2018/6/29

「虐待と躾を分けるもの」〜目黒女児虐待死事件より4  親子・家族


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(ピーテル・パウル・ルーベンス「ソロモンの審判」)
               
【“虐待”――その説明が分からない】
 目黒の女児虐待死のような事件が起こるとメディアは「ストップ!“児童虐待”」の一色になってしまいます。もちろんそれ自体は悪いことではありません。
 しかし「大声で怒鳴ることも虐待」みたいな極端な話がはびこるのは、到底健全な状況とは思えません。

「どんな理由があっても、子どもをたたいたり、怒鳴ったりしてはいけません」
とか、
「感情的になって叱るのは虐待です」
とか、
「無視、拒否的な態度、罵声を浴びせる、言葉によるおどし、脅迫、これらはすべて虐待です」
とか、
「『うまく子育てができないと思い詰めて苦しい』『子どもの行動が気に入らない、可愛いと思えない』『「この子がいなかったら」と自分を追いつめてしまう』。これらはすべて虐待のサインです」
とか。
 一応ごもっともですが、これらの言葉がどれほど親を追い詰め、育児不安に陥れていることか。
 私はもうその年齢ではありませんが、子育て真っ最中の二十数年前、これらの言葉を繰り返し投げかけられたらほんとうに苦しかったと思います。

 だって例えばわが子が悪いことをした時、感情的にならずに済ませられますか?
 子どもが万引きをした、よその子をイジメた、もっと幼い時期だったら包丁を遊び道具にし始めた、急に車道に飛び出した――そうした時でも感情的にならず、落ち着いて叱ることができるとすれば、私はむしろその冷静さに怯えます。

 叩いてはいけないとなれば怒鳴るしかない、それもダメとなると無視とか仏頂面とかその程度のことしか思いつきません。
 昔だったら「先生に言いつけるよ」とか「おまわりさんに連れて行ってもらいますからね」とか、地方によっては「ナマハゲが来るよ」とか、今から考えるととんでもない職業差別ですが「サーカスに連れていかれてしまうよ」とか、そんなふうに脅したものですが、それもダメ。

 じゃあどうしたらよいのかと訊ねれば、
「どうしたら叱らず叩かず子どもに伝えられるかを考え続ける事が愛です」
とか、
「それがどんなに小さな子どもでも、きちんと言葉で説明することが大切です」
とか、
「何が悪かったのか、どうすればよかったのか、きちんと話せば必ず子どもは理解してくれます」
とか。

 けれど私は平凡な人間で、「どうしたら叱らず叩かず子どもに伝えられるか」考え続けることはしますが答えが出ません。答えが出なければ次の行動が起こせないのです。
 それに私は、3歳児4歳児に「きちんと言葉で説明する」その話法を知らない。私が話しても子どもはちっとも分かったふうではありません。それで余計に不安になります。自信も失います。

「子どもの要求には、それがどんなことであっても応えてあげましょう。そうすれば要求はそれ以上エスカレートすることはありません」
 たしかにその通りかもしれません。けれど私はつまらない人間なので、子どもの要求を次々とかなえててもなお、わがままな子を育てずに済む、そういった自信がないのです。

 せめて「ここまでやったら虐待だよ」「それ以上はダメです」というハードルを、そこそこ高い位置に示してくれないとやっていける気がしません。私はそんなに立派な人間ではないのですから。

――二十数年前の私だったら、きっとそう叫んでいたに違いありません。


【虐待と躾を分けるもの】
 虐待と躾の違いについて話を始めると、「そこに愛はあるんか?」と金融会社のCMみたいなことを言い始める人がいますが、“愛”などという目に見えないものを持ち出すとかえって難しくなります。

 虐待と躾を仕分けるのは実はそれほど難しいことではありません。二つの篩(ふるい)にかけるだけでいいのです。

 一つ目は「それは今、必要なことか?」という篩です。
 5歳の子どもはひらがなをきちんとかけなくてもいいですし、モデルになるための体重管理だってできる必要はありません。この段階ですでに目黒の事件は虐待です。

