2018/11/14

「ゆとりですが何か?」〜羽生・大谷・藤井・梨花  政治・社会


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(ローレンス・アルマ=タデマ 「ホメロスの朗読」)

 エンゼルスの大谷翔平選手が大リーグの新人賞を取ったそうです。大したものです。心からお祝いを申し上げたいと思います。

 スポーツ界はこのところ活気にあふれ、10日(土)にはフィギュアスケートのNHK杯で16歳の紀平梨花さんがシニア・デビュー戦で金メダルというとんでもない成果を上げ、翌11日(日)には競泳の池江璃花子さんが100メートルバタフライで「世界女王」サラ・ショーストロムに勝利、さらにその翌日(12日)には錦織圭が宿敵フェデラーにストレート勝ちと、毎日、快挙の報せが届いています。

 その前の11月4日には卓球の伊藤美誠選手がスウェーデン・オープンで中国の強豪を次々と撃破して、12日も女子ダブルス決勝で伊藤美誠・早田ひなペアが王者中国を破って優勝しました。女子卓球界にはまだ平野美宇という、昨年4月のアジア選手権で中国勢を総なめにして優勝した選手もいます。

 さて――。


【1994年の奇跡】
 雑誌『文芸春秋』(12月号)には「『羽生結弦世代』最強伝説」という記事が載っていて、おもしろかったので少し紹介します。
 それによると今年スポーツ界を沸かせたアスリートたちは皆1994年生まれだというのです。

 ざっと羅列すると、スケート界からは羽生結弦、高木美帆。球界から大谷翔平、鈴木誠也、藤波晋太郎。サッカーで中島翔哉、南野拓実。競泳では萩野公介、瀬戸大也。バドミントンの桃田賢斗、奥原希望。パラリピアンではテニスの上地結衣。柔道のベイカー茉秋、プロバスケットボールの渡辺雄太。

 私は特にスポーツファンと言うわけではなくむしろ疎いくらいですが、その私でも全員の名前を知っているということは、いかにこの人たちが凄いかということです。
 ちなみにスポーツ界以外の1994年生まれを調べると、芸能界に川島海荷、宮沢氷魚、伊藤沙莉、福田麻由子、山崎賢人、二階堂ふみ、清野菜名、広瀬アリス、栗原類、など、これまた錚々たる陣容です(他にも拾い出せたのですが、私の知っている人だけにしました)。

 ではなぜ1994年生まれにこれほど突出した人材が集中したのか――それについて月刊文春はこんなふうに説明しています。

 専門家の間でひとつの理由として指摘されるのが、彼らが「ゆとり世代」だからではないか、というものだ。
(中略)
 1994年生まれの羽生世代は小学校2年生から「ゆとり教育」がはじまり、中学卒業までずっと続いた年代になる。小学2年生から完全週休二日制となり、学校生活に縛られないことで、子供たちがスポーツなど勉強以外の何かに打ち込みやすい環境になったという指摘がある。
 実際、大谷が少年野球チームに入ったのは小学二年生からである。
 また、ゆとり教育の目標のひとつに「子供たちの個性を伸ばすこと」があった。そのため、「ゆとり世代は集団行動をとることができない」という批判もあったが、裏返せば、個の力が増したとも言える。
 ゆとり教育はスポーツ界に効果があったという考え方は、あながち荒唐無稽とは言えないだろう。


 集団よりも個を伸ばすことに力点が置かれたから、というのはどうかと思いますが(ゆとり教育のために学校で、集団より個が尊重されたといったことはなかった)、完全学校5日制がスポーツや芸能に打ち込むのに有利だったことは間違いないでしょう。
 隔週土曜休みなどといった変則的な日程ではきちんとした練習計画など立てられません。完全五日制になって多くのスポーツ・芸能教室が経営として成り立ってきた事情もあります。

 そう考えると五日制の恩恵を受けたアスリート・芸能人は1994年以前にも、以後も、かなりいたはずです。


【改めて「ゆとり世代」】
 「ゆとり世代」の範囲については諸説あって、厳密に言えば“小中高等学校において2002年施行学習指導要領による教育を受けた人”ということになりそうですが、2002年に小学校に入学した95年生まれの子でも高校1年生からは「脱ゆとり教育」を受けていますから厳密な定義に当てはまる人はいません。

 ただし私の娘は1990年生まれで2002年を小学校6年生で迎え、中高は「ゆとり教育」の真っ只中で過ごしましたから、本人もゆとり世代だと思っているし周囲からもそう見られてきました。

 したがって大雑把に、高校3年間を「ゆとり教育」ですごした1987年生まれから、小学校に入学したときにまだ「ゆとり教育」をやっていた2003年生まれまでを「ゆとり世代」と呼ぶのが一般的なようです。年齢で言うと31歳から15歳までの人たちです。
 一番最初に名前を挙げた、紀平梨花、池江璃花子、錦織圭、伊藤美誠、早田ひな、平野美宇といった人たちはすべてここに入ってきます。

