、冷ましてからでないと飲めないようです。
 最近の「チコちゃんに叱られる」でやっていたのですが、コーヒーカップの受け皿ももともとはカップのコーヒーを移して冷まして飲むためのものだったと言いますから相当な猫舌です。

 欧米人はそのように育てられてしまったのです。
 料理の本場のイタリアやフランスは気候が温暖でしかも石造りの建物に住んでいますから、冷めた料理も苦にならなかったのでしょう。

 ところが日本人は藁ぶき屋根の家で氷点下の冬を過ごさなくてはなりませんでした。熱い汁を熱いうちに、ふうふう吹きながらズルズルとすすって飲むようにしないと冷えてかなわなかったのです。それが日本のやりかたです。恥ずかしいことではありません。

 とりあえずその方が圧倒的においしく食べられることを知らせながら、麺をすすって食べる文化、外国人にも広めていかなければなりません。

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2019/6/27

「教師が修学旅行で布団を畳ませるほんとうの理由」〜旅館の布団は畳まない方がよいとの話で  教育・学校・教師


 ホテルや旅館に泊まった翌朝布団を畳むのは
 従業員にとってむしろ迷惑な話だという
 それは修学旅行で教師が間違ったマナーを教えたためだというが
 なぜそんなことになってしまったのか
というお話。
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【チェックアウトの時、布団は畳まないで!】
 しばらく前のニュースに「『チェックアウトの時、布団は畳まないで!』旅館の清掃係の呼びかけが話題に。その真意とは?」(2019.06.11 Exciteニュース)
というのがありました。
 これは旅館の清掃係を名乗るTwitterユーザーが
旅館の清掃係からのお願い。
チェックアウト時は「布団は畳まないで、そのまんまで部屋を出て」ください。
丁寧に畳んで下さってる方がいらっしゃいますが、
・「布団に挟まった忘れ物チェック」と
・「結局、畳み直し」
…で、二度手間になります。
部屋はそのまま、出発のほどお願いします。

というツイートをしたところ、同じ宿泊業の関係者から、
「善意なのは分かるけど、畳まれるとめっちゃ困る」「これは切にお願いしたいです」「旅館だけでなく、ホテルも同じ」など、賛同するコメントが多数寄せられた。
というのです。

 さらに一般からも、
「なるほど!知らなかった」「目から鱗でした」「話を聞いて納得しました」など、多くの反響を呼んでいる。
とのことで、Exciteニュースが記事にした段階で、5万2000件ものリツイートがあったそうです。

 記事は最後に、
 相手を思って行っていたことが、実は相手にとって迷惑であったということはよくあること。
(中略)
 今後、旅館やホテルを利用した時には、布団は広げたまま、チェックアウトをしてほしい。
と結んでいます。

 ただこれだけならいいのですが、途中で、
しかし、私たちはなぜ旅館で布団を畳むのだろうか? 多く寄せられた意見が、修学旅行の際、先生に布団を畳むように指導されたという経験だ。「自分で使ったものは自分で片付けましょう」と先生に言われ、キレイに畳まれているかチェックされたという。筆者自身も同じような経験が確かにある。
があり、まるで先生たちが間違ったことを教えたからいかんのだ、みたいになっていてこれはカチンと来ます。
 分かっていない。

 この記事は言わば、
「宿泊業の事情に疎い人のために書いた、学校の事情に疎い人の記事」
なのです。

 確かに「来た時よりも美しく」は旅行行事につきもののスローガンですし、「自分の使ったものは自分で片付けましょう」は旅行に限らず、日ごろから口うるさく言っている指導項目です。
 しかしそれがすべてではありません。


【教師が布団を畳ませたがる真の理由】
 教師が宿泊行事で布団を畳ませたがる最大の理由は、まさにツイッターの清掃係さんと同じ、
「布団に挟まった忘れ物チェック」
なのです。

 教師たちは、朝の集合とあいさつの真っ最中に、生徒が、
「先生! サイフがない!」
とか、
「腕時計がなくなりました」
とか、
「部屋に水筒を忘れてきたみたいです」
とか言い出すのは最低だと思っています。
 そこで費やす5分〜10分の遅れが後々どんな災厄につながるか分からないからです。もちろん10分で見つかる確証があればいいのですが、そんな確実ななくしものなどあるはずがありません。
 また「先生! サイフがない!」の声を聞いてそこからバッグを開いて確認し、「私もない!」と言い出す子が出てくるとさらに多くの子がバッグを広げ始め、図らずも持ち物確認が一回増え、今度はそのこと自体が時間を遅らせます。
 それで例えば新幹線に乗り遅れでもしたら、引率する160人の席はどう確保すればいいのでしょう?

