2018/11/6

「アメリカの夢」〜中間選挙始まる1  政治・社会


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(アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩「原故郷のスラヴ民族」』)


 いよいよアメリカ中間選挙です。
 政治面・経済面・外交面等、さまざまな面から注目され心配されていますが、私は主として文化面から息が詰まるような不安を感じています。

 それは民主党が下院で勝利すればいいとか、上下両院を共和党が取って政治的安定が続けばいいとかいった話ではなく、どちらが勝っても、どう転んでも、先がどうなっていくか分からない、アメリカはどう分断され、世界はどう分裂していくかといった感じの不安なのです。

 トランプの大統領選挙勝利を言い当てた解説者の木村太郎さんは、あるテレビ番組で「トランプ大統領のためにアメリカの分断は進んだと思います」かと問われて、事もなげに「アメリカの分断なんて昔からだよ」と答えていました。それは正しいのですが、言い方が雑すぎます。多民族国家ですから分断は前提としても、アメリカと世界の今後を考えるなら、もう少し丁寧に説明していただく必要があります。


【砂漠の砂は強く握れ】
 合衆国のことを考える前に“多民族国家”というものについて少し触れておきます。

 “民族”と言うのは言語・文化・風俗・信仰などを同じくする人間の集合体のことを言います。輪郭のしっかりした概念ではなく、日本語も忘れてしまっているのに強く日本を意識し、日本人としての誇りをもって生きようとする例えばブラジル移民も私にとっては同じ日本人・日本民族と言うことができます。
 今いみじくも「私にとって」と言いましたが、そんなふうに多分に主観的で、端ばしでは一致できない点も多い概念なのです。

 その言語・文化・風俗・信仰などの似通った単一の人々で構成される国家を「単一民族国家」と言います。純粋に単一であるような民族国家はありませんので、同一民族の割合が全人口の大多数(約95%以上)である国をいちおう純正な「単一民族国家」と考えると、代表的なところでは日本、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国、アイスランド、ポルトガル、アイルランド、アルバニアなどがあげられます。

 単一民族国家対して複数の民族から構成される国を「多民族国家」と言います。しかしその成り立ちはさまざまです。
 ロシア・中国のように領土拡張によって他民族を飲み込んでいくような場合とアメリカ・カナダ・ブラジルのように多くの民族の流入によって成立する場合、そしてインド・インドネシア・レバノンのように古くから民族が共存して支配的な民族の存在しない場合、あるいはサウジアラビアやシリアなどのように中心的な民族・部族が権力を持つ場合などです。
 そして一見して分かるように、多民族国家には強権的な国家が少なくないのです。民族の集合体ですからまとめるのが容易ではありません。

 多民族国家と言っても普通は常に単一民族国家への志向性が高く、ヨーロッパ諸国の多くはそのために小国乱立の様相を呈して、さらに今もスコットランド(イギリス)やバイエルン(ドイツ)、カタルーニャ(スペイン)などでは分離独立を目指す動きがあります。

 かつて五つの民族によって構成されていたユーゴスラビアは、独裁的なチトー大統領が死ぬと四分五裂して血で血を洗う民族闘争が始まってしまいました。今や不機嫌に隣り合う、バラバラな民族国家です。やはり独裁者は必要と思わせるような事例です。

 それが中東となると常に分裂危機を内包し、強権をもってまとめていないとあっという間に崩れてしまいそうな不安定があります。カダフィのシリア、フセインのイラクはそうでしたしサダトのシリア、サウド家のサウジアラビアなど皆同じです。これを「砂漠の砂は強く握れ」という言葉で表現します。

 ロシアのプーチンや中国の習近平らが専制的なのも、強圧的でなければ国がばらけてしまうという潜在的な恐怖があるからです。

 しかしアメリカはそうではありません。


【アメリカ合衆国の夢】
 合衆国は建国以来一度たりとも独裁的大統領のもとで国をまとめようとしたり(南北戦争を除けば)国を割ってそれぞれ独立しようともしてきませんでした。その代わり理念でこれをまとめようとしたのです
 それは言うまでもなく「自由」と「平等」です。

 私はアメリカ独立宣言の冒頭部分がとても好きです。そこにはこんなふうに書かれているからです。
 われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そしていかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということをである。