 年長の方から言えば、田中将大、前田健太、福島千里、香川真司、内村航平、入江陵介、福原愛、石川遼、松山英樹、石川佳純、浅田真央、大迫勇也といった面々も皆“ゆとり”です。AKBグループは全員、ももいろクローバーZ、きゃりーぱみゅぱみゅ、Perfume、佐々木希、堀北真希、長澤まさみ、岡田将生――芸能人は挙げたらきりがありません。

 学術・芸術面では今のところ五嶋龍、辻井伸行といった音楽家、史上最年少で直木賞を受賞した朝井リョウくらいで一般に名の知れた人は少ないですが、ピアノ、バイオリン、あるいはバレエなどの国際コンクールで毎年のように入賞者を出している現状をみると、彼らが一流アーチストとして活躍する日も近いはずです。スポーツ・芸能に比べると世に出てくるのが遅い領域です。

 ひとり重要なメンバーを忘れていました。ゆとり世代の異常ともいえる才能を体現する人、藤井聡太7段(2002年生)を落としてはいけません。


【時代は終わる】
 ゆとり世代は最強世代ではないか、ということは密かに語られてきたことです。そして今まさにその最強世代が終わろうとしています。
 政府も国民も、ゆとり世代の多様性・華々しさを捨て、地道で実りの少ない道を選んでしまったのです。
 卓越したコンピュータ技術者や英語使いを生み出すために、みんなで頑張ってプログラミングや外国語を学ぶ道です。世の中の大半はプログラミングも英語もほとんど必要ない人生を送るというのに。
 
 夏休みを減らされ、土曜日の授業を奨励され、おかげでスイミングスクールや少年野球に通っていた子どもたちは土曜日の練習に出られなくなり、夏も勉強漬けです。第二第三の藤井聡太を目指していた子どもたちも将棋道場は週一回と、そんなふうに自己規制をしなくてはならなくなります。

 私たちがバブルを語るように、今の若者たちは歳をとってから、
「平成の時代はほんとうに凄い人たちがいっぱいいたんだよ」
となつかしく自慢するに違いありません。




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2018/11/13

「特殊で、多様で、重すぎず、便利な日本の謝罪」〜戦場ジャーナリストと日本式謝罪の話2  教育・学校・教師


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(フランシスコ・デ・ゴヤ 「1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘」)


 先週金曜日の朝日新聞の記事、『安田さんおわび、外国特派員は「謝罪の必要あるのか?」』を発端として日本式謝罪について考えようと思っていました。しかし朝日新聞だけを頼りにした私の調査は甘かったみたいで、昨日のブログに引用した、「私の行動にミスがあったのは間違いないのでおわびを申し上げた」は朝日新聞が簡略しすぎた表現で、ほんとうはもっと含みのある言い方だったみたいです。
 同日のJUSTニュースによるとこんな言い方をしています。

「今回、謝罪と言いますか、私自身の行動に、いくつかのミスがあったことは間違いないので、この点について皆さんのご批判をいただいて、今後に生かしていくために、まず、ごあいさつと言いますか、ご批判をいただくにあたって、お詫び申し上げますということを申し上げている」

“それを言っちゃあイカンだろう”という意味で少し笑ってしまいました。
「謝罪はごあいさつ」だなんて言って、またネットで叩かれるぞと思ったのですが、少し巡ってみたところ案外そうでもなく、安田純平ネタはもう飽きられたのか、安田さんの話に説得力があったのか、ネットは意外と冷静でした。


【謝罪に至る経緯】
 解放直後の安田さんは3年間の拘禁から解放された興奮もあってか、日本に向かう飛行機内でも一言の謝罪もなく、感想を求められても荷物を返してもらえなかった恨み節をしゃべったりと何かとちぐはぐな感じを受けました。

 その違和感は私一人のものではなかったようでネットは大荒れ。高須クリニックの高須克弥院長はその日のうちに反応してツイッター上に投稿。

「この人には敬意ははらえません。兵士ではない。
兵士ならば敵に媚びる捕虜だ。
出でくるときは定番の作法を守ってほしい。まず『恥ずかしながら・・・』と謝りなさい」


 その他まとめサイトへの投稿なども「どの面下げて帰ってくるつもりか」「国に迷惑をかけるな」といった非難の声であふれ、特にYahooニュースのコメント欄は「自己責任論」一色で埋まったといいます。


