2018/5/31

「大人の責任」〜子どもの意思はどこまで尊重されるべきか2  教育・学校・教師


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ハンス・トーマ 「夏」 (1872)

【子どもの意思はどこまで尊重されるべきか】
 つい先日、アメリカで赤ん坊のオムツ替えにも本人の意思確認が必要だと言った話が出て、ネット上で話題になりました(「おむつ替え時に赤ちゃんの許可を得るべき」 “専門家”の意見がネット上で物議(米))。
 それでSNSが炎上したという話で、いかに合衆国であってもそこまでは進歩的でなかったようです。
 ただ、もしかしたら彼は時代の先駆者であって、遠からず赤ん坊の意思をいちいち問う時代がくるのかもしれません。なにしろご時世ですから。


【子どもは間違った道を選択することがある】
 子どもの成長について「自分が決めた」「私の意思だ」ということはもちろん重要です。改めて心理学の成果を持ち出すまでもなく、他人に言われてやるのではなく、自らの意思で始める方がずっとうまくいくのは確実です。
 しかし同時に、その「自分で決めた」ことが、必ずしも正しくない場合があることも事実です。特に子どもの場合。

ところで昨日お話しした三つの例、
「子どもがもう学校へは行かないと言っています」
「子どもが学区内の中学校には進学しないと言っています」
「本人がもうこの学校にはいたくないと言っています」
 これらは「子どもの意思だから」というだけの理由ですんなり認めてもいいことなのでしょうか?
 そうすべきと考える人たちは、さらに上の段階、
「子どもが高校へは進学しないと言っています」
とか、
「実力よりずっとレベルの低い高校ですが、本人が行きたいと言っています」
とか。あるいは、
「シリアに行って倒壊寸前のISを助けたいと言っているの」
とか言った場合でも、すんなりと認めるのでしょうか?

 もちろんそんなことしませんよね。前三者と比べれば格段に問題が大きいですから。
 しかし“状況が違えば本人の意思に任せられないこともある”という論理は。案外通りにくいものです。例に従えば、後三者はいずれも他人に迷惑のかかる話ではありませんし、ISの場合など、見方によっては人助け、正義の戦いだからです。
 一度こうと決めたら、子どもは時に頑固です。

“ボクが自分自身で決めたことは最優先されるべきだ”と誤解させておいて、のちのち裏切るくらいなら、最初からそうではないと教えておく方がいいのです。
 たとえ子ども本人の問題であろうとも、大事なことは自分ひとりで決められない、そう教えておくことは、とても重要だと思うのです。


【子どもに人生の責任を負わせる】
 もっとも、ものわかりの良い大人に対して私が反射的に違和感を持つのは、そうした裏切りの可能性を心配するからではありません。大人の不誠実を感じるからです。“不誠実”と言って悪ければ“逃げ”、それも悪ければ“責任回避”です。

「お前の決めたことだから、親としては最優先で協力するよ」
 親ならだれしも一度は使いそうな言葉です。

 もちろんそれが“部活を何にするか”とか、“夏休みのハイキングは海にしようか山に行こうか”とかいった話なら問題はないのです。どちらに転んでも大差ありませんから。
 しかし義務教育の学校に行かないとか、学区外進学だとか、転校だとかは、どう転んでもかまわない話ではありません。行った先でまたうまく行かない可能性だってあるのです。今よりずっと悪いことだってあります。
 そのとき誰が責任を取ってくれるのでしょう?

「それはオマエ自身が決めたことじゃないか」
 親として、口に出すかどうかは別にしても、心の中にそうした言葉は浮かんでこないでしょうか? それが顔色となって子どもに読まれることはないでしょうか?
 親がすべてを隠しおおせたとしても。子ども自身は感じています。そして打ちひしがれます。
 そうなる運命を最終的に決めたのは「ボク」をおいて他にいないからです。


【残酷な寓話】
 私は以前、こんな話を聞いたことがあります。
 不登校からそのまま引きこもりになった30代の青年が、家で暴れて物を壊したあげく、両親に向かってこう叫ぶのです。 
 