 簡単に言ってしまうと二つのことがあるだけです。
 ひとつは、私たちには「自由」「平等」「生命」「幸福追求」権利があり、それが存在することついては議論しない(自明)ということ。
 そしてもうひとつは、与えられた権利を守るために政府は存在し、その任を果たさない政府は替えてもいいということです。
 合衆国の200年はひたすらこの理想を実現しようとしてきた歴史だと私は思うのです。

 もちろん若い国のことですから不備は山ほどあり、例えば独立宣言にも合衆国憲法も、先住民や黒人に対する配慮が一切なかったことなど大きな欠陥もありましたが、アメリカは時には血を流しながら、今日まで戦ってきたのです。

 その戦いの様子は独立宣言以外にも、
「人民の、人民による、人民のための政治」(リンカーン)
とか、
「私には夢がある」(マーチン・ルーサー・キング)
とか、あるいは、
「国民諸君よ。国家が諸君のために何ができるかを問わないで欲しい――諸君が国家のために何ができるのかを問うて欲しい」(J・F・ケネディ)
といった言葉の中に生きています。

 中でもケネディの就任演説には、この国の最も気高く美しい部分が滲み出ています。


【ケネディが語ったこと】
 1961年1月、ケネディは就任演説の中でんなふうに言ったのです。
 我々は、最初の革命を今日受け継いでいるのが己であることを忘れてはならない。今ここから、味方にも敵にも、次の言葉を伝えよう。「松明は新世代の米国民に引き継がれた」と。
(中略)
 我々米国民は、この国が常に擁護に努め、今も国の内外で擁護に努めている人権が、次第に剥奪されてゆくのを傍観も容認もする気はない。
 友好国か敵対国かを問わず、全ての国に知らしめよう。自由の存続と発展を保証するために、我が国はあらゆる国に如何なる代償をも払い、如何なる負担にも耐え、如何なる困難をも乗り越え、如何なる友をも支え、如何なる敵にも対峙するということを。

 アメリカが自由主義と民主主義の世界の守護者となることを高らかに宣言した瞬間です。

 もちろんその時点ですら、合衆国は世界のお手本となるような立派な国ではありませんでした。米ソ冷戦の中でベトナム戦争の泥沼に足を踏み入れようとしていたのはまさにその時ですし、キング牧師はワシントン大行進の最初の一歩すら踏み出しておらず、マルコムXは過激な暴力思想で黒人を激しく煽っていたりしました。

 国内に深刻な人権問題を抱えながら外国の民主主義と自由のために戦おうなどおこがましい、そういう言い方もできます。
 しかし高すぎる理想を掲げ、そのために戦うのが合衆国だ、だから我々はひとつにまとまらなければいけないと訴えるケネディの姿は、アメリカ国民のみならずとも心震わせる力がありました。
 今はまだダメだけどがんばろう、アメリカは偉大な国になるのだ、この国と世界のために戦おう、そういった雰囲気がそちこちに満ちていました。

 ケネディの就任演説を読んだ後ではドナルド・トランプのどんな言葉を引用しても、そのあまりの愚かさ、志の低さ、品のなさには辟易とします。
 しかし単に辟易しているだけならむし問題は少ないので、トランプの最大の危険は、アメリカが建国以来ずっと掲げてきた理念の旗を降ろしてしまうことにあります。

 合衆国は独裁によってではなく、理念によって多民族国家の危機を乗り越えてきた国です。そのアメリカが理念の旗を下ろしたら何が起こるのか――それが私の不安と恐怖の本質です。


                                   (この稿、続く)



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2018/11/5

「禿頭(とくとう)考」〜なぜ男たちは禿げるのか  人生


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 私には一カ月おきに会って飲み会を開く仲間が8人ほどいます。高校時代からの友人で8人そろうことは稀ですが、それでも半世紀続く仲間というのも多くはないでしょう。

 その50年の間に、私たちは就職し、結婚し、子を育て、定年退職したのですからやはりずいぶん齢をとりました。皺も多くなり、背も少し縮みました。体のあちこちも傷んでいます。それは皆同じなのですが、一か所、あまりにも差がつきすぎたところがあります。それは頭です。

 8名中3名は立派なハゲ(ハゲに立派とそうでないのとがいるかどうかは分かりませんが)、ふたりはフサフサ、残りの3名がどっちつかずの薄毛で、私は最後のグループに属します。
 しかしなぜそんなに差がついてしまったのか、それが今の最大の謎です。


