2018/8/31

「遠山の金さんとヤマンバギャルの共通項」〜タトゥーと校則問題3  教育・学校・教師


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【黒ければ黒いほどエライ】
 遠山金四郎景元に桜吹雪の刺青があったかどうかという点について、諸説ありますが私はあったと思います。これについては以前「2011/3/2 遠山の金さんの日」で書きました。
 その中で、「しかし時代を考えると『桜吹雪』といったあでやかなものではなく、『カッと目を見開いた女の生首』といったおどろおどろしいものだった可能性の方が高い」といったことも記しました。
 しかしなぜそんな気味の悪い図柄を刺したのでしょうか。

 上の写真の「黒いバラ」もそうです。とてもではないが「美しいから」とか「可愛いから」といった話にはなりません。
 そこで思い出したのが、元ガングロ少女の次の証言です。
「あの頃は、黒ければ黒いほどエライと思っていた」


【遠山の金さんとヤマンバギャルの共通項】
 ガングロとかヤマンバと言われ、ほとんど盛装したアフリカの一部族としか思えないファッションが流行したのも、もう20年も前のことです。人を怖れさせる以外に何の意味があるのかと全く理解できなかったのですが、「エライと思っていた」と説明されると案外スウ―ッと落ちてきます。

 つまりそういうことです。
 30歳過ぎても定職にもつけず、ヤサグレていた遠山金四郎の周辺では“刺青はオドロオドロしければオドロオドロしいほどエライ”という共通の価値感があり、写真の黒バラはそれが「美しい」「カッコいい」「エライ」という価値観を共有する人たちの間で意味があると考えられるのです。

 そう考えていくと、肩に妻と子の名前を彫ってインスタグラムに載せるというりゅうちぇる君の突飛な行動も、理解できるようになってきます。ネットの向こう側に同じ価値観を共有する無数の“仲間”を想定してしまったのです。

 フォロワーの大部分がファンだということもあります。さらに彼は沖縄出身ですからSNSの先にグローバルな存在、昨日の分類で言うと欧米キリスト教的文化に近い人々を想定しがちだったのかもしれません。生まれたばかりの子のために、その名を体に刻み込むというりゅうちぇる君にとっては自然な行動が、これほど理解されないとはまったく考えなかったのでしょう。
 芸能人としての自分が、今どんな世界で成功しつつあるのか、彼は掴み損ねていたのです。
 

【茶髪・ボンタン・ミニスカート、闘いの日々】
 ところで、そのガングロが世に出始めたころ、中学校の教師だった私は生徒の「色がどんどん赤っぽくなっていく髪の毛」と、男子の「太くなる一方のズボン」と、女子の「短くなる一方のスカート」との戦いに明け暮れる毎日でした。
 とにかく連日「スイミングで頑張りすぎてプールの塩素にやられて髪が脱色し始めた子」や「妹にコーラをかけられて色が抜けてしまった子」や「お母さんの髪染めシャンプーを間違えて使っちゃった子」や、すごいのは「シャンプーをして目の見えない状態でリンスをしようかと思ったら漂白剤だった子」だとかが続々出てくるのです。
 
 男子のボンタン(やたら太いズボンをそう呼んだ)は取り上げるに枚挙のいとまがなく、女子のミニスカートに至っては普通のスカートをたくし上げているだけなのでなお始末が悪い。

 廊下の遥か遠くから歩いてくる女生徒が両手を腰に当て、モジモジと動かしている。要するたくし上げているスカートを元に戻しながら歩いているわけで、私とすれ違うころには普通の丈になっています。
 今さら指摘しても水掛け論ですからその耳元で一言だけ言っておきます。
「オマエのスカートは緞帳か?」

 しかしすべての生徒が教師と闘争を続けていたわけではありません。
 
 勉強のできる子、スポーツで活躍できる子たちは比較的無頓着です。彼らは勉強や練習に忙しく、教師と対立して不利益を被るなど真っ平だと思っていますし、そもそも髪を染めたり服装違反をする意味が分かりません。
 また、学級集団の隅でひっそり暮らす子たちも興味を示しません。実際には関心もあるのかもしれませんが、妙に目立って生意気だと思われるのも損ですからおとなしくしているのです。
 そしてそれらのいずれでもない中間層、勉強やスポーツで活躍もできずさりとておとなしくしているのも嫌な子たちの中から、外見をあれこれしたがる子が出てきます。