【一瞬にして理解する日本人、まったく理解できない外国人】
 しかし一週間後に開かれた日本記者クラブでの会見では冒頭、
「今回私の解放に向けてご尽力いただいた皆さん、ご心配いただいた皆さんにお詫びしますとともに、深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました」
と述べるとともに、
「私の行動によって日本政府が当事者にされてしまったという点について、大変申し訳ないと思っております」
と謝罪したということですから、やはり安田さんは常識人だったというか、常識人がそばにいて何らかのアドバイスをしたのでしょう。

 高須先生の、まず『恥ずかしながら・・・』と謝りなさいはまったくその通りで、この国ではとりあえず謝罪しないと素直な話が始まらないのです。さらに安田さんの会見は他の部分も実に誠実で丁寧でしたので、それで批判の嵐は一気に引いてしまいました。

 同様の謝罪は先週、日本外国特派員協会の会見でも行われたのですが、外国人相手にその論理は通じにくかったみたいです。話は直截的に、
「命のリスクを負ってシリアの悲劇について同胞に伝えようとしていた安田純平氏が謝罪を強いられたことは受け入れられない。安田氏は困難を耐えたことに対して英雄として歓迎されるべきだ」
ということになります。そこで出てきたのが、まず、ごあいさつと言いますか、だったのです。

 日本人の在り方にかかわる問題ですから簡単に説明することはできません。外国の人に理解してもらうにはこんな説明しかできなかったのでしょう。言いえて妙ですが、それで深く追及されずに済んだようです。


【特殊で、多様で、重すぎず、便利な日本の謝罪】
 よく、「日本人はすぐに謝ってしまう」「謝りすぎる」と言われますが、私たちにとって謝るという行為にはさまざまな意味があります。

 被災地で自衛隊員に助けられたお婆さんが「申し訳ありません」と言ったら、それは間違いなく感謝の言葉です。自分のために時間もエネルギーも気もつかってくれたので謝罪とおなじ「申し訳ありません」を使用しますが、だからといって救助されるような状況になって深く反省しているとか、責任を取って費用をお支払いしますといった話にはなりません。

 道を訊ねる人が「すみません」と言って呼び止めても、それはせいぜい「お時間をとらせて申し訳ない」程度の意味で、基本は単なる声掛けです。

 出会いがしらの交通事故で「すみません。大丈夫ですか」と言ってもそれは責任を取るという意味ではなく、自分の心理的立ち位置を示しただけです。いずれは「責任割合、何対何」といった話を詰めなくてはならないのです。その話し合いの始まりを、相撲で言えば仕切り線を挟んで間隔を取るように、お互いに一歩下がったところからやりましょうという合図なのです。

 国によっては停まっている車にぶつけても「バカヤロー、なんでそんなところに停めてんだ!」から始めなくてはならないところもあるそうですが、それは話し合いのスタートを掴み合うところから始めましょうというその国の文化であって、最終的に引き合って「責任割合、何対何」にしなくてはならいのは同じです。
 ただし掴み合いから始めるのは、かなり気分の悪いことです。

 そこでここ20年ほどはアメリカでも、事故等で最初に発せられた「アイムソーリー」は責任を認めたこととしないという「アイムソーリー法」が広がりを見せています。人間どうし感情のあることですからやはり掴み合いから和解に持って行くのは容易ではないのです。日本のように、一歩引いてから改めて歩み寄る、その方がどれほど楽かしれません。
 これからはそうした日本式謝罪が国際標準になっていくのかもしれません。


【付記】
 私は「アイムソーリー法」に関して2度ほど簡単に触れていますが、そのうちのひとつが、2015/2/5「あるべき形」です。どんなことを書いているのかと読み直したら、奇しくもそれは戦場ジャーナリストの後藤健二さんがISに殺された翌々日、事件に関して書いたものでした。同じことを繰り返しても仕方ありませんので、ぜひともそちらの記事も読んでください。

 安田さん、無事帰って来てほんとうに良かったなと改めて思いました。


 ところで、「アイムソーリー法」について最後に書いたのが3年前で、現状はどうなっているか改めて調べたら、「アメリカにはこういう素晴らしい法律がある。日本も見習ってつくったらどうか」みたいな記事がいくつか出てきてきました。
 ガッカリしました。

「アイムソーリー法」には日本の文化が影響を与えたと私は聞いているのですが・・・。


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2018/11/12

「大国には義務がある」〜戦場ジャーナリストと日本式謝罪の話1  政治・社会


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(ピーテル・パウル・ルーベンス 「戦争の惨禍」)

 先週の朝日新聞に『安田さんおわび、外国特派員は「謝罪の必要あるのか?」』という記事がありました。
 安田純平さんに関しては解放以来ネット上に厳しい自己責任論があったようで、テレビでも何回も扱われていました。