【私の仲間のハゲの歴史】
 3人のハゲのうち、最も早くそうなった一人は知り合ったときすでに薄毛に悩んでいて、二十歳のころにはほぼ全滅状態でした。もう一人は遠隔地に赴任していたためしばらく疎遠になっていた三十歳代に、一気にきました。

 50歳代も半ばを過ぎたころ、やたら髪が黒くてしっかりしている仲間に、
「オマエ、いつからカツラにしたのよ」
とからかったら、
「もう20代の終わりにはしてたかな?」
と言われて仰天しました。本物のカツラだと知っていたらそんな言い方はしなかったのです。“カツラのようにしっかりしている”と称賛を込めた気持ちで言ったことなので、そのあと私の方が落ち込みました。そう言えば彼がカツラに代えたころ、私は東京にいて彼の変化に気づかなかったのです。それが三人目のハゲです。

 私自身は親族、一族郎党、血の繋がらない叔父まで皆禿げているので早くから覚悟していたのですが、弟が相当に薄くなった50代半ばでもまったく気にせずに済むほど豊かな毛量をしていました。それが60歳の直前、風呂上りの私を上から覗き込んだ妻が、「あなた、禿げてきた」と言い始め、鏡に映すとサバンナに似た荒涼とした風景が広がっていたのです。苦にはしていません。しかし気にしてはいます。


【それにしても】
 しかしそれにしても人はなぜ禿げるのでしょう?
 髪は頭を守るためにあるはずですよね。それがなくなるということはもう頭を守らなくてもいい、つまり死んでもかまわないということじゃないですか。そんな残酷な話ってあるでしょうか――。

 と、考えたらやはり心当たりがありました。一番最初に書いた、
その間に就職し、結婚し、子を育て、定年退職した
です。読み直すと、確かに私たちは種を守るとか、家族を守る、家系を守るという意味では、もう必要ない存在です。
 生産力も闘争力も若い者の方がずっと上でまともに勝負したら敵いません。今はまだ家族に多少の手伝いもできますが、早晩養ってもらうだけのお荷物です。。だから早くいなくなった方が種のためになる、死んでも困らない、だから禿げる――は、筋の通った話です。
 
 しかしそれは女性だって同じでしょう。多くの場合、女性がほとんど禿げないことには別の説明が必要です。
 人類にとって、歳をとった男たちはいらないが女は必要だということでしょうか。


【女性は齢をとっても必要とされる。男性も少しは――】
 女性は歳をとっても必要とされるのか――確かにそういうこともあるのかもしれません。これにも心当たりがあります。

 娘のシーナが里帰り出産したとき、臨月で十分動けないシーナのために食事を用意したのは妻でした。赤ん坊が生まれてからは最初の入浴もそのあとの始末も、すべて妻が手伝いました。それ以上に役立ったのは、同じ女性ですし出産経験もありますから、なにくれと相談に乗ったりアドバイスしたりと、若い母親には何かと心強かったはずです。
 その点で私など何の役にも立ちません。つまり必要ない、つまり死んでも一向にかまわない――そういうことになります。

 ただし私個人は非常に乳幼児好きで、孫のハーヴについても新生児のころ、ベビーバスから普通の風呂に変わると入浴係は私で、おむつ替えも寝かせつけも遊ぶのも好きで得意でした。今でもハーヴが発熱して保育園に行けなかったりすると、共稼ぎの娘夫婦に代わって面倒をみるのは私の仕事です。わざわざ東京まで急行します。
 つまり多少は役立っているので、だから髪も少し残っているのかもしれません(まだもうちょっと生きていてもいい?)。

 まだ二つ疑問が残ります。ひとつは答えやすく、もうひとつは困難な問いです。


【それでも残る疑問】
 まず最初の謎ですが、これは「男は自分の子どもが大人になった段階で、人類存続にとって必要不可欠のものではなくなる。だったら平均寿命はもっと短くてもいいじゃないか」というものです。
 しかし答えは簡単です。
「人類にとって必要がなくなっても、母親の遺伝子を引き継いでいるのでついつい女性と同じように長生きしてしまっている」
 たぶんそれです。男性には必要のない乳首があるのと同じです。

 もうひとつの謎は、私の仲間のうち少なくとも二人は結婚する前からハゲでしたが、その時点から「必要ない人だった」と言うのはやはり忍びないような気もするのです。二人とも普通に立派な男性です。