                               (この稿、続く)


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2018/8/30

「タトゥーの忌避は偏見か」〜タトゥーと校則問題2  政治・社会・文化


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【タトゥーの忌避は偏見か】
 おそらく日本国内で、現在も多数派であるタトゥーに対する否定的な見方を、「偏見」と呼んでいいかどうかは微妙です。

 私は何かを語るに際して「辞書では・・・」と始めるのを好みませんが、確認のために調べると、「偏見」は、
「かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情」(大辞林 第三版)
とあります。
 タトゥーを入れているというだけで否定的な判断をし、非好意的な感情をもつことはやはり「偏見」になりそうです。問題はそれに「客観的根拠」があるかどうかです。


【タトゥーと彫り物の間に線を引くことはできない】
 これに関してダウンタウンの松本人志は、
「(外国人)観光客がどんどん増えてきているんでね。なんでもかんでもプールじゃなんじゃタトゥー禁止ってなるのは、僕はなんかちょっと考えたほうがいいかなあって」
と、プールや温泉が一律にタトゥーを禁止していることについて、考え直す必要があると話しています。しかしその一方、
「さすがに『Kill you』って書いてあるのは嫌ですけど、なんかちょっとかわいい(見た目のタトゥー)みたいなものが入ってたら、それ見て恐怖心は抱かない」
とも言って、許容が限定的であることを暗に示しています。
 そこが「客観的根拠」の境目です。

「ちょっとかわいい(見た目のタトゥー)みたいなもの」だと忌避する客観的根拠にならないが、「『Kill you』って書いてあるのは」(恐怖心を抱かせるものだから)客観的根拠になるというです。ましてや昨日・今日と私がタイトルに使ったような全身タトゥーやそれに近いものは許容できないということでしょう。
 大方の日本人が同意できる常識的な考えだと思います。タトゥーと言えど全身となると並んで入浴するのは落ち着きません。
 ただし現実問題として、これが判断の基準にならないことも明らかです。

 昔、“全身毛むくじゃら”みたいな男性を全裸にして、布で隠したうえで徐々に下げて行ってどこまで下ろしたらわいせつ罪になるかという挑発的な実験の写真を見たことがありますが、それと同じで「どの程度のタトゥーが恐怖を抱かせるか」とか「なぜ花柄は良くてドクロはダメなのか」「面積は何平方センチメートルまでか」と言った果てしない議論にならざるを得ないからです。

 結局、見るからにヤクザな倶利伽羅紋々(クリカラモンモン)から可愛いワンポイントタトゥーまで、十把一絡げに禁止せざるを得ないのはそのためです。
 そしてそれでいいと、多くの日本人が感じています。どんな小さなものでも、あるよりはない方がいい――日本人のタトゥーに対する許容量はかなり低いのです。
 ところで、こうしたタトゥーに対する日本人の不寛容と、やたらと彫りたがる欧米人(特にアメリカ人)、その差はどこから来るのでしょう。


【肉体は親や先祖からの頂き物ー日本の文化】
 これについて私は3回ほど書いていますが、そのひとつが「2011.11.01 親孝行考」です。
 そこでは子どものころ片目を失った伊達政宗が、生涯に渡って隻眼の肖像を許さなかったという話を紹介し、たとえ病気とはいえ、親からいただいた身体を傷つけてしまったことを恥じていたからだと説明しました。
「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く、あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始め也(身体は髪や膚に至るまですべて父母より与えられたものである。これを傷つけないのは孝行の最初の一歩である)」(論語)
は、人として最低の倫理と考えられていたのです。

 時代劇でヤクザや渡世人が刺青をするのはそうした倫理に対する意図的な反抗であり、生涯消せない刺青を入れることで親子の縁を切り、一般社会と隔絶して生きる道を選んだことを明らかにするのです。
 江戸時代の後期にいたると町人の間にも大いに流行しますが、それとて新門辰五郎の町火消や、銭形平次のような岡っ引き・下っぴきの、いわゆる“親分=子分”で結ばれた世界までです。