 しかし火のついたストーブに近づかないとか、母親が仕事をしている台所にはむやみに入らないとかいったことは、たとえ幼児だとしてもできなくてはなりません。できるだけ早いうちからできるよう躾けます。必要なことですから。

 第二は、「ちょっと頑張ればできることか」という篩です。
 ハイハイや伝い歩きの時期に、ストーブや台所の危険を言って聞かせても無理でしょう。
「今ね、お母さんは食事の用意をしているの。そういうときの台所ってとても危ないのよ。だって油がバシッて飛んでくるときがあるでしょ、熱いお湯の入ったお鍋を持って別のところに移そうとしている時もあれば包丁を握っている時もある。そんなときにあなたが突然足元にきて、『危ない! 踏んづけちゃう!』って慌てて避けたら、お鍋のお湯がかかっちゃったり包丁を落としちゃったりと、そんなことありそうだよね」
 などとハイハイの子どもに言いきかせている親がいたとしたら、それは滑稽です。
 言葉が通じない間は入り口に柵を設けるしかないのです。柵がつけられないなら料理の時間は赤ちゃんの方にベビーベッドに入っていてもらいます。
 しかし言葉が理解できるようになったら、そのときは言いきかせて柵を外すようにします。あんなもの、あったら不便ですから。

 オムツ外しも食事も、他人様への挨拶も、それらが躾として成り立つかどうかは、「ちょっと頑張ればできるかどうか」が目安です。
 とんでもなく頑張らなければできないことや頑張ってもできないことをやらせる(そしてできないと怒る)のは、“虐待の疑いあり”ということで避けた方がよいでしょう。できない間は台所の柵のように設備で対応するとか、親が代わりにやってやるとか、一緒にやるとか、そういった方策で対応します。
 できそうだなと思ったら、小出しに訓練を始めます。できるようになったら誉めます。それが躾です。
 学校では先生たちも言っています。
「できないことは叱ってはいけない。やらないことは叱らなくてはいけない」
と。


【私たちは人間だ】
 世の中には“天才”と呼べる多くの人がいます。それもかなりたくさんです。日本国内だけを見ても、総人口は1億2700万人ほどですから「1万人にひとり」という天才が1万2700人もいるのです。
 その中には“子育ての天才”といえる人もいっぱいいて、怒ることも叱ることもせず、子どもときちんと話し合い、良い子を育てることに成功しています。そうした成功例を本人が、あるいは取材した“子育ての専門家”たちが、本にしたり講演会で話したりするのです。
 彼らは自分たちができたからそのやり方には一般性があると信じていますが、どっこい彼らは天才なのです。その人たちにできたからと言って誰もができるとは限りません。
 いま流行りの言い方でいえば、
「あいつらハンパない。そんなん、できひんやん、普通」
といったところです。

 私たちは人間です。イライラするときもあれば意地悪になるときもあります。カッとなって我を忘れることも、無我夢中でしてはならないことをしてしまうことも。そしてそのたびに傷ついて、落ち込んで――仕方ないじゃないですか、人間だもの。(相田みつを風)

 しかしどうせカッとなって怒ったり怒鳴ったりして、後で反省して子どもに謝ったり優しくしたりするなら、この際、手順を逆にしてみたらどうでしょうか。
 結局自分を抑えられないのだから、怒鳴り散らすその日のために、日ごろから優しくしたり慈しんだり、必要以上に丁寧に対応しておくのです。落ち着いているとき、どうでもいいときにこそ、あふれるほどの愛の言葉をかぶせておきます。

 それだったら怒鳴った後の子どもも自分も、深く傷つかなくて済みます。笑って許せます。
 そうしたやり方を、私たちは愛情貯金と呼んでいます(2010/6/30 愛情貯金の話)。



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2018/6/29

こんなことが・・・  


 ワールドカップであろうと何であろうと、頑固に自分の生活習慣を変えない。
 そう思って10時半に床につき、何の問題もなく眠りについたのに、目が覚めたのが45分後。意地でも起きないぞと思ったのですが、私の生活習慣の中には「一度起きてしまったらもう寝られない」というのもあって、しかたなく起きて最後まで試合を見てしまいました。

