2018/12/27

「毎年5000人もの教員が精神疾患で休職しているというのに、もう何の打つ手もないということらしい」  教育・学校・教師




 更新しました。

「キース・アウト」


2018.12.27
心の病で休職する教職員は5077人 10年間高止まり

 PC版 →http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2018/kieth1812b.htm#i4

 スマホ版→http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2018/kieth1812sh.htm#i4






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2018/12/26

「今年の振り返り、来年への怖れ」〜二学期ご苦労様でした。  教育・学校・教師


 今年も心配な出来事が多かった。
 しかし今年起こっているその不安な出来事は、
 もしかしたら来年から始まる新時代を予告するものなのかもしれない

というお話

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【私の2018年】
 多くの学校で二学期終業式が行われ、あと一週間も経たずして2018年が終わります。
 私にとっての2018年は、非常に当てが外れるとともに、混とんとして落ち着かない年でした。

 つい数年前まで、世界は緩やかな安定に向かい、私の子や孫や教え子たちの生きる21世紀中後半は、派手さも華やかさもないものの、落ち着いた静かな、平和に満ちた時代になるだろうと安心しきっていたのです。

 それがロシアのクリミア侵攻や中国の南シナ海進出によって、まるで19世紀のような領土・領海獲得競争が始まり、トランプ大統領の出現によってアメリカまでもが野心満々の独裁国家の様相を呈してきたのです。
 中東情勢は泥沼で、EUは崩壊に向かい始めます。

 ただしアジアに限って言えば悪くない話もあって、東アジアの喉にひかかったトゲである北朝鮮はそろそろじり貧で、2018年度中には金王朝も滅び、多少の混乱はあるものの全体としては、世界がアジア中心の時代に入ると思われたのです。

 まさかドナルド・トランプが中途半端に金正恩と手を結び、王朝の延命に手を貸すとは思いもよりませんでした。

 韓国に文在寅政権が生まれてそうとう北寄りになるだろうとは思ったもののここまですり寄ることは考えもせず、今や私は韓国が本気で「中ロを後ろ盾とした、金正恩の統べる統一核保有国」を目指しているのではないかと疑い始めています。
 米韓関係、日韓関係がここまで悪くなるとは全く想像していなかったのです。

 ヨーロッパではメルケルもマクロンもメイも、自国に山積する問題で手いっぱいで、世界に関与する余裕など微塵もありません。

 米中貿易戦争は地球全体に重苦しい網をかけています。


【2018年の日本】
 目を日本国内に転じると、クソ暑い夏と度重なる災害(西日本豪雨・大阪地震・北海道地震・台風21号等)がまず頭に浮かび、日本中の学校にエアコンが入りそうなのはいいことですが、今後猛暑を考慮したカリキュラム編成や防災教育、あるいは避難所運営といったことにも心砕いていかねばなりません。
 教師の働き方改革が叫ばれる中で、仕事は増える一方です。

 今年は特にスポーツ界に喜ばしいことと問題が多く、喜ばしいことから言えば平昌オリンピックでの13個のメダル・羽生結弦くんの連覇、野球の大谷翔平くん・テニスの大坂なおみさんの活躍、絶対だめだと思ったのに16強入りしたサッカーワールドカップ等々、浮足立つような話も数多くありました。

 他方、日大アメフト部や日本レスリング協会・日本体操協会などで相次ぐパワハラ事件は、中学・高校の部活動にも重大な問題提起を行ったと言えます。

 私にとって日本人を考えるうえで、元貴乃花親方の周辺で起こった一連の出来事がもっとも印象に残るものでした。伝統と格式、プロスポーツの在り方、選手育成、人間形成、暴力と指導――と様々に考えさせられる問題のてんこ盛りだったように思うのです。