 そうなると、
「男性が禿げるのは、人類、家族、家系にとってもう必要がなくなったから」
という私の結論も怪しくなってきます。

 なぜでしょう。チコちゃんにでも聞いてみようかな。





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2018/11/2

「チコちゃん、それはない」〜校長先生の話はなぜ長いのか  教育・学校・教師


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 先週の「チコちゃんに叱られる」、事情があって当日見られず、今ごろになってVTRで見ました。そしてお題の三つ目、「校長先生の話が長いのはなぜ?」の答えが「ネタ本があるから」だったので仰天しました。


【校長講話を聞いているのは子どもだけではない】
 こうした暴露ネタのソースは、たいていが教育評論家の尾木直樹です(と私は思い込んでいる)。この番組にも出てきて、いつものヘラヘラした表情で、
「これはひとことで言うとね、『校長講話集』というネタ本があるんです。全国で7〜8割は使っておられると思います」
とおっしゃっる。しかしいかがなものでしょう。ほとんどの校長先生がネタ本をベースに校長講話をやっているなんてことがあるのでしょうか。

 講話集は私も見たことがありますが、あれは基本を示すだけでとても使えたものではないのです。いま訴えたいことにピッタリ合う事例を探そうとしたら、それこそ何十冊もの講話集に目を通さなくてはなりません。それに卒業式の挨拶など、一回使ったら二度と同じものは使えません。毎年来るメンバーはほぼ同じですから。
 そんなこんなであれこれ探すくらいなら、自分で考えた方がよほど早く終わります。

 それに校長講話を聞いているのは児童生徒だけではありません。
 体育館には部下である先生たちがいて、子供よりはるかに真剣な目で話を聞いています。中にはメモまでとっている人もいたりします。
 感のいい人たちですから日ごろの校長先生 から考えられないような話を始めたら、「ハハ〜ン」といった表情になってメモを閉じたりします。それは校長先生とって大きな失点で、後々学校運営に支障をきたします。


【番組の流れ】
 番組では尾木先生に続けて現職の校長先生を訊ねる場面が映され、書棚にネタ本のあることを確認してから少し茶化した感じの「連続テレビ小説『きっとこんなかんじなんじゃないか劇場』」というコントに移ります。

 最初の場面で校長先生の目黒祐樹さんは、無事卒業式を迎えることができそうだと喜ぶ教頭先生に向かって浮かない顔で、
「まだ挨拶が思い浮かばないんだよ」
と嘆きます。教頭も「どうするんですか!」と慌てます。
 校長は苦渋の表情を浮かべ、それからぼんやりと書棚に目をやり、そこに「校長講話集」を発見して飛びつくのです。

 以後、画面は左半分に校長講話を行う目黒さん、右半分にそれに対応するネタ本の一部を映し出します。
 卒業式の次はトイレのスリッパがぐちゃぐちゃになっているという生徒指導上の問題を集会で扱う場面。これも「校長講話集」に相当する記述があります。
 以下、ALT(外国語指導助手)とのお別れ式の挨拶、耐震工事のネタ、卒業生の結婚式の祝辞――そういったものも「ネタ本」にあると紹介。


【番組の結論】
 しかしさすがはNHK。全国の校長先生が常にネタ本に頼っているとするのではなく、先の校長先生の口を借りて、
「校長就任一年目に自分で買い、一年間ネタ本を参考にしたことによって二年目から的外れなく話ができるようになった」
と話してもらいます。つまり2年目からは自分の原稿で行っているという含みです。

 尾木先生も校長講話が長くなることについて「自分の学校の事例を入れてミックスしたりしようとすればどうしても長くなる」と説明し、さらに別の学校の現職校長を登場させ、
「生徒が前を向いていける話をしたい」
とか、
「当たり前のことを当たり前にすることはとても難しいけど大切なこと」
と言った発言も被せます。

 ここでナレーションは、
「校長先生の話には生徒を思う熱い気持ちが込められていたのです」
とまとめ、最後に注意書きのように、
 すべての校長先生が本を参考に話しているわけではありません。
 近年は熱中症対策など生徒の体調を考慮し、話を短くしようという学校もあるそうです。

というテロップも掲示されました。

 チコちゃんは「自分の言葉でしゃべってほしい」とやや不満げでしたが、レギュラーの岡村隆史さんは、「あれだけ大勢の中でしゃべると中には上がってしまう校長先生もいるかもしれない」などと同情の姿勢を見せます。
 まずは順当な終わり方と言えるでしょう。


