2018/4/27

「正義を行う苦行者の行列」〜今週のまとめ   政治・社会


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フランシスコ・デ・ゴヤ 「苦行者の行列」(パブリックドメインQ)

【オマエ、地獄に行くぞ】
 高校生のころ英語の先生から、
「聖書に言う『汝、姦淫することなかれ』というのは大変厳しい概念で、例えば電車の中で『あの娘、可愛いな』と思っただけでも目で姦淫したことになっちゃうわけです。でもそんなこと言ったら私なんか毎日姦淫しているわけで、それで天国へ行けないなんて、大変ですよねェ」
とかいう話を聞かされました。当時の私は「あの娘、可愛いな」どころでは済まない妄想に朝から晩まで駆られていましたから、震え上がって「絶対キリスト教には入信しないぞ」と固く心に誓ったものです。

 大人になってからも「あの娘、可愛いね」にはかなりこだわっていて、聖書を一通り、かなり熱心に探したのですが幸いそんな文章には出会わず、キリスト教社会もそこまでは厳しくないと、ホッとしたりしました。
 そのあと、アメリカン・ポップスを聞きプロモーション・ビデオを見るようになると、戒律に厳しいどころか相当に緩い、と言うかかなりいい加減なことも分かってきます。

 すでに1950年代にはエルビス・プレスリーは腰を激しく振りながら歌っていましたし、私が育った70年代には女性歌手の衣装はどんどん面積が狭くなっていって、ついには水着みたいなものになってしまいました。
 最近ではそうしたビデオもめったに見ることはないのですが、それでもたま目にするとほとんど常に半裸です。歌手には歌唱力よりも先に“セクシー”であること、肉感的で煽情的であることが求められているようなのです。

 そこでアメリカ社会は性的なものに対してとんでもなく許容性が高いと思っていたら、今度は2004年、スーパーボールのハーフタイムショーでジャネット・ジャクソンが乳首を出してしまい、そのあと喧々囂々の非難の中、しばらく芸能活動ができなくなるという事件がありました。
 ウォーターゲート事件になぞらえてニップル(乳首)ゲートと呼ばれた出来事です。
 ここに道徳の国境の壁があったわけです。しかもとんでもなく高い壁。

 アメリカでは「あの娘、可愛いな」では地獄に行かなくて済むが、乳首を出したら地獄行き――だいぶ日本とは違います。そして理解しがたい。
 いい悪いの問題ではなく、ほとんど裸で腰を振ってもいいが乳首はダメ、という境目が私には理解できません。
 たぶんその違いをスパッと説明できる人は、日本にはほとんどいないでしょう。


【そもそも基礎が違う】
 そもそも日本とアメリカでは性のとらえ方も感覚も違う。だからそんなアメリカが生み出した“セクシャル・ハラスメント”という概念を、そのまま日本に持ち込むと難しいのではないか――それが最近、私の考えていることです。

 女性問題の現状についてすら、アメリカも日本もあまりにも誤解されています。
 例えばアメリカはレディ・ファーストの国、日本はいまだに封建的な男尊女卑の国と対比されますが、そこから私の心に馴染んでこない。

 少なくとも我が家で夫である私が前に立つとしたら、それは面倒ごとがあるときや批判の矢面に立つときです。要するに私が前に押し出されて妻は後ろに隠れている。
 私の周辺や友人を見ても、夫の背後にかしずく妻といった構図はほとんどありません。かなり男が威張っているように見える場合も、よく観察すると妻が手の上で転がしているにすぎないのです。

 日本ではサラリーマンの多くが“お小遣い制”で、給与の全部を明け渡した上で妻から毎月少額を“いただく”ことになっています。しかしアメリカは違います。
 現在はジョイントアカウントと呼ばれる共同名義の口座をもって、そこから夫婦ともに金を引き出すのが一般的みたいですが、つい最近まで、財布のひもは夫が握っていてたとえ1ドルの買い物でも、妻は夫から“いただいて”使わなければなりませんでした。今でも全体的な金の管理(例えば家計簿をつけるといったこと)は、夫がやっている家が多いようです。
 つまりアメリカは徹底的に男性優位の国で、建物や部屋への出入りのたびに女性が優先されるのも、極端な銃社会ですからまず女性を前に出して安全を確認し、それから男が出入りするためだと言われるくらいなのです。

 それに対して日本では、賢い女性たちが名を捨てて実を取った――。
 例えば、私の家は夫婦同業の共稼ぎでしたから収入はほぼ同じです。それをどう使うかは妻が決めました。
「基本的なお金と大きな支出はお父さん」
 したがって光熱費・家賃・通信娯楽費が私、被服費と食費は妻、そういう割り振りでずっとやってきましたが、しかしある日突然気づくのです。
「被服費と食費は節約できる・・・」
 家賃や光熱費など、そう簡単に減らせるものではありません。しかし被服費と食費は、どうとでもやりくりがつくのです。
 さらに子どもたちが大学に行き始めると、その仕送りと学費は私持ちとなります。「大きなお金」ですから。したがって私だけの収支を見ると、完全な赤字状態が何年も続くことになったのです。
 どこでも似たようなものですよね。これが男性中心社会のあり方と言えるでしょうか?