 スポーツ以外では、本庶先生がノーベル生理・医学賞を獲ったことや藤井聡太7段の活躍、将棋の羽生善治さんと囲碁の井山裕太さんが国民栄誉賞を授与されたことなどは、子どもに勇気と希望を与えるできごとでした。2025年の万国博覧会が大阪に決まったことも、今後児童生徒と一緒に注目していきたい事柄です。

 さまざまなものが終わりを告げました。
 豊洲市場開場は私にとってはむしろ築地閉場問題です。
 日産からゴーン会長が去り、さくらももこさんや桂歌丸師匠が亡くなりましたが、影響力の大きさから言えば、オウムの松本死刑囚ら元幹部の死刑が執行されたことや歌手の安室奈美恵さんが引退したことの方が大きかったかもしれません。

 来年、平成が終わることは既に予告されていますが、平成を平成たらしめた事象のひとつひとつが、一足先に終わっていく感じです。


【来年、まったく新しい時代が始まる】
 江戸時代以前は吉事凶事のたびに年号を変えていったそうですが、明治以降は逆に年号が変わるたびに時代が変わっていった――私はそんなふうに思っています。

 この件についてはこれまでも何度か書いてきましたが、ふとそう思って調べたら、1年前の2学期終業式の日に、今日とそっくりな構成で、同じようなことを書いていました。

2017/12/22「ご苦労様でした」〜終業式、2017年のまとめと”時代の終わり”が始まる予感 

2013/9/11「年号や世紀が変わることへの思い」
 
 年号が変わると人々の気持ちが根底から変わってしまい、違う時代になってしまう。
 例えば明治は「欧米に追い付け追い越せ」の時代で、条約改正が成って欧米と肩を並べたことが確認されると(明治44年)、明治は終わってしまう。
 大正は「自由とデモクラシー」の浮かれた時代で、第一次護憲運動(大正2)に始まり普通選挙法(大正14)で終わります。
 昭和になるといきなりの金融恐慌(昭和2年)で、大正の浮かれた気分は一気に吹き飛ばされてしまいます。昭和元年は一週間しかありませんでしたので、実質的な元年である昭和2年は、ほんとうに一瞬にして時代が変わったみたいだったに違いありません。
 その昭和もバブルの中で終わり、平成は不況とともに始まります(平成3年バブル崩壊)。

 もちろん年号が変わると同時に一気に何もかも変わるというのではなく、その2〜3年前から予兆があり、新時代になっても2〜3年の間は旧時代を引きずる面があります。昭和の匂いのする治安維持法が大正時代につくられ、バブル経済が昭和と平成をまたいだように、新時代の訪れる前にその香りは漂ってくるのです。

 つまり、今起こっていること――大国が領土的野心をむき出しにしてお互いに争い、EUやTPPのように統合を目指したものが音を立てて崩れ、逆に一緒になってはならない者たちが集まり始める、それが来年から始まる“新時代”の基本的潮流なのかもしれないのです。

 皆様、心して子を育てましょう。


*「アフター・フェア」も明日から年末年始休業に入ります。9日の水曜日を再開の予定としていますが、それ以前に書き込むこともあるかと思います。よろしくお願いします。
 それでは皆様、良いお年を。



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2018/12/25

「“いじめ”はゼロではあってはいけない」〜文科省調査の裏側で  教育・学校・教師

 
“いじめ”事件はここ数年、爆発的に増え続け、今後も減る見通しはない。
今年も多くの見落としがあったみたいだから、来年はさらに増えるに違いない。
いじめ100万件時代も目の前かもしれない
というお話
クリックすると元のサイズで表示します 
「平成29年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について」から作成)
 
【“いじめ事件ゼロ”は問題です】
 昨日(12月24日)のNHK朝のニュースで、「いじめ0件の学校 保護者などに公表確認 徹底されず」という話題を扱っていました。内容は、
 学校でのいじめを確実に把握しようと、国は、いじめの件数を0件とした学校に対し、保護者などに公表して確認を求めるよう通知を出しています。
 しかし、NHKが関東甲信越の1都9県を取材したところ、学校が公表したかどうかを確認したと回答したのは、長野県だけでした。

