2019/5/31

「これ以上の安全対策は、子どもを守ることにならない」〜川崎無差別殺傷事件から何を学ぶか 1  政治・社会


 世間の耳目を集める大きな事件が起こると
 議論は急速に高まって あらぬところに私たちを連れて行ってしまう
 しかし学校の安全対策に これ以上の力を使ってはならない
 人的手当のない対策の上乗せは
 学校や子どもを疲弊させるだけ で長続きもしない
 そんなことよりも もっと重要な問題がある

というお話
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(ヒューゴ・シンベリ 「傷ついた天使」)

【渦巻状に盛り上がる論議】
 今日で事件から4日目です。

 起こったのが朝の時間帯だったため、28日のワイドショウは現場に記者を走らせ、目撃者にや警察に取材して、何があったのか具体像を示すのに精いっぱいでした。それが第一日目です。

 二日目は「登下校時の児童生徒をどう守るか」という話題が中心となりました。しかし被害に遭ったカリタス学園の安全対策がほぼ完ぺきで、これ以上の打つ手はないというところから始まる話し合いは混迷を深めます。

 “諸外国では・・・”ということで紹介されたイギリスでは、児童生徒の登下校は親が責任をもって行うことになっていて、15歳未満の子どもをひとりで留守番させるだけで法律違反になるとかで、話は一気に盛り上がり、
「なぜ、イギリスはこんなに厳しいのか。それは子どもの犠牲になる犯罪が何度も起きているからだ」
「では、なぜ日本にはそうした厳しい法律がなかったのか」
「そうです。日本ではそうした事件がこれまでなかった、だから緩かった」
「しかし今回、実際にこのような事件(川崎無差別殺傷事件)が起こってしまった。ということは、見本ができてしまったわけだからこれからもどんどん起こるようになる」
「すると日本もイギリス並みの厳しい法律で立ち向かわないと子どもを守れなくなる」

と、どんどん飛躍していきます。

 材料が出そろわないのに話を始めるので同じところをグルグル回るしかなく、回っているうちにらせん状に高まってこうなるのです。
「今回、実際にこのような事件が起こってしまった」
 だからといって
「これからもどんどん起こるようになる」
とは言えません。


【同じ犯罪は簡単には起こらない。起こるにしても稀】
 有名な大阪教育大付属池田小学校の事件が起きたのは2001年のことです。以来18年間、確信的な犯罪者が学校に侵入して児童生徒を次々と殺傷するというような事件は一度も起こっていません。

 相模原の障害者施設で19人が殺され、26人が重軽傷を負った事件から3年が経ちます。あのときも「深刻な障害者差別が同様の事件を次々と引き起こすはずだ」という予言が専門家の口から語られ、全国の障害者とその家族を言い知れぬ不安に陥れましたが、幸いそのようにはなりませんでした。
 ならないのが当たり前です。日本は戦争の当事国でも犯罪者の支配する国でもないからです。

 しかし池田小事件以来、大量殺人をもくろむ侵入者を想定した避難訓練は、毎年、日本全国の学校で行われ、侵入者に扮した警察官と教員が、模擬刀やサスマタを振り回して格闘するという場面が繰り替えされています。
 一方で増え過ぎたカリキュラムのために授業時間の確保が問題となり、他方であまりの迫真の演技に小学校1年生あたりがトラウマに罹ったといった話が出てもです。

 2004年の奈良小1誘拐殺人事件以来、全国の学校では地域に見守り隊を組織し、集団登下校で子どもを守る仕組みが整えられたりしました。
 以来15年、年間200日もの間、全国の学校では上級生が下級生を率いて登校(時には下校も)する集団登校の姿が見られるようになっています。

 しかし今どきの子どもは相手が上級生だからといって簡単に言うことを聞いたりはしません。登校グループの内部では年がら年じゅう問題が起こって、やれ置いて行かれたのいじめがあったのと、「これでは集団不登校になりそうだ」といった笑い話もささやかれるほどです。
 そしてこんどはその登校グループが、誘拐犯ではなく、自動車にまるごと天国へ連れて行かれる恐怖と戦わねばならないのです。