【しかしそれにしても】
 しかしそうした配慮はあったにしても、やはり「『校長講話集』というネタ本があるんです。全国で7割〜8割は使っておられると思います」はないと思うのです。

「全国で7割〜8割は使ったことがある」ならまだしも「(いつも)使っておられる」などということはないはずです。

 尾木先生も自分自身を「ボクね、生まれつきおしゃべりなの。だからネタ本はボクが編集したら面白くなると思う」とおっしゃるように、教員には生まれつきのおしゃべりみたいな人がたくさんいて、校長になるような人は皆ベテランですから話題にも事欠きません。
 それにも関わらずネタ本が売れるのは、より良い話題を探したり、卒業式や結婚式のような格式ばった場での挨拶の手順を確認したりするためで、ネタ本に頼り切って講話を行うような校長の方が稀なはずです。


【校長先生の話が長いのはなぜ?=本当の理由】
 ネタ本が原因でないとしたら、なぜ校長先生の話は長いのでしょうか。
 これについて理由がふたつ考えられます。

 ひとつは話の盛り込みすぎです。
 長い教師生活のほとんどを児童生徒の前で話すことに費やしてきた教員が、管理職になったとたんに話す機会を失うのです。校長先生にとって児童生徒の前でまとまった話ができるのは校長講話のときだけ。ですからあれも言いたい、これも話したいと盛り込んでいるうちに、どんどん原稿が長くなってしまうのです。

 校長講話は毎回時間時間オーバーという酷い先生がいますが、たいていはそういう事情です。担任が一週間かけて話すような内容を、わずか15分に盛り込もうとするから失敗します。
 NHKの言う、
「校長先生の話には生徒を思う熱い気持ちが込められていたのです」
の悪い面です。

 校長先生の話が長いもうひとつの理由は――言いたくはないのですが、話がつまらないからです。どんなに長い話だって中味が面白ければ「長い」などとは感じません。大好きなテレビ番組だったら2時間も3時間も見たって長くはないでしょ? つまらない番組だったら10分ともたずにチャンネルを変えます。


【校長先生のつまらない話は記憶に残る】
 校長先生の話がつまらなくなる理由のひとつは、ほんとうにつまらない話しかできない校長先生だったという場合です。そういう話を毎回聞かなくてはならなかった人は運が悪かったとわが身を嘆いてください。稀に話下手の先生もおられます。

 そうではなく、普通の校長先生なのに「つまらない」「長すぎる」という印象しかないとしたら、それは私たちが入学式か卒業式のときの印象しか残していないからでしょう。あれはたしかに、本当につまらない。

 とにかく市長代理やら議員やら、あるいはPTA会長やらの話をさんざん聞かされた後に出てきて、また似たような話をするわけですからたまりません。ほんとうは部分的にいい話が入っているのですが、基本的に新入生・卒業生に向けての話なので在校生にとっては他人事です。
 自分に関係のない話、他人が誉められたり励まされたりする話が楽しい人なんて誰もいません。自然と耳が閉じてしまいます。

 そのつまらない校長先生だって、普段はいい話をしているのです。とにかく毎日話をしなくてはならない担任の先生とは違って、一か月も前からたっぷり練ってきていますから、つまらないということはめったにないのです。
 しかしそれなのに記憶に残らない。なぜか。
 本当にいい話はすぐに自分の血肉となってしまい、誰によって語られたかは忘れ去られてしまうからです。
――と思いたいですね。


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2018/11/1

「11月の憂鬱」〜世界はどこに向かっていくのか  政治・社会


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 先月30日に韓国最高裁がいわゆる「徴用工訴訟」において、日本企業に賠償を命じる判決を確定させたことが大きなニュースとなっています。この判決はまた、時効に関する言及がないことから、徴用工問題に限らずありとあらゆる損害賠償請求が可能になったという解釈もあり、今後爆発的に訴訟が増える可能性があります。
 昨日の報道はなにを見ても憤慨の声が満ち満ちていましたが、私はなにか哀しくて哀しくて仕方がない感じでした。

「最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」とした慰安婦問題日韓合意が反故にされつつある今、「完全かつ最終的に解決された」と記した日韓請求権協定も一方的に無視されるとなると、韓国は今後どんな文言をもって諸外国との関係を結ぼうとするのでしょう。大韓民国はどこに向かっていくのでしょう。