 私が常にセクハラ撲滅という正義に対して、強い違和感を持つのはそのためです。
「弱い女性を守らなければならない」というときの「弱い女性」が、私の場合よく見えてこないのです。


【乱れた国の厳しい倫理】
 いやそんなことはない、アメリカは徹底的に女性を守る国で、ドメスティック・バイオレンス(DV)に関しても異常なほど厳しいという話もあります。カリフォルニアあたりでは口論の末、夫が妻の腕を掴んだだけで逮捕されてしまう――。
 しかしそうした事実をもって「アメリカは女性を大切にする国だ」と考えるのは間違いです。そうではなく、実は些細なことでも法律と警察の力を借りなければ女性を守れない、そういう国なのです。

 余談になりますが「孔孟を生み出した道徳の国だというのに、現在の中国は地に落ちている」といった言い方がありますがこれも間違いで、春秋戦国時代の中国は道徳のカケラもないほどに乱れていたのです。だから孔子や孟子のような偉大な思想家が出て、高い道徳性を叫ばなければならなかった。

 日本でも武士の生きる姿を気高く説いた「葉隠」は、武士がすっかり怠惰になり、主君のための戦闘員からお城の奉公人に成り下がった江戸中期に書かれています。誰も武士道のためになんか死ななくなったから、「武士道とは死ぬことと見つけたり」なのです。

 つまり正義のないところでこそ、正義は叫ばれる。

 同じ文脈で、アメリカの法律や社会制度が弱者を徹底的に守るよう整えられているのは、本来合衆国が弱者に対して厳しすぎる国だからです。弱者を押しつぶすことに躊躇ない国――。
 だからドナルド・トランプのような男が大統領になり、多くの女性が性暴力の犠牲になり、たくさんの子どもが誘拐され殺されるのです。
 法と警察が異常な力をもって抑え込まなければ、弱者は皆、殺されてしまいます。

 そんなアメリカで生まれた法や概念を、もともと“女子どもに優しい”日本に持ち込むと、どうしても軋みが生じてきます。


【弱き者、汝の名は女?】
 昨日のビッグニュースは、「強制わいせつ容疑でTOKIOの山口メンバーを書類送検」(2018.04.25毎日新聞)でした。
 記事にある「山口メンバー」という表現も、なかなかのツッコミどころですが今日は触れないことにして、私はジャニーズ事務所のコメントの「お酒を飲んで、被害者の方のお気持ちを考えずにキスをしてしまいましたことを本当に申し訳なく思っております」に引っかかります。何とも言えない違和感ややりきれなさ、そして不思議な微笑ましさを感じるのです。

 山口達也の――失礼! 山口メンバーの46歳という年齢を考えると本当にアホですが、マンションの彼の部屋に行った女子高校生もまたそれなりではないかと、そんなふうに思いません?
「お気持ちを考えずにキスをしてしまいました」だなんて、高校生はそこまで子どもですか? 昭和か!?

 もしかしたらこちらが“昭和”で、今では許されないのかもしれませんが――、
 高校生にもなって男の部屋に行けば何が起こるか想像できなかったのか、
 親はどういう教育をしていたのだ?
 男の部屋に入った以上キスくらいでギャーギャー言うんじゃない
と、何か心の底から叫びたい気持ちになるのです。

 2年ほど前、男が約束の金を払ってくれなかったとかでラブホテルから警察に駆け込んだ女子高校生がいました。高校生はもちろん虞犯として補導されましたが、男の方は児童買春で逮捕されることになります。彼の人生が終わった瞬間です。
 もちろん買春の上に金を払わないという不埒な男に同情するわけではありませんが、どう見たって女子高生の方が役者が二枚も三枚も上です。この結末はやはり納得がいかない――。

 それも女性、特に未成年の女性は皆、無垢で弱いものだという前提で法律ができているからでしょう。裏を返せば「女性は弱くあるべき」「無垢でなくてはならない」――みんなで守ってあげているのだから、ということになりかねません。

 しかしいずれにしろ、そいう風潮にめげることなく、私は毅然として生きる強い女性を育てたいと思いました。





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2018/4/26

「王様の耳はロバの耳、かもしれない」3〜我々はどこへ行くのか  政治・社会

 
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ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(パブリックドメインQ)

【事件がもたらすもの】

 財務次官という社会的に責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に出なければ、今後もセクハラ被害が黙認され続けてしまうのではないかという強い思いから、週刊新潮に連絡して取材を受け、録音の一部も提供した2018.04.19毎日新聞)という女性記者の行動は、一人の事務次官を辞任に追い込むだけでなく、国会を空転させ、麻生財務大臣や安倍総理大臣の喉元に匕首を突きつけるまでに大きな動きへとつながっていきました。