【川崎の事件にもかかわらず、登下校の安全対策を拡充してはいけないわけ】
 28日の事件をもとに、「すべての保護者が責任をもって子どもを学校に連れてくる」そんな制度がつくられる可能性はありません。有権者の総スカンを食らうような政策を、政治家が打つはずがないのです。
 その代わり、「各自治体・各学校は責任をもって児童・生徒の登下校時の安全確保に努めるように」といった指示が出され、実際に何をやったのかという報告が求められるはずです。

 指示されたところで地方に人を雇う金なんかありませんから、結局ボランティアが募集され、タダで使える教員とともに何らかの活動を、形だけでも始めるしかないでしょう。また教員の時間が奪われます。

 やめてもらいたい。
 
 今回の事件は38万㎢という広い国土と1億2600万人にも及ぶ巨大な人口を有する日本の、ごく一部で起こった特殊な事件です。レアケースであってコモンではない。
 そんな事件を勢いだけで、必要もなく普遍化してはいけません。普遍化したうえで対応を急げば、禍根を残します。
 正しいと思われること、子どもにとって良いと思われることは、一度実施されると延々と辞められないからです。どんなに形骸化しても形だけは残る。
 そして人的・時間的に余裕を失っている学校は、直接、いま困らないことは片っ端、形骸化させてしまうからです。

 本質的な改革は、児童生徒が襲われ殺されるような事件が毎年何件も起こるアメリカのような国になって初めて考えればいいこと。現在はせいぜいのところ、「スクールバス利用者の安全確保に関するマニュアル策定」くらいに収めておけばいいのです。そうしておかないと、大変なことになります。


【事件は特殊だが、容疑者は一般的】
 事件から三日目の昨日は、前夜、市の担当者から、
「自殺した51歳の容疑者が引きこもり傾向にあり、家族から相談を受けていた」
という情報提供があり、そのためワイドショウはこの話題で一色になりました。

 登下校の安全対策と違って、こちらは放置できません。
 事件は特殊ですが、中高年の引きこもりが保護者を失って、何のスキルも財産もないまま社会に放り出されるという事象は、これから続々と増えていく一般的な話だからです。

                                (この稿、続く)


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2019/5/30

「常に、全力で、家族のために、やりきる」〜子どもが死ぬことをどう乗り越えるか 2  親子・家族


 私に子どもを亡くした経験はない
 しかし家族を亡くすかもしれないという想いはいつもあった
 そして私の場合
 子どもが死ぬことを乗り越える方法はひとつしかないと思っていた

というお話
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(アルベルト・エデルフェルト 「子供の葬式」)


 私に、子どもを亡くした経験があるわけではありません。
 ですからこれからお話することは、今まさにお子さんを亡くして苦しんでおられる方の参考となるようなものではなく、以前お子さんを亡くした方から「そんな生易しいものではない」と言われれば黙って引き下がるしかない、その程度のものです。

 ただし子育てをしてる間じゅう、私はその手から子どもたちが零れ落ちる可能性を考えなかったことはなく、もしそうなったらこうしようと思うところはたくさんあったのです。

 実際にそうなったら考えていた通りにはいかない、それもその通りでしょうが、私は考えていたのです


【受け入れがたい子どもの死をどう受け入れるか】
 一つの方法は、事後、その子の死に意味を与えることです。

 その子が事故に遭った場所にガードレールを設置させるとか、見守り隊を組織するとか、必要な法整備を促すとか、社会全体の意識改革を迫るとかいったことです。
 時に裁判を通して責任の所在を明らかにしようとする人がいますが、それも必要なことです。

 その子の生きた姿を書籍などに著すことによって、何人もの人々に生きる勇気を与えられるとしたら、それも“意味ある死”の名にふさわしいものと言えます。
 たったひとりでも友だちの心の中に姿を残し「あの子の分まで生きよう」という気持ちにさせられるなら、それも生きた証になるでしょう。

 臓器提供は、最も具体的で確実な方法のひとつです。
 誰かの体の中に部分的にも我が子を生かすこと、それによって他人を生かすこと、一つの命の犠牲の上にいくつもの命が助かること。
 我が子の身体が切り刻まれると考えると難しくもなりますが、死んだ命を生き返らせるには、今のところ他に方法はありません。