みんなお前たちが悪いんだ! お前たちのせいだ! 
お前たちのおかげで、オレはこんなふうになっちまっている。

友だちもいない、学歴もない、何の知識も経験もない。こんなんでどうやって世の中に出ていけるというんだ。

お前たちはなぜあの時――オレが学校へ行きたくないと言ったとき、首に縄をつけてでも学校へ連れて行かなかったのか、学校へ行くことがどんなに大事かって教えなかったのか。
まさかお前たち自身が分からなかったというわけじゃないだろうに。

本当に愛情があったなら、子どもを学校に行かせるなんて絶対にできたはずだ。オレに泣いてすがってでも行かせようとしたはずだ。
それをしなかったということは、結局オレのことなんてどうでもよかったってことだ。自分たちが可愛いくて、それでオレを放ったらかしにした。

それでも親か!? それでも人間か!?
いったいどういうつもりでオレを産んだんだ? どういうつもりでこんな人間に育てたんだ!?


 よくもまあこんな無駄ごとが言えたものだと呆れるばかりです。
 両親が学校に行かせようとどれほど頑張ったかは、本人だって覚えているはずです。どれほど愛情をかけ、気にかけ、心配し、どれほど時間をかけてどれほどの距離を走り、そしてどれほど人に頭を下げて訊ね回ったかは、それだって本人はわかっています。
 しかしそれにも関わらず悪態をつかなければならない――その青年の気持ちも分からないではありません。
 彼は今、十代のときに“自分で決めたこと”の責任を取らされようとしているのです。そして取りたくないのです。
 

【子の重荷を背負う】
 結局は「子どもと十分によく話し合いましょう」という平凡な結論に向かう話です。しかし目的が違います。

 とことん話し合い、決定の一部分にでも親の意見を反映させなくてはなりません。反映させた割合が、決定事項に対する親の責任割合です。別な言い方をすると、それはうまく行かなかったとき子どもが背負わなくて済む重荷の割合です。その割合が大きければ大きいほど、子は楽に生きられます。親を恨んでいればいいのですから――。

 昨日の話に戻れば、摂食障害の子どもに人権侵害まがいの行動療法を行った病院と両親は、正しい選択をしたといえます。
 輸血拒否については、少なくとも未成年の子に対しては、本人の意思も家族の意思も尊重しないような法整備が必要かと思います(今はあるのかな?)

 私が最後に上げた三つの例については、そのような結論になる場合も、「この子が決めたことですから」ではなく、「家族で話し合った結果」として親が責任の半分以上を背負う覚悟を、見せる必要があると思うのです。

 
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2018/5/30

「子どもの意思」〜子どもの意思はどこまで尊重されるべきか1  教育・学校・教師


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コルネリス・ファン・ハールレム 「竜に食われるカドモスの従者たち」

【行動療法の話】
 10日以上前の事ですが、朝日新聞に『14歳の身体拘束77日間 「殺された方がましだった」』という記事が載っていました。

 かいつまんで言うと、
 東京に住む女性(24)が摂食障害で入院した14歳のとき、77日間に及ぶ不当な身体拘束を受けたとして病院を経営する法人に、1056万円の損害賠償を求める裁判を起こした、というのです。
会見した女性は「殺された方がましだと思うぐらいだった。当時から訴えたかったが、子どもだったのでできなかった。力のない子どもに、こんなひどいことをするのはやめてほしい」と語った。
(中略)
 訴状によると、女性は2008年5月に都内にある病院の精神科を受診。摂食障害と診断されて入院した。病室ではベッド上での安静を求められ、起き上がることも、外部との電話や面会も許されず、排泄(はいせつ)は看護師の前で簡易トイレにしなくてはならなかった。
 抗議のため、点滴を抜いたところ、両手両足と肩を太いひもでベッドに縛り付けられた。栄養チューブを鼻から胃に、カテーテルを尿道に通された。排泄はベッドの上でさせられた。

ということで、ずいぶん酷い話のようにも聞こえますがもう30年以上前、私の教え子がこれと同じ目に合っています。“同じ目”というか、それが治療なのです。行動療法と言います。
 行動主義心理学に基づいた心理療法で、荒っぽく言えば“アメとムチ”によって問題を解決しようとします。教え子の場合で言えば、病室に入った瞬間から食事の度に、モノが減ったり増えたり、医師や看護師の態度がコロコロ変わったりしました。