 それに対して、
 国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は6日、「紛争下にある国々の現場にジャーナリストがいなくては、世論は偏った情報に頼らなくてはいけなくなる」とし、「(安田さんが)謝罪を強いられたことは受け入れがたい」とするコメントを出した
という事情があり、今回の特派員協会での会見が特に注目されたのです。

 会見の中で安田さんは、
「私の行動にミスがあったのは間違いないのでおわびを申し上げた」
と簡単に説明したようです。深入りするとのっぴきならないところまで引きずり込まれかねないテーマですので、誰もが納得できるところで簡単にかわした、というのが実情かもしれません。


【何のリスクも負わなくていいのか】
 自己責任論についてはよく分かりませんし、よく分からないまま深入りするのも危険ですので私もこれについて話さず来ました。しかし非常に単純な気持ちとして、次のような思いもあります。
 それは安田さんのようなジャーナリストが危険を冒して飛び込んでいかなければ、日本人としてちょっと恥ずかしいというようなことです。

 戦後70有余年、戦場で(殺されることはあっても)一人の人間も殺さず来たのは日本だけです。
 そこにはもちろん、憲法上の制約があって本格的な紛争地帯に自衛隊などの公務員を派遣できなかったという事情もあります。しかしそれでも「だれ一人殺さなかった」ということは名誉なことですし歴史の手本となるべきことですから今後も続けていくべきですが、さらにそのうえ、ジャーナリストも危険を冒さず、金を払ってニュースを買うだけとなると、素直でいるのは難しくなります。


【あの人の声】
 私は2012年にシリアのアレッポで殺害された戦場カメラマン、山本美香さんが撮影した動画に、特別な思いがあります。それは戦場の女性や子どもを次々と映す中で、一人の赤ん坊にかけた山本さんの、「わあ可愛い」という一言です(下の映像では17:50付近)。その声は女性だから出てきた声、女性にしか出せない声だと思ったのです。


 そこに女性カメラマンが戦場に行く意味があります。女性にしか切り取れない映像、女性だからこそ強く訴えられる事実があるのです。

 同様に、日本人だからできる、日本人にしかできない戦争報道というのがやはりあります。
 シリアについて言えば、この国は私たちにとってほとんど無関係な国、無関心でいられる国です。戦争のために失われる権益もなければ、嫌な言い方ですが長引いて日本製の武器が売れて儲かるといったこともありません。海を渡って大量の難民が押し寄せるといったことも起こりません。
 あるいは多くの自衛隊員が送り込まれていて、何人も殺されたり負傷されたりしているといった状況があれば、それはそれで公平な報道はできません。同胞が殺される土地で、政治的平衡を持ち続けるのはやはり困難だからです。
 つまり徹底的に無関係である日本こそ、もっとも“中立”に近い戦争報道ができるのです。その目で見られる特別な世界があります。


【政府が責任を負うべきだろう】
 私はまた、ジャーナリストは記事を売り、講演をすることで稼いでいるのだから万が一の場合も政府が動く必要はない、ましてや国民の税金を使って救い出す必要はないといった「自己責任論」にも与しません。

 なぜなら日本が大国だからです。国際社会の準主役として、それなりに諸外国に影響力をもつ国だからです。そういう国は国際平和のために働く義務があります。もちろん軍隊を送ることで義務を果たそうという国もありますし、わが国が行っているような貧困の除去、地道な支援活動によって紛争を根から枯らそうという試みもあります。しかしそれだけでは不十分でしょう。

 先に紹介したYoutube動画で、山本美香さんはこんなふうに語っておられます。
「伝える人がいないと、どんどん状況って悪化していくんですよね。
 ですから、少しでも、伝えることによって戦争が早く終わるかもしれないし、あるいはもっと拡大することを防ぐことができるかもしれない、やはり伝え続けるために取材をしたいな(と思います)」
(4:55ごろ)
「外国人ジャーナリストがいることで、最悪の事態を防ぐことができる」(16:32ごろ)
 
 もちろん政府が積極的にジャーナリストを戦場に送り出すことはできません。それどころか外務省は、海外安全情報を出して退避勧告や渡航中止を呼び掛けたりしているくらいです。

 しかし誰かが戦場の真の姿を世界に知らせ、何らかの歯止めをしようとしなければならないとしたら、多少とも世界に影響力のある国、いざという時に自国民を救い出す政治力のある大国が、ジャーナリストを送り出すしかないのです。その意味で、政府には捕らえられた自国ジャーナリストを救う義務があります。

 大国としての日本が世界に対して負う義務です。だから政府も安田さんに関して粛々と対応したのだと思います。たとえその人が安倍政権を激しく罵るような人であっても。

 さて、ほんとうは安田さんの特派員協会における会見を通して日本的謝罪について考えるつもりでしたが、時間がなくなりました。続きは明日お話しします。

                            (この稿、続く)