 やっぱり柴崎―香川―大迫―乾だったかな?
 何とも不完全燃焼ですが頑張ってもらいたいですね。

 さてまもなく1時半。これからどうしよう。(^o^;


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2018/6/28

「更新しました」〜虐待はどこの家にも起こり得る?  教育・学校・教師



「キース・アウト」

2018.06.28
「しつけ」の名で虐待 専門家「どの家でも起こりうる」

 
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2018/6/28

「ランドセル改革は起こるのか」〜子どもの荷物が重すぎる問題について  教育・学校・教師


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【ランドセル7.7kg】
 以前からたびたび話題になっていましたが、登校時の小学生のランドセルの重さが7.7sにもなるそうです。つい先日のNHKニュースでもやっていました。ランドセルがすべての原因ではないでしょうが、腰痛や肩こりのために通院する子どもも確実に増えているといいます。

 重くなった原因としては「脱ゆとり教育」のために学習内容が1.3倍になり、副読本や練習帳が増えたこと、教科書がかつてのB5版(図工や音楽など一部はAB版または変型版)からA4版に変更されたものの字を大きくしてイラストなどを入れたこともあって厚さ自体はそう変わらず、したがって重量だけが増えたことなどが指摘されていました。
 しかしどうでしょう、本当にそうなのか。
 私に言わせればランドセルは昔から重かった。しかもかなり重かったはずです。


【通学かばんを軽くする方法―「置き勉」】
 NHKの番組では中学生の持ち物も扱っていました。中学生は部活動もありますからその重量もハンパありません。例として挙げられた剣道部の生徒は、通学バッグにサブバッグ、剣道の用具入れに竹刀、水筒等々、総重量26kgもありました。これでは大変なわけです。
 家で使わない教科書等は学校に置きっぱなしにできればいいのですが(これを「置き勉」と言うのだそうです。初めて聞きました)、最近「置き勉」を禁止する学校が増えてきて、何でもかんでも持ち帰らなければならないのです。

 余談ですが、ここで私はちょっと首を傾げました。私の知る限り、半世紀前から(つまり私自身が中学生のころから)一貫して学校というところは「置き勉」禁止だったからです。教科書やドリル帳を置いていくという発想自体がないので「置き勉」という言葉もありませんでした――それが私の地域の実情です。、

 番組は続けて、この「登校荷物重すぎる問題」について解決策を講じた中学校を紹介します。
 校長はまず、学校が「置き勉」を禁止する理由について2点、話をしました。

 一つ目は家で宿題をするため、そしてもう一つは毎日登校するための準備をするという習慣作りのためだそうです。それがこれまでの学校の考え方でした。しかしこの校長はここで英断をするのです。
 子どもの健康を考えたら26kgを持ち歩くのは異常です。そこで毎日、教師が宿題のために持ち帰るべき教材を指示し、あとは個人の判断で不要なものは置いて行っていいことにしたのです。
 おかげで生徒の荷物は軽くなり、校長に言わせると「けれど宿題を忘れる等の問題はほとんど出ていません」ととのことです。
 メデタシ、メデタシ。他の学校も真似をすればいいのに――といった流れですが、私はそれは違うと思うのです。


【ほんとうに学習に支障をきたさないか?】
 理由は二つあります。
 些末な方から言えば、家に持ち帰るべき教材を教師が毎日チェックして必ず伝えるという作業が、意外と難しいのではないかと思うのです。
 「何のそれきし」と思われるかもしれませんが、教師の多忙はそうしたロクでもない仕事の堆積ですから些細なことでも注意しなくてはなりません。

 教科担任は授業の終わりごとに「今日の宿題はこれとこれ。だから教科書と問題集、そしてノートは必ず持ち帰るように」と指示しなくてはなりません。確認し忘れると、「だって先生が言ってくれないんだモン」と必ず文句を言われます。
 中学生は一度指示すれば全員が守るというものではないので、帰りの会では係が確認をします。
「数学係から連絡です。今日の宿題はこれとこれですから、教科書と問題集、そしてノートは必ず持ち帰るようにしてください」
「国語係です。国語は教科書と漢字練習帳を持ち帰ってください」
「英語係です・・・」
 もう面倒この上ない。しかし生徒の健康のためです。我慢しましょう。

