2019/1/31

「ユニコール・マターネルの終焉」〜学校教育はいい加減でいいと文科省は言った4  教育・学校・教師


 教育審議会答申には
 腹が立って腹が立って

 そこで童話をひとつ、書いてみることにしました

ということ。

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(ウィンスロー・ホーマー「青い少年」)

 ユニコール・マターネル(Unécole Maternelle)はフランスを代表する有名ケーキチェーン店である。
 その主力商品は最初「ショートケーキ」「チーズケーキ」「モンブラン」といった平凡なものだったが、職人たちの腕が特に良かったのだろう、その売れ行きは爆発的であっという間に全国に250もの店舗を持つ大チェーンストアとなったのだ。

 大きくになるにしたがって店は「チョコレートケーキ」だの「タルト」だのと次第に品数を増やしていったが、どれも実に評判が良かった。
 そこで本部はケーキ工房に指示を出し、「フルーツケーキ」だの「ティラミス」だの「ミルフィーユ」だのとさらに種類を増やしていき、ついにチョコレートケーキだけでも「ガトーショコラ」「クラシックショコラ」「フォンダン・オ・ショコラ」「ブラウニー」「ザッハトルテ」「オペラ」「ブッシュ・ド・ノエル」「デビルズフードケーキ」と8種類にもおよぶようになった。
 職人たちはほとんど不眠不休で働き、それでもケーキの品質の維持と安全に励みながら、新商品の開発にも余念がなかった

 しかし本部は知らなかった。いやもしかしたら知らないふりをしていただけなのかもしれないが、工房はそろそろ限界に達しようとしていたのだ。
 職人に疲労の色が濃くなり、しばしば休みを取る者もでてきた。そしてその一部は二度と工房に戻ってくることはなかった。

 やがてユニコールの味が落ちたとの噂が囁かれるようになり、本部の管理システムが見直されると職人たちの生活は一気に苦しくなった。しかしよりおいしく美しく、安全なケーキを作るためには仕方ないと諦める職人たちも少なくなかった。

 だがそれにも関わらず事故が起こる。異物混入の訴えが立て続けにもたらされる。
 本部はそこで慌てて再度業務を見直し、ようやく職人たちが過重労働に苦しんでいることに気づいたのだった。

 緊急の役員会議が繰り返され、専門家会議が招集され、第三者委員会までつくられてやがて改善提案が発表された。
「いまのままの状態では事故はなくならない。繰り返すのみだ。非常に危険な状態にあるといえる。
 しかしどうしてこんなことになってしまったのか――。
 原因は明らかである。職人たちが過剰な品質向上を図ったからだ。
 よりおいしいケーキを作りたい、美しい形に整えたい、みんなに“素晴らしい”と感激してもらえるケーキを提供したい――そういう情熱は分かる。しかしユニコール・マターネルはケーキのチェーン店であって美術商ではない。すべてのケーキを最高の、素晴らしい芸術品のようなものにしようとするから、事故も起こるし職人も傷むのだ。
 今や考え直す時だ。
 スポンジは外注に出すとかフルーツの選別も青果市場に任せるとか、あるいは簡単な飾りつけはアルバイトに任せ、種類ごとに保管の仕方を変えるような細かさは廃して他のケーキ店と同じにするとか、工房の中でそれぞれが自分で工夫していくしかない。
 罰則はつけないが、今後、仕事上でやりすぎがないよう、工房の長はしっかりと管理してほしい」

 その通知を聞いて、古くから会社を支えてきた職人たちは目を伏せた。
 自分たちが努力してきたのは正にその“よりおいしく美しく、みんなに喜んでもらえるケーキ”をつくるためだった。それが今や無用どころかジャマだと言われたのだ。
 お前たちの余計なことをするから、会社は社会から非難を受けるようになったと――。
 ベテラン職人たちは押し黙ったまま、その場に立ち尽くした。

 工房の片隅で重い砂糖の袋を持ち上げようとしていた一番年少の男の子が、その様子を見ながら首を傾げる。
「大人ってのは訳の分からないもんだ。品質の維持ができないとか安全が保障できないとか――それだったらケーキの種類を減らせばいいじゃないか。減らすのがイヤなら職人の数を増やせばいい。そんなことは当たり前なのに誰も言わない。それどころか少しぐらいケーキの味や見栄えを変えてもいいから今のままがんばれと――しかし客は馬鹿じゃないよ。最高のケーキを出さないユニコールなんてユニコールじゃない。
 この店もそろそろ潮時かな、職人たちもやる気をなくしているみたいだし、先行きは暗そうだし・・・ここで社員に拾われてもいいことはなさそうだ。早いところ辞めて別のところに行くってもんだな」
 少年はそう呟くと、寂しそうな視線を工房に投げてから、悠然とドアを開き、光り輝く屋外へと出て行ったのだ。