というものです。

 3年前、岩手県の中学校でいじめによる自殺事件が起こった際、学校側がいじめの件数をゼロと報告していた事実があり、国はいじめが年間0件と報告した学校に対して、保護者や子どもに公表して確認するよう求める通知を出していました。
 その求めに忠実に従った長野県は、調査の上で10件のいじめ事件を掘り起こし、さらにそれでも0と報告し続けた学校には職員を派遣していじめの定義等を詳しく説明し、追加で7校での掘り起こしに成功したというのです。
 その取り組みについては9月末に産経新聞が取り上げ、私もサイトの方で扱いました。
2018.09.29 いじめの認知「0件」の小中学校、定義の理解不十分な学校も 長野県教委の調査(スマホの方はこちらから→http://www5a.biglobe.ne.jp/~superT/kiethout2018/kieth1809sh.htm#i4

 昨日のNHKニュースは、同種の調査が他県でも行われたかどうかを独自に調べたものですが、少なくとも関東甲信越では他に例がなかったようです。長野県の丁寧さが分かります。
 さすが教育県と呼ばれるだけのことはあり、権力に対して素直で、しかも徹底しています。他の都県は文科省の意図が読めていない。


【子どもの心が少しでも痛みを感じたら、それは“いじめ”です】
 とにかく文科省も都道府県教委も「いじめ件数ゼロ報告の学校でのいじめ事件」にウンザリしているのです。教師は何を見ていたのだ、学校は何をしていたのだというところから始まると、まとまる話もまとまらなくなってしまいます。

 そこでは、
「特に自殺を引き起こすような重大ないじめは、学校に隠れて行われる」
とか
「自殺に至るような重大ないじめを知りながら、親にも知らせない学校はない」
とかいった論理は通用しません。
「とにかくいじめの調査はいつもしっかりやっていた(だからとても細かな部分まで承知していた)」
という事実が必要なのです。
 ですからどんな些細なものであっても数字に挙げてもらいたい――。

 昨日のNHKのニュースは、
「教員の間でもいじめの認識に差があり、子どものSOSを見逃さない環境作りが大切だ」
という長野県教委の担当官の言葉で結ばれています。その差を埋めるための指針というものがいくつも出ていて、それに精通しているかどうかが分かれ目です。

 例えば2016年3月18日に文科省から出された「いじめの認知について」「いじめの正確な認知に向けた教職員間での共通理解の形成及び新年度向けた取組について(通知)」には、報告すべき具体的な例がいくつも出ています。

 Aさんが算数の問題を一生懸命に考えていたところ、隣の席の算数が得意なBさんは、解き方と答えを教えてあげた。Aさんは、あと一息で正解にたどり着くところであり、答えを聴いた途端に泣き出してしまった。このことでBさんは困惑してしまった。


(定期的に実施しているアンケート調査で、Bが「いじめを受けた」と回答した。そこで、Bと面談で確認するなどした結果、以下の事実があったことを確認できた。)
 体育の時間にバスケットボールの試合をした際、球技が苦手なBはミスをし、Aからミスを責められたり他の同級生の前でばかにされたりし、それによりBはとても嫌な気持ちになった。見かねたCが「それ以上言ったらかわいそうだよ」と言ったところ、Aはそれ以上言うのをやめ、それ以来、BはAから嫌なことをされたり言われたりしていない。その後、Bもだんだんとバスケットボールがうまくなっていき、今では、Aに昼休みにバスケットボールをしようと誘われ、それが楽しみになっている

 これらはいずれも“いじめ”として扱い、報告すべき事例です。「いじめ」という言葉を使って指導するかどうかは別ですが(というのは「いじめ」と口にすることでこじれる問題もあるからです)、報告及び学校側の対応としては“いじめ”であると考えなくてはいけません。子ども同士の五分のケンカも双方による“いじめ”です。