 食事がきちんと摂れないと、まずテレビが病室から遠ざけられます。医師も看護師も仏頂面でロクな返事もしません。
 そもそも食事が摂れなくて入院したわけですから、最初はモノが減る一方。聞いていたCDが減らされる、マンガ本がなくなる、部屋に飾ってあった花までなくなるーー。
 しかし少しでも食事が摂れたり量が増えたりすると医師たちの態度は急によくなり、モノがひとつずつ返されます。看護師もにこやかに世間話に応じたりしてくれます。
 そういうことを繰り返す中で、やがてきちんとした食事が摂れるようになるわけです。子どもだましみたいですが、実際に問題の最低部分はクリアできるわけですから、素人の私としては結果オーライと考えるしかありませんでした。

 私は今「問題の最低部分はクリア」と書きました。それで摂食障害が完全に治ったわけではないからです。達成されたのはそのままだと餓死しかねない生命の確保と、食事そのものに対する抵抗感・嫌悪感の克服です。本質は認知の問題ですから、その後長くカウンセリングを受けることになります。


【問題の本質】
 最初に挙げた記事を読み直すと、告訴に踏み切った女性は14歳の入院時に点滴で栄養を補給しており、ベッドに縛り付けられてからは胃に直接栄養を流し込まれていますから、そうとう危険な状態で入院させられたのでしょう。病院が何もしなければ死を待つだけです。

 私より上の世代だとカレン・カーペンターというスーパースターがそのようにして亡くなったことを覚えているはずです。カレンはダイエットによって体重を劇的に減らし、治療の過程で 元に戻すという事を繰り返す中で、心臓を弱らせ、やがて亡くなったのです。
 普通の人間だったらカレンのような出来事が、誰かの身の上に起こることを望んだりしません。特に親や医療従事者、教育関係者はそうです。何としても若い命を摂食障害で死なせたくない――。
 そこで摂食障害に対しては、行動療法のような治療法も許されると考えるのですが、そこで問題となるのが、
「殺された方がましだと思うぐらいだった」
と語る女性の、14歳の意思をどれだけ尊重すべきかという事です。
 子どもであろうと、命に関わることであろうと、本人の意思は最優先されるべきだという、いかにも現代的なテーマです。

【さらに深刻な問題】
 子どもの意思をどこまで尊重するのかということについて、さらに深刻な問題が提起されたのは1985年でした。「大ちゃん事件」と言います。
 交通事故で両足に大けがを負った10歳の「大ちゃん」は、緊急処置として輸血を受けることになります。ところがそこに駆け付けた父親が、輸血拒否を言い出すのです。
 息子はすでに洗礼を受けたある宗教の信者であり、教義によって輸血を受けることができない、輸血を受けると神の国に生まれ変われない――両親はかたくなに拒否し、
「今回、私達の息子(大十歳)がたとえ、死に到ることがあっても輸血なしで万全の治療をしてくださるよう切にお願いします。輸血を受けることは、聖書にのっとって受けることはできません」
といった内容の『決意書』まで提出して、責任は問わないから輸血はするなと言う姿勢を強く示します。
 そこで10歳の子どもの意思確認が行われることになるのですが、当時の記録をみると、
(医師のコメント)
『死にたくないだろう、な、そうだろう、輸血して助かりたいだろう』と何度も言ったんですよ。
ところが父親も、子供の耳もとで、『お父さんの言う通りでいいんだな』と言うんです。
すると、医師達には何も反応しなかった子供が、父親の声にはうんうんとうなずくんですよ。

 結局大ちゃんは輸血を受けることなく、亡くなります。

 この事件に関する司法の判断は出ませんでした。
 警察は、 両親に対する保護責任者遺棄罪や未必の故意による殺人罪、医師に対する業務上過失致死罪、医師法違反などの容疑を追及できるかどうか、慎重に捜査を進めた結果、「輸血をしても助からない命だったから」と言う理由で不起訴にしてしまったからです。

 のちに大人について、患者が宗教上の理由によって輸血を拒否した場合、医師は必要であってもその意思に背いて輸血をしてはいけないという判決が最高裁から出て、この問題は一応の決着をみます。しかし10歳の子どもの意思は別問題でしょう。