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2019/1/30

「中教審答申は真面目な提案なのか?」〜学校教育はいい加減でいいと文科省は言った3  教育・学校・教師


 来るべき本格的な教員不足に備えて、教師の働き方改革は急務だとしても、
 そう簡単に支援ボランティアが集まるわけもなく資金もない

 しかし、
「だから先生たち自身が手を抜いて、仕事を簡単にしなくてはいけない」
 というのはあまりにも失礼だ
 
 教職に限らず、与えられた仕事は誠心誠意一生懸命あたる――それが日本人の美質だ
 教師をバカにするのもいい加減にしろ!

というお話

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(ミュシャ「スラブ叙事詩《ルヤナ島のスヴァントヴィト祭》」)

【教育は人なり――とにもかくにも人材確保が急務】
 政府が急に教員の働き方改革に真剣になったのは、別に組合の突き上げが激しくなったからでも閣僚が改心して優しくなったからでもありません。

 新指導要領では小学校英語やプログラミング学習、特別な教科としての道徳など新しい内容がたくさん入ってきますし、出入国管理法の改正で外国人労働者も大量に入ってきますからその子弟の教育にも対応できる人材を集めなくてはなりません。
 すべてできなくてもよいですがブラジルの子が入ってきたらポルトガル語、メキシコの子が来たらスペイン語、インドネシアの子どもが来たらインドネシア語、フィリピンだったらタガログ語と、児童生徒の支援ができる最低の外国語をそのつど学ぶ意欲くらいはないと困ります。
 質の高い教育には質の高い教師人材が必要と考えられますから、その意味でも人材確保は急務です。

 ところが現状を見ると社会全体は空前の人材不足で就職は完全に売り手市場。いっぽう教職はブラック公社の悪評紛々で教職志願者は減る一方――何が何でも学校を働きやすい場にしなくてはならないという要請はここから生まれてきます。

 しかしそこから出てきたアイデアは、とにかく時間外勤務の上限を決めてあとは学校に考えさせようという、何とも呆れた方策だったのです。


【ボランティア活用や地域支援は真面目な提案なのか?】
 今月25日に出た「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」
は、どう読み込んでも真面目な雰囲気のするものではありません。

 例えばスクール・サポート・スタッフや部活動指導員の利用と言ったことを盛んに推奨していますが、国や地方公共団体に十分な予算措置を命じる場面はありません。部活動指導員など、あの予算潤沢な横浜市でも一校につき1.2人の配当予算しか確保できないのです。国が強力な財政出動をしなければ、絵に描いた餅です。

 いったい国は、普通の学校にいくつの部活動があって何人の指導員が必要なのか把握しているのでしょうか。さらに言えば、そもそも一日2時間といった短時間勤務に応えてくれる人材(しかも吹奏楽やバスケットボールの指導といった特殊技能を持った人材)が、世の中に何人いると思っているのでしょう?

 SSSだの部活動指導員だのと言っても、学校にそれを探すため負担が増えるだけで人が集まるはずもありません。そして結局、妹尾中教審委員の言うように、
「教師が自覚をもって、自分の仕事を減らすしかない」
というところに落ち着かざるを得ないのです。
 要するに仕事をするな、できるだけ簡単に済ませろということです。

 明るく気立ての良いラテン系の人々だったらすぐに応えてくれるかもしれません。あるいは計算高いどこぞの国の人々なら、さらに早く反応してくるかもしれません。しかし日本人はそうはいきません。


【日本人の働き方と学校】
 仕事を与えておいてしかも“ホドホドでいいよ”というのは誇りをもって働く人間に対する冒とくです。少なくとも日本においてはそうです。

 自動車工場で出荷前の車の、バンパーの裏まで磨いて送り出すのが日本の労働者です。買い物もせず出ていく客にも「ありがとうございました」と深々と頭を下げるのが日本の店員です。旅館に着けば仲居さんが訪ねてきて、お茶を入れたり世間話をしたりしながらさりげなく風呂の場所や施設の使い方、夕食の予定や入浴時間などを伝えていくのが日本式宿泊施設のしきたりです。