 そう考えると「いじめ件数ゼロ」が、いかにあり得ない話かは自ずと知れてきます。


 タイトルに上げたグラフに見るような爆発的いじめ事件の増加は、そうした定義と文科省や都道府県教委の努力によって達成されたものであり、今回NHKが長野県以外の都県の不備を明らかにした以上、来年度はさらに徹底した調査・報告が行われるはずです。
 “いじめ100万件時代”は目の前に迫っているのかもしれません。


【今後何が変わって何が変わらないか】
 正直言って、私にはこのような“いじめ”のインフレ報告が良い状況を生み出すとは思えません。
 “いじめ”と名がつけば教師は対応せざるを得ず、始めれば徹底します。

 先日問題となった奄美中1自殺事件も、「消しゴムのかすを投げられた」とか「しつこく方言を言ってきた」とかいった訴えを担任が看過しなかったことから、加害者と目された生徒が追い詰められ自殺したとされる事件です。

 逆に、なんでもかんでも“いじめ”とすることで、いじめに対する感受性が薄れることも考えられます。1校で数十件も発生すると対応もしきれませんから、ほったらかしにするのが常態となってしまうからです。

 しかし実際問題としては、いじめに対する具体的対応は今とさほど変わらないのかもしれません。

 9月の産経新聞によると、長野県はいじめの報告件数がゼロの学校とともに、数百件に及んだ過剰報告の学校も訪問していますから、報告すべき適正な数というのがどこかにあるのでしょう。

 今後はその「適正な数」を探りながら、報告書には上げられるだけの数を上げ、実際にどう対応するか(担任レベルで押さえるか、学年対応か、はたまた校長を先頭に学校体制で当たるか)は、その都度考えるか別に内規をつくるしかないでしょう。おそらく大半は、これまで通り担任に任されるはずです。

 具体的対応はこれまでと変わらず、しかし仕事量は増えます。
「どんな些細な“いじめ”も報告しろ」ということは、「それに付随する書類を学校は用意しろ」ということです。担任は以前は書かなかった「こんな訴えがありました」「こんな喧嘩がありました」といった文書をたくさん書くことになります。

 働き方改革で早く家に帰らなくてはなりませんから、家に帰ってから書いてもらうことにしましょう。
 嗚呼!



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2018/12/21

「忘れられそうな可哀そうな冬至」〜冬至のウンチクと阿蘭陀冬至    歴史・歳時・記念日


明日は冬至。
すっかり忘れられているこの行事、もう一度調べて何かしてみたらどう?
阿蘭陀(オランダ)冬至もおもしろいよ。

というお話

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(カール・ラーション「冬至の生贄」)
 
【忘れられそうな可哀そうな行事】
 明日12月22日は二十四節季のひとつ「冬至」です。
 一年で一番日照時間の短い日で、明後日からはだんだん日が長くなっていきます。そう考えるとなんとなく気分が明るくなりますね。
 しかし今年は土曜日に当たり、24日(月曜日)のクリスマス・イブが天皇誕生日の振替休業で三連休になる人も多
く、気分はすっかりクリスマス。冬至なんてどこ吹く風です。

 もっとも冬至が虐げられてきたのは、今に始まったことではありません。同じ二十四節季でも春分や秋分のように休日だったりお墓参りがあったりするわけでなく、年によっては21日だったり23日だったりする分かりにくさもあって、今ひとつパッとしないのは昔からです。

 柚子湯や小豆料理もすっかり廃れてしまい、カボチャに至っては別行事に奪われて、今、台所に用意すれば、
「またハロウィーン?」
といったことになりかねません。
 可哀そうですね。


【冬至のウンチク】
 冬至を始めとする秋分・春分・夏至・立夏・啓蟄といった二十四節季の日付けが定まらないのは、地球が太陽を回る360度を24で割った“地球と太陽の位置関係”によって決まるからです。単純に暦に割り振るのではなく、実際の天体の運航に従って決めるため、冬至も年によって、あるいは地球上の位置によって22日だったり21日だったりするのです。