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2018/11/9

「アレクサ、何でも言うことをきいて!」〜Amazon Echo Dotを買う  オススメ


 しばらく以前、記事の中でAmazonのキャンペーン「Amazon Music Unlimited、今、入会すれば4カ月間99円!」にまんまと乗せられて入会し、豊かな音楽生活を味わったら元に戻れなくなり、おそらく月額780円を支払っても更新手続きをしてしまうだろう、またその際、スピーカ型音声アシスタント「Echo Dot」も買ってしまうだろうと、そんな記事を書きました(2018/10/19「私の音楽事情」〜Amazonに乗せられる)。
 そして案の定、
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 買ってしまった・・・。

 5980円。ケチな私としては空前のできごとです。

【Amazon Echo Dot(エコードット)】
 Amazon Echo Dotというのは「スマート・スピーカー」とか「AIスピーカー」という範疇で括られる機器のひとつで、しかしそれより「スピーカ型音声アシスタント」と言った方が分かり易い装置です。要するに話しかけて仕事をさせる道具、と考えればいいでしょう。

「Alexa(アレクサ)」という名前がついているのでその名で呼びかけ、続いて指示を出します。
「アレクサ、テレビをつけて」
「アレクサ、居間の灯をつけて。――もう少し暗くして」
「アレクサ、炊飯器を明日の朝7時にセットして」
「アレクサ、NHKテレビが見たい」
「アレクサ、パパは何時に帰るんだっけ?」
「アレクサ、8時までにお風呂を沸かしておいて」
といった具合です。

 しかし実を言えばこれができるためにはEchoDoTに対応するテレビ・電灯・炊飯器・風呂(これらをスマート家電という)を用意し、「パパの帰宅時刻」はネット上のカレンダーに書き込んでおかなくてはなりません。私の家には現在、Bluetoothでつなげるサウンド・バーがあるだけですから、今できるのは音をそちらに切り替えて大音量で流す程度です。(*)

クリックすると元のサイズで表示します*右のようなスマート家電コントローラーを使うと、赤外線リモコンで動くかなりの数の電化製品が操作できるみたいですが、評価はまちまちで迷っています。


 つまりこのままだと今はさほどではないが、おいおいスマート家電を買いそろえて行くにしたがって、やがて便利で快適な家庭生活が送れるようになる、そういう道具だとも言えます。

 もちろん「人間、それでいいのか」という問題はあります。しかし一部屋にあれこれリモコンが六つも七つもあって年じゅう探している私のような人間には、精神衛生上あった方がいいのかもしれません。


【今のアレクサにできること】
 では接続する機器のほとんどない今の段階で何ができるかというと、それでもけっこう面白いことがあります。

 まず、当初の目的である“音楽がかけられる”。
「アレクサ、ビートルズをかけて」「アレクサ、ゲスの極み乙女が聞きたい」
 それでOKです。ビートルズやゲスの極みの曲がシャッフル再生(適当な順番で)流れます。
「アレクサ! 静かなジャズをかけて」
 そう指示しても応えてくれます。

 あるいは、簡単な質問に答えられます。
「アレクサ、トランプ大統領の齢は?」――「ドナルド・トランプ大統領の年齢は72歳です」
「アレクサ、勤労感謝の日って何?」――「勤労感謝の日は国民の休日のひとつで・・・」
「アレクサ、吉野源三郎って誰だっけ」――「こんな説明がありました。吉野源三郎は・・・」
といった具合です。

 天気を予報を聞いたりNHKニュースを呼び出したり、簡単な翻訳もしてくれます。
「アレクサ、英語で“僕は休みます”って言って」
「アレクサ、英語でアメリカ議会の下院はなんて言うの?」
(それぞれ “I’ll take a lest”、 “American Congress House”と、きちんと答えてくれたらしいのですが発音が良すぎて聞き取れない・・・)

 また、かなりつまらないのですが、ダジャレを言ったり謎かけもできたりもします。
「アルバイトは――、ない場合と、ある場合とがある」
「野球とかけてスーパーマーケットのタイムセールと解く。その心は――」「フライめがけてまっしぐら」
(ま、なくていい機能かな)

 その他、「アレクサ、おはよう」とか「アレクサ、ありがとう」と言ったりすると、意外な答えが返ってくることもあり、なかなか楽しめます。

 EchoDotのスピーカーはかなり音質の良いもので耳元で聴こうとするなら十分ですが、最初から音楽が目的だったら物足りないかもしれません。その場合は最初からEchoDotの上位機、Echo(11980円)かEcho Plus(21151円)を購入しておくべきでしょう。しかしやはり室内で大音響で、ということになればステレオタイプのスピーカーが欲しくなります。