 いずれも無駄と言えば無駄、不要と言えば不要です。そんなことだから生産性が低いんだと言われればそれまでですが、それこそ日本人の日本人たる所以でしょう。子どもたちにもぜひとも伝えていかなければならない文化です。

 教師が過剰に働くのも同じです。人を教え導く者の使命感とか情熱とかいうのではなく、日本人だからおざなりな仕事はしたくない、人の役に立つ価値ある仕事がしたい、その一心なのです。他の業種と変わりありません。

 違うのは戦後70年間、道徳だの生活科だの、人権教育だの性教育だの、あるいは総合的な学習だのキャリア教育、安全教育、防災教育、食育、健康教育、消費者教育、地域連携、メディアリテラシー、小学校英語、プログラミング教育とひたすら仕事が増えたにもかかわらず、教員定数はほとんど変わらなかったということだけです。
 
 業務は拡張するが人は増やさないという方針を、70年以上に渡って貫いてきた世界がどこにあるでしょう? そこだけが他の業種と違います。
 
 
【教師をバカにするな】
 そんな無茶に耐えてきた教師に向かって、
 子供のためになると、欲張りを言うとキリがない。(中略)時間は有限なのだし、教師などの人材も限られた数なのだから、教育効果のあるもののなかから選んでいくことが必要だ。
などと、どの厚顔が呟くのか。
 学校の行っていることで教育効果のないものなどひとつもありません。効果の保障されたものさえ次から次へと捨てながら今日に至っているのですから。

 授業準備上の工夫、学校行事、採点・添削、掃除、会議、その他の業務の多くは、文科省は細かく学校に指示していないし、義務づけてもいない。(正確に言うと、そんな権限は国にはない。)学校側(校長)の裁量のほうが大きい。
 だから校長裁量でやめて構わないというのはほんとうでしょうか?
 学習指導要領に書いてある学校行事も校長裁量でやめることができるなら、私はまず小学校英語とプログラミング学習をやめたい。

 これらはまだ教育効果が試されていませんし、英語は今後つぎつぎと出てくる優秀な翻訳装置のために、普通の人間の英語力など簡単に乗り越えられてしまいます。プログラミング学習に至っては、今後20〜30年以内にコンピュータ自身がプログラミングする時代(シンギュラリティ)が来ると文科省自身が予測しているではないですか。そんなものを子どもにやらせるわけにはいきません。
 しかし実際に校長が「小学校英語とプログラミング学習はやめます」と言っても、認めないでしょう?


 提案に従えば残るのは授業準備上の工夫や採点・添削、掃除、会議ということになりますが、これは「そうは言っても教師がやめるはずはない」と見越してのブラフです。

 妹尾委員の紹介してくれた静岡県の小学校だって、どうせ文科省の指定校か何かで無理やり業務を削減して見せただけで、指定が解けて3〜4年も経てば人事異動で入ってきた新しい職員・校長先生たちによって、
「子どもたちに地域の宝を見せないというテはない」「体力づくり、集団づくりといった面からもぜひ!」「遠足を復活させましょう」
となるのは目に見えています。それも中教審委員の見越してのことでしょう。

 どうせやめるなら学校評価だとか教員評価だとか学校評議員会だとか、あるいは教員免許更新だとか、異常に膨れ上がって4月・5月に学校を空けてばかりいる初任者講習だとか、直接子どもの成長に関わらない部分を削減すればいいのに、文科省が鳴り物入りで始めた教師や学校を管理する仕組みについては、一切削る気はない
のです。

 25日に出た「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」はとんでもないまやかしです。

 ただしこれまで学校が痛めつけられてきた経緯を、模式的に見るには都合のいいものなのかもしれません。

                        (この稿、次回最終)




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2019/1/29

「学校の業務は安易に削れない」〜学校教育はいい加減でいいと文科省は言った2   教育・学校・教師


 プール開放や組体操、遠足などは、何のためにやっているのか
 世間の人たちはともかく、中央教育審議会の委員は知っていてほしい

 学校の伝統を安易に削ると教員の負担はかえって大きくなるのだ
 もちろん問題が起こっても学校の責任は問わないというなら別だが


というお話

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(ミュシャ「スラブ叙事詩《スラブ式典礼の導入》」)