 そんな考えていくと、亡くなった子どもの死に意味を付与する方法はいくらでも浮かんできそうな気がします。

 しかし私はそうした道を選ばなかったような気がします。一つのお手本があるからです。


【福知山線打線事故の、忘れられない人】
 2005年の福知山線脱線事故のときのことです。

 乗客運転士合わせて107名が死亡(負傷者は562名)という大きな事故で、そのために家族を探して複数の遺体安置所を回る遺族が続出しました。
 あるテレビクルーが取材した男性は、娘さんが事故車両に乗っていたことがほぼ確実であること、病院の搬入者リストに名前がなかったことなどを話し、一か所目の安置所でも見つからず次の場所へ移動する途中だと語ります。
 そのクルーがいくつかの取材を終えて次の安置所に向かうと、そこに現れたのはしばらく前に取材したあの男性だったのです。
 マイクを向けられてその人は言います。

「はい、おかげさまで見つかりました。ここにいました。安らかな顔でした」
それから一息つき、
「これが娘の人生です。あの子はひとつ早い電車に乗っていればその電車が、ひとつ遅い列車に乗っていればそれが脱線転覆して同じように命を失っていたに違いないのです。それがあの子の人生です。ありがとうございました。本当にありがとうございました」
 そう言うと明るいと言っていいほどの爽やかな表情で、暗い坂道を下って行ったのです。

 いざというときは私もかくありたいなと思わせる後ろ姿でした。


【悔いの残らない子どもとの人生】
 普通、葬儀の場で交わされる挨拶の基本は、
「お悔やみ申し上げます」
です。
 急な葬儀ではもちろん、長年病んだうえでの天寿を全うしたような人の葬儀であっても、遺族は多くの後悔を残しているものです。
 ああしておけばよかった、こんなふうにすればよかった、あんなふうに言わなければよかった・・・そしてこんな後悔をしないで済むようにしておけばよかったと後悔に後悔を重ね、悔いの言葉を口にします。

「お悔やみ申し上げます」
は本来、
「私も遺族の方々と同じようにたくさんの悔いを残しています。後悔に苛まれています。ですから詮無いことですが、一緒に後悔を口にしあいましょう」
と言う意味です。
 ところが先ほどの娘さんを亡くされた男性には、そうした悔いの雰囲気がまるで感じられないのです。
 やり尽くした、ここで終わることも受け入れていこう、そんな感じが漂って来ます。私がかくありたいと思ったのはそういう部分です。

 一期一会。これが最初で最後だと思って人との関係を取り結びなさい。それは自分の家族に対しても同じです。

 子どもが死ぬことをどう乗り越えるか。
 
 一般的なレベルでは哲学的な命題ですから答えはなかなか見つかりそうでにありませんが、個人的な段階では、それが私の答えです。

 自分の子、自分の教え子が亡くなることをことを乗り越える力は、いつ関係が断ち切られても、
「自分がこの子に対してできることは、その都度やり尽くしてきた。いつ終わってもそれが最後と思い定めて引き受けることができる」
という覚悟と自信だけではないかと思うのです。



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2019/5/29

「なんという不条理な死」〜子どもが死ぬことをどう乗り越えるか 1  政治・社会


 私は宗教に心を寄せるが しかし信じない
 それは多くの宗教が
 正義の実現を来世、またはいつか分からない未来に置くからだ
 私は待てない
 特に子どもの死を 神が放置するとしたら
 そんな神様は 私はいらない

というお話
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(ピーテル・パウル・ルーベンス 「ソロモンの審判」)

【来世の約束はいらない】
 ほぼ定期的にあっている女性がいます。今の家に引っ越したころ以来ですから、もうかれこれ四半世紀になろうかという長い期間です。
 2〜3カ月に一遍、あるいは半年に一遍、また時には1年近く間を置いて突然訪ねてくる、あるキリスト教系宗教の勧誘者です。私より少し年長といった年ごろでしょうか、先日訊いたらこうした訪問はもう40年以上も続けているという話ですから大したものです。

 私は宗教を持たない人間ですが、宗教を信じる人はとても尊敬しています。教え子でも、教義が日本の学校制度と会わず時々面倒くさいことになりがちな子がいたりしますが、面倒は面倒でも、その立ち振る舞いや生き方は美しく、「やはり人間は宗教を持たなくてはダメなのではないか」と思わされること再三です。