 この事件によって官僚はもちろん、政治家、政財界人、芸能関係者、スポーツ関係者等々、およそ恒常的にマスコミの取材を受ける人々は自らの行動を見直すことになりました。
 考えてみれば「オフレコ」と言えば絶対に録音されないと考えたのは甘い認識で、悪意はなくとも、記憶の補強の意味で隠れて録音をしている記者はこれまでだっていたのかもしれないのです。その記者がICレコーダを紛失し、拾ってはならない人が拾ってしまう可能性だってなくはなかったのです。なんと無防備な日々を送っていたのでしょう。
 取材対象となる人々は、今よりずっと慎重になり、官公庁・各企業・組織のトップからは、報道関係者とのつき合い方に様々な注文が出されるようになります。

 振り返って自分に若い女性記者が貼りついているようだったら、新聞社や放送局が自分をそういう人間だと値踏みしているのかもしれません。誤解されたくなかったら「ペンス・ルール」を適用して、女性記者とは決して一対一にならないよう、常に心掛けるしかありません。そんなふうに女性を遠ざけていれば、メディアの方もやがて気がついて記者を男性に変えてくれるはずです(こちらから男性記者に変えてくれとは言えません。差別になりますから)。
 こうにして女性は取材の最前線から遠ざけられ、特ダネを手に入れて自己実現する機会を失います。しかし同時に、それは取材対象者から記者がセクハラ被害を受ける機会を減らすという意味では、むしろ好ましい傾向と言えます。

 あるいは、今回の事件を通してそもそも「番記者」といった “個人的な繋がりを基礎とした取材”自体が間違っていると考える人たちも出てきています。
 当然記者の立場からすれば「それを否定されたら特ダネなんて絶対に手に入らない」ということになりますが、国民は官僚や議員あるいは各界トップと報道記者との個人的な関係というものに、何やら胡散臭いものを感じ始めているのです。やがてそこにも、何らかの批判の声が上がることでしょう。
 時代は確実に変わります。


【女性を利用する人々】

 しかしだからと言って、事件の発端となった日本テレビの女性記者が一方的に悪いと言うつもりはありません。

 福田淳一通産省元次官という、女性に対して特に脇の甘い官僚のところに女性を送り込んだのは何と言っても日本テレビ報道局です。そうした危険な場に送っておきながら十分な支援をしなかったのも日テレの上司たちです。
 週刊新潮は運良く手に入れたゴシップを“正義”の箱に畳み入れて世に送り出し、それで大儲けしました。彼女の代弁をしたわけではありません。
 野党議員たちはそれこそ鬼の首を取ったかのように記事を振り回して、政府・自民党を追い詰めようとしています。

 みんな彼女を“聖女”扱いにし、守ろうとしているかのように見えますが、それとてこの事件に利用価値がある間だけです。ほとぼりが冷めれば、報道倫理の逸脱者としてその世界から放逐されるだけです。
 これはセクシャルハラスメントではありませんが、女性とその運命を翻弄するという意味では、似たようなものです。


【正義の振りかざされるとき】
 正義の旗印が振りかざされるときはいつもそうです。
「セクハラは“する”方が100%悪い。被害者には何の落ち度もない」

 私は元学校関係者なので経験に照らして言えば、
「いじめ問題も“する”方が100%悪い。被害者にも落ち度があると言うのはそれ自体がいじめだ」
 今はさすがに言わなくなりましたが、「不登校は学校と現在の教育体制にすべての原因がある。本人の個性や成育歴に原因を求めるのは、学校の責任転嫁だ」
とか
「教師が楽をするために作った山ほどの校則が子どもを追い詰め、非行に走らせている」
とか。
 いずれも悪いのは片方だけで、もう片方は全く問題がないというやり方です。

 しかし人間関係の中で起こることを100対0で説明してはいけないのです。現象をバッサリと切り分けると、事実が見えなくなくなり分析もできなくなります。


 例えば今月20日、野党の女性議員が黒い服を着て財務省を訪れ、“#Me too”と書かれたプラカードを掲げて抗議を行った(2018.04.20 朝日新聞)件。自民党の某議員がツイッターに「こちらの方々は少なくとも私にとって、セクハラとは縁遠い方々です」などと書いた(2018.04.23 朝日新聞)ためにさらに大きく報道された事件ですが、私はその「黒い服を着てセクハラに抗議」という意志表示の元となった、アメリカのある出来事に強い違和感を持っています。

 それは今年1月のゴールデングローブ賞受賞式でのできごとです。多くの女優が黒い服装で会場入りし“#Me too”への共鳴を示した、そのドレスのデザインが、腰の近くまでスリットの入ったスカートだとか、胸が露になりそうなほど深く切り込んだ襟だとか、メッシュとか、とてもではありませんが男性の性的関心を拒否するようなものではなかったのです。そんなドレスで「セクハラ反対!」と叫ばれても素直になれません。
 こうした難しさこそ現実なのです。

 日テレの女性記者を聖女のように扱うのは、ゴールデングローブの女優たちがあたかも修道女のような格好で「私たちを性的な存在として見るな」と叫んだよう報道するのと同じです。


【我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか】
 この事件に関するマスメディアや野党の扱いに、私は不満があります。
 世の中には天使と悪魔しかいないような報道の中で、私たちはどこに連れていかれるのでしょう。

 街の安酒場ではオジちゃんやオバちゃんたちが困惑しています。音声データにあったような会話を、男も女も、年がら年中、朝から晩まで大声でやってきたからです。これがセクハラなら明日から何を話せばいいのか――。
 