 しかしそれだけの配慮をしても集中力のまったく効かない生徒もいます。そんな子は翌日、
「済みませ〜ん。昨日、教科書を持ち帰るのを忘れてしまったので宿題できませんでしたァ」
 そこで教師は思うのです。
(何もかも持ち帰ったって宿題を忘れるやつはいるのに、「教科書を忘れました」なんて、「置き勉」のおかげで絶好の言い訳を与えてしまったようなものだ。昔のままにしておけばよかったのに・・・)

 しかし「置き勉」は生徒の健康のためです。それに比べたら学習の定着なんて大したことではありません。


【「置き勉」を許さない現実的理由】
 「置き勉」を許さない方がいいと思うもう一つの理由は、ある意味でさらに深刻です。それは「置き勉」となった教科書・問題集はどこへ置けばいいのかという問題です。

――学校にはロッカーくらいあるだろう。
 もちろんあります。しかしそのロッカーは生徒が登校するとカバンやサブザックを入れる場所なのです。給食着や運動着が入っています。部活に必要な物品が入っていることもあります。
 時期によっては絵の具セットや習字道具、柔道着も入る場所です。そしてこの話題を6月に取り上げると分からないのですが、冬は分厚いコートやジャンパーを押し込まなくてはなりません。
 今でも入りきらなくて困っているというのに、この上どうやって「置き勉」を置くのでしょう?

――机の中は?
 それもダメです。机の引き出しは空にしておいて、朝、登校してきた生徒がその日使う教科書やノート、筆入れなどを入れる場所です。「置き勉」が入ったから今日使う教科書が入らないなんて、とんだ本末転倒です。

 ニュースで紹介された校長は「置き勉禁止」の理由を宿題と生活習慣で説明しましたが、一番大きくて決定的な理由は「置き勉の置き場しょうがない」ということ、それが普通の学校の姿です。
 教科書や問題集ですら置き場所がないのですから、部活で使う剣道の道具なんてさらに厄介です。高価なものですから体育館の隅にむき出して置いておくわけにはいきません。それ相応の場所が必要です(私の以前勤めた中学校には鍵のかかる専用の部屋がありました)。

 テレビで紹介された学校は「置き勉」ができたのですから、例えば生徒が急減してロッカーが大量に余っていたとか、市が予算潤沢でわざわざ作ってくれたとか、それ相応の事情があったのでしょう。そうでなければ容易にできることではないのです。


【子どもたち、ガンバレ!】
 もちろん根本的な解決策のひとつはロッカーを増設すればいいという単純なことです。
 ただし、私は児童館の仕事をしている時に20人分のロッカーの増設を企図したのですが、業者が持ってきた見積もり金額は30万円です。
 学校だとすべての教室でそれ以上かかるわけですから大変な額になってしまいます。まさかそれを市の土木費から回してもらえるはずもなく、教育予算の中をやりくりして生み出すしかありません。

 しかし社会科教師が怒って叫びます。
「そんな金があったら世界地図をもう一本買ってくれよ。ウチの学校の世界地図、3本中1本はいまだにソビエト連邦があるんだぜ!」
 図書館司書も悲鳴を上げます。
「図書費は絶対に削らないでくださいね。ウチの図書館の人名辞典なんて、いまだにガンジーが生きているんですよ!」
 それを聞いた校長がなだめます。
「ガンジーくらいが何だよ。隣の学校の人名辞典なんて豊臣秀吉が生きてるんだぜ」
(ソリャ、嘘ダロ)

 児童生徒諸君!
 済まないがたった3年間(小学校は6年間)のことだ。重い荷物で頑張ってくれ。
 大人はキミたちがどんなに大変でも、学習内容を減らしたり税金を増やしたりするのはまっぴらだと思っている。
 それにカバンが重いといったって、二宮金次郎の薪よりは軽いはずじゃないか。そうダロ?


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