 現代のタトゥーには親兄弟の縁を切るといった厳しい意味はありません。しかしプールだの温泉だのといった当たり前の娯楽を諦め、場所によっては真夏でも長袖を着て肌を晒さない覚悟ができなければ行えないものです。人から奇異の目で見られたり、敬遠されたりすることも辞さない、そうした人間だけができる特別なものなのです。
 まっとうな人間は刺青など刺さない、そうした思いは根強く私たちの中にあります。

 事故などで肉親を亡くした場合でも、日本人はそれがどれほど険しい山岳地帯であろうと大海原であろうと、必ず現場へ行って骨のひとつも拾おうとします。たとえ肉片のひとつでも戻ってくれば、それが死者を迎え入れたことになりますが、帰ってこないといつまでも死を受け入れることはできません。
 東日本大震災から7年も経った今でも、年に何回か人を出して海岸の砂利をさらって遺骨を探すのはそのためです。
 そうした頑固な肉体信仰は欧米にはないものでしょう。


【肉体は魂の入れ物ー欧米の文化】
 一方、欧米人は肉体に対して冷淡です。それは魂の入れ物であって死ぬと抜け殻となって残る残骸すぎません。真に価値のあるものは魂であって、肉体はむしろ蔑むべきものなのです。もちろんキリスト教の影響です。

 絵画や彫刻において、古代ギリシャ・ローマ時代にあれほど豊かだった肉体表現が、中世になるととんでもなく貧困になるのはそのためです。
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(左がルネサンス以前、右が以後)

 再び肉体が豊かに表現されるにはルネサンス(いわゆる文芸復興、人間中心主義)を待たなければなりませんでしたが、肉体の軽視または蔑視はその後も欧米文化の底辺を脈々と流れ、今日に至っています。

 遺体を修復し消毒した上で保存処理をするエンバーミングなどは、けっして日本では発達することはなかったでしょう。肉体を“単なるモノ”と考える感性がなければできることではないからです。

 タトゥーもその延長上にあり、身体をキャンバスのようにあつかって自由に絵画表現を行うという発想は、肉体を魂の着物と感じて初めて成り立つものです。

 身体を親からいただいた大切な人間の要素だと考える日本の文化と、真に大切なのは魂であって身体ではないとする欧米キリスト教文化は基本的に衝突します。
 その衝突の現場のひとつが、りゅうちぇる君の肩の上にあったのです。

                              (この稿、続く)



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2018/8/29

「更新しました」〜全国学テはもう死んだ。  教育・学校・教師



「キース・アウト」
2018.08.29
全国学力テスト事前練習に追われる学校現場授業が進まない


 
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2018/8/29

「りゅうちぇる(流血?)の事態」〜タトゥーと校則問題 1  政治・社会・文化


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↑りゅうちぇる君ではありません。単なるイメージ。

【りゅうちぇるの事態】
 夏休みも終盤に差し掛かった8月19日、芸能界で興味深い出来事がありました。りゅうちぇるという芸名のタレントがインスタグラムに写真を載せ、両肩に彫った妻と子の名前のタトゥーを公開したのです。それに対する反応はすさまじく、後にりゅうちぇる君は「こんなにも偏見されるのかと思いました」と驚きを表すとともに「こんなに偏見のある社会 どうなんだろう。仕方ないよね。ではなく、僕は変えていきたい」と自らの主張を掲げています。

 同じツイッターの文面には、
「結婚して、子供がいつかできたら、家族の名前を身体に刻もう。と結婚する前、3年前から決めてました。その3年でたくさん考えて、それなりの覚悟で入れました」
とかなり以前からの覚悟であったことや、
「この体で、僕は大切な家族の笑顔を守るのです。なので、この体に、大切な家族の名前を刻みました」
とタトゥーを入れた理由などについても書かれていますが、反応の大きさに驚いているようではやはり愚かというしかないでしょう。この国でタトゥーや刺青を入れて生きるのはなかなか容易ではないのです。


【タトゥー(刺青)のリスクとコスト】
 りゅうちぇる君は
「3年でたくさん考えて、それなりの覚悟で入れました」
と言っていますが、そこには、タトゥーを入れることによって仕事の幅の狭まること、ひいては生活の基盤が多少なりとも不安定になることは入っていたのでしょうか?