 別の街では、夕暮れの防波堤に並んで座る十代のカップルの間に激しい緊張が生まれます。男の子は今の状況で「キスしてもいい?」と訊ねていいものかどうか、空気を読みあぐねて心臓をパクパクさせています。もちろんそんなことを口にしないで顔を寄せるという方法もあると思うのですが、それはもっと悪いことなのかもしれません。でもどうしたらいいのか分からない――。

 そんな時代が良い時代だとは、とてもではありませんが、思えないのです。


                                (この稿、終了)
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2018/4/25

「王様の耳はロバの耳、かもしれない」2〜女性の気持ちは分かる   政治・社会


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ジャン=レオン・ジェローム「地獄におけるダンテとヴァージル」(パブリックドメイン世界の名画)

 同じ話題を扱った前々回の記事で私は、
 前々から思っていたのですが、首相や大臣を取り囲んで行ういわゆる「ぶら下がり取材」、その際、最前列でICレコーダやマイクを差し出す女性記者たち、有意に美人ばかりではありませんか?   
と書きました。それが納得できない、と。今でもそう思っています。メディアの一部は、若い美人の記者を政治家や官僚に張り付かせ、有利に情報を取ろうとしているのではないかと疑っているのです。

 中には女性の記者が行くと「人の少ないところで疑われると困るので」と、わざわざ繁華街の喫茶店を指定するような堅物もいると思いますが、そういう人には男性記者をつけた方がお互い安心できる。しかし福田次官のようにスケベ心が透けて見えるような対象者には若い美人を貼り付けておく、そのくらいのことはテレビ局も考えそうです。


【バンキシャたち――ネタを取るまで引き下がれない】
「真相報道 バンキシャ!」は日テレの看板ニュース番組です。全国どこで起こった事件であっても、日本テレビの記者(ディレクター)が直接赴いて取材することをウリにしています。
 ウチの記者はお仕着せの共同記者会見を待って記事にするような柔な存在ではない。自ら事件に貼りついき、人に貼りついて特ダネを取ってくる「番記者」そのものだ!
 このタイトルから伺えるのは、肉弾戦のような取材を尊ぶ日テレ報道局の伝統です。

 今回事件の中心となった女性記者も肉弾となって相手の懐に飛び込んでいった、あるいは飛び込んで行かされた一人です。彼女の背後ではこんな進軍ラッパが鳴り響いていました。
「何が何でも張り付け! 法律と公序良俗に反しない範囲で何でもやれ! 金が必要なら経理に行け、コンサートチケットで落とせるものならイベント事業部に相談しろ、スポーツ観戦ならスポーツ局に行け、使えるものなら何でも使え! 必要なら女も使え! 特ダネを取るまで帰ってくるな!」

 もちろんそのおかげで特ダネを取ることができて新聞協会賞でももらえば、今回の事件はなかったのかもしれません。しかし音声データでも分かるように、福田次官は呼び出してセクハラ発言を繰り返しながら、のらりくらりと話をかわして何の情報らしい情報も出してこないのです。
 夜中に呼び出され、家族と過ごすべき貴重な時間を犠牲にし、神経を張り詰めてセクハラ発言や行為をかわしながら、無為に過ごした一年半――。

 私は昨日、
必要なら誘われた酒場に行かないという選択肢もあったのではないか
と言い、
会社に部署変更を願うことだってできたはずです。
とも書きましたが、この女性記者の一年半を思うと、そうしたことができなかった理由も分かるような気がしてきます。


【彼女は頑張った――認識のすれ違い】
 ひとつには、今日までつぎ込んできたすべてのものに対する激しい郷愁です。ダメなギャンブラーがそうであるように、「いつか元を取る」「いつか元を取る」とつぶやきながら、やめるきっかけが掴めないで来たのです。
 その間に失ったものの大きさを考えると、次官との付き合いがどんなに苦しくても、今はやめることができない、何とか続けていくしかない――そう考えたのでしょう。

 あるいは、数多くの先輩たち――特に女性の先輩にできたことが、自分位はできないと認めたくない、思われたくない、降りるわけにはいかない、そう感じていたのかもしれません。

 私は、初任として初めて担任したクラスが大荒れに荒れ、毎日が地獄のようになっても自らが担任を降りることは考えませんでした。一瞬たりとも思わなかったのです。
 他の教師にできることが自分にはできないと認めたくないのです。もうしばらく頑張ればなんとかなると思い込んでいます、思い込もうとしています。今ここで降りてしまったら今日までの努力が水の泡になる、何のために血の汗を流してきたのか分からない、と恐れているのです。
 つぎ込んだ資源が多ければ多いほどやめることができない、耐えてきたことが厳しければ厳しいほど引き下がることはできない――その気持ちは十二分に汲み取れます。
 渦中の女性記者もきっとそうだったに違いありません。

 一方、福田次官からすれば、押し倒したとか胸に触ったとかいったことはない、すべては軽口の範囲で、半分も本気ではなかった。女性記者は口では「ダメです」「やめてください」とは言っていたが、本気で怒っているようには見えなかったし、そしてなにより、呼び出せば必ず出てきた。そうである以上、自分のやった程度のことは許容範囲にあったはずだ――そんなふうに考えていたのでしょう。