 けれど私が特定の宗教の信者となることはありません。特にキリスト教系の宗教は前述の女性が25年に渡って熱心に掻き口説いてくれても、受け入れることはできないのです。

 それはキリスト教の人々が、多かれ少なかれハルマゲドンと千年王国を考えているからです。

 地球上で善と悪の緊張が極限まで高まると、ハルマゲドンと呼ばれる最終戦争が起こり、やがて神が勝利するとそこに千年王国が出現する。そのときかつて神の側に立って戦い、正義のために殺された人々も復活し、神とともに生き、地上の楽園を楽しむ――そんな意味合いの思想です。

 他の宗教・宗派で言う「天国」とか「極楽」といった概念も気に入りません。
 正しい行いをした人たちは、仮に地上で不遇であっても、来世は保証されている。必ず幸せな世界に生まれ変わる。逆にこの世にあだなした人々は、現世でいかほどに恵まれているように見えても、来世では必ず報いを受ける。

 しかし私には、来世などどうでもいいのです。
 現世において因果応報のなされることが大切で、それを保証しない宗教にはまるで興味が湧かないのです。


【子どもの死を、神はどう説明してくれるのか】
 いや、そうではない、神の見えざる手はすでに日々、因果応報を果たしている。
 それでも正しく生きる者が幸せになれないと思うのは、その人が自分の罪に気づいていないからで、自分の気づかない罪を知れば、現在の不遇も理解できるはずだ――そういう人もいます。

 いいでしょう、その説を飲みましょう。
 しかしその上で重ねて聞くのですが、戦争のさなか、敵軍に襲われた街で残酷な殺され方をした赤ん坊には、どんな罪があったというのでしょう? 19世紀のロシアでは母親の腕から奪い取られた赤ん坊が、空中に高く投げ上げられて銃剣で受けられるということがありました。そんなことが日常茶飯に行われたわけですが、その赤ん坊に何の罪があったのか、その子の死にどういう意味があるのか、その苦しみはどうやって贖われるのか。
 それに答えられない宗教には意味がない――。

 私のオリジナルではありません。小説「カラマーゾフの兄弟」で主人公の一人、イヴァン・カラマーゾフがそう言っているのです。
 子どもが無残に殺されていくのを見過ごすようなら、そんな神はいらないと。


【自分自身の周辺の、子どもの死をどう乗り越えるか】
 ここのところ小学生以下の幼い子供たちが殺されたり事故で亡くなったりするニュースが続いています。

 昨日の川崎の事件でも無辜の6年生の女の子が殺され、しかし容疑者は自殺してしまいましたから司法によって裁かれることもありません。
 女の子は今、天国で至福の時を迎えている、容疑者は地獄で、塗炭の苦しみを味わっている、そう考えることのなんと無意味なことか。まったくの無味乾燥で何も響いてきません。

 8日に大津市で起こったのは事件ではなく事故ですからさらに始末が悪い。
 原因が「不注意」では、被害者家族も加害者を恨み切ることもできません。

 二人の死と13人の重軽傷――その罪を贖うためには何百年分もの懲役刑が必要でしょうが、今の日本には、合衆国のように懲役を重ねて何百年とする制度はなく、あったとしても現実に刑期を満了する人もいません。

 私たちはこのやり場のない気持ちを、どうしたらよいのでしょう。
 自分の親族や教え子に万が一のことがあった時、それをどう乗り越えたらいいのか。

                                (この稿、続く)
                      


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2019/5/28

「悪意の城『竜宮』の罠」〜人生の良いとこ取りについて2    政治・社会


 乙姫というのは 悪意の誘惑者かもしれない
 10歳の不登校Youtuber「少年革命家ゆたぽん」を支持する人々も
 そしてゆたぼん君自身も 無意識の あるいは悪意の誘惑者かもしれない

というお話。
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【悪意の城『竜宮』の罠】
「私家版:浦島太郎」を書いたのはもう20年以上前のことですが、最近、「乙姫様は優しさから浦島太郎が仲間のところに戻りやすいよう、老人にした」という設定が苦しい感じになってきていました。

 どうして苦しいのか、はじめは分からなかったのですが、どうもauのコマーシャルのせいらしい――auで乙姫様を演じているのはモデルの菜々緒さんですが、失礼ながらあの悪女顔、それで「太郎を思い遣って・・・」というのがピンと来なくなっているのです。
 疑い始めるときりがなく、最初から怪しい。

