2018/11/6

「アメリカの夢」〜中間選挙始まる1  政治・社会


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(アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩「原故郷のスラヴ民族」』)


 いよいよアメリカ中間選挙です。
 政治面・経済面・外交面等、さまざまな面から注目され心配されていますが、私は主として文化面から息が詰まるような不安を感じています。

 それは民主党が下院で勝利すればいいとか、上下両院を共和党が取って政治的安定が続けばいいとかいった話ではなく、どちらが勝っても、どう転んでも、先がどうなっていくか分からない、アメリカはどう分断され、世界はどう分裂していくかといった感じの不安なのです。

 トランプの大統領選挙勝利を言い当てた解説者の木村太郎さんは、あるテレビ番組で「トランプ大統領のためにアメリカの分断は進んだと思います」かと問われて、事もなげに「アメリカの分断なんて昔からだよ」と答えていました。それは正しいのですが、言い方が雑すぎます。多民族国家ですから分断は前提としても、アメリカと世界の今後を考えるなら、もう少し丁寧に説明していただく必要があります。


【砂漠の砂は強く握れ】
 合衆国のことを考える前に“多民族国家”というものについて少し触れておきます。

 “民族”と言うのは言語・文化・風俗・信仰などを同じくする人間の集合体のことを言います。輪郭のしっかりした概念ではなく、日本語も忘れてしまっているのに強く日本を意識し、日本人としての誇りをもって生きようとする例えばブラジル移民も私にとっては同じ日本人・日本民族と言うことができます。
 今いみじくも「私にとって」と言いましたが、そんなふうに多分に主観的で、端ばしでは一致できない点も多い概念なのです。

 その言語・文化・風俗・信仰などの似通った単一の人々で構成される国家を「単一民族国家」と言います。純粋に単一であるような民族国家はありませんので、同一民族の割合が全人口の大多数(約95%以上)である国をいちおう純正な「単一民族国家」と考えると、代表的なところでは日本、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、アイスランド、ポルトガル、アイルランド、アルバニアなどがあげられます。

 単一民族国家対して複数の民族から構成される国を「多民族国家」と言います。しかしその成り立ちはさまざまです。
 ロシア・中国のように領土拡張によって他民族を飲み込んでいくような場合とアメリカ・カナダ・ブラジルのように多くの民族の流入によって成立する場合、そしてインド・インドネシア・レバノンのように古くから民族が共存して支配的な民族の存在しない場合、あるいはサウジアラビアやシリアなどのように中心的な民族・部族が権力を持つ場合などです。
 そして一見して分かるように、多民族国家には強権的な国家が少なくないのです。民族の集合体ですからまとめるのが容易ではありません。

 多民族国家と言っても普通は常に単一民族国家への志向性が高く、ヨーロッパ諸国の多くはそのために小国乱立の様相を呈して、さらに今もスコットランド(イギリス)やバイエルン(ドイツ)、カタルーニャ(スペイン)などでは分離独立を目指す動きがあります。

 かつて五つの民族によって構成されていたユーゴスラビアは、独裁的なチトー大統領が死ぬと四分五裂して血で血を洗う民族闘争が始まってしまいました。今や不機嫌に隣り合う、バラバラな民族国家です。やはり独裁者は必要と思わせるような事例です。

 それが中東となると常に分裂危機を内包し、強権をもってまとめていないとあっという間に崩れてしまいそうな不安定があります。カダフィのシリア、フセインのイラクはそうでしたしサダトのシリア、サウド家のサウジアラビアなど皆同じです。これを「砂漠の砂は強く握れ」という言葉で表現します。

 ロシアのプーチンや中国の習近平らが専制的なのも、強圧的でなければ国がばらけてしまうという潜在的な恐怖があるからです。

 しかしアメリカはそうではありません。


【アメリカ合衆国の夢】
 合衆国は建国以来一度たりとも独裁的大統領のもとで国をまとめようとしたり(南北戦争を除けば)国を割ってそれぞれ独立しようともしてきませんでした。その代わり理念でこれをまとめようとしたのです
 それは言うまでもなく「自由」と「平等」です。