「いやだったら『いやだ』とはっきり言えばいいじゃないか」は、いじめっ子の常套句です。しかし大人の社会は複雑で、「いやだ」とはっきり言えない事情はたくさんあります。ですからすべては福田次官の認識の甘さのせいなのですが、次官ひとりが悪いと言って済ませることは問題を歪曲化することになります。


【不信感】
 人間関係の中で起きた事件ですから、100対0で片方だけが悪いなどということはあり得ません。「盗人にも三分の理」というように、最低でも3%程度の理由はあるはずです。
 今回のセクハラ事件について福田次官が全面否定し、麻生大臣が「はめられて訴えられているんじゃないか」と失言し、下村元文科大臣が「ある意味犯罪」などと言い出す背景には、政府与党の“被害者”に対する不信感があるのです。
 私も、例えば女性記者が上司に「セクハラの事実を報じるべきではないか」と相談したのか解せません。

 セクハラ被害を受けて耐え難いがどうしたらよいのかと相談したなら分かります。
 その場合は日テレの高い部分から麻生大臣に相談して処罰してもらうか、もっと低いレベルで直接福田次官に話をして、「セクハラを辞めなければ公表する」と脅せばいいだけのことです。メディアには第四の権力と言われるだけの力があります。

 ただし直接交渉によってセクハラを止めることはできても、報道することはできない。
 報道した場合、内容の信ぴょう性を最終的に保証するものは音声データしかなく、しかもそれは隠し取られたものだからです。音声データを公にするということは、「日テレの記者の前で何か話せば、それはオフレコでも公表される」と、世界に向けて発信するのと同じです。そんなことはできるはずはない。
 女性の上司は
 放送すると本人が特定され、二次被害が心配されることなどを理由に「報道は難しい」と伝えた
と言いますが、こんなおためごかしの説得ではなく、きちんと状況を説明すべきだったのです。

 しかし、
 女性社員は、財務次官という社会的に責任の重い立場にある人物による不適切な行為が表に出なければ、今後もセクハラ被害が黙認され続けてしまうのではないかという強い思いから、週刊新潮に連絡して取材を受け、録音の一部も提供した
のです。
(この部分の引用はすべて2018.04.19毎日新聞 より)

 女性記者の目論見はおそらく成功します。しかしそれが彼女の望むような成功とは限りません。

                             (この稿、続く)


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2018/4/24

「王様の耳はロバの耳、かもしれない」1〜私は理解できない   政治・社会


【王様の耳はロバの耳かもしれない】
クリックすると元のサイズで表示します 財務省福田事務次官の辞任が今日にも認められる見通しであることから、昨日、野党の代表者が財務省を訪れ、23日(昨日)中の謝罪と処分を行うよう強く求めたと言います。(2018.04.23毎日新聞
 辞任が決まった後では処分ができないため、退職金5300万円が満額支払われてしまう恐れがあるのだそうです。

 今回の事件さえなければ、間もなく拍手と花束で無事財務省をあとにできた人です。それが一敗地にまみれ、汚名は世界に広まり、ロクな再就職先も与えられず放逐されるのです。私の心はこの時点で凍りつきます。
 もう十分じゃないか、この上退職金まで奪われほどの悪いことをしたのか、現段階ではまだ事実関係さえ明らになっていないじゃないか――それが私の感じ方です。
 しかし世の中はそうではありません。マスメディア、世論、野党、その他すべてが、福田次官および財務省を絶対に許さないという強い気持ちで動いているようなのです。

 私の感じ方がいかにも昭和の年寄らしい、現実が全く分かっていないものだというならいいのです。しかしそうでなく、ある種の熱狂の中で事が進んでいるとしたら、それはあまりに危険です。今回の事件は決着の仕方次第では、政治のあり方、報道のあり方、社会道徳のあり方に大きな変化を与えるものです。したがってひとたび取り扱いを間違えば、後々たいへんなことになりかねません。

 王様の耳がほんろうはロバでなかったら、ロバの耳だと思い込んだ私が非難され恥をかけばいいだけのことです。
 しかし実際にロバの耳であって、多くの人々がうすうすそれに気づきながら黙っているとしたら、誰かが声を上げなくてはなりません。そうしないと真実が王冠の中に隠されてしまうからです。
 正直言って自信はないのですが、私も、今思うことを記録しておきたいと思います。


【たくさんの疑問】
 まず思うのは、法的な意味であれはセクシャル・ハラスメントに当たるかどうかということです。
 もちろん相手が会社の上司だったら間違いなくセクハラです。しかし今回の場合、必要なら誘われた酒場に行かないという選択肢もあったのではないかと思うのです。もちろん会社を通した人間関係ですから「そんな失礼なことはできない」とか「不義理はできない」といったことはあろうかと思います。だったら会社に部署変更を願うことだってできたはずです。
 それにも関わらず、1年半にも渡っていわゆる「番記者」のような状況にあった。それは当然行うべき危険回避の権利を行使しなかったということにはならないか、ということです。