 だから教師は旅館やホテルを出るとき絶対に忘れ物をさせたくない。仮に「先生! サイフがない!」と言い出す子がいたら、
「部屋は空っぽなんだから絶対バッグの中にある。バスに乗ってから荷物を全部開いて、もう一度探し直せ!」
と言えるようにしておかなくてはなりません。
 万が一ということもありますから、部屋に戻ってざっと目で確認するぐらいのことはしなければなりませんが、“ざっと目で確認”できるためには相当きれいに片付けられていなければならない。
 それがあの「畳み直し、やり直し」の意味なのです。

 だからこの件で学校を徹底的に叩くと、教師はいったんきちんと畳んだ布団をもう一度敷き直すしかなくなります。いわば旅館ホテルに押し付けていた二度手間を学校が背負うだけで、その時間はもったいない。生徒の心にも二度手間を強いる教師への不審感が芽生えます。

 しかしこれは修学旅行に限ったことではないでしょう。大人になっても布団を畳みたがる人の中にもきっと「忘れ物チェック」のためにやっている人が多くいるはずです。
 特に家族で行く温泉旅行のようなゆったりとした旅では、部屋に滞在する時間が長い分、何を出してどこに置いたかなどはどうしても忘れがちです。部屋を出る際に布団を全部上げて、シーツをパタパタと払って畳んでしまえば、たいていのものは出てきます。広くがらんとなった部屋では、そのあとで忘れた物も見つけやすい。


【理由はそれだけではない】

 ただし私個人について言えば「忘れ物チェック」よりももっと重要な理由があります。
 それは美学の問題なので他の人と共有できなくても構わないのですが、旅行行事で布団を敷きっぱなしにするとほとんどの布団が子どもたちによって踏みつけにされる、それが私には我慢ならないのです。

「布団は足で踏んではいけません」というのは小さなころから教えられてきた最低の躾で、衛生面からも理由のあることです。それが平気でできるのは、トイレに行った足で踏みつけられたシーツに、深夜知らないうちに唇をつけてしまっている自分が想像できない人で、やはりおかしい。「だから寝る前の布団は踏んではいけないが、朝の布団は踏んでもいい」と考える人は合理主義者ではありますが道徳の何たるか、人間の何たるかを知らない人です。

 一部屋にぎゅうぎゅう詰めに生徒を入れている修学旅行はもちろん、家族旅行だって布団の敷かれた部屋では歩くける部分が極端に少なくなります。従業員のために布団は敷いたままでいちいち避けて歩けばいいのですが、それはあまりにも面倒。
 学校行事となればなおさらで、朝は急がせていますから「布団を踏むな」という指導も徹底できません。
 だから踏むのはしかたないと考えることもできますが、それでも私は嫌なのです。従業員の方に迷惑をかけても、布団は畳んで踏ませないようにしたい。

【さらに別の理由もある】
 新婚とは言えないものの夫婦としての年月が浅いころ、ふたりで泊まったホテルのツインルームで、翌朝、妻がせっせとベッドを直しています。まるで使用前のベッドメイキングみたいな丁寧さなので笑って、
「そこまできれいにする必要はないじゃないか」
というと、妻は困ったような顔をして、
「だってゆうべ何かあったかって、人に想像されるのってイヤじゃない」
と答えます。

 要は私の寝相が悪すぎて妻の寝相が良すぎることに問題があるのですが、わざわざ妻の方のベッドまで荒らすこともないでしょう。両方ともきちんと整えればいいだけです。

 そのときは“おや、おや、この人にはこんな慎ましいところもあったのか”と感心しましたが、引用した記事の趣旨からするとホテルの従業員の煩わしさを考えないワガママ者ということになるでしょう。

 そろそろイライラしてきました。
 私は本来そういう言い方をする人間ではないのですが、ついつい口走りたくなります。
「布団を畳むか畳まないかなんて、どちらでもいいじゃないか。こっちは金を払ってるんだ、好きにさせろよ!」

 失礼しました。
 だめですか?



