2018/3/16

「Let it be」〜May it beそしてLet it be 2  人生


【Let it be】
 ビートルズの「 Let it be」で、ボクが困難に陥っている時、Mother Mary(って誰だ?)がやってきて耳元でささやいたことばが“Let it be”です。いろいろな訳がありますが、要するに小細工をするな、いろいろやるな、そのままで、といったニュアンスだと思います。しかし私は肯いません。何かトラブルがあって困っている時、「そのままにしておけ」というのはちょっと違うと思うのです。

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(イメージ PhotoACより)

 かつてのテレビドラマ「水戸黄門」では8時20分ごろ、黄門さまが「助さん、格さん、しばらく様子を見ましょう」などと言って問題を複雑化してしまうことが常でした。最終的に何人かの敵を殴ったり打ったりして、その上で印籠を示すという「暴力」と「権力」で問題解決を図るなら、なぜもっと早くに手を打たなかったのか、そうしておけば無意味に苦しむ民衆も出ず、最後に戦わずに済む。叩かれる“敵”だって多くは無辜の下級武士じゃないか――そう思ったのは私だけではないでしょう。

 「待つ」ことは大切ですが、何もしないで待つのは放置と一緒です。稀にそれでいい場合もありますが、大抵は悪い状況がさらに進むだけです。少なくとも私の性に合いません。
 物事がうまくいかないときは何か手を打ち、打ってから待つ。強いて言えば“Do and Let it be”(こんな英語あるのかな?)。そうでないと私は気が済みません。


【イライラしたこと】
 具体的に言えば、かつて医者たちが不登校に対して「ゆっくり休ませましょう」といって子どもを放置したことに今でも激しい怒りを感じています。心身のことについては医者の言葉は絶対です。だから私たちは太刀打ちできませんでしたが、学校に行こうとすると足がすくんで激しく嘔吐するような子まで行かせろとは言いませんが、「なんとなく行きたくないな」みたいな子まで休ませてどうするんだ――と、当時はそんなふうに思ったものです。

「登校拒否は病気じゃない」
 そんなふうに言い続けたこの世界の“専門家”たちにも、私はかなりイラついていました。不登校の全部が病気だとは言いませんが、病気で学校に行けない子まで放置した罪は軽くないからです。

 またあるいは、子どもと戦うべき大事な場面で面倒を回避して、ゲームもケータイもマンガも好き放題に与えておいて、あとで「勉強しなくて困る」と嘆く保護者。門限もなく、小遣いもふんだんに与えて出入りする場所も制限せず、それで子どもが不良になったと絶望する保護者。そういう人たちに対しても、心の中で激しい怒りを燃やしていました。
 なぜ小さなころに手を打たず、あるがままにしたのか――。

 しかしそれらはすべて過去のことです。教育の現場を離れると、楽なことは少なくありません。


【イライラすること】
 今、私がイライラするのはそれらとは逆のこと、せっかくの良い状態なのに、そしてその必要もないのに、状況に手を入れ変えてしまおうという人たちのことです。

 ひとりは以前お話しした教え子のシノマです(2018/1/26「これを捨て、あれを目指すのか」〜ある二人の女性教諭の肖像 2)。今月いっぱいで教員を辞めます。

 もうひとりは義姉。かなり悪性のガンで標準治療も使い果たしてしまったというのに、一年以上も症状の出ることなく元気で暮らしています(2017/10/31「ガンという病の分水嶺」〜誰が生き残るのか分からない)。だったらその状況を大切にすればいいのに、あれこれ訳のわからない治療をしたがって実際に受け始めています。「何もしない」という選択が苦しいのは理解しますが、眠っているガン細胞にやたら手を入れて起こすのはいかがかと私は不安なのです。

 あるいは世間から見れば羨ましがられていいほどのものを持ちながら、手の内にあるものを数えず、ないもの、失ったものばかりを数えて鬱々と暮らす人たち――。
 つまらないことに手を出さなければいいのですが。

 いろいろ欠点はあるにしても、知育・徳育・体育をバランスよく、最高水準まで高めているという点で日本の公教育は世界の最先端を独走しています。その素晴らしい教育に「教育改革」とかいった妙なお題目で手を入れないでほしい――そういうお話は、これまでも何度もしてきましたので今日はしません。




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