クリックすると元のサイズで表示します 私はテレビ用のスピーカーシステム「サウンドバー」を二年前に購入してあったのでそれに接続して楽しんでいますが、うちの装置はメインスピーカーが棒状(サウンドバーだから)で、テレビのリモコンの受信部にかぶさってしまい、寝っ転がった状態でチャンネルを変えようとするとうまく行かない場合があります。

 その点、後継機のPioneer HTP-CS1 コンパクトフロントスピーカーシステムはメインスピーカーがバーではなく、ふたつに分かれているので都合がいいいいかと思います。やはりそれなりの進歩はあるものです。オススメです


【EchoDotで困ること、できないこと】
 しかし何もかもいいというわけではありません。
 使い始めてかなり早い時期から気づいたことですが、問題のひとつはEchoDotの側からの情報がほとんどないということです。

 具体的に言うと、や上位グレードのAmazon Music Unlimitedにどんな曲が入っているか、目に見える形で提示されてこない。したがって私の知っている曲やアルバムしか要求できないのです。

 また、
「アレクサ、モーツァルトのレクイエムをかけて」
というと、
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『レクイエム―怒りの日』を再生します」
となって、
(オイ!ちょっと待て! 途中から始めるな!)

 うまく全曲を引き出すことができなかったりします。




 その点でコンピュータの「Amazon music」(アプリケーション)やFire TV stick(Amazon primeの映画および音楽の受信機)は、画面を見ながら、「おや、こんなアルバムがあるんだ」とか「これを最初から聞こう」といった具合に目で追っていくらでも調整ができる便利さがあります。

 もちろん「Amazon music」や「Fire TV stick」で覚えてEchoDotに呼びかけてもいいのですが、それなら最初からコンピュータやstickで聞けばいいだけです。

 また、Prime musicの中に“ある”のは分かっているのに音声認識に引っかからないものもあります。
 ビートルズの「アビーロード」は再生してもらえるのに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」はうまくかけてもらえません。私の発音が悪いからでしょうが、どうやったらできるのかいまだに分かりません。

 購入して三日目、EchoDotが突然反応しなくなってしまいました。動いてはいるようなのですが何度呼び掛けても応えてくれない。
 しかたがないので最後には諦めて再起動をかけ、WiFiにつなげるところから全部やり直してそれでもつながらないので、返品・交換を考え始めたとき、突然気がついたのです。
 私は「アレクサ」を忘れて、「アレックス!」と呼び掛けていたのです。これで答えるわけがない。

 先の「サージェント・ペパーズ〜」同様、こちらがしっかりしていないといけない、工夫していかなければいけない、要するにお互いが育って行く必要もあるということです。

 スマートスピーカーEchoDotできることはいまのところその程度ですが、10年後、20年後を考えるときっと生活のかなりの部分を音声認識にやってもらうことになります。それに向けて、今から慣れておく入門機と思えば、値段も手ごろ、使い勝手もよく、かなり面白い装置だと思いました。

 なお4000万曲から曲が選べるAmazon Music UnlimitedはEchoDotから加入すると月額380円ですむそうです。私はそうしました。




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2018/11/8

「偉大なアメリカの終焉」〜中間選挙が終わって  政治・社会


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(アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩「ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー」』)

【アメリカ中間選挙が終わって】
 終わってみれば大きな波乱はなく、事前の予想通り上院は共和党、下院は民主党の勝利ということになりました。
 上院の改選議席35のうち共和党の現有数は8で、つまり8議席以上取れば過半数を制する状況でしたのでもともと有利だったわけです。
 したがって下院の結果が民意となるのですが、そこで一定の「No!」を突きつけることができたのはよいことでした。ただしトランプ大統領はツイッターに、「今夜は大成功だった。みんなありがとう!」と投稿したとか――。

 忘れていました。魔法の言葉「フェイク・ニュース!」で客観的事実をいくらでも曲げることのできる人でした。選挙結果と関係なく、これからも自信をもって、いままでのやり方を進めていくに違いありません。

 日本のメディアには、トランプ大統領が内政で自由の効かなくなった分を外交で取り戻そうと日本にも過大な要求をしてくるかもしれないと煽っていますが、どっちみちそうする人です。冷静に対応策を練りましょう。

 アメリカが頼りになる友人でないことがはっきりすれば、かえってやれることは多くなります。


【憧れのアメリカ】
 思えばアメリカは一貫して世界の憧れでした。
 映画「ウェストサイド物語」に「アメリカ」という曲があり、そこではプエルトリコ移民の子どもたちがこんなふうに歌っていました。

 アメリカが好き
 私の好きなアメリカ
 アメリカならすべてが自由だ

 摩天楼のアメリカ
 キャデラックのブンブン走るアメリカ
 工場がガンガン音を立てるアメリカ

 アメリカなら人生は輝き
 生活はすべてよし!
 誰もが祝福される国
 誰もが来たがる国
 アメリカ!