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2019/6/26

「時代は変わる」〜習得した技術が、無慈悲にムダになる時代  教育・学校・教師


 せっかく手に入れた技能が無駄になることがある
 科学の進歩が特定の個人の努力を無にすることが
 それは仕方のないことだが
 最初から無駄いなるとわかっていることをやらせるのは
 重大なイジメか もしくは犯罪ではないか

というお話。
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【ある放射線技師の述懐】
 昨日の続きめいた話ですが、フジテレビの「ラジエーションハウス〜放射線科の診断レポート〜」の中放射線検査室の技師長・小野寺(遠藤憲一)が昔のレントゲンフィルムを見ながら、
「1枚 現像するのに20分以上かかるからさ、新人のころはよくこの部屋に一日中こもって、現像だけさせられたこともあったよ。俺はここで何十年と、今はもう何の役にも立たない技術 身に付けちまった」
と述懐する場面がありました。

 現在はコンピュータでたちどころに処理できるのでしょう。しかしかつては大判のフィルムに直接焼き付けて、薬品処理によって現像ができるまで長い時間を待たなくてはなりませんでした。現像し終わったところで撮影の良し悪しが判明しますから、失敗すると撮り直しに大変な時間がかかります。ですから小野寺たちは修行に修行を重ねたわけです。
(写真ができるまでに時間がかかる分簡単に撮り直しができず、失敗が許されなかった。今より っと神経をとがらせて、1枚1枚の写真を撮っていたはずです)
 しかし今はそんな技術は必要ない。ダメならその場ですぐに撮り直しをすればいいだけです。

 新しい技術が古い技術を陳腐化してしまうことはよくある話です。ただ、古い機械が新しい機械にとってかわられるだけならいいのですが、小野寺のように苦労して磨いた人間の技が機械によって軽々と超えられてしまうのは、無理ないこととはいえ、一部には釈然としない人も多いでしょう。技能を高めている最中はそれが“繋ぎの技術”だなんて誰も思っていないからです。

 もちろん、だからと言って小野寺の技術が何の役にも立たなかったということではなく、コンピュータが出現するまでに彼らが救った命は数限りなくあったはずです。ですからそれは是非とも必要な技術だったのですが、もし今後これからレントゲンフィルムの技術を会得しようとする人がいたら、そこには特別の理由がなくてはなりません。
 基本的に“今では不要な技術”だからです。


【ガリ版という特殊技能】
 教師の世界にも似たような話があります。有名なところで言えばガリ版刷りです。
(参照:2008/10/2ガリ版の頃

 これはロウをコーティングした紙(原紙と言います)を“ガリ版”と呼ばれる金属のヤスリ板の上に乗せ、“鉄筆”で引っ掻いてロウを削りながら文字を書き、“謄写版”と呼ばれる道具を使って印刷する技術です。

 印刷自体は大したことはないのですが、「ヤスリ板の上で書く文字」というのがヤスリの目に影響を受けて角ばった、独特の風合いになったのです。その文字の美しさが教師の技術――例えば看板屋さんがフリーハンドでいくらでも同じ字体の文字を書き続けられるような、特別な技だったのです。

 私が新人の頃はまだそれをやっていました。ところが習い始めてわずか5年もしないうちに、100年の歴史をもつガリ版技術は廃ってしまうのです。

 代わって出てきたのがステンシル転写。しかしそれを説明するのが面倒なくらいステンシル時代は短く、リソグラフが登場すると校内印刷はとんでもなく簡単なものになってしまいました。ガリ版に頼ることなく、手書きの原稿がそのまま印刷物になったからです。

 さらにコンピュータが導入されると、教師はほぼ手書きの文化を失います。残ったのはせいぜいが黒板にチョークで書くくらいなものです。
 しかし考えてみると手書き文字自体が高度技術で、昔は先生と言えば字がうまいのが当たり前でした。
 それも今はありません。私も字は下手です。
(参照:2011/9/28一字も晒さない) 

【コンピュータプログラミングという40年前の最新技術】
 教師になりたての頃、片方で慣れないガリ版技術のために努力をしながら、他方で夢中になって取り組んでいたのがコンピュータ・プログラミングでした。

 コンピュータは今でこそインターネットだの文書作成だの「何かをさせる道具」ですが、私が触り始めたころは「プログラムミングを楽しむ道具」でしかありませんでした。世の中にソフトだのアプリケーションだのといったものはほとんど売っておらず、コンピュータはテニスゲームや簡単なシューティング・ゲームをつくって遊ぶ、そういうものだったのです。

 ただ幸いなことに当時私が勤めていたのは1学年430名というマンモス校で、成績処理が尋常ではなく、そこに私の出番がありました。
 私はほとんど一年がかりで成績処理のプログラムを完成させ、高校入試に間に合わせました。

 8回の実力テストの成績を入れ、その都度各教科ごと平均点と順位を出し、合計点も計算して順位づけする。さらにテストが終わるたびにそれまでのテストの合計点と平均点を計算して順位をつけ、志望校ごとにまとめてまた順位づけをする。最後にプリントアウトする――。
 テストのたびに広い特別教室の机の上に、430枚のカードを並べては順番を揃え、いちいち順位を書き込んでいた時代とは大違いです。私一人が家で点数を打ち込んで一覧表をつくってくればいいだけですから、15人もいた学年職員の労力は格段に減りました。
 それを達成するためのプログラムは大変な量で、用紙に打ち出すと厚さ5センチにもなろうという代物です。半分は遊びでしたが、我ながらよくやったものです。