【韓国はどこに行くのか】
 ここのところ文政権は日本やアメリカと距離を取り、北朝鮮とその向こうにいるロシア・中国に接近する様子を鮮明にしています。
 国連決議や米国との約束にもかかわらず、対北朝鮮制裁の緩和を求めてヨーロッパを回り、実際に韓国独自の制裁緩和を模索するなど、アメリカも内心そうとうに苛立っていると聞こえてきますが、いっこうにお構いなしです。

 韓国が約束を守らない国というのではありません。彼の国は情熱的に正義を求めてやまないのです。正義のためならどんな犠牲もいとわない.。どんなにところへも、どんなに古い過去へでも、平気で行こうとする国だと私には見えます。一度決まったことも、時代が変わり人が変わり、関係が変わって「あれは間違いだった」と思うと正さずにはおかないのです。

 それが日本に対してのみ不当に向かっているわけでないことは、セウォル号沈没事故のときの被害者家族の様子や朴槿恵大統領を罷免に追い込んだろうそく集会の様子を見ても分かることです。

 文大統領は積弊清算(過去の政権時代に積もった弊害=不正、そして不公正な社会構造を清算する)を掲げて当選してきたひとですが、その大統領のもとで、韓国国民はありとあらゆる積弊の清算を果たそうとしているのです。

 慰安婦合意は朴槿恵政権の積弊であり、日韓請求権協定は朴槿恵元大統領の父親である朴正煕政権や文大統領の政治的父親である盧武鉉政権の積弊なのです。これを清算するのにためらいのあるはずがありません。政治は妥協の産物ですが、正義は妥協してはいけないのです。

 また、前政権までが北朝鮮に対して取ってきた態度も改めなくてはなりません。まさか韓国の国民が唯々諾々と金王朝の軍門に下るとも思いませんが、そろそろ金正恩の統帥する核保有国、統一朝鮮の可能性も頭の隅に置いておく必要がありそうです。

 しかし繰り返し言いますが、私はそれをもって韓国を非難しようと思っているのではありません。とにかく哀しいのです。


【人生の11月】
 私も年齢的に人生の11月です。人生に年越しはありませんから終末に向かう準備をするといった意味です。
 十分に楽しく意義深い人生を送ってきましたから未練はほとんどありませんが、願わくば中国と北朝鮮の帰趨は見てみたいと、その程度が希望で、ブログで書いたこともあります(2015/7/6「今、思うこと」)。わずか3年前のことです。

 当時すでにクリミア危機がありISの全盛期でもありましたが、遠い地域のことですしロシアもISも経済基盤の弱い国・組織ですからやがて問題は解決されると踏んでいました。

 東アジアは妙な緊張感はあったものの、中国は国際社会で働くうちに次第にまっとうな国にならざるを得ないし、北朝鮮は明らかにじり貧だ。それになんと言っても太平洋にはアメリカ軍がいる、あとはただ中北の進む先を静かに見ていればいい。そしてうまく行けば、その結末をきちんと見てから私は死ぬだろう。子や孫や教え子たちの生きる世界がなんとか落ち着いて暮らせるものであることを確認して。
――そんなふうに思っていたのです。


【思ってもみない世界】
 まさか韓国に超親北政権が生まれて、ソウルのデパートに韓国大統領と金正恩が並んで笑いながら握手する巨大なポスターが掲げられる日が来るとは思いませんでした。父祖の代には何百万人もの同胞を死なせ、本人はミサイルや核のために多くの国民を飢えさせ、叔父や兄を平気で殺す暴君ですよ。

 合衆国にヤクザな大統領が出現して、これまでの秩序を片っ端ちゃぶ台返しすることも想像できなかったことです。あんな下品で頭の悪い男が、アメリカを魅了するとは今でも信じられません。

 独裁者は、エジプトのムラバクもリビアのカダフィも消え、やがてシリアのアサドも消えて次第に民主主義が浸透し、世界は安定期に入っていくはずでした。しかしアサドが生き残っただけでなく、フィリピンにもトルコにもブラジルにも、トランプ並みの独裁的・独断的な大統領が生まれ、イギリスのブレグジットも要するに「イギリス・ファースト」「メイク・UN・グレート・アゲン」なのです。これに先駆者プーチン・習近平を並べれば、世界は我ままな指導者の跋扈する場に変わってしまったことが分かります。

 私はまもなく死にます(と言っても10年くらいは生きるかな?)。しかし例えば孫のハーヴはまだ三歳なのです。あの子たちのことを考えると、またほんとうに哀しく、哀しくなるのです。




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