 若者に絶大な人気のある「りゅうちぇる=ぺこ夫妻」ですから、その二人が親になったとなればミルクや紙おむつといったベビー用品のCMのオファーもあったかもしれません。しかしもはやムリです。育児や教育に関する番組も、敢えて二人を起用する放送局もないに違いありません。

 また、30歳過ぎて40代・50代になっても今のままの立ち位置で芸能界にいられるはずもありませんから、いずれは転身を図らなくてはなりませんが、歌手になっても紅白歌合戦は望むべくもありませんし、俳優になっても肌を曝す場面では使えません。
 もちろんそうした制約を凌ぐほどのビックネームになれば話は別ですが、そもそも大物芸能人に成長する機会がグンと減らされます。十分な修行の機会が回ってくるかどうか・・・。

 芸能界を離れればそうした制約はなくなります。現在のりゅうちぇる君はファッションリーダーでもありますから、その世界で生きて行くとなればタトゥーはさほど問題ないでしょう。しかしお子さんはどうです?


【家族の旅行先・遊び場所が制限される、学校では敬遠される(かも)】
ツイッターには子どもとプールや温泉に入れないといった指摘もあったようで、りゅうちぇる君は、
「ぼくたちは、日本の温泉や、プールには行かないとおもいます。その理由は名前を刻んだということとは関係ありません。ぼくたちは、子供の顔を出していないので 子供の写真を盗撮されると困るし、子供がびっくりしたり、怖くなってしまうことが、あるかもしれないので、大勢の人が集まる場所には なかなか行かないと思います」
と書いています。
 大勢が集まる場所へは行かないといっっても、まさかデパートやディズニーランドにもいかないという意味ではないでしょうが、子ども自身が大きくなって温泉やプールに行きたいと言い出しても、そう簡単には行けなくなる、いちいち外国の温泉やプールまで足を運べなくてはならなくなる、そういった覚悟もあったのでしょうか。

 親のタトゥーのために子どもがいじめられる、あるいは敬遠される、他の保護者から「あの子には近づかないように」などと同級生が遠ざけられる、そういった事態に立ち向かう覚悟もあったのか。
 むろんタトゥーは法律違反ではありませんから差別は是正されなければなりません。親は学校に足を運び先生に対応してもらう必要があります。そしてきちんと対処できたかを確認し、その後も同様のことがないか常に気を配って繰り返し学校に行かなくてはならなりません。その時間とエネルギー、それってもともと無駄ではありませんか?
 さらに言えば親の“覚悟”のために子が苦労させられるのはやはり理不尽です。

 そう考えると、タトゥーを入れることのリスクとコストは膨大で、得られるものとのバランスシートが合いません。

 22歳の男の子なんてまだまだ子どもだなと思わせるに十分な出来事です。
 ネット上には「誰にも迷惑をかけていないんだから、個人の自由でいいんじゃないか」といった発言もありましたが、養う家族のいる人間には当てはまらない話です。

 誰かがりゅうちぇる君に教えてあげる必要がありました。妻であるペコちゃんはどうしていたのでしょう? 23歳の女性は男と違ってかなり大人です。ペコちゃんも見たところかなりのしっかり者ですから、なぜ止めなかったのか不思議です。 


【愛は永遠ではない】
 世の中には、生きていく上でやっていいこととやってはいけないことがあります。そしてやっていけないわけではないが、相応のコストやリスクを覚悟しなくてはならないことも少なくありません。そのコストやリスクの大きさも、生きて様々な経験をする中で学んで行くことです。しかしりゅうちぇる君はあまりにも若くして結婚し、父親となり、早すぎる判断をしてしまいました。
 愛は永遠だと信じて身体に妻や恋人の名前を彫れるのは、せいぜいが二十代半ばまでで、私のように三十代も半ばの結婚だとそんな危険なことはしません。「人間は弱いものだ」思い知ってしまうからです。
 子どもはまだしも、離婚した後も引き続き元妻の名を背負うのは苦痛です。


【りゅうちぇる事件は偏見の問題なのか?】  
 さて、しかし今回りゅうちぇる君の問題に私が首を突っ込んだのは、若者の浅はかな行動に年長者として説教を垂れたくなったからではありません。事件を取り巻く様々な意見の中に、主としてりゅうちぇる君を支持する側から、これを差別や偏見の問題としって扱う意見が少なくないと感じたからです。
 タトゥーを忌避するのは、果たして差別や偏見の問題なのか。
 これについては、明日考えます。

                    (この槁、続く)



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