 第二は、隠しマイクで録音することが、なぜ自分の身を守ることになると考えたかという点です。
 もちろん目の前にICレコーダーを置いて録音することは「身を守る」ことにつながります。あるいは「前回のひどいセクハラ発言があったので録音しました。今後同様のことが続けばそれを公表しますからよろしく」と言えばそれも抑止力になるでしょう。しかし相手が全く気づかない状況でとった録音データが、どう身を守るのか、私には理解できません。
 それが使えるのは、先ほど言った「以後セクハラ発言をやめるように」と釘をさす場合と相手をハラスメントで訴える際の証拠とすること、あるいは音声データと引き換えに価値ある内部情報をもらうこと、そのくらいしか思いつかないのです。

 第三に、そもそも記者は呼び出された酒場に何をしに行ったのかということです。
 もちろん「取材に行った」が一義的な理由でしょう。しかし正式なインタービューだったら酒場という設定が変です。おそらく一対一で語られる特別な情報が欲しくて行ったのでしょうが、それだけで済む場所とも思えません。

 一方、福田次官は何をしに来たのか。
 財務省の情報をリークしてそれで政治に影響力を行使しようとしたのかもしれません。あるいは彼女が持っている情報に興味があって、それと引き換えにこちらの情報を渡すつもりだったのかもしれません。
 いずれもありそうなことですが、この二人に限って言うと、音声データからそんな緊張感はまったく伝わってこないのです。
 記者の欲しがっているものは分かります。しかし福田次官が欲しがっていたものはなにか。スケベ盛りの中年男が、若い美女を前に欲しがるものと言えば――。
 私には想像がつきます。彼女には理解できなかったのでしょうか。理解した上で結局我慢ができなかったということなのでしょうか。
 そしてそのことは第四の疑問につながります。
 会社は、女性記者にそうした危険が及ぶことを考えなかったのか、その場合の対応について前もって用意していなかったのか。

 第五の疑問は、音声データを週刊新潮に渡すことによって、女性記者は何を達成しようとしたのかということです。
 社会正義を果たそうとしたのか、それとも一年半も突き合わせてロクな情報も出さなかった恨みを晴らそうとしたのか。そもそも福田次官の魔の手から逃れたいという一心だったのか。

 明日、それらについて考えてみたいと思います。

                             (この稿、続く)


イメージはジランシスコ・デ・ゴヤ 「魔女の夜宴」(パブリックドメインQより)


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2018/4/23

「シェイクスピアの命日」〜文豪に関するウンチク、あれこれ  歴史・歳時・記念日


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ジョン・エヴァレット・ミレー 「オフィーリア」 (パブリックドメインQ)


 今日、4月23日はシェイクスピアの亡くなった日だそうです(1616年)。

 以前にも書きましたが、私が生年没年ともに知っている偉人はシェイクスピアだけで、1564年に生まれ1616年に死んだとすぐに言えます。
「人殺し(1564)に生まれていろいろ(1616)やって死んだ」
と覚えればいいのです。
 
 また、日本で、織部さんの祖先は宮中で布を織っていた人、その布を衣服に仕立てたのが服部さんというのが確かなら、シェイクスピアの祖先は間違いなく歩兵です。「Shake(振る)spear(槍)」ですから。
 ただしシェイクスピアの場合は最後に「e」が一つつきますから(Shakespeare)もしかしたら関係ないのかもしれません。


【シェイクスピアの名台詞】
 英語から聖書とシェイクスピアの慣用句を全部削ったら、表現は半分以下になってしまうと言われるように、シェイクスピアの台詞は繰り返し利用されます。有名なものとしては、
「弱きもの、汝の名は女」
「生きるか死ぬか、それが問題だ」
「尼寺へゆけ!」

は、いずれも「ハムレット」。
「おお、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」
は言わずと知れた「ロミオとジュリエット」
「どんなに長い夜も、必ず明ける」(「マクベス」)
「どうしてこんなに気が滅入るのだろう」(「ベニスの商人冒頭」)
 すぐに思いつくのはそのあたりでしょうか?

 ただし誤解されている台詞も多く、例えば「弱きもの、汝の名は女」は、別に女性は弱者だと言っているのではなく、夫の死後間もなくその弟と結婚してしまった母親を嘆いて、ハムレットが「誘惑に弱きものよ、汝は・・・」という意味で使ったものです。
 だから女性は、男性に力仕事をさせようとしてこの台詞を引用するのは、むしろ墓穴を掘るようなものですから注意しなくてはなりません。

「尼寺へ行け!」は使いようがないので心配することもないと思いますが、英語の尼寺(Nunnery)には「売春宿」という意味もあるそうですから要注意です。知らなかったでは済まない場合だって出てくるかもしれません。


【ハム役者と大根役者】
「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」
はあまりにも有名で、英語圏の人たちもやたら使って役者気分を味わおうとするそうです。そんなことから素人役者、または素人並みに下手クソな役者を、「ハムレット役者」、縮めて「ハム役者(ham actor)」と言ったりします。
 日本では下手な役者のことを「大根役者」と言いますが、これは大根がどんな食材と食べ合わせても絶対に「あたらない(食中毒にならない)」という言い伝えから、どんな役を演じても「アタリ」を取らない役者のことをそう呼ぶようになったということです。