 教育研究家、学校業務改善アドバイザー、中教審委員の妹尾昌俊さんはYahooニュース2019.12.28「【学校の働き方改革のゆくえ】残業削減に成功している学校は何がちがうのか」で、大胆な業務削減を断行した静岡県の小学校について、次のように書いておられます。

 夏休み中のプールも熱中症などのリスクも高くなっているし、やめて、学期中の体育の時間での練習とした。運動会の組体操は、怪我のリスクが高いうえ、練習にも多大な時間を要していたことから、ダンスなど簡易なものにした。

 文章にしてしまえばこれだけのことです。しかしたった3行で始末されてしまった二つの業務、それで失ったものは少なくありません。


【プール開放は心のオアシス、組体操には重い意味がある】
 例えば夏休みのプール開放。妹尾さんはこれを子どもたちの泳力強化の面でしか考えていませんが、それがすべてではありません。いやむしろそれは付随的な目的です。

 真の目的は教育の家庭向きサービス、地域サービスです。
 お金があって夏休み中、塾だのスイミングスクールだのプログラミング教室だの次々と行事の用意できる家はいいのです。そういうものが一切用意できない家、関心のない家の子に対して、せめて一日に一度は家を出て目標のある活動をさせ、メリハリをつけさせようというのがプール開放なのです。
 家庭ばかりでなく、学童保育に出ている子たちも学校のプール開放でもない限りあの狭い空間に一日中缶詰で窒息状態です。それが何日も何日も続いて行く――可哀そうじゃありませんか。心痛みません?

 プール当番自体は大した仕事ではありません(PTAの見回り当番は保護者の方にとって負担でしょうが)。一人か二人が水質検査などの準備をすればいいだけで、そもそも夏休み中の勤務の勤務ですから、縮小したところで過重労働の削減にはならないのです。苦しいのは学期中の仕事です。
 これで「夏休みのプール指導をなくしたのだから、忙しいだのなんのと文句を言うな」と言われたらかないません。

 さらに運動会の組体操については、昨今の重大事故を考えると縮小は仕方ないにしても、なくすならそれなりの覚悟が必要です。あれは持久力を高めると同時に、非常に高い道徳性を養おうという試みだからです(2008/9/23「組体操という道徳」)。
 思えば組体操が保護者の間でも特に人気が高かったのは、そこに大きな子どもの成長が見て取れたからです。その組体操を廃止する以上、代わるものがなければならない――多くの教員はそのように考えます。
「あの組体操のとき、オマエは最後まで頑張れたじゃないか」
「みんなが一つになって頑張ることが、あんなに素晴らしいって、みんなで一緒に体験したよね」
 そう言って子どもを励ますことができなくなったら別のなにかで補わなければならない、それが教師の考え方です。


【遠足は、やめてもいい行事なのか】
 遠足はどうでしょう?
 遠足はそれを単なる思い出づくり、重苦しい学校生活の中の一瞬の気晴らしとしか考えない人にとっては、あろうとなかろうとどうでもいい行事です。しかし人間関係づくりの一環と考える人たちにとっては重大な問題です。

 学校教育を大きな枠でとらえる教師にとって、遠足は修学旅行に向かう一里塚です。遠足や社会見学を繰り返す中で、係が分担の仕事を果たすことや相互の協力、集団行動のルール遵守の受容性を学び、計画性や遂行性を高めていくわけです。
 
 修学旅行はまさに学を修める最終チェックで、小中それぞれの最終学年になったころには、独力で計画を立て、遂行することができなくてはならないのです。

 こうして身についた力を、私たちは社会性と呼んでいます。いきなり修学旅行のような大行事に向かわせてもうまく行くはずがありません。おママゴトみたいな小学校1年生の遠足の係活動から始めて、順次、能力を高めていくのです。
ですから「先生が大変なので遠足は止めました」では済まないのです。

 ところで妹尾氏は、
 業務の多くは、文科省は細かく学校に指示していないし、義務づけてもいない。
 と言いますが、遠足は学習指導要領にも位置付けられた内容です。
 自然の中での集団宿泊活動などの平素と異なる生活環境にあって,見聞を広め,自然や文化などに親しむとともに,よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること。
(小学校学習指導要領 第6章「特別活動」―3 内容の取扱い―(学校行事)―2内容―(4) 遠足・集団宿泊的行事)