 ただしそのプログラムを、私は二度と使いませんでした。なぜかというと次に中学3年生の担任になった時、すでに「桐」というとても優秀なデーダーベースが発売されていて私の8ビットパソコンでBASICプログラムが半日かかってやる仕事を、瞬時にして行ってしまったからです。さらに数年後、今度はエクセルという安価なソフトが同じ仕事をこなすようになります。


【時代は変わる】
 こうして私のプログラミング技術は無用のものとなりました。もちろん遊び半分でやっていたことなので十分楽しめてそれはそれでよかったのですが、こんなことは義務として他人にやらせるわけにはいきません。
 基本的には遊んでお仕舞、何の役にも立たないものです。

 私が小学校のプログラミング教育にしつこく反対するのはそのためです。
 プログラミングなんて普通の人間には何の役にも立ちません。プログラミング思考ガ必要などといった話もありますが、あんなもの合理性の固まりで情感のかけらもない。同じ時間を読書に費やした方がよほど素晴らしい人間を育てられます。

 プログラミング技術は必要な人が必要な時期に身につければいいのであって、普通の小学生がやればほとんどの子は「ただ遊んだだけ」で終わってしまいます。面白い世界ですから子どもたちも目を輝かせて取り組むかもしれませんが、一部の子を除けば、お遊びで終わるはずのものです。
 貴重な学校の時間を、テレビゲームで遊んでお仕舞にしてはいけません。
 「ラジエーション〜」の技師長や私のように、新しい技術によって自分の高めた技能が無意味になるのはしかたない、しかし最初から無駄になるとわかっていながらやらせるのは、詐欺以上の犯罪です。
 ぜひともやめてもらいたい。そうでなければ現場で骨抜きにするしかない、そういう代物です。


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2019/6/25

「『腐女子、うっかりゲイに告る』が残したもの」〜ネタバレだらけ  人生


 4月スタートのドラマが ここにきて続々と最終回を迎えた
 今回は特に心打たれる物語があり
 私は人生をもう一度考え直した

というお話。
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【4月スタートのドラマが終わる】
 4月スタートの連続ドラマのいくつかが最終回を迎えました。
 私は特にこの二か月間、さまざまに忙しかったためにテレビもきちんと見られなかったのですが、NHKのドラマ10『ミストレス〜女たちの秘密〜』と夜ドラ「腐女子、うっかりゲイに告る」、そしてフジテレビの「ラジエーションハウス〜放射線科の診断レポート〜」の三つだけはしっかり見ようと、VTRまで撮って最後まで見続けることができました。

 「ミストレス〜」はイギリスでつくられ、その後アメリカ・ロシア・スロバキア・韓国でリメイクされたという鳴り物入りのドラマで、「ラジエーションハウス」は放射線技師が主人公という医療物としては今までない視点からのドラマ、そして「腐女子〜」は主演の藤野涼子さんが女優としてかなり期待している人なのでと、それぞれ違った理由からの選択です。

 終わってみるとどれもなかなか良かったのですが、「ミストレス」は最後があっけなさ過ぎて、「ラジエーションハウス」は細部で脚本に納得できない部分があり、結局、中で一番良かったのは「腐女子、うっかりゲイに告る」だったかな、と感じています。


【腐女子、うっかりゲイに告る】
 これは浅原ナオトという人の『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を原作とした物語で、ゲイをひた隠しに生きる18歳の高校生安藤純(金子大地)と同級生で腐女子(ボーイズラブ《BL》と呼ばれる男性同士の恋愛を扱った小説やマンガを好む女性)の三浦紗枝(藤野涼子)を中心に、ある時はコメディ風に、ある時はシリアスに、高校生の性と恋愛と同性愛者の世界を描いた青春ドラマです。

 タイトルの通り、腐女子の紗枝は純が同性愛者だとは知らずに恋をして、“うっかり”告白してしまいます。本来なら断るべきなのに、純は「自分はいつでも普通になれる、みんなと同じように生きることができると自分に証明したい」という欲望に駆られてこれを受け入れてしまうのです。

 しかし純が同性愛者であることは紗枝の知るところとなり、さらにひょんなことから全校に知れ渡って、純は校内で孤立することになります。

 6月1日の第7回の放送は、終業式の表彰の場を借りて、紗枝が純の苦悩を全校に知らせる場面が中心となりました。そこで紗枝はこんなことを語るのです。


【壁の向こう側で】
 彼はいつも自分の目の前に透明な壁をつくっています。壁の向こう側から私たちのことを見ている。
 でもそれは自分を守っているんじゃなくて、私たちを守っているのです。