 しかし私は上のような説明を数十年前に聞いてすっかり信じ込んでいましたが、今回ふと思いついてWikipediaで調べたら、他にもいっぱい説があるみたいで多少がっかりしています。

「大根役者」  「ham actor 」


【その他もろもろ】
 シェイクスピアの四大悲劇と言えば「マクベス」「リア王」「ハムレット」「オセロ」です。うっかりすると「ロミオとジュリエット」を入れてしまいそうですが、それを入れないところがミソ。思い出そうとするときに、まずこれを外して考えるのがコツです。

 日本生まれのゲーム「オセロ」は、シェイクスピアの「オセロ」が、黒人の将軍と白人の妻を中心とした激しい裏切りの物語であることからつけられたと言われています。

 また、シェイクスピアの戯曲はたびたび映画化されていますが、換骨奪胎して全く違った雰囲気で成功した作品もいくつかあります。
「ロミオとジュリエット」を現代のニューヨークに置き換えたミュージカル「ウエストサイド物語」や、「リア王」を戦国時代の日本に再現した黒沢明監督の「乱」などがとくに有名なところです。



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2018/4/20

「ペンス・ルールと昭和の匂い」〜ハラスメントの加害者とならないために  教育・学校・教師

 
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ジャン・オノレ・フラゴナール 「奪われたキス」(パブリックドメインQ)

 財務省次官セクハラ問題について、福田次官・財務省はなぜあそこまで強気に出られたのかと訝っていたのですが、やはり次官には次官なりの言い分があって黙って引き下がるわけにはいかなかったのです。

 要するに彼は、
「週刊誌の私に関する記事については事実と異なると考えており」「あんなひどい会話をした記憶はない」(4月18日)と言っているのであり、「(音声データは)一部しかとっていない。全体を見ればセクハラに該当しない」(4月19日)と否定したいのです。
 まったく言わなかったわけではないが、自分はあんな矢継ぎ早にスケベエな発言をするような人間ではない、全体を見てくれ、というわけです。


【財務省は間違ったのか】
 一方財務省は、調査する人間全員が福田次官の部下ということもありますが、被害者とされる側の証言は絶対に必要だと考えた――これにはマスメディアをはじめ政府・与党からも批判の出たことですが、私には正しい対応だったと思います。

 被害者が名乗り出ると二次被害にもなりかねないから、告発はそのまま受け取るべきだということになれば世の中、何でもありになってしまいます。
 今回は「週刊新潮」という一流の雑誌でしたから国民の多くが「まあ、真実だろう」という気になりましたが、これがネットの「5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)」だったらどうでしょう。そこに音声データがあったとして、それでもデータを疑うことなく、ひとりの人間を罷免することができるのか。

 もちろん私もまじめに「週刊新潮」と「5ちゃんねる」を一緒にしようというのではありません。しかしこの二つへの対応が異なるとなると、その間に存在する無数のメディア(各種週刊誌、新聞、ネットニュースなど)の間に線引きをしなくてはならなくなります。
 「週刊新潮」「週刊文春」は信じよう、しかし「週刊○○」と「週刊△△」は検証が必要だ――そんなわけにはいかないでしょう。両方の言い分を聞いてみないと処分はできないというのは、至極まっとうな話です。

 また財務省の顧問弁護士を使おうとしたことも、私には大きな問題とは思えません。外部の組織に委託するにしても、費用を出すのは財務省です。結局財務省寄りの結論を出す疑いは消せません。
 それに財務省の顧問弁護士がだめなら、各企業内にあるセクハラ窓口なんかもっとダメで、組織防衛論から言えば「会社に必要な人材、社長・重役・能力のある社員のセクハラは扱ってもらえず、無能な人間の事案のみが取り上げられる」ということだって考えられます(そして普通は、無能な人はセクハラもしません)。
 担当者の善意を信じましょう。そうでなければ社会的コストばかりがかかって仕方ありません。ただしどうしても信じられないとしたら、あとは裁判だけです。

 今回の件について言えば、福田元次官が名誉棄損で訴えると言っていますから、いずれ白黒のはっきりする日が来るはずです。中途半端に終わらせることなく、きちんと最後まで行われることを願います。
 たぶん元次官が負けるでしょうが。


【何が問題なのか】
 問題の核心は加害者:福田元次官と被害者:女性記者との間の認識の差です。
 元次官は「長い長い会話の中から特定の部分だけ摘まみ出して、その上でセクハラと言われても責任の取りようがない」と本気で考えています。「全体を見れば発言はほんの些細なもので、とてもではないがセクハラと言えるようなものではない」と怒っているのです。しかし女性は違います。あのデータこそが事実だというのです。
 私は女性に軍配を上げます。

 女性の気持ちになって想像してみてください。
 次官には何回も何回も呼び出されている。時には今回のように深夜にもかかわらず呼び出され、慌てて着替えて出かけることもある。――にもかかわらず、政治的な話にはロクな返事もせず、時々合いの手か接続詞のようにセクハラ発言を入れてきます。
 次官にしてみれば長い長いまじめな話の間に、少しそんな言葉を入れただけ、しかも本気ではない、ただの戯言です。