 ちなみに今後は2020年、2024年・・・と4年ごとに12月21日になりそれ以外は22日。2028年からは2年続けて21日、次の2年が22日というふうに、21日と22日の2年ごとの交互になります。
 その先はさらに変化していき、あと200年くらいたって2200年代に入ると2203年、2207年、2211年と、今度は4年ごとに23日が冬至になるそうです(2224年まで)。

 日が短くなるという意味で太陽が衰えているように見えた日々の最後日で、明日から日が長くなるという喜びの日。ですから世界中で祝う風習があります。
 特に日本や中国の陰陽道では「陰が極まり再び陽高まる(一陽来復)」の日として大切にされてきました。悪いことが続いた後で運気が上向いてくるという意味です。

 さらにそれが自分に回ってくるように、この日はニンジン、ダイコン、レンコン、ウドン、ギンナン、キンカンといった「ん(運)」のつく食べ物を食します。これを「運盛り」と言います。
 カボチャも別名は「南瓜(なんきん)」ですから「運盛り」の仲間に入れられますが、冬まで保存できる作物の中で特に栄養価の高いものとして重宝がられました。

 もともと邪気を払う力が強いとされ小豆も使われ、かぼちゃ合わせて煮物にすることもよくします。私も昔食べた記憶があるのですが、これを「いとこ煮」と呼ぶのは初めて知りました。硬いものをおいおい(甥々)入れて、めいめい(姪々)炊き込んでいくことからそう言われるのだそうです。

 柚子のような香りの強い柑橘系も魔除けとして使われやすく、鏡餅の上にみかんを乗せるのもそのためです(この間テレビで「それはやってはいけないこと」として説明されていたみたいですが)。冬至の風物としては風呂に入れて温まります。
 私の家は柚子を手に入れるのが面倒なので、大量のみかんを風呂に浮かべて、温まったところで甘味の増したみかんを、入浴しながら食べるのが毎年の楽しみです。
 それだってたぶん大丈夫でしょう。


【阿蘭陀(オランダ)冬至】
 この時期、江戸時代の長崎出島では閉鎖的な空間でストレスを溜めきった商館長たちが、毎年「阿蘭陀冬至」という行事を楽しんでいました。12月25日のことです。

 その日になると商人たちは何艘ものオランダ船に乗り込んでドラを打ち鳴らし、商館へと進みます。そして商館長たちに「阿蘭陀冬至おめでとう!」とか言いながらプレゼントを配るのです。
 商館から返礼のプレゼントや祝儀を受け取ると、今度は幕府の役人や貿易商仲間のところを回ってプレゼントを渡します。
 そして最後は商館の中で飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。

 幕府の役人たちも途中から気づいたと思うのですが、今さら止めるわけにもいきません。
「どうやらクリスマスというキリスト教の行事らしい」
と言い出せば先輩たちの失態を追及することになります。
 しかたなく(半分は喜びながら)、阿蘭陀冬至は幕末まで続いたようです。

 歴史秘話としては、私が最も好きな話のひとつです。

 明日の冬至、久しぶりに何かしてみたらいかがです?



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2018/12/20

「様式からはみ出ることの胡散臭さと必要性」〜冠婚葬祭の経済学3  人生



同棲は無責任、式も披露宴もしないというのは逃げ――そう考える人たちがいる。
しかし時代とともに考えなくてはならないこともあだろう。

というお話

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(ブレア・レイトン 「登録簿へのサイン」)
 
【同棲の経済学と倫理学】
 娘のシーナが結婚式を決める1年ほど前、こんなことを言ってきたことがあります。
「前に話したエージュと、同棲したいんだけど、どう思う? その方が経済的に凄く助かるんだけど――」
 私の答えは簡単でした。
「経済的に助かるなんて百も承知だ。しかしその上で、ダメ!」

