2018/1/19

「部活動に熱中する普通の教師たち」〜アクセルを踏ませたまま、ブレーキをかけてはいけない 2  教育・学校・教師


 長谷川穂積だったと思うのですが、数年前のタイトルマッチで鼻を折られて敗れ、暗い気持ちを引きずっていたら奥さんが、
「鼻を折られたくらいでいつまでウジウジしてるんジャ!! だったらワタシが心、折ったろか!!」
と怒鳴ったと言います。おそらく相当に盛りつけた話ですが、分からないではありません。
 リングでメッタ打ちにされる夫を見続けなければならないボクサーの妻、生半可な神経では勤まらないでしょう。もしかしたら本当にそんな言い方をしたのかもしれません。

 ところでそれが夫と妻ではなく、生徒と顧問だったらどうでしょう。教え子がリングでメッタ打ちにされているとしたら、部活顧問はどんな思いでそれを見るのでしょう。

 ボクシングではありませんが、私が部活動の顧問をしていたころ、心の中にあったのはそういう風景です。

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【私の場合】
 そのあたりの事情については以前も書きました(2013.02.20「勝利至上主義について」)。異動したばかりの中学校の女子バレーボール部を率いて大会に行ったところ、前任校のチームがボロ負けに負けて私の前を通り過ぎたのです。
 私の教えたチームではありません(別の部活の顧問だった)。でも教科担任として教えた子が何人もいて、そのうちのひとりが私を見つけ、ヘラヘラと笑いながらこう言ったのです。
「せんせ、負けちゃったよ。私たち、メッチャ弱い」
 返す言葉がありませんでした。

 かつての15点マッチのバレーボールなんて、ただボーっと立っているだけでも相手のミスで2、3点は入ってしまいます。体育館に残っていた得点ボードの数字、「15-2」「15-3」は彼女たちがコート内で何もできず、なぶり者になった証拠です。
 あまりの酷さに、泣くこともできない。

 練習の質も量も雲泥の差だったとしても、それでも2年半、暑い日も寒い日も必死にボールを追ってきたのです。それなりの悔しい思い、切ない思い、苦しい思いを乗り越えてやってきた中学校部活の最後の日、相手に好きなようにされ、ボロボロになって、泣くこともできない、ヘラヘラと笑っている――
「子どもにあんな思いをさせてはいけない、負けるにしてもあそこまで惨めな思いをさせてはいけない、恥じはかかせられない。どんな強い相手でも、相手の半分以上の得点は取る」
 それがそのとき私の中に生まれた強い決意です。女子バレーボール部の顧問をやっていた6年間、いつも頭にあったのはそのことでした。

 しかしそれは驚くほど高い目標でした。市内の最強チームであっても半分以上取るということになると、ベスト4かそれに準ずるくらいの強さを持っていなければならなかったのです。
 かくて私は部活の鬼みたいになってしまいました。土曜日も日曜日もなくなり、練習法や用具の工夫に血道をあげることになったのです。


【普通の人たち】
 昨日お話しした名古屋大学准教授の内田良さんは、部活動が過熱することについて以前、こんな説明をされたことがあります。

 部活動というのは成果が見やすいのです、県大会に行ったとか――そうすると最初はいやだなあと思った先生も一回指導する、すると子供たちに力がつく、するとまたひとつ勝つ、そうなると今度は保護者も喜ぶ、生徒も先生もうれしい、そうするともうひとつがんばってみようかな、土曜日も日曜日もやってみようかな、そしてまた強くなったという中でついついブレーキが利かなくなっていってしまう、それが今の現状ですよね

 おそらくそれが普通の教師の在り方でしょう。
 教えることが大好きなのです。自分の知識や経験、努力や工夫のおかげで子どもたちが成長していくのがうれしくてしょうがない。そもそも“だから教師になった”、そんな人ばかりです。
 
 もちろん勝てない時の責任も顧問。
 普段の授業でも「成績の上がらないことを生徒のせいにするな」と言いますが、部活動ではなおさらす。
 中学校に入学した段階ではほとんどの子どもは素人です。基本的運動能力に違いはあっても、それを上限まで伸ばすのが部活顧問の務めでしょう。ですからなおさら、顧問は研鑽に励まなければならなくなるのです。

 負けた試合を子どものせいにして、
「部活は私の本務ではないので――」
と平然と帰宅できるような人は、そもそも人間として間違っているように私は思います。


                                (この稿、続く)


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2018/1/18

「部活動に熱中する優れた教師たち」〜アクセルを踏ませたまま、ブレーキをかけてはいけない 1  教育・学校・教師


 一昨日夜のネットニュースに「運動部活 中学、休養日を週2日以上 平日1日2時間程度」(2018.01.16 毎日新聞)というのがありました。

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【部活動の制限はいまに始まったことではない】
 それによると、
 運動部活動に関するガイドライン(指針)を検討するスポーツ庁の有識者会議が16日、東京都内で開かれ、中学では休養日を週2日以上とし、1日の活動時間を平日2時間、休日3時間程度までとする指針の骨子が大筋で了承された。
とのことです。

 先に進むと、国が活動時間の上限を示すのは初めてとありますが、すでに20年前の1997年、文部科学省(当時は文部省)による「運動部活動の在り方に関する調査研究報告」の中でこんな記述がありますから初めてではありません。

  我々としては,[1] (注:「平成8年調査の結果から」)に示した調査結果の分析も踏まえ,次のような休養日等の設定例を示し,各般の参考に供するところである。
〔運動部における休養日等の設定例〕(参考)
 中学校の運動部では,学期中は週当たり2日以上の休養日を設定。
 高等学校の運動部では,学期中は週当たり1日以上の休養日を設定。
 練習試合や大会への参加など休業土曜日や日曜日に活動する必要がある場合は,休養日を他の曜日で確保。

  (中略)
 なお,効率的な練習を行い,長くても平日は2〜3時間程度以内,休業土曜日や日曜日に実施する場合でも3〜4時間程度以内で練習を終えることを目処とする。長期休業中の練習についても,これに準ずる。 (第2部―第2章―1―[2] 考 察)

 つまり部活動の時間制限、休日制限は20年も前に指示されていたのです。
 それが守れなかった、
 なぜか。

 これについて部活動問題の「専門家」としてしばしばマスコミに登場する内田良名古屋大学准教授は「守られなかったのは、やりたい先生がいるからです」と説明します。

 やるからには強くしたい、親からのプレッシャーもある。

 見るともなく見ていたニュースの一部で言葉遣いもニュアンスも違うかもしれませんが、おおざっぱにそんな内容です。間違っているとも思いません。
 しかし部活動をやりたがる先生たちにも様々な類型があり、ことはそう簡単ではありません。

 いくつか見てみましょう。

【純粋に競技を愛する人々】
 有森裕子や高橋尚子、鈴木博美、千葉真子らを育てた小出義雄監督がその代表です。

 小出監督は