【学校の現場で】
 私がこのことに関心を持つのは、かつて不登校の現場で「子どもの意思」がしばしば問題になったからです。
「子どもがもう学校へは行かないと言っています。この子の意思を尊重して、そのように
したいと思います」
「子どもが学区内の中学校には進学しないと言っています。本人の決意を大切にしたいと思います。市教委と協議の上、他地区の中学校に進学させます」
「本人がもうこの学校にはいたくないと言っています。その気持ちを大切にして転校させたいと思います」
 こうした言い方・考え方は保護者ばかりでなく、医師やカウンセラー、教育委員会の担当主事や一部教師からも出されてくるものです。

 子どもに寄り添う、物わかりの良いもの言いです。しかし私の気持ちにはまったくすんなりと入ってこないのです。

                                     (この稿、続く)

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2018/5/29

「彼に責任がある」〜日大アメフト事件の憂鬱3  教育・学校・教師


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PhotoAC

【「心理的抑圧からのブレークスルー」という呪術】
 評論家で武道家の内田樹はそのブログ「内田樹の研究室」の中で次のように語っています。
「自分の限界」を設定しているのは本人です。「自分にはこれくらいしかできない。その範囲なら心身を制御可能である」という範囲に誰でも居着きます。自分の可能性を低めに設定して「心身に無理をさせない」というのは生物としては合理的な生存戦略だからです。
でも、その「リミッター」を解除しないと身体的な「ブレークスルー」は起こらない。

2013.03.04「体罰とブレークスルーについて」
 ブレークスルーというのは「進歩」「前進」、またはそれまで障壁となっていた事象の突破を意味する英単語(breakthrough)です。

 内田はまた、別の所でこうも言っています。
体罰によって、あるいは心理的な抑圧によって短期的に心身を追い込んで「ブレークスルー」をもたらすというのは頭の悪いスポーツ指導者の常套手段であり、その有効性を信じている人間が日本には何十万人もおり、私はそういう人間が嫌いである。ほとんど憎んでいる。
2013.01.06「体罰と処分について」

 日大アメフト部の前監督・前コーチは、まさに内田の言う「何十万人も」の一人です。
 練習に参加させない、1年生の指導もさせない、日本代表を辞退させる、丸坊主を強制する――そういったさまざまな心理的抑圧を使って一気に「荒々しい強力なディフェンシブエンド」を育て上げる――。
「日大アメフト部では優秀な選手ほど指導者のプレッシャーを受けやすい」
という証言が残っていますから伝統的なやり方なのでしょう。ただしそれは東大の森清之ヘッドコーチが言っているように、「そんなやり方が、いまだに可能だったことにむしろ驚く」レベルの旧式な指導法で、そんなことをしたら「今や誰もついてこない、そして親が文句を言いにくる」(森コーチ)、それが普通なのです。

 ちなみに引用した内田の記事は、ともに2012年12月の大阪市立桜宮高校体罰自殺事件を受けてのものです。あのときも自殺の引き金となった監督の言葉は「オマエを試合に出さない」でした。
 暴力や心理的抑圧によって選手を変えようとする試みがいかに危険かは、このとき日本中の指導者が身に染みて学んだはずです。それにも関わらず日大アメフト部では営々と行われてきた。そうなるとそこには、暴力や抑圧が平気でまかり通る不思議な力、ないしはシステムがあったと考えるしかありません。


【事態の拡大は防げなかったのか】
 今回の事件を振り返って、ここまで問題が大きくならないための方策はなかったのかと考えると、むしろ機会は有り余るほどあったことに驚かされます。

「心理的抑圧からのブレークスルー」といった方法が早くから放擲されていればよかったことはもちろんですがもっと細かな事、例えば最初に練習に参加させられなかった時点で、加害選手が「どうして参加できないんですか」と聞くことができればそれだけで事態はずいぶん変わっていたはずです。あそこまで追い込まれることはなかった。
 その他にも、
「全日本に行っちゃだめだよ」――「どうしてですか」
「丸坊主にして来い」――「なぜですか」
「相手クォーターバックを潰してこい」――「潰すって、けがをさせるってことですか」「1プレー目って言っても間に合わないこともありますが、それでも潰しに行っていいんですか?」
 そういった質問ができなかったことは22日の加害選手の証言からもはっきりしています。監督やコーチと選手の関係は上意下達、質問さえ許されないものだったからです。

