2018/3/14

「地獄への道は善意で舗装されている」〜今日はなんだか、私は悲しい  政治・社会


 森友問題もいよいよ核心に近づき、終わりが見えてきました。
 これは政府・財務省が逃げ切れると思ってごまかし続けたために一年の長きにわたる政治スキャンダルとなっただけで、せいぜいが忖度による背任事件、人が死ななければならないほどのものではありませんでした。

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(カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ「樫の森の中の修道院」 GATAGより)

【たぶん起こったことはこうだ】
 私は昨日、莫大な資金や得体のしれない恐怖といった実効的なパワーを背負いながら、友愛や交渉術という「情」や「知恵」によってことを成していると思い込んでいる、そんな愚かな老人の話から始めましたが、今日のとっかかりは意図的に背後の権力を振り回した、ひとりの男の物語です。しかもその権力は実体のない借り物でした。

 男の名は籠池泰典。彼はその妻である無邪気な悪女とともに、総理大臣夫人に近づき、篭絡し、彼女の名を縦横に使いました。新設校をつくるのに事後承諾で名誉校長に担ぎ上げ、校名にも総理の名を入れ、そうした偽の事実を振り回すことで事を有利に運ぼうとしたのです。
 チンケな詐欺師ですからその程度の仕込みでうまくいくはずはなかったのですが、ところが相手が悪かった。2014年に設置された内閣人事局(各省の幹部人事を行う)を意識せざるを得ない高級官僚の下で働く公務員たちは、上司に有利な方向に事を運ぶよう、心にバイアスがかかる仕組みになっているのです。その意味で彼らはとてもナイーブだったのです。

 籠池詐欺師に、総理が、総理が、総理夫人が、と言われれば、どうしても権限の及ぶ範囲で何とかしてやろうという気持ちになります。胡散臭い男で最初は相手にしていませんでしたが、写真やサイトやメールを見せられているうちに、その意に沿った方向に動かざるを得なくなったのです。もっとも土地そのものもゴミ問題などでケチのついたものでしたから、値引きに値引きを重ねることに抵抗感が少なかった面もあるのかもしれません。

 しかしのちに会計検査院に指摘されるように、その算定の仕方はあまりにも杜撰でした。そしてその背任すれすれの杜撰さを糊塗するために、ウソにウソを重ねる――。
 記録がないと言ってみたり、実はあったと言ってみたり。出てきた記録は改ざんだらけ――。

 こんなことになると分かっていたら最初からすべてをさらけ出して、処分すべき人を処分して終わりにすればよかったのです。ウソというのはまことに恐ろしいものです。


【悪人はいない】
 私がこの事件を悲しく思うのは、とりあえず今のところ籠池夫妻以外に悪人らしい悪人がいないからです。
 今後の捜査でひとりかふたり、籠池夫妻から金をもらって財務省や大阪府に圧力をかけたという議員や官僚が出てきてくれれば、むしろ私としてはホッとします。

 権限のあった佐川元理財局長や札束を叩き返したと証言した鴻池議員、その他書き換え文書に名前のあった平沼議員や故鳩山議員、あるいは極端に言えば安倍総理自身だってかまいません。悪事と知りつつあえて籠池夫妻に手を貸した人がいたら、腹を立てることはあっても悲しむことはありません。
 しかしおそらくそういうことではないでしょう。公務員たちは皆、当たり前のように“誠実”に、熱心に仕事をした結果がこうなったのです。
 政治的・法律的問題ばかりでなく、仲間のひとりを死なせてしまったことは痛恨です。


【地獄への道は善意で舗装されている】
 もちろん“誠実”は免罪符にはなりません。

 太平洋戦争だって役人や軍人がもっと不誠実だったらあんなに酷いことにはならなかったのです。特に半ば以降は、多くの人々 が“これは間違っている”と思いながら、目の前の仕事に誠実であろう、仲間や上司に誠実であろうとして地獄への道を突き進んでしまったのです、国民を道連れに。
 まさに、
「地獄への道は善意で舗装されている」
のです。

 7年前の今日(3月14日)、福島第一原発では12日の1号機に続いて3号機も爆発し、2号機も異常な圧力上昇を続けていました(15日爆発)。しかしその間、命令によって退避した所員・作業員以外、誰ひとり逃げ出す者はなかったのです。それどころかこの日までに非番の所員・作業員が続々と駆け付けており、消防も警察も自衛隊もこれから「福一」を目指して向かおうとしているところでした。それも“誠実”です。(2011/3/28 学校が始まったら子どもたちに話すこと
 同じ“誠実”で、結果のなんと異なることか。


【私も同罪だ】
 私は現職のときから一貫して小学校英語に反対してきました。これから始まるプログラミング教育にも反対です。専任教師を置かず担任にやらせる「総合的な学習の時間」にも、時間とエネルギーコストを全く考えずに行う教員評価や学校評価にも反対してきました。

 しかし反対しながらもその実、仕事は“誠実”に行ってきたのです。小学校英語など、草創期には誰よりも熱心に取り組んだひとりです(担当者でしたので)。
 その結果、研究の報告書には「とても有意義な活動だった」と、そんな印象を与えるまとめ文を書き、活動を引き返せないものにする手助けをしてきたのです。

 ときどきテレビのニュース番組に出てくる“学校の新しい試み”、新しい機器を使った英語の授業だとか国際交流だとか、地域貢献だとかはみな同じです。「とても良かった」「素晴らしかった」「子どもたちの成長が感じられた」と高評価を与え(当たり前です、学校に要求されるもので悪いものなどあるはずがありません)、活動を不動のものとしてさらに拡散させようとします。しかしその授業のためにどれほどの時間とエネルギーが注がれたかは話しませんし、どれほど負担になっていくかを語ることはありません。
 教師はやがて自分の首を絞めることになる活動についても、“誠実”に立ち向かい、成果を生み出してしまうのです。

 中学校の現場にいたころは、学校に12時間いてしかも3時間程度の持ち帰り仕事をしていました。教師の過剰労働を助長し、たくさんの病気療養者と自殺者を生み出した、――私もその責任あるひとりなのです。
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