 女性にとって“同棲”がどういう意味を持つか分かりませんが、男にとっては天国です。
 多少の制約はあるにしても経済的に楽で、食事付きセックス付き、責任だけが“なし”、いざとなったら乗り換え可、ですからこんないいことはありません。結婚という形式を取らずに“同棲”で済ますのは、簡便さとともにこの「乗り換え」カードを手放したくないからではないかと、密かに疑っています。

 私の知っている中にも、何年も同棲生活を送って女性の方が“もう、そろそろ”と思っているのに、男の方が言を左右にして首を縦に振らない例がいくらでもあります。
 父親として同棲を許すというのは、その長い長いアリ地獄に娘を送り出すことですから、絶対に許可できないのです。
「同棲するくらいなら結婚しなさい。その方がさらに経済的だ」

 私は人生に踏ん切りをつけない人間と無責任な人が嫌いです。いつも心の隅に言い訳や猶予を残し、逃げ出せる準備をしておきながらだらだらと見通しもなく安穏な日々を送る人々、そういう人間は信用ならないと思っています。――自分自身がそうでしたから。

 同棲の話が出たころはあまりエージュのことは知りませんでしたから、それが向こうの方から言い出したものならシーナの眼鏡違いで、案外つまらない男かも知れないな、と思ったりもしました。
 幸い話は蒸し返されることはなく、三か月ほどすると正式に結婚の申し入れに来てくれましたが。


【敢えて“普通”を避ける男たちの胡散臭さ】
 少し異なりますが、結婚式も披露宴もやりたがらない男というのもなんとなく胡散臭い存在だと思っています(女性について言わないのは想像がつかないから)。
 お金がないからやめておこうねという男も、そんなお金があるならもっと有意義なことに使おうという男も結婚式のメリット・デメリットがきちんと計算できているか首を傾げますし、計算の上で言っているとしたらかなりの曲者です。

 式を計画して連絡して、といったことはやはりかなり面倒なことなのです。がんばればかなりの低予算、さらに言えば収益の上がる式だってあるとお話ししましたが、それとて油断すればすぐに赤字になってしまいます。
 時間もエネルギーも金もたっぷり使って、
「ああ、素晴らしかったね、良かったね。でも二度としたくないね」
 それが結婚式(披露宴を含む)。あんなに大袈裟にやってしまった以上、もう引き下がれない、これで別れたら来てくれた人に顔向けできない――そう思わせるのが蹴婚式の隠れた意味だと私は思っています。
 
 もちろん結婚したら本性を現した悪魔のような配偶者と、死ぬまで付き合えというのではありません。しかし「人生、山あり谷あり」なのです。夫婦関係も良いときもあれば悪い時もあります。その悪いときに簡単にキャンセルしていたら、手に入るはずのものも入りません。

 式を挙げ、派手に披露宴をやってしまったという事実は、そこで踏ん張る人生の徳俵みたいなものです。それがなければ驚くほど簡単に土俵を割ってしまうかもしれません。

 実際、結婚式をしなかった夫婦は有意に離婚率が高いという統計もあります(例えば『離婚率に影響も?!既婚男女600人に大調査!「あなたは結婚式を挙げましたか?」』他)。
 離婚しない人たちがみな世間体を憚ってしないということではありませんが、ストッパーはたくさんある方が有利でしょう。

 どうせ別れるんだからと思えば、挙式も披露宴もばかばかしくてやっていられません。一銭もかけられないところです。
 最初から結婚式をやりたがらない男に胡散臭さを感じるのは、そうした匂いを感じるからかもしれません。覚悟のほどが見えてこないのです。