【日本の中のアメリカ(昭和)】
 私が子どものころ、テレビは草創期で国内制作の番組だけでは枠が埋まらず、そのために大量のアメリカンドラマが放送されていました。

 今から考えるとなぜ私たちがアメリカの西部開拓史などに憧れなければいけなかったのか分からないのですが、「ローンレンジャー」やら「シャイアン」やら、「ララミー牧場」だの「テキサス決死隊」だのを見ながら、翌日は野山を駆け回り、指鉄砲で相手を撃ちまくるのがそのころの一番の遊びでした(撃たれたら十数え終わるまで死んでるんだぞ!)。

 あるいは「ドクター・キルディア」だの「ベン・ケーシー」(猫の名前ではない)だのを通じて最先端医学に触れ、「0011ナポレオン・ソロ」や「スパイ大作戦(ミッション・インポシブル)」を見ながらアメリカの正義について考えたりもしていました。

 「弁護士プレストン」を見ては将来は裁判で人を救う仕事につきたいとか、「タイムトンネル」に夢中になって本気で科学者になることを考えたり、「刑事コロンボ」で自分も地道な捜査に励みたいなどと思ったのもそのころです。

 一方「うちのママは世界一」だとか「ザ・ルーシー・ショー」「奥様さまは魔女」といったファミリーコメディからはアメリカの一般家庭の生活を知ることができました(ほんとうは一般家庭でなかったのかもしれませんが)。
 「パートリッジ・ファミリー」だと思うのですが主人公の女性が号泣する場面があり、ティシュ・ペーパーを箱からバンバン引き抜いて涙をぬぐったり鼻をかんだりするのを見て、紙をあんなに無駄遣いできる経済力の凄さに怯えたものです。

 総じて私たちの目の前にはいつもアメリカがあり、そこに向かって歩いていたのです。


【教育の世界のアメリカ】
 いつのころから、アメリカは目標でなくなってしまいました。
 しかし新しいもの、良いと言われるものは、気がつくと今もアメリカです。

 特に教育の世界では顕著で、エンカウンター、インクルーシブ教育、キャリア教育、ICT教育。メディア・リテラシー、プログラミング教育、学校マネジメント、PDCAサイクル、コミュニティ・スクール。教育バウチャー、学社融合フォーラム、特別支援コーディネーター、グランドデザイン、スクール・ハラスメント、アカウンタビリティ、コンプライアンス、ALT、ADHD、LD、ADD、AS、PTSD、NRT・CRT、NIE・・・・きりがありません。

 学力でも道徳でも保健衛生を含めた体育でも、とうに抜き去ったはずなのに今も教育はアメリカに教えてもらわなくてはならないテーマなのです。

 そう考えると、トランプ現象・アメリカの分断もあながち悪いものでもないのかもしれません。


【偉大なアメリカの終焉】
 トランプ大統領は繰り返し“Make America Great Again”とか言っていますが、誰も憧れないような国が偉大であるはずがありません。正義や人権や民主主義のために戦わないアメリカなんて、なれたとしてもせいぜいが“mighty America”です。中国やロシアと一緒、あるいは核を持った北朝鮮と同じようなものです。

 誰も自分の国が中国になればいいとかロシアになればいいとか思ったりしないでしょう。それと同じように、アメリカが目指すべき国ではないこと、目指してはいけない国であることをトランプのアメリカは如実に示してくれました。

「ウェストサイド物語」でリタ・モレノが、
 誰もが祝福される国
 誰もが来たがる国
 アメリカ!

と歌ったアメリカは、もうないのです。

 教育も、学校も、もうそろそろアメリカから脱することを考えなくてはなりません。彼の国の教育を見習えば彼の国のようになってしまうかもしれないからです。トランプがそのように教えてくれています。


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2018/11/7

「合衆国と世界の行き着く先」〜中間選挙始まる2  政治・社会


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(アルフォンス・ミュシャ『スラヴ叙事詩「スラブ菩提樹の下で行われるオムラジナ会の誓い」』)


 今日のお昼ごろ大勢が判明するとのことで、これを書いている今はまだ投票時間内なので何も新しい情報はありません。さて――。

【私たちに人権のあることは、うまく説明できない】
 今週の「西郷どん」に岩倉遣欧使節がヨーロッパに出発する場面がありました。条約改正が大きな仕事でしたが列強の態度はケンモホロロで早々に諦め、さまざまな見聞を深めて帰ってきます。「自由」「平等」といった人権思想を学んだのもこの時です。

 しかし明治6年(1873)横浜港に戻った彼らはその時点で挫折します。
 苦労して学問をしてヨーロッパにまで行った自分たちと、横浜港で昼から酒を飲んで博打を打っている沖仲仕とが「平等」、というのがよく分からないのです。