 この厳しい上下関係は監督とコーチの間にもあって、それが事態をどんどん悪化させます。
 危険タックルがあった瞬間に、コーチが「監督! 今の(プレー)マズいですよね」と言えればよかった。
 監督がその悪質さに気づいていなかったら説明する必要があった。
 説明した上でその場で関西学院大に謝りに行けばよかった。謝れなくても相手クォーターバックを気遣うふりくらいできればよかった。

 それがうまくいかなくても、試合後、陽気にインタビューを受ける元監督に「監督! あのタックルは『オレの責任だ』などと言っていられるレベルではないのです」と囁ければよかった。
 試合後VTRで確認した段階で(確認したに決まっています)、すぐに監督のもとに駆け付け、「いま手を打たなければ大変な事になる、理事長や学長と話をしましょう」とか「明日にも関西学院大に連絡をして謝罪に行きましょう」と言えればよかった。
 あるいはさらに遅れた段階でも「一刻も早く調査しましょう、対応しましょう」と誰かが言う必要がありました。「加害選手親子が謝りに行きたいと言っているのに押し留めるなんてとんでもない事です」と言わねばならなかった――。
 しかし元監督は事態の深刻さがまるで理解できない。そしてだれも説明し、諫めようとしないのです。

「謝罪にピンクのネクタイはマズくありませんか」と気遣って言える人もいない。
「マスコミの前に初めて出るのが空港でのインタビューなんて、やはり考えた方がよくはありません?」とも言う人もいない。

 23日の記者会見についても、「こんな泥縄で大丈夫でしょうか?」「きちんと予行演習しましょう」「司会を交えて弁護士と丁寧な打ち合わせをしましょう」
 そんなやりとりをすることもない。そもそも提案ができない。
 今挙げてきたどこかの時点で、誰かがひとこと言って事前に手を打てば、今日の惨状はなかったはずです。


【彼に責任がある】
 ここに至ってすべてのことが理解されます。
「選手を徹底的に追い詰めて一気に成長を促す(心理的抑圧からのブレークスルー)」などといった前時代の指導法がまかり通ったのは、絶対的上意下達といったこれも前時代の仕組みが、日大アメフト部に厳として残っていたからです。誰も進言できない、意見を言えない。何十年にも渡って「カンサイガクイン」と言い続けても、誰も注意しようとしなかったくらいですから。

 そんな悪魔の仕組みをつくってその上に安住していたという意味で、一切の責任は前監督にあります。事件を起こしたのも彼であり拡大させたのも彼です。そしてその自覚がないのも彼です。

 もちろん本人も「試合中の事に関してはすべて私に責任がある」と言っていますが意味が違う。
 関西学院大クォーターバックの生命をも危険にさらし、日大ディフェンシブエンドの選手生命を絶ち、日本大学そのものの評判を落とし、在校生・卒業生を不安に陥れた責任を、試合中の采配ミスと同じレベルで語るのはあまりにも無責任です。
 しかしその前に、誰かが彼に事態の深刻さを教えなければならない。もしかしたら言っても解らないかもしれませんが。

 
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2018/5/28

「かくて幕は開かれた」〜日大アメフト事件の憂鬱2  教育・学校・教師


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【動機が二重にない】
 日大アメフト部事件について、加害選手の説明が具体的で理路整然としているのに対し前監督・前コーチの証言内容が支離滅裂なため、メディアなどの扱いはおおむね二人がウソをついている、加害選手は明らかにその指示を受けて凶行に及んだ、ということになっています。
 しかし私は「コミュニケーション不足のために元監督・元コーチの意図が伝わらなかった」とする日大側の説明に現実味を感じています。
 なぜなら暴行に動機がないからです。
 
 これが一年前の春なら考えられないこともありません。日大アメフト部は30年近くも全国制覇から遠ざかっていましたから、“どんな手を使ってでも優勝するつもりだった”と言われればそんな気もしないわけではありません。しかし日大は昨年の大会で優勝してしまっているのです。それも大変きれいな試合運びで成し遂げてしまった。
 ですから今年になって突然変身し、無茶なプレーをするようになる必要などどこにもないのです。
 