【葬式の経済学】
 葬儀についてはこれまで何度か書いてきましたから、今さら新しい話はありません。

 ただし“お金がないから葬儀は簡略に”というのは結婚式同様、成り立たないことが少なくありません。
 結婚披露宴とは違って会食費がぐんと抑えられますし、「香典は半返し」という了解がありますから、おおざっぱに「集まった総額の半分が収入」という計算ができます。それで葬儀費用を賄えばいいのです。

 父が死んだときは私も弟も現職でしたから、仕事関係の参列者がかなりいました。それぞれが属する職場の代表者として香典を託されてくる例もありますし、来られた方のほとんどが会食せずに帰りますから、差し引きは大きくプラスになりました。
 参加者が多ければ多いほど収入が増えるという原理は、ここでも働くのです。

 では、今年91歳になった母が死んだときも同じようにするかというと、それが微妙なのです。

 2年前に94歳で亡くなった義母の際は、今流行りの「家族葬」という形式で行いました。
 その娘で今年の夏に亡くなった義姉がこだわったのです。なぜかというとしばらく前にご近所であった高齢の方の葬儀で、普通に執り行ったところ200名も入るホールに参列者が15名しかいなかったというのです。
 確かに90歳を過ぎると友だちもあらかた亡くなって、子たちが片っ端リタイアしていると義理で来る人も少なくなります。

「そんな惨めな葬儀にしたくない」というのが義姉の強い願いで、そこで「家族葬」という形をとったのですがそれがいかに面倒くさい話だったかは、以前詳しく書きました(2016/11/14 「家族葬という形式」@〜)。

 冠婚葬祭は日本人が長い時間をかけてつくり、守り、変化させてきたものです。ですから形式に従っている限り、おおきな間違いや面倒は起こらないようにできています。

 ただしこれだけ高齢化の進んだ社会における葬儀というのはやはり考え直すしかなく、「一定の年齢を越えている場合は家族葬」という方向は今後も広がっていくでしょう。今は過渡期で面倒くさいことも多いですが、少しずつ調整しながらゆっくりと定着させていくべきだと思います。

 母のことは改めて考えることにします。




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2018/12/19

「貧乏人こそ結婚しろ、楽をしたけりゃ式をしろ」〜冠婚葬祭の経済学2  人生

 
 貧乏人同士は結婚した方が楽。(マイナス)×(マイナス)は(プラス)だ。
 披露宴で支援者を募れ、
というお話

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(ピーテル・ブリューゲル《父》 「農民の婚宴」)
 
 古くから伝わっている儀式とか組織とか風習にはそれなりの意味があります。
 問題はその意味が現在でも有効性を持っているかどうかということで、それを検証せずに捨ててしまうのは愚かなことです。

 結婚について言えば何の迷いもなく普通の式を行う人たちがいて、婚姻届けを出す以外は何もしない「ナシ婚」派の人たちがいて、式は挙げるが披露宴はしないという人も、あるいはそもそも結婚制度自体を否定する人もいます。これらが一緒くたにならないのは、「結婚式(挙式)」と「披露宴」と「結婚制度」とについてはそれぞれ別個の意味があって、それぞれ賛否あるからです。


【貧乏人こそ結婚すべき】
 結婚制度自体の是非については話が込み入りますから、別に機会があればその時に考えましょう。基本的には私の手に余る議題で、任にはないように思います。
 ただ「金がないから結婚できない」というのは本末転倒で、金がない者こそ結婚すべきだと私は思います。
 だって一緒に暮らせばテレビも冷蔵庫も洗濯機もひとつで済みます。キャベツだって一個丸々買ってきて使い切ることができます。電気やガスの料金もひとつ、ネット環境もひとつ――。
 私は50代はじめに3年ほど単身赴任をしましたが、別々に暮らすことの不経済にウンザリしました。

 貧乏人こそ結婚すべき――実際、昔の人が結婚した理由の大きなひとつは貧困でした。
「ひとり口は食えないが、ふたり口は食える」
というのはそれを言ったものです。
 貧乏な方、考えてください。