 これもやめていいなら、私はむしろ小学校英語やプログラミング学習を削りたいと思います。


【学校が留守番電話なら教師は自分の番号を公開する、家庭訪問がなくなったら休日に住宅確認をしなくてはならない】
 ついでですので昨日引用した、
 学校で夜間・早朝に留守番電話対応とする
 家庭訪問にかえて、面談とする。通知表の所見欄は簡素にして、面談で説明する

 についても言っておきます。

 もし私が中学校の担任教師で学校が夜間(5時以降か?)留守番電話対応になったら、やむなく自分の携帯番号を保護者に知らせます。そのために24時間拘束されるようになるにしても、「子どもがいじめられた」「息子が万引きした」「明日、喧嘩があるらしい」「9時過ぎだというのに娘が帰ってこない」といった連絡が、翌朝まで入らないという恐怖に耐えられないからです。

 また家庭訪問をやめたために生徒の家が分からず、いざという時に駆けつけることができないのも怖いです。いったん家庭訪問をして家の中を見ればそれだけで分かる生活状況について、何も知らないというのも不安です。
 私だったら、仕方がないから4月の早い時期に休日を使って、生徒の家を一軒一軒確認して回るくらいのことはしておくでしょう。中にこそ入りませんが。

 それに比べたら通知票を書くなんて大したことはありませんし、そもそも家庭訪問を面談に代えて楽になるのは部屋の掃除をしなくて済む親の方で、保護者が学校に来るとなれば教師の方が教室整美をしなくてなりませんし用意する資料だって似たような量です。


【学校が責任を問われないならそれもいい】
 学校は近代教育だけでも150年の歴史をもつ、磨き上げられた組織です。ですからそこで行われている活動の大半は重い意味を持っていて安易に動かせないのです。

 もちろん学校のあり方を根本から変更する――例えば児童生徒の非行について学校の責任を問わない、不登校やいじめ問題への対応も他の組織に任せる、道徳教育・人間教育については欧米並みに学校の仕事としないというなら別です。

 そうなったら私たちは余裕をもって遠足や運動会から手を引き、家庭訪問や時間外指導、時間外の連絡といった一切と縁を切ることができるでしょう。しかし仕事は減らせ、時間はかけるな、しかしいじめや不登校の問題にはきちんと対処しろ、非行は許すな、子どもの可能性を十分に伸ばし、確かな学力と生きる力をつけて卒業させろというなら、普通の教師はついていけません。
 失敗や不祥事の責任はだれが取ってくれるのでしょうか。

           (この稿、続く)


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2019/1/28

「時間外労働、上限月45時間の衝撃」〜学校教育はいい加減でいいと文科省は言った1   教育・学校・教師


 中央教育審議会が教員の時間外労働の上限を月45時間とするガイドラインを決めた
 しかしそんなことが可能なのか

 中教審委員は可能だという
 そしてとんでもない具体例を示してきた


というお話

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(ミュシャ「スラブ叙事詩《聖アトス山》)

【中央教育審議会は何を考えているのか】
 1月25日の中央教育審議会で教員の時間外勤務の上限を月45時間とするガイドラインが決められた報道を見てカチンと来て、その日のうちに非難声明のようなものを書きました(2019/1/26「日本の教育は改善しようとするたびに劣悪になっていく」)が、26日になって委員のひとりがYahooニュースに記事を載せていることに気づき、ああこういう考えの人たちが話し合うと、ああいう結論が出てくるのかと、妙な感心をしたので書いておきます。

 その記事というのは、
2019.01.11 教師の長時間労働は子供のためにならない!【中教審答申はココを読め(1)】
と、
2019.01.26 学校も、”あれもこれも”をやめる時【中教審答申はココを読め(2)】
 書いたのは教育研究家、学校業務改善アドバイザー、中教審委員の妹尾昌俊さんです。

 記事の要旨を簡単にまとめると、
‘子供のためであればどんな長時間勤務も良しとする’という働き方は,教師という職の崇高な使命感から生まれるものであるが,その中で教師が疲弊していくのであれば,それは‘子供のため’にはならない。

 今回月45時間と上限を決めたが、それは、
 教師の過労死まで起きている以上、教師の命を守ることがひとつ。もうひとつは、過酷な長時間労働のままで教師が疲弊しては、授業や教育活動の質を下げ、子供(児童生徒)のためにもよくない、ということを重く見た
からなのである。