 私はアメリカ独立宣言の冒頭部分がとても好きです。そこにはこんなふうに書かれているからです。
 われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そしていかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということをである。

 簡単に言ってしまうと二つのことがあるだけです。
 ひとつは、私たちには「自由」「平等」「生命」「幸福追求」権利があり、それが存在することついては議論しない(自明)ということ。
 そしてもうひとつは、与えられた権利を守るために政府は存在し、その任を果たさない政府は替えてもいいということです。
 合衆国の200年はひたすらこの理想を実現しようとしてきた歴史だと私は思うのです。

 もちろん若い国のことですから不備は山ほどあり、例えば独立宣言にも合衆国憲法も、先住民や黒人に対する配慮が一切なかったことなど大きな欠陥もありましたが、アメリカは時には血を流しながら、今日まで戦ってきたのです。

 その戦いの様子は独立宣言以外にも、
「人民の、人民による、人民のための政治」(リンカーン)
とか、
「私には夢がある」(マーチン・ルーサー・キング)
とか、あるいは、
「国民諸君よ。国家が諸君のために何ができるかを問わないで欲しい――諸君が国家のために何ができるのかを問うて欲しい」(J・F・ケネディ)
といった言葉の中に生きています。

 中でもケネディの就任演説には、この国の最も気高く美しい部分が滲み出ています。


【ケネディが語ったこと】
 1961年1月、ケネディは就任演説の中でんなふうに言ったのです。
 我々は、最初の革命を今日受け継いでいるのが己であることを忘れてはならない。今ここから、味方にも敵にも、次の言葉を伝えよう。「松明は新世代の米国民に引き継がれた」と。
(中略)
 我々米国民は、この国が常に擁護に努め、今も国の内外で擁護に努めている人権が、次第に剥奪されてゆくのを傍観も容認もする気はない。
 友好国か敵対国かを問わず、全ての国に知らしめよう。自由の存続と発展を保証するために、我が国はあらゆる国に如何なる代償をも払い、如何なる負担にも耐え、如何なる困難をも乗り越え、如何なる友をも支え、如何なる敵にも対峙するということを。

 アメリカが自由主義と民主主義の世界の守護者となることを高らかに宣言した瞬間です。

 もちろんその時点ですら、合衆国は世界のお手本となるような立派な国ではありませんでした。米ソ冷戦の中でベトナム戦争の泥沼に足を踏み入れようとしていたのはまさにその時ですし、キング牧師はワシントン大行進の最初の一歩すら踏み出しておらず、マルコムXは過激な暴力思想で黒人を激しく煽っていたりしました。

 国内に深刻な人権問題を抱えながら外国の民主主義と自由のために戦おうなどおこがましい、そういう言い方もできます。
 しかし高すぎる理想を掲げ、そのために戦うのが合衆国だ、だから我々はひとつにまとまらなければいけないと訴えるケネディの姿は、アメリカ国民のみならずとも心震わせる力がありました。
 今はまだダメだけどがんばろう、アメリカは偉大な国になるのだ、この国と世界のために戦おう、そういった雰囲気がそちこちに満ちていました。

 ケネディの就任演説を読んだ後ではドナルド・トランプのどんな言葉を引用しても、そのあまりの愚かさ、志の低さ、品のなさには辟易とします。
 しかし単に辟易しているだけならむし問題は少ないので、トランプの最大の危険は、アメリカが建国以来ずっと掲げてきた理念の旗を降ろしてしまうことにあります。

 合衆国は独裁によってではなく、理念によって多民族国家の危機を乗り越えてきた国です。そのアメリカが理念の旗を下ろしたら何が起こるのか――それが私の不安と恐怖の本質です。


                                   (この稿、続く)



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