【省略しやすいのは挙式】
 挙式については、人々がまだ“神”を信じていた時代には大きな意味がありましたが、現在は微妙です。神父や牧師に会うのは結婚式が初めてという人だって少なくないからです。私もその一人でした。

 ただ、式を通して“襟を正す”とか“けじめをつける”といったことに意味を見出す人は少なくありませんし、人生に区切りをつけるために必要だという考え方も理解できます。
 私自身は式の最中に神父が聖書から引用した言葉、
「神が合わせたものを、人が離してはいけません」(マタイによる福音書第19章)
はとても新鮮で、以後30年以上も大切にしてきました。

 日ごろキリスト教など信じていないのにその日限りのにわか信者でいいのかという考え方もあります。しかし生まれた時にお宮参りをして結婚式は教会でやり、葬式の方はお寺さんにお願いするという多くの日本人のやり方は、一種の汎神論ですから唾棄するほどのこともありません。

 神の前で誓ってけじめをつけることが大切だと思う人はやればいいし、どうでもいいと思う人はしなくてもいいかもしれません。同じく“どうでもいいんだから”親の顔を立ててやってやろうという考え方もあります。

 しかし披露宴は違います。


【披露宴で披露するもの】
 披露宴というのは読んで字のごとく「結婚した事実、結婚した二人を披露する宴(うたげ)」です。
 披露する意味はたくさんあって、思いつくままに挙げると、
「両家は婚姻によって結びつきをもったから、一方に対する扱いは他方に対するものである(あちらの家が攻められたら加勢するぞ!)。よろしく」
「何かトラブルがあった時は両家で共同責任を取ります」
「この二人は公的に結びついたのだから、横合いから手を出してはいけません」
「この二人で新しい家族を形成しますから、さまざまな場面で支えてください」
「私たち親だけでは目配りが足りなくなるかもしれませんから、よく見てやってください」
「困ったときには何か頼みに行くかもしれませんが、それもよろしく」
と言ったことです。

 端的に言えば婚姻によって結びついた1組の男女、ふたつの家を認知してもらうとともに、地域のセイフティーネット加えてくださいとお願いするのが披露宴の本来の意味です。
 ですから式の最期に両家代表として新郎の父親が、
「まだまだ至らぬところばかりのふたりでございます。勝手なお願いではございますが、どうかこれからも温かく見守り、叱咤激励いただけると幸いです。」
と挨拶するのは、まことに当を得たものなのです。

 ここに課題があります。
 現在のように社会福祉が発達して、失業したり破産したり、あるいは病気をしたり年老いたりしても国が何とかしてくれる時代に、一族郎党・隣近所、恩師・上司・取引先、先輩・同輩・後輩・友人、そういった各位に、セイフティーネットの提供を依頼しておく必要があるのか、ということです。
 大丈夫だ、私的なセーフティネットはいらない、となれば披露宴を行う意味は半減します。

 しかしサブシステムとして確保しておきたいとなったら、頑張って行っておく方がいいでしょう。


【新たに縁を結ぶ】
 私はかつて参会者250人を越える大きな結婚披露宴に出たことがあります。
 宴会の最中に新郎に近づくと、
「オレ、この中で知っている人、20人もいない」
となんだか不機嫌でした。親のための披露宴、といった想いだったのでしょうか。
 しかしいま思うと、230人もの新しい知己ができたということは悪いことではありません。

 250人の中には医者も弁護士も警察官もいて――いやいなくてもそうした職業に近い人がいて、何かの折には役に立つかもしれません。困ったとき、その筋の専門家が披露宴にいたことを思い出せば電話一本で用が足りることもあります。披露宴に招いたという実績があれば会いに行くのも楽です。

 しかし披露宴をきちんと行うことの一番の価値はそこではなく、おそらく新郎新婦の覚悟のほどを見せる、ということだと思うのです。
 明日はそのことを考えます。

                        (この稿、続く)
                   


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