 しかし、残業時間の上限を定めるだけでは当然ダメなのであって学校や教師の仕事を大きく見直して、精選していくことが必要だ

 多くの学校の現実としては、大した効果もないのに、前例踏襲で続けているものが多いのではない。むしろ、子供たちのためになっているので続けている、というものも多い。
 ただし、
 児童生徒のためになる、教育効果があるということで、学校はすぐゴーサインを出したり、やめらなかったりするのだが、これは間違っている。

 効果だけを強調して意思決定したり、運営したりするということでは不十分だし、危険だ。負担や時間のことも考えなければいけいない。こんな当たり前のこと、基本的なことは、(中略)なぜか、学校現場や教育行政のこととなると、「子供のために」という思いや声で、負担や時間を考慮する重要性がかき消されてしまう。

 子供のためになると、欲張りを言うとキリがない。(中略)時間は有限なのだし、教師などの人材も限られた数なのだから、教育効果のあるもののなかから選んでいくことが必要だ。

 しごくまっとうで、これまで多くの教師が叫んできたこととまったく変わりがない。ほとんど全面的に賛成と言っていい話なのですが、そこに「だから小学校英語をやめましょう」「プログラミング教育はひっこめましょう」という発想が全くないのに驚きます。

「もうキャリア教育も社会に任せましょう」「食育や健康教育についてもこの際、削りましょう」「総合的な学習の時間はなくせません?」「やいや昭和21年までさかのぼれば『道徳』の時間すらなかったのだから、一度原点に戻ってそこからやり直しません?」といった見方はまったくないのです。

 その代わり発せられるのは、「現場の先生!そんなに頑張るんじゃねーよ」「学校は“あれもこれも”をやめる時だ」というメッセージです。
 要するに学校が苦しくなったのは先生たちのやりすぎが原因なのだから、やめりゃあいいじゃないか。お前たちが頑張って倒れれば子どもが迷惑するんだよ、というわけです。

 これで教育現場の先生たちが納得するのでしょうか。


【学校の業務、大幅削減に成功している学校があるという話】
 妹尾昌俊という人に興味を持ったのはそこそこ昔からだと思うのですが、最近興味深かったのは先月(2018年12月)28日のこれもYahooニュース記事「【学校の働き方改革のゆくえ】残業削減に成功している学校は何がちがうのか」でした
 ここでも妹尾氏は、
「学校の先生よりも民間のほうがよほどタイヘンですよ」という声は保護者や地域の方からよく聞くのだが、
(中略)
業界(産業分類)としてある程度のまとまりで見ると、学校の多忙は突出している。
と現状を訴え、
 睡眠時間等を削って、過労死や精神疾患のリスクと隣合わせの学校も多い。悠長なことは言っていられず、一刻も早く改善しないと、子どもたちの教育にも悪影響が出る。
と憂いています。ここまでは私も同じです。

 ところが次の段階で、
 文科省や中教審が真摯に反省して、もっと見直していくべきなのは確かだ。だが、文科省のせいとばかり言って、自分たちのことを十分に振り返らない姿勢はいかがなものか、とも思う。
となり、
 授業準備上の工夫、学校行事、採点・添削、掃除、会議、その他の業務の多くは、文科省は細かく学校に指示していないし、義務づけてもいない。(正確に言うと、そんな権限は国にはない。)学校側(校長)の裁量のほうが大きい。
と、多忙化の原因を、文科省が細かく指示していないにもかかわらず校長裁量で行っている業務の方に振り向けるのです。

 記事の後半は「思い切った業務の整理、削減などを実行している例もある」というタイトルで大胆な業務削減を行った静岡県のある小学校の事例を紹介していますが、それにはこんな表が添えられています。
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 夏休み中のプールも熱中症などのリスクも高くなっているし、やめて、学期中の体育の時間での練習とした。運動会の組体操は、怪我のリスクが高いうえ、練習にも多大な時間を要していたことから、ダンスなど簡易なものにした。プール掃除などは教員がやっていたが、業者委託にした。印刷やデータ入力などはスクールサポートスタッフ(SSS)という教師以外のアシスタントがかなり手伝っている。


 またこの静岡の小学校の例ではありませんが他の学校のこととして、
 学校で夜間・早朝に留守番電話対応とする
 家庭訪問にかえて、面談とする。通知表の所見欄は簡素にして、面談で説明する

なども紹介しています。

 得々と語られるこの業務削減策を見ながら、私はその愚かさに呆然と立ち尽くします。文部行政の中心にいる人たちが、ここまで学校教育を分かっていないとは思っていなかったからです。