 しかし女性にしてみると質問にまともに答えない長い長い無駄話(だから頭にも心にも入ってこない)の間に、「やめてください」と何度言ってやめてくれないセクハラ発言がギラギラ突き刺すように入ってくる(だから記憶にも心にも強く残る)わけですから、セクハラ発言だけを聞かされているに等しい――つまりあの音声データこそ、彼女の主観を映し出したものだったのです。

 ハラスメントの認定は被害者の主観に沿ってなされるべきものである以上、この件は既に決していると言えます。


【もちろん他人ごとではない】
 今回の事件に際し、あるテレビ番組で芸人コメンテーターのひとりが、
我々だって仲間内ではあんなことを言い合っている」
と言ったのに対し、別のタレントが、
「いやそれは違う。これは財務省事務次官という最高レベルに近い権力者と新聞記者という、上下関係のあるところで起こったことだ。我々庶民とは話が違う」
と、そんな言い方をしていました。しかしそれも違うと思います。

 芸能界の先輩は後輩に対して権力を持っています。ファンはしばしばタレントに服従します。本人にその気はなくても、タレント志望の子は芸能人の言いなりになる可能性を持っています。
 仲間内で気軽にエロ談義をしている最中、その輪の中のひとりが、表情を殺して屈辱に耐えているということは、大いにありそうなことです。

 芸能界ばかりではありません。企業の役員は社員に対して、先輩社員は後輩に対して、社会人は学生に対して、部活の先輩は後輩に対して、高校生は中学生に対して、中学生は小学生に対して、それぞれ一定の権力を持っています。したがって常に神経を研ぎ澄ましていないと、そこにセクハラ、ないしパワハラの生まれる危険性は常にあるのです。

 学校について言えば管理職と一般職、教師と生徒、教師と保護者がそれにあたります。
 先生からすれば生徒(特に女生徒)や保護者は、いったん嫌われると手も足も出なくなってしまう恐ろしい人たちですが、あちらから見ると“成績を握っている”“子どもを人質に取っている”、これも恐ろしい「権力者」です。
 したがって決して気を許していい相手ではありません。


【昭和の匂い】
 福田元次官も「今の時代ってのはそういう感じなのかなとは思いました」と言っているように、時代の変化ということにも気を配る必要があります。

 あるニュースコメンテーターは、
「どうも50代以上の人間と40代以下の人たちの間には、セクハラに対する意識の壁があるような気がする。50代以上の人間は私も含めて、これくらいのことはどうということもないといった甘さがある」
といっています。同感です。

 現在50歳の人は平成元年に成人を迎えた人です。つまり50代以上というと昭和の後期、バブルの浮かれた時期に大人社会に入ってきた人たちなのです。平成の辛い時期に大人になった40代以下とは、世の中の見る目が根本的に違っているのです。

 50代以上の多くは、飲み会の席で(というか素面でも)「あなたホントに美人だね」くらい平気で言います。女性の容姿について批評しているつもりなどさらさらなく、素直に誉めているつもりなのです。
 人生の先達として「そろそろ結婚したらどう?」などと平気で訓示を垂れるのもこの人たちです。自分が言われてきたからそう言っているだけで、大した意味もなく、それがセクハラだという認識さえありません。
 
 それなのに現代社会は――今回の事件で元次官が「お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」と発言したことに関して、「相手が接客業の人間だったらああいう言葉を使っていい、と考えること自体がセクハラだ」といった厳しい意見が出るほど、倫理性が高まっているのです。


【ペンス・ルール】
 最近、アメリカのペンス副大統領が、妻のカレン夫人(60)以外の女性とは2人だけで食事をしないと決めている、夫人と一緒でなければアルコールが出る行事にも出席しない、ということで評判になりました。(「ペンス副大統領、妻以外の女性と食事しないと話題に」毎日新聞2017年4月15日 )
「英国のメイ首相やドイツのメルケル首相とも2人では会えないのか」といった皮肉も交えての話ですし、女性との関係がうわさにならないように、夜まで一緒に働くスタッフは男性に限っていたというのは、結果的に重要な仕事から女性が外される場合もある、という意味でそれ自体がセクハラのような気もしますが、身を守るというのはそういうことなのかもしれません。

 日本では恋愛に対して臆病な若者たちを“草食系”などと揶揄してきましたが、「抱きしめていい?」「キスしていい?」などと絶対に言いそうにない彼らこそ、見習うべき人たちなのかもしれないのです。
 緊張し、慎重になりましょう。


【付記】
 ただし私には少々不満があります。
 前々から思っていたのですが、首相や大臣を取り囲んで行ういわゆる「ぶら下がり取材」、その際、最前列でICレコーダやマイクを差し出す女性記者たち、有意に美人ばかりではありませんか?
 いや、そもそも女性記者はみんな美人だ、ということであれば、採用選考の段階ですでにセクハラを受けていたことになります。
 私はそこが納得できません。


 


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