 今の世の中でも、同じ意味で「平等」や「自由」が理解できない人はたくさんいます。
 かく言う私も、
「教師も児童生徒も同じ人間として平等だ」
と言われると戸惑います。生物学的に平等なことや日本人としての権利などで平等なのは分かりますが、児童生徒と教師という関係においても平等となるとどう振る舞えばいいのかわからないのです。

 突き詰めると「人間は皆、自由で平等だ」というのはうまく説明できないものなのです。
 ですからアメリカ独立宣言も、
「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」
といきなり書き始め、フランス人権宣言も第1条(自由・権利の平等)は
「人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する」
となんの説明もなく、いきなり始めるしかありませんでした。
 
 誰もが納得するような形での説明はできない、しかしそういうものだというところから始めないと社会の調和は保てない、だからそういうことにしようというのが人権思想の始まりなのです。


【「これはPC(ポリティカル・コレクトネス)ではないと思うが・・・」】
「自由」「平等」を筆頭とする基本的人権は完全に定義しきることのできない性質のものです。タガがないのですからしばしばそれは過剰になります。

 嫌なことをされたり言われたりするとすべて「ハラスメント」という括りで糾弾したり、男女差を想起させる言葉や少しでも差別の匂いのする表現をすべて書き直すといった「言葉狩り」もそれです。

 おそらく英語の「ポリティカル・コレクトネス(Political Correctness:政治的に正しいこと)」にはそういった人権意識の過剰に対する拒否感が込められています。少なくともドナルド・トランプが使い始めた時はそうでした。

 2年前の大統領選挙の当初からドナルド・トランプは「これはPC(ポリティカル・コネクトス)に反すると思うが――」と前置きしてから、普通の人間なら公式の場では決して口にできない汚い言葉で相手を罵っていました。

 ヒラリー・クリントンは夫を満足させられていないのに、なぜアメリカを満足させられると思っているのか?
 俺は美しいものに自動的に引き寄せられる。そしていきなりキスするんだ。磁石のようにな。そして手をつっこんで触ってやる。
 日本が攻撃を受けたら我々は即座に助けに行かなければならないが、米国が攻撃されても日本は我々を助ける必要はない。公平だろうか?
 メキシコ人は麻薬や犯罪を持ち込む
 メキシコとの国境に「万里の長城」を建設し、費用はメキシコに全額払わせる。
 すべてのイスラム教徒をアメリカ入国禁止にする。


 トランプはこうして「自由」「平等」といった基本的人権から「正義」「弱者救済」「自由主義経済」「同盟国擁護」「グローバリズム」といったこれまでアメリカが前面に押し出してきた価値のすべてに、ツバを吐き掛け始めたのです。
 それがアメリカ国民や海外の一部の政治家の手本となり、ミニトランプや◯◯のトランプ(例えばフィリピンのトランプ)を生み出して一気に広がります。
 アメリカ大統領は常に手本とされた存在でしたから。
――それが現状です。


【合衆国と世界の行き着く先】
 ニュース解説の木村太郎さんは、
「トランプ大統領のためにアメリカの分断は進んだと思います」
かと問われて、
「アメリカの分断なんて昔からだよ」
と答えていました。
 それは一面、まったくその通りなのです。
 合衆国は最初からバラバラな烏合の衆のつくった国です。歴史も浅すぎます。

 しかしアメリカはその烏合の衆を、「自由」「平等」「正義」「弱者救済」といったさまざまな理念でまとめ上げることに成功した。その旗印を通じて「強いアメリカ」を実現してきたのです。
 アメリカは正義の国であり、世界秩序を守るために存在する――その意志が「偉大なアメリカ」を成立させていた。ジョージ・ワシントンもリンカーンも、JFKもその他の人々も、高い理想を掲げてこの国を率いてきた――。その扇のかなめを、トランプ大統領はいとも簡単に破壊してしまったのです。

 今、アメリカは民主・共和の二つに分断が進んでいるように見えますが、分断がそれで終わるはずがありません。かなめがないのですから四分五裂していくしかないのです。

 エリートと非エリート、富めるものと貧しいもの、老人と若者、男と女、人種・民族、宗教・思想、趣味・嗜好、そういった一切が分断の契機となり得る――。

 国際政治もそれに合わせて同盟は崩れ、EUのような共同体も櫛の歯の抜ける如く欠けていきます。しばらくは集合離散を繰り返しますが、ますますトランプ流のオラオラ政治が蔓延し、やがて分裂していくしかありません。

 それが今、私たちの目の前で起ころうとしていることです。
 それでも合衆国が「強いアメリカ」を存続しなければならないとしたら、合衆国にヒトラーを待つしかありません。1933年のドイツがそういう選択をしたように。

 さて中間選挙の結果はどうなったでしょう?

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