                      (この稿、続く)
             



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2019/1/26

「日本の教育は改善しようとするたびに劣悪になっていく」  教育・学校・教師




 更新しました。

「キース・アウト」


2019.01.26
教員時間外月45時間を答申 中教審

 PC版 →http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2019/kieth1901b.htm#i2

 スマホ版→http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2019/kieth1901sh.htm#i2






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2019/1/25

「教師の暴力や体罰をなくすために」〜子どもたちは天使じゃない4  教育・学校・教師


 体罰や暴力を行う教師を、「自覚」や「道徳性」で止めることはできない
 ダメと分かっていて平然と行う人も、分かっているのに止められない人もいる

 しかし同じ状況で殴らない人も多い、その方が圧倒的に多い
 そこは何が違うのか、そしてどう対処すればいいのか


というお話

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【精神論はウンザリだ】
 暴力をふるえばすべてを失う、一番大事な時期に生活を根底からすくわれる――そう分かっていながら彼らはなぜ暴力をふるうのか――いつまでたってもこの本質的な問いかけがないのが不思議です。

 たいていは「児童生徒の手本となるべき教師の、高い道徳性と自覚が必要だ」と言った話で終わってしまいます。
 私はしかし、暴力・体罰に限らず、問題の解決を「自覚」に求める方法は無意味だと思っています。

 「自覚」がないわけではないのです。道徳的かどうかは別にしても、少なくとも児童生徒に手を上げれば大変なことになるといった研修は耳にタコができるほどしてきています。それなのに起こる――。

 そうです。人間には「分かって」いてもできないことがあるのです。「自覚」していてもいけないことをやってしまう、そういう場合があります。かつての名曲「スーダラ節」にあるように、「分かっちゃいるけどやめられない」――それが人間なのです。

 そのことを前提として、では教師はどういう状況で、「分かっているのに」子どもを殴ったり蹴ったりしてしまうのでしょう。それについて考えます。


【暴力も悪くない、もしくは仕方がないと思っている教師が、わずかながらもいる】
 暴力や体罰を行う教師には、二種類の異なる人々がいるように思われます。
 ひとつは「暴力を行ってはいけない」と分かった上で文字通り「やってはいけない」と思っている人々、もうひとつがそれにもかかわらず「やってもいい」もしくは「やむを得ない」と思っている人々です。
 後者について典型的なのは、部活動の現場で起こるような暴力の担当者です。

 最近の分かり易い例で言えば(部活動ではありませんが)日本体操協会の宮川選手の場合が挙げられます。コーチは暴力をふるっていますがそれを悪いことだと思っていません。「選手がその痛みを回避するために、より苦痛の少ない練習に向かう」といったことを予定していないからです。

 この場合、暴力は怒りや真剣さを伝えるための道具です。
 言葉で伝え、怒鳴り声で伝え、それでも十分に伝わらないと感じると指導者は激しい情熱を鉄拳に込めて撃ち込みます。そして暴力に込めたコーチの思いはしばしば選手にも共有され、愛のムチとして認識されます。だから選手本人も家族も訴えたりしないのです。

 教師なら懲戒免職、プロのコーチなら解任につながる危険な行為ですが、それすらも「クビになる危険性も顧みず指導してくれる、ありがたい指導者」といった受け取りになりますから問題が浮かび上がってきません。選手やその家族から感謝される暴力ですから、当然、「悪い」という意識も薄れます。

 このタイプには次の3点を訴えるしかありません。
1.その指導者を訴えるのは選手とその家族だけではない。しばしば周囲で見ている者が訴える。そうなったら破滅だ。
2.100%安全な暴力というものはない。その殴打がタイミングの悪さから、選手に重篤なケガを負わせたり殺したりすることもある。
3.人間関係に絶対はない。指導者と選手の信頼関係も常に崖の淵にある。いったん崩れれば自分が与えた百の打擲がまとめて戻ってくる。あるいは「愛のムチ」が単なる「仕置き」でしかなくなり、選手を追い詰める。
 そんな例はいくらでもあるだろう。


【してはいけないと百も承知で、しかし暴力をふるう教師がいる】
 図らずも、今回の町田の事件が明らかにしたような例です。つまり教師が生徒から激しい挑発を受けている――。

