2018/11/13

「特殊で、多様で、重すぎず、便利な日本の謝罪」〜戦場ジャーナリストと日本式謝罪の話2  教育・学校・教師


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(フランシスコ・デ・ゴヤ 「1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘」)


 先週金曜日の朝日新聞の記事、『安田さんおわび、外国特派員は「謝罪の必要あるのか?」』を発端として日本式謝罪について考えようと思っていました。しかし朝日新聞だけを頼りにした私の調査は甘かったみたいで、昨日のブログに引用した、「私の行動にミスがあったのは間違いないのでおわびを申し上げた」は朝日新聞が簡略しすぎた表現で、ほんとうはもっと含みのある言い方だったみたいです。
 同日のJUSTニュースによるとこんな言い方をしています。

「今回、謝罪と言いますか、私自身の行動に、いくつかのミスがあったことは間違いないので、この点について皆さんのご批判をいただいて、今後に生かしていくために、まず、ごあいさつと言いますか、ご批判をいただくにあたって、お詫び申し上げますということを申し上げている」

“それを言っちゃあイカンだろう”という意味で少し笑ってしまいました。
「謝罪はごあいさつ」だなんて言って、またネットで叩かれるぞと思ったのですが、少し巡ってみたところ案外そうでもなく、安田純平ネタはもう飽きられたのか、安田さんの話に説得力があったのか、ネットは意外と冷静でした。


【謝罪に至る経緯】
 解放直後の安田さんは3年間の拘禁から解放された興奮もあってか、日本に向かう飛行機内でも一言の謝罪もなく、感想を求められても荷物を返してもらえなかった恨み節をしゃべったりと何かとちぐはぐな感じを受けました。

 その違和感は私一人のものではなかったようでネットは大荒れ。高須クリニックの高須克弥院長はその日のうちに反応してツイッター上に投稿。

「この人には敬意ははらえません。兵士ではない。
兵士ならば敵に媚びる捕虜だ。
出でくるときは定番の作法を守ってほしい。まず『恥ずかしながら・・・』と謝りなさい」


 その他まとめサイトへの投稿なども「どの面下げて帰ってくるつもりか」「国に迷惑をかけるな」といった非難の声であふれ、特にYahooニュースのコメント欄は「自己責任論」一色で埋まったといいます。


【一瞬にして理解する日本人、まったく理解できない外国人】
 しかし一週間後に開かれた日本記者クラブでの会見では冒頭、
「今回私の解放に向けてご尽力いただいた皆さん、ご心配いただいた皆さんにお詫びしますとともに、深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました」
と述べるとともに、
「私の行動によって日本政府が当事者にされてしまったという点について、大変申し訳ないと思っております」
と謝罪したということですから、やはり安田さんは常識人だったというか、常識人がそばにいて何らかのアドバイスをしたのでしょう。

 高須先生の、まず『恥ずかしながら・・・』と謝りなさいはまったくその通りで、この国ではとりあえず謝罪しないと素直な話が始まらないのです。さらに安田さんの会見は他の部分も実に誠実で丁寧でしたので、それで批判の嵐は一気に引いてしまいました。

 同様の謝罪は先週、日本外国特派員協会の会見でも行われたのですが、外国人相手にその論理は通じにくかったみたいです。話は直截的に、
「命のリスクを負ってシリアの悲劇について同胞に伝えようとしていた安田純平氏が謝罪を強いられたことは受け入れられない。安田氏は困難を耐えたことに対して英雄として歓迎されるべきだ」
ということになります。そこで出てきたのが、まず、ごあいさつと言いますか、だったのです。

 日本人の在り方にかかわる問題ですから簡単に説明することはできません。外国の人に理解してもらうにはこんな説明しかできなかったのでしょう。言いえて妙ですが、それで深く追及されずに済んだようです。


【特殊で、多様で、重すぎず、便利な日本の謝罪】
 よく、「日本人はすぐに謝ってしまう」「謝りすぎる」と言われますが、私たちにとって謝るという行為にはさまざまな意味があります。

 被災地で自衛隊員に助けられたお婆さんが「申し訳ありません」と言ったら、それは間違いなく感謝の言葉です。自分のために時間もエネルギーも気もつかってくれたので謝罪とおなじ「申し訳ありません」を使用しますが、だからといって救助されるような状況になって深く反省しているとか、責任を取って費用をお支払いしますといった話にはなりません。

 道を訊ねる人が「すみません」と言って呼び止めても、それはせいぜい「お時間をとらせて申し訳ない」程度の意味で、基本は単なる声掛けです。

 出会いがしらの交通事故で「すみません。大丈夫ですか」と言ってもそれは責任を取るという意味ではなく、自分の心理的立ち位置を示しただけです。いずれは「責任割合、何対何」といった話を詰めなくてはならないのです。その話し合いの始まりを、相撲で言えば仕切り線を挟んで間隔を取るように、お互いに一歩下がったところからやりましょうという合図なのです。

 国によっては停まっている車にぶつけても「バカヤロー、なんでそんなところに停めてんだ!」から始めなくてはならないところもあるそうですが、それは話し合いのスタートを掴み合うところから始めましょうというその国の文化であって、最終的に引き合って「責任割合、何対何」にしなくてはならいのは同じです。
 ただし掴み合いから始めるのは、かなり気分の悪いことです。

 そこでここ20年ほどはアメリカでも、事故等で最初に発せられた「アイムソーリー」は責任を認めたこととしないという「アイムソーリー法」が広がりを見せています。人間どうし感情のあることですからやはり掴み合いから和解に持って行くのは容易ではないのです。日本のように、一歩引いてから改めて歩み寄る、その方がどれほど楽かしれません。
 これからはそうした日本式謝罪が国際標準になっていくのかもしれません。


【付記】
 私は「アイムソーリー法」に関して2度ほど簡単に触れていますが、そのうちのひとつが、2015/2/5「あるべき形」です。どんなことを書いているのかと読み直したら、奇しくもそれは戦場ジャーナリストの後藤健二さんがISに殺された翌々日、事件に関して書いたものでした。同じことを繰り返しても仕方ありませんので、ぜひともそちらの記事も読んでください。

 安田さん、無事帰って来てほんとうに良かったなと改めて思いました。


 ところで、「アイムソーリー法」について最後に書いたのが3年前で、現状はどうなっているか改めて調べたら、「アメリカにはこういう素晴らしい法律がある。日本も見習ってつくったらどうか」みたいな記事がいくつか出てきてきました。
 ガッカリしました。

「アイムソーリー法」には日本の文化が影響を与えたと私は聞いているのですが・・・。


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