“ぼくがここから出たら、君たちはきっと困ってしまう。(物理の授業で)摩擦をゼロにするように、空気抵抗を無視するように、ぼくをなかったことにしないと、世界を簡単にして解いている問題を解けなくなってしまう。だからぼくはこっち側でおとなしくしているよ”
 そう言ってるんです。

 彼は自分が嫌いで、私たちが好きなんです。
 でも私は、彼のことが本当に好きです。

 “ああ、その通りだ”と私は思います。
 それは私の良く知っている世界でしたが、言葉にされて初めて、しっかりと摑まえることのできたことです。

 人が障害や問題を隠そうとするのは、もちろん幼いころは恥ずかしいということもあるかもしれませんが、ある程度の年齢になると違う。その秘密が暴露されると相手の心が乱れてしまい、どう対応したらよいのか困ってしまう。それが誠実な人間であればあるほど悩みは深くなる、それを避けたいのだ。大切な人たちをそっとしておきたいのだ、だから壁のこちら側にいる。孤独でいる。

 私はそういう生き方があることを知っていましたし、ある時期までは私自身がそうでしたからよくわかるのです。しかし紗枝の言葉を聞いて初めて、その「分かること」は、意識の中にしっかり定着します。

 だからそうした人間のそばには誰かがいてやらなければならない。無理に壁から引き出すことはないが、彼の孤独に寄り添って、いつでも声をかけてやれるようにしなければならない――それが今の私に言えることです。
 私はそういう人間になりたい。


【もう一つの大切なこと】
 第7回の「腐女子〜」にはもうひとつ重要なセリフがありました。
 それは言うべきことをすべて語った紗枝が、ステージ上で涙を流しながら立ち尽くしている姿を見て、純が心の中で叫ぶ言葉です。

 世界を簡単にする。
 たったひとつ、大事なことを残す。
 大好きな女の子が泣いているのだ。


 そうして純はステージに向かって走り出します。

 そうです。世の中は複雑で人の心は判断が難しい。しかしそれを簡単に解く方法がある。それは純が言う通り、「最も大事なことを残し、あとを捨てること」です。

 私の残りの人生は、自分自身がそれを生かすほどは長くはありませんが、人に伝えるには十分だと思います。
 世の中には自分で壁をつくって、みんなのためにひとり孤独に沈んでいくような人がいる、だから誰かが彼の傍らにいなくてはならない。
 世界は複雑かもしれないが、それを解くカギはある。それは大切なものを残し、あとは捨てることだ。

 その二つを。





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2019/6/24

「今日はドレミの誕生日」〜ドラミちゃんの話じゃないよ  芸術


 今日は音階「ドレミ」の誕生日
 そこでドレミのウンチクと
 その周辺について語ろう

というお話。
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(ローレンス・アルマ=タデマ 「サッポーとアルカイオス」)

【ドレミの誕生日】
 今日、6月23日は「ドレミの誕生日」だそうです。
「今日は何の日?? カレンダー」によると、
 イタリアの僧侶ギドーがドレミの音階を定める(1024)
とあります。
 
 ドレミについては30年近く前に「どういう意味か」と生徒に聞かれ、それなりに一生懸命調べたのですが手がかりさえ見つかりませんでした。
 書店に行っても図書館を訪ねても、音楽のコーナーは極端に狭く、「ドレミの意味は?」みたいな基本的なのに特殊な質問に、答えてくれる書物に出会えなかったのです。音楽の先生に訊いても、
「そんなの・・・意味あるの?」

 しかしネット時代はあっという間です。「ドレミの意味」で検索すると即座にとんでもない量のページがヒットします。
 私がネットで初めて「ドレミの意味」を調べたのはだいぶ前のことですが、昨年4月にNHKの「チコちゃんに叱られる」で扱われてからはかなり数のページが追加されたみたいで、さらに検索しやすくなっています。
 それらによると、


【ドレミの成り立ち】
 11世紀にいたるまで、西洋音楽は主として耳で覚え、次から次へと伝承するものであって楽譜に書かれることはなかったようです。長年、不便を感じる人も多かったのですが、誰も解決策を見つけることができませんでした。
 ところが1024年、イタリア人の僧侶グイード(ギドー)・ダレッツィオは200年以上歌い継がれてきた「聖ヨハネ賛歌」の中に、素晴らしい秘密を発見するのです。

 それは曲の各小節の最初の音が、今で言う「ドレミファソラ」に一致して一段ずつ高くなっているという事実です。
 その「聖ヨハネ賛歌」の歌詞は以下の通り(別に読めなくてけっこうです)。

Ut queant laxis 
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve polluti
Labii reatum
Sancte Johannes

 そこでグイードはそれぞれの小節の最初の音「Ut」「Re」「Mi」「Fa」「So」「La」で音階を表す方法にたどり着くのです。6音しかありませんが、当時は基本的に6音階の中で曲がまとめられていたので7番目の「シ」は必要なかったのです。実際「聖ヨハネ賛歌」の7行目「Sancte Johannes」は「シ」ではなく「ファ」の位置から始まっています。

 「シ」は16世紀になって音楽の幅が広がってから必要に迫られて作成されました。その際「聖ヨハネ賛歌」の7行目の「Sancte Johannes(サンクト・ヨハネ)」の頭文字「Sj」の異体字「Si」をあてて「シ」と発音させるようにしたと言います。
 またイタリア人には発音しにくい「Ut」に替えて、「主」を表す「Dominus」の最初の音「Do」をあてるようにしたともいいます。


【音名ハニホとツェー・デー・エー】
 私たちはまた、階名の「ドレミ」以外に、「ハニホヘトイロ」で表す“音名”についても勉強させられました。「ハ長調」とか「ト短調」とかいうアレです。
 「イロハ」が使われているところから明らかなように日本独自の表現ですが、では諸外国はどうしているのかというとアルファベットで表しているのです。

 高校生のころ、女子にモテたい軽薄な男の子たち(もちろん私を含む)はみんなギターに手を出し、「C(シー)で始めようか?」とか「E(イー)マイナーの曲っていいよね」とか言っていましたが、クラシックの素養があってバイオリンの弾ける子などは「ツェー」だとか「ハー」だとか訳の分からない音名を使って私たちを混乱させていました。しかしこれは彼らの方が正しい。

 日本の「ハニホヘトイロ」にあたる「CDEFGAB」は「ドイツ音名」と呼ばれるようにドイツが発祥の地で、したがってドイツ語で読まれるのが正しく、(たぶん)そちらの方がカッコウ良かった。ドイツ語では「C(ツェー)」「D(デー)」「E(エー)」「F(エフ)」「G(ゲー)」「A(アー)」「H(ハー)」となります。
 そういえば有名なバッハの「G線上のアリア」は「ゲーせんじょうのアリア」と発音するのが正しいようで、NHK・FMなどでそう発音しているのを聞いたことがあります。

 だからこう私たちはこう言うべきでした。
「C(ツェー)で始めようか?」「E(エー)モルの曲っていいよね」
 たぶん知っていてもやらなかったと思いますが。


【ドの音はどの音?】
 そうなると次に出てくる疑問は「なんで階名と音名のふたつが必要なの?」ということになりますが、これは「階名は可変」「音名は不変」で説明します。

 例えば、
「C(日本音名では『ハ』)の音を出してください」
と言われれば世界中の音楽家が一斉に「ハ長調のド」にあたる音を鳴らします(不変)。
 しかし「ドの音を出してください」と言われたら、それぞれが好き勝手な「ド」を出してくるかもしれません。

 たった今「ハ長調のド」と言ったように、「ト短調のド」とか「ヘ長調のド」とかは全部音が違うのです(可変)。つまり「ドの音を出してください」と言われると音楽家は「どの音?」と迷うことになるのです。

 もともとが歌詞の最初の音ですので「ドレミファ」階名は口で歌うのに便利、しかし音名の普遍性も捨てがたい――そこで両方が同時に使われるようになった、ということなのかもしれません。


【さらに深まる謎】
 ここまでくると次に出てくるのは当然、
「子どものころ『シャープもフラットもつかないのはハ長調とイ短調』って教えられてこれが基本だと思うんだけど、どうして基本のハ長調やニ短調の『ドレミ』は『ハ(C)』から始まるの? 『イ(A)』から始まらないのはなぜ?」
という疑問ですが、これについてはさらに話が複雑になるので機会があれば改めて考えたいと思います。

 

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2019/6/21

「能動的で主体的なもう一つの文明」〜家事の時短・省エネは難しくないけれど――  政治・社会


 家事の時短・省エネという面で 日本は20年遅れてしまったらしい
 しかしだからと言って この国がダメな国だとは限らない
 何が正しいのか しっかり考え直そう

というお話。
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(ジョージ・ベローズ「ニューヨーク」)

【ココロがラクになる家事のコツ】
 ある住宅メーカーから送られてきた冊子に、「ココロがラクになる家事のコツ〜世界を見渡して気づく できること・しなくていいこと」という特集があり、一種の比較文化論みたいな感じの対談が載せられていたので、思わず手に取りました。海外生活の経験のある主婦たちの対談集です。
 
 私は元社会科教師ですが、地理はもちろん歴史を教えていても、本当に難しいのは各国の庶民がどのような生活をし、どのようなものの考え方をするのかといった基本的な部分について知ることです。
 簡単な言い方をすれば、砂漠の遊牧民やシベリアの民族はどのようなトイレ事情をもっているのかといったことです。
 砂漠なんてどこでやってもよさそうなものですが、やはり女性はそういう訳にはいかないでしょう。あんな広い場所では男性だって不安です。すると「やはり周囲を囲うだけにしても、なんらかのトイレめいたものは必要なのではないか」と思えてきたりします。

 逆にシベリアの民は、厳寒期にどうやって用を足すのか――顔や手はある程度寒さに耐えられるようになっていても、年じゅうズボンとパンツに守られているお尻なんてマイナス60度寒気にさらされたら一瞬で重大な凍傷になってしまいそうです。もちろん今ならそれなりの暖房機付きトイレということになりますが、100年前はどうだったのか? その瞬間だけのために火を焚き続けるのは不経済だし、そうかといって用を足したくなってから火をつけに行くようでは間に合いません。余計な心配と言えばそれまでですが・・・。

 中国人は家の中で靴を履いたまま生活しているのか、脱ぐのか。寝室はどうなっているのか。韓国・北朝鮮と満州近辺の人々の生活習慣の決定的な違いは何か。
 スイスのように公用語が4つもある国のテレビ番組はどうなっているのか、役所の書類はどうなっているのか、そもそも職員はそれぞれ何か国語を喋れるのか――そういう疑問はいくらでも湧いてきますし、意外と調べにくいものでもあります。

「ココロがラクになる家事のコツ〜世界を見渡して気づく〜」のような特集は、そうした疑問に応えるもので、私にとってはとてもありがたいものなのです。
 さらに主題が「家事」となると、最近専業主夫としての誇りや喜びに目覚めた私としては、ぜひとも参考にしたい。しかし――。


【日本は家事の時短・省エネ大国から20年は遅れている】
 特集の対談部分を読み始めると、あまりの意外性に「目からウロコ」どころか「目」そのものが落ちてしまいそうです。

「欧米の住宅では、間接照明が主流で部屋の中は薄暗いのが普通。汚れが目立たないので、私もイギリスでは、あまり神経質に掃除をしていなかったですね」(イギリス)

「ゴミの分別は日本の方が負担が大きいですよね。アメリカは燃えるゴミも燃えないゴミも全部一緒。」(アメリカ)

「料理をしない人は本当に多かったですよ。キッチンを使わないからピカピカだし、レンジフードは飾りだというジョークがあるくらい(笑)。子どものお弁当も、サンドイッチにポテトチップスとソーダとかが普通で、あまり手をかけない」(アメリカ)

「うちの子は現地の保育園に通っていたのですが、最初、パンの耳を切って、ツナとハムと卵と……というサンドイッチを作って持たせたら、『え−、こんなの作れるの!』と周りのママに驚かれました (笑)。他の子たちは何も塗らないパンにハム1枚をはさんだだけのものとりんご1個、とかで。それでも子どもって育つんだなって(笑)」(イギリス)

「滞在中は週に1回程度、クリーニングレディと呼ばれる方に来てもらって、掃除や洗濯をお願いしている家庭は多かったと思います。私も苦手なアイロンがけだけは、クリーニングレディに依頼していました」(イギリス)

「シンガポールも自分の時間を大切にする文化です。現地の人たちはメイドさんに子どもを預けて、夜に夫婦でデートに出掛けたりということをごく普通にしています」(シンガポール)

「中国ではお手伝いさんのことをアーイさんと呼ぶのですが、家事全般、アーイさんにお願いするのは割と普通のこと。(中略)現地ではみんながやっていることなので、気にせずに頼めるんです」(中国)

「イギリスでは、家事に時間をかけるよりも、ゆっくり本を読むとか、散歩をするとか、自分の時間を豊かに過ごすことの方が重要視されているように思います」(イギリス)

 冊子は続けてドイツ人の母親と日本人の父親の間で育てられた門倉多仁亜さんという方の話に移り、「タニア流:無理しない家事」というタイトルで日独文化論を展開します。

 ドイツ人は毎週、毎日のプランを立て、規則正しく生活することを大切にします。月曜日は洗濯、火曜日はアイロン、水曜日は掃除機……と曜日ごとにやる家事を決めている人が多いですね。