 町田の事件はほとんどの情報番組であつかい、多くの識者・コメンテーターが驚き呆れながら発言していますが、日本の学校全体としてみた場合は、それが学校では日常茶飯であるという事実を踏まえてしゃべっている人はほとんどいなかったように思います、

 さすがにある芸能人は、
「今までオレらも短い映像を見せられたり音声を聞かされたりして、ああだこうだ、学校が悪いとか言ってきたけど、こうなるともう怖くて何も言えなくなっちゃうよね」
と感想を述べていましたが、それを受けた司会者は、
「いやテレビの場合はトータルでとらえて裏もとっているから違うけど・・・」
と遮ってしまいました。
 冗談じゃないと私は思います。
 これまで「ついカッとなって殴ってしまいました」といった体罰事件をいくつも扱ってきた情報番組ですが、殴るに至った細かな過程を十分に裏取りして放送した例など見たことも聞いたこともありません。
 カッとなるにはカッとなるだけの理由や条件があるのです。それを「教師が手を上げたら一切理由等は聞かない」という方向で一貫させてきたのはまさにマスメディアです。それが学校を追い詰めた――。


【しかしみんなが殴るわけではない】
 今回初めて、動画という形で学校における指導の現場があからさまに世間に出たわけですが、町田の動画を見たテレビの男性コメンテーターの多くが、同じ状況で自分を押さえられるか自信がないと言っていました。しかしある女性タレントは、
「だけど、いくらあんなふうに挑発されたといっても、子どものレベルまで下がって殴ることはない」
と、至極まっとうな発言をされていました。それもまた然りです。

 日ごろ中高生とつき合いのない男性タレントが、20歳も30歳も年下のガキからあんな言い方をされて我慢できなくなるのは分からないではありません。しかし教師は子どもと付き合うのが仕事で、“あんなガキ”連中をしょっちゅう見てきているプロです。それが子どものレベルまで下がって殴ってしまうのはやはり問題です。
 自分自身に置き換えても、30年前のまだ暴力に対して許容性の高かった時代ならいざ知らず、今の私なら、あるいは10年前の私でも、同じ状況でも殴ることはないでしょう。

 では、町田の高校教師をはじめこれまで“カッとなって”体罰をして処分を受けた教師たちと私たちで、何が違うのか――。


【大人の発達障害という可能性】
 最近ようやく「大人の発達障害」が問題とされるようになっています。
 発達障害は基本的に連続体(スペクトラム)ですから、ほとんど気づかれない人から重篤で誰が見てもすぐにそれと分かる人まで千差万別です。

 また一般的に発達障害は6〜7%の割合で存在すると言われていますから当然、教員の中にもいることになります。私自身は軽い方のLDだと自分を疑っていますが、同じように衝動性の強い傾向を持った人たちもいるはずで、彼らはどうしても挑発に対して抵抗力が弱くなると考えられます。

 昨日の記事で、町田の高校教師も10年以前に同じことをしたのではないかと疑ったのもそのためです。中学校の体育科の教師が、あの程度のありふれた挑発に乗って殴るのは、やはり釈然としません。ADHDとまでは言わなくても、沸点が低く、いったん怒りに火がつくと我を忘れてしまうのかもしれません。


【どうしたら良いのか】
 ではそうした“カッとなって”我を忘れて殴ってしまうような教師の暴力をなくすには、どうしたら良いのでしょう。

 今、私が思うのは、教師の怒りをコントロールする(アンガーマネジメント)訓練を拡充するということです。「叱らない子育て」「叱らない教育」ということも盛んに言われますが、学校現場で貫徹するのはムリです。叱ったり怒ったりする場面がゼロにならない以上、それをコントロールする術を身に着けるしかありません。それはすべての教員に必要なものです。

 もうひとつ。
 それとともに教師が怒らないで済むように、校則を整理してもっと使いやすいものにする必要もあります。
 簡単に言えば、これをやったらイエローカード、あれをやったらレッドカードというふうにして罪と罰を体系化するわけです。
教師による指導のばらつきも減らせますし、前もって知らせることで、生徒の不満も和らげることができるはずです。
 さらに「ゼロ・トレランス」についても、もう一度考えておく必要があると思いますが、今日はすでに十二分に紙面を使い切りました。これらの話は改めてにしましょう。


(参考) 
2014/11/19「体罰の問題」F最終〜体罰のない社会へ

2010/10/12 子どもに指導の枠を乗り越えられてしまったら 

2005/11/1「ゼロ−トレランス(zero-tolerance)」 





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