 さらに仮に本気で相手にケガを負わせるつもりだったとしても、自軍のスーパーエースにやらせる必要はなかった。控えは100人以上いるのです。かつての私のように捨て駒にしていい選手もいくらでもいたはずです。それにも関わらず全日本にも選抜されるような優秀な選手を使ったのは、そこに別の意図があったと考えるしかありません。
 それはおそらく、前監督や前コーチの証言する通り、当該選手が10ある力のすべてを出し切れるような、一皮むけた、強い競技者へ成長することです。


【すれ違う思い】
 5月6日、関西学院大との交流戦へと向かいながら、後に加害者となる日大ディフェンシブエンドは“ほんとうにアレをやらなければならないのか”と思いつめながら歩いていました。
 同じ道を前監督や前コーチは、試合全体や選手のことを考えながら、頭の隅では当該選手が、思惑通り一段高いレベルで活躍できるかどうか、期待と不安を織り交ぜながら気にしていたのです。
 同床異夢と言うにはあまりにも残酷な道行きです。

 会場についてスターティングメンバーに名前のないことを知った加害選手は、前コーチのところに確認に行きます。コーチは「今から監督のところへ行って“相手のクォーターバックを潰してくるから出してくれ”と言ってこい」と助言します。
 ここで大切なことは“自分から申し出る”ということです。巷間言われるような“犯罪的行為の責任を引き受けさせる”といった意味ではなく、子どもを成長させようとする際の鉄則です。“言われてやる”のでは弱いのです。

 加害選手は助言に従って前監督のところに行き、「やらなきゃ意味ないよ」という言葉を受け取ります。
 更にコーチのもとに戻り、「リード(DLの本来のプレーのこと)をしないでQBに突っ込みますよ」と確認すると、「思い切りいってこい」と声がかかります。
 一見かみ合っているように見える会話が、実はまったくずれていることに誰ひとり気づいていません。

 もう退路は完全に断たれました。選手は指示を機械的に達成するしかありませんでした。
 相手のクォーターバックを1プレー目で潰すのです。たとえターゲットが彼から遠い方向(右のディフェンシブエンドからすれば向かって左方向)に走ろうとも、“1プレー目に潰す”は「絶対」ですからどこまでも追いかけて行ってやるしかない――。そして実際にその通りになりました。
 それがあの無様な違反タックルです。


【見ていなかった人、見ていた人】
 その瞬間を前監督が見ていなかったという説明を、私は信じていいと思っています。
 なぜなら反則の瞬間を見ていた人は、グランド上にも観客席にも、ほとんどいなかったからです。
 関西学院大の監督やコーチでさえも見ていなかった、見ていれば当然その場で猛烈な抗議をしていたはずです。被害を受けた選手の家族も現場で観戦していましたが、この人たちもその瞬間は見ておらず、後でVTRで確認することになります。
 ホイッスルを鳴らしてイエローフラッグを投げ込んだ審判も、当該選手があれほどの距離を走ってきたことには気づいていません。
 その場にいたほとんど全員が、ボールの行方を目で追っていたのです。

 さらに試合終了後、前監督は負け試合にもかかわらず終始陽気で、「あれは俺がやらせたんだ」と語ったりしています。もし最初の反則を見た上でああした発言をしたとしたら、それはあまりにも常軌を逸しています。相手チームの選手が半身不随になるかもしれない危険プレーの責任は、そう簡単に取れるものではないからです。
 前監督の念頭には2番目3番目の反則しかなく、そこに当該選手の成長を感じて陽気に話しているのです。やり遂げてくれた、やはりオレのやり方は正しいのだと嬉しかったのです。

 ただし一部の人々、当該選手の取材に来ていた専門誌の記者や、日大のディフェンス担当である前コーチは見ていました。そして前コーチは凍りついたはずです。
 少しでもアメフトに携わった者にはありえない事態です。彼が予想していたものとはまったく異なる結果に、全コーチはしばらく固まったままだったと言います。
 しかしそれでも試合を止めて、選手を呼び寄せることはしなかった。

 理由はいくつもあって、一瞬凍りついていたために対応が遅れた、自らも言っているように引き続き選手を試合に出してあげたかった――その中には“生まれ変わったかもしれない彼のプレーをもっと見ていたかった”という欲望もあったのかもしれません――そしておそらく、選手を下げるためには監督に事情を説明しなければならないのですが、それがどうにもためらわれたからです。

                                (この稿、続く)


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