 またドイツ人はよく「きれい好き」とか「整理整頓が得意」といわれますが、これは家に物が少ないことも関係していると思います。

 ドイツの夕食は、「カルテスエッセン」といって、パンにハムやチーズなど火を使わない簡単な食事が定番。ある日本人女性が新婚当初、小皿料理を何品も作って食卓に並べました。すると「食べ物で遊ぶな」と夫に怒られたのだそうです。特別な日以外の普段の食事はシンプルに、というのが一般的なドイツ人の考え方なのです。


 つまり「ココロをラクにする家事のコツ」(なぜカタカナばかりなのだろう?)というのは、「手を抜け」「場合によってはやめてしまえ」「金を使って人にやってもらおう」ということなのです。
 しかもそれは単なる理念的な話でなく、“先進国”ではすでに常識的として具体的に実践されている。この分野で日本はおそらく20年以上遅れてしまっている、そういう話なのです。


【家事の時短・省エネは難しいことではないが――】
 たしかに燃えるゴミも燃えないゴミも全部一緒にしてしまえば分別の手間は省けますし、全部燃やしてしまえば「プラスチックゴミの輸出量世界第2位」といった汚名も一瞬にして消し去ることができます。

 子たちは何も塗らないパンにハム1枚をはさんだだけのものとりんご1個で、たぶん、育ちます(アメリカに実例があるから)。

 家事の一部をプロフェッショナルに任せるのはいいかもしれません。しかし思い出してください。イギリスのクリーニングレディはほとんどがイギリス人の大嫌いな(EUを離脱してまでも排除しようとしている)あの「移民」ですし、中国のアーイさんは社会主義国に存在するはずのない「貧しい農村からの出稼ぎ」です。

 いくら週に1回程度、クリーニングレディと呼ばれる方に来てもらって、掃除や洗濯をお願いしている家庭は多かったとか、家事全般、アーイさんにお願いするのは割と普通のこととは言っても、クリーニングレディは自分の家の家事のために別のクリーニングレディを雇うことはないし、アーイさんはアーイさんを雇わないでしょう。

 つまりこうした家事代行業を成り立たせるためには、国内に常に一定の貧しい層を残しておかなければならないということです。
 現在の日本で週一のクリーニングレディを常時雇える家庭は、1%もないでしょう。対談者たちが海外ではできた家事委託を日本国内で出来ないのは、それだけ安い金額で家事全般を引き受けてくれる人がいないからです。
 この点でも大転換して、貧富の二極化をきちんと進めて、一回2000円くらいで月4回の家事を請け負ってくれえるプロフェッショナルな貧民層を生み出さないと、時短・省エネ先進国に追いついていけそうにありません。
 日本を、そうした国にしたいですか?


【能動的で主体的なもう一つの文明】
 ところで、ゆっくり本を読むとか、散歩をするとか、自分の時間を豊かに過ごすことは家事よりも価値が高いことでしょうか? 自分の時間を大切にする文化は家事に時間をかける文化よりの立派なのでしょうか?

 最近専業主夫となった自分が実際にやってみて初めて分かるのは、家事も他の労働同様に熟練と創造性と独創性に満ちた、とても面白く素晴らしい仕事だということです。
 近藤麻理恵の「人生がときめく片づけの魔法」ではありませんが、工夫すればいくらでも面白く簡単にすることができます。やるべきことは家事の質を落とさずにより簡便にしていくことで、そのための準備に十分に時間とエネルギーをかけることです。

 確かに、調理をせず、掃除をせず、面倒なことはクリーニングレディ、アーイと呼ばれる移民や地方出身者に任せれば家事ストレスはなくなるかもしれません。しかし毎朝シリアルかジャンクフードで朝食を済ませ、子どもにはハム一枚のサンドイッチを持たせ、間接照明でゴミを見ないようにして何もかも燃やしてしまう――それでも人間は心豊かに生きられるのか、そうやって「自分の時間」生み出すことに、どういう意味があるのか? 私は疑問に思います。
(そもそも外国の皆さまは、その大事な大事な「自分の時間」に何をしているのだろう?)

 文明は、一方で「自分がしてきたことを他人や制度や機械にしてもらうこと」を言います。したがって文明人は一様に依存的でしばしばガキです。
 しかし他方で、日々栄養バランスが良く見栄えも良い食事をつくり、障子の桟にもホコリのないほど室内を整え、クリーニングに出されたのと同じレベルの洗濯物をそろえることは、能動的で主体的で、それ自体が単純な機械文明とは別の、価値ある文明だと思うのですがいかがでしょう。



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