 竜宮のカメは、なぜよりによって浜の悪童に見つかるような場所にいたのか、野生の本能は働かなかったのか?
 カメは甲羅に手足を引っ込めてしまえば子どもに棒でたたかれたくらいでは痛くもなくケガをする心配もない、じっとしていればやがて子どもは飽きる。なのになぜこんないじめ甲斐のない海獣がいじめられ役に選ばれたのか。
 そこに乙姫の深謀遠慮があったのかもしれない。

 つまりカメがいじめられていれば助けに来る人間がいるかもしれない、本当は助ける必要のないカメを助けるような人間だから、何の疑いもなく竜宮に付いてくるだろうということです。
そこに乙姫の深謀遠慮があった。

 若い女性が暴漢に絡まれて困っているフリをするとか、ハイヒールのかかとが折れたとか、わざとハンカチを落とすとか、若い男を誘い込む方法はいくらでもあります。
 何のために?

 おらく目的は太郎の若さとエネルギーです。それを吸い取って乙姫は生きている――そう考えないと、あの研ぎ澄まされた美貌もスタイルも、理解できません。

 もちろんタダで奪い取ろうというのではありません。3年間の「飲めや歌えや」は謝礼です。
 さらに若さやエネルギーを吸い取るという作業を竜宮でやって、妙な騒ぎになるのも面倒ですから、とりあえず「玉手箱」という請求書をつけて地上に送り返す。そこで例の「箱を開けってはいけません」の魔法が効いて、請求書を開くと同時に若さとエネルギーが支払われるという仕掛けです。
 竜宮にさえ行かなければ浦島太郎がとうぜん過ごしただろう残り30年余りの歳月
 なかなかよくできた仕組みといえます。
 この流れで、もう一度、物語を書き直してみましょう。


【少年革命家ゆたぼん現る】
「少年革命家ゆたぼん」を名乗る男の子のYoutube動画がテレビ等でも取り上げられ、随分と話題になったようです。

 ゆたぼん君は小学3年生から不登校になった沖縄県在住の10歳の男の子で、YouTubeなどを使って「不登校は不幸じゃない」など、威勢のいいメッセージを発信しています。
 私はしばらく前にテレビか何かでちらっと見ただだけで、大して興味もなかったのですが、話題になっているうえに炎上中と聞いて、遅ればせながら見てみる気になりました。

 新聞によると、ゆたぼん君が不登校にいたった経緯は、
「宿題を拒否したところ、放課後や休み時間にさせられ不満を抱いた。担任の言うことを聞く同級生もロボットに見え『俺までロボットになってしまう』と、学校に通わないことを決意した。現在も『学校は行きたい時に行く』というスタイルを貫いている」(2019.05.05琉球新報)
とのこと。
 ネットやテレビでは「さしたる理由もなく登校しないことの問題性」や逆に「勇気ある子どもの発言を匿名の大人たちが封じることの是非」などが議論されたようですが、やがて背後に見え隠れする父親のきな臭い話ばかりが目立ってきて、現状はどうやら騒動も終焉に向かいつつあるみたいです。

 だから改めてほじくるわけではないのですが、ゆたぼん君が提起した問題が何も解決しないままに忘れ去られるのはやはりもったいないような気がする、せっかく盛り上がったのだから、ゆたぼん君のような生き方をどう考えるかは、もうすこし時間をかけて話し合ってもいいことではないのかとももうのです。


【親も含めて、ゆたぼん君を支持するまやかしの人々】
 結論から言うと、私はゆたぼん君のような子どもにきちんと話をし、学校に行きたくなるような子に指導し直すしっかりした大人がそばについていなくてはならないと思います。

 現在の日本では学校に行かないことのメリットはほとんどありません。よく「自殺するくらいなら不登校の道を選べ」といった言い方をする人がいますが、それは極端な状況での話で、たいていの子どもたちが「学校に行きたくないな」と思うのは大したことのない理由からです。

 なぜそんなふうに断言できるのかと言うと、私たち大人でさえ「仕事に行きたくないな」「会社、休みたいな」と思う原因の大半が“大したことない”事情によるからです。
 あの上司の顔を見るのは嫌だな、仕事が溜まっていて辛いな、二日酔い厳しいな、連休が長すぎて心身共に動きが鈍いな、といった感じです。

 それを「行きたくなかったら行く必要なし」「いやいや行くのはかえって不幸」と言っては身も蓋もありません。私は児童生徒としては学校が大好きで、職業人としては仕事が大好きでした。しかし行きたくないと思ったことが一度もないかと言えばそうではありません。
 いやいや行っている期間があったので、楽しく面白い瞬間にも出会えたの、それは苦しい練習を重ねたからこそ記録が出せたとか、長い修行時代に耐えたからこそ誰からも尊敬される職人になれたといったのと同じです。嫌だと思うたびに逃げ出していたのでは話になりません。

 いやだったら止めればいい、好きなことをやってこそ人は伸びる、行きたくなければ学校なんか行かなくてもいい――そういった“良いとこ取りの人生”を推奨する人には、必ずどこか怪しいところがあります。

 苦しいことを避けて通ったばかりに陥った不遇の穴に、他の人間もどんどん落ちてくればいいと考える冷酷なアリジゴク。他人を応援しているように見えて、実はひたすら自分を肯定したい観念論者。
 人生の大半を才能だけで生きてきて、気持ちさえあれば何でもできると誤解している超エリート。相手の意に沿うことだけを言って入れば商売になると踏んだポピュリストタイプの心理カウンセラー、専門家。
 視聴者の聞こえのいいことだけで番組や出版物を制作し、視聴率や売り上げを伸ばそうとするメディア関係者。みんな偽物です。

 あれこれ立場はあるかもしれませんが、そもそも今後70年も80年も生きる10歳の少年の、わずか数年の人生経験(というのは3歳〜4歳まではほとんど夢の中なので)から導き出した「学校に行かない」という決心、それをそのまま肯定できる人間の気持ちが分かりません。

 彼らは本人が決めたことなら「自殺する」という決心も、密かに支持しているのかもしれません。



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2019/5/27

「私家版:浦島太郎」〜人生の良いとこ取りについて1  政治・社会


 10歳の不登校Youtuber「少年革命家ゆたぽん」とかいうのが出てきて
 「宿題を強制する学校に嫌気がさした」とか
 「先生に従う同級生がロボットにみえる」とか騒いで 盛り上がっているらしい
 「学校は行きたいときに行く」主義らしい
 その主義を掲げて Youtubeでがっぽり稼ぐつもりかもしれないが
 そうは問屋が卸すものか?
というお話
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 私はかつて「浦島太郎」という物語を書いたことがあります。
 もちろん「うらしま」のパロディですが、最近、それについて考え直すところがありました。
 しかしその前に、私の「私家版:浦島太郎」からお話しましょう。



【「私家版:浦島太郎」はじまり、はじまり】(以下、「ああ言えばこう言う辞典」=『童話2000』より)

 むかしむかし、あるところに浦島太郎という名の漁師の若者がおりました。
        (中略)
 そしてあっという間に、白いひげのお爺さんになってしまいました。
 めでたし、めでたし



 さて諸君、
 この話、なぜお爺さんになって「めでたしめでたし」なのか、変だと思ったこと、ない?

 え?ないの? 

 じゃあ、亀ってもしかしたらタイムマシンだったんじゃないかって考えたことない?

 え? それもない。

 それじゃあもしかして、乙姫様はプレゼントを渡しておきながら何で開けてはいけないって言ったのか、すごく不思議だと思ったこともない?

 ・・・・・・ない、

 ハア、

 不思議な子たちだねキミたちは。

 私なんか、3歳のころからずっと不思議で不思議でしかたなかったのに・・・・。
 まあいいや。

 さて物語の本質について話をしよう
 この昔話は、謎が三つで教訓が三つだ。



【最初の問題】
 まず第一の謎、なぜあっという間に時がたってしまったのか。

 浦島太郎が竜宮城に行ったのが16歳のとき、戻ってきたらざっと50年の月日が経っていた。もし浦島が竜宮へ行かなかったとしたら、その間の漁師としての彼の半生はかなり平凡なものだったはずだ。時代が時代だし、亀のために金を出すといった人の良さでは運を強引に引き寄せることもできなかっただろうからね。

 しかしその平凡な人生にも幸と不幸はある。どのくらいだろうか?

 ざっと見積もって50年の間に彼が味わったはずの「幸せな時間」は、全部寄せ集めると3年ほどになる。根拠はないがたぶんそのくらいだ。キミたちにあわせて言えば、生まれて初めて東京ディズニーランドにいったとか彼女に告白してOKが出たとき、そして腐った野菜みたいに簡単に捨てられるまでの2週間とかそういうものだね。
 もちろん不幸だって全部集めても3年分になるかどうか。

 あとはたいてい、少々幸せだったり少々不幸だったりする平凡な年月に過ぎない。けれど、その平凡だったり不幸だったりする普通の時間を、浦島は全部捨ててしまった。あるはずの苦しみや退屈を、未経験なまま全部終えてしまった。その上で、本来は飛び飛びにしか存在しないはずの幸福を、全部一箇所に寄せ集めて竜宮で暮らし終えてしまったんだ。
 だから50年間があっという間だったんだね。

教訓:「人生はあざなえる縄の如し」
     (人生のオイシイところだけすくって生きようたって、そうはいかない)



【第二の謎】
 第二の謎。なぜお爺さんになって「めでたしめでたし」なんだろう。
 浦島が村に戻ってきたとき、村はどうなっていた?

 ・・・・・・そうだね。
 昔の仲間たちはみんな年老いて、浦島太郎のことなんか覚えちゃいなかった。
 覚えていた人も、目の前の若者を浦島太郎と認めることはできなかった。
 それだけのことさ。

 浦島太郎は玉手箱を開いて十分にお爺さんになり、もう一度みんなのところへ行って「私は50年前に行方不明になった浦島太郎だよ」と語ったに違いない。すると老人たちは顔を寄せ、その見知らぬ老人の中に古い友人の面立ちを見つけ出す・・・・・・
「おやおやホントに、これは太郎だわサ」
「よくもまあ、生きていたもんだ」
とかね。
 それからみんなに受け入れられ、浦島は老人仲間として幸せに暮らすことになる。
 だから「めでたしめでたし」というわけさ。

教訓:人は他人と同じである必要はない。しかしあまりにもかけ離れてしまうのも考え物だ。ある程度他人と一緒に、同じように年をとっていかないと私たちはとんでもない浦島になってしまう。


 ね、そこの○○君、キミは今ただボーっとしているけど、私の話なんかそっちのけでTVゲームのことでも考えていたんじゃない? ゲームもいいけど、もう周りのみんなは受験生モードに入ってるんだよ。キミ自身の手で玉手箱を開けて、さっさと早く、「あっという間に白いハチマキの受験生になりました、メデタシメデタシ」としないと、だれも相手にしてくれなくなっちゃうよ。


 さて、これで今日のお話はおしまい。
 え、もう一つの謎?

 あ、ゴメン、ゴメン。
 三つ目の謎、ね。

 乙姫様はプレゼントを渡しておきながら何で「開けてはいけない」って言ったのか、ってことだったよね。



【第三の謎の答え】
そんなの簡単でしょ。
 パンドラの箱だって同じだったけど、プレゼントをしてそれを忘れてほしくなかったら「開けてはいけない」って言うのが一番なんだ。
 そんなこと言われると気になって気になって、絶対忘れることはないでしょ? 
 ちょうど噂を広めたいときに「だれにも言っちゃダメだよ」ってオマジナイかけるのと同じだよね。


教訓:「開けさせたいなら適度に封印」


            
                              (この稿、続く)


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2019/5/24

「『家庭訪問は玄関先で』が非現実的なワケ」  教育・学校・教師


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 中国の諺に曰く
 「上に政策あれば 下に対策あり」
 家庭訪問はぜひとも必要と思う教師がいて
 どうしても来てほしいと願う保護者がいれば
 「訪問は玄関先で」などと決めても自然に漏れていく
 引き留める保護者を無碍に振り切って関係を悪くすることもない
 それが現場で起こっていることだ
  

というお話。

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 更新しました。

「キース・アウト」

2019.05.22
家庭訪問における先生への「おもてなし」暗黙のルールがあるって本当?

 PC版 →http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2019/kieth1905b.htm#i1

 スマホ版→https://kieth-out.hatenablog.jp/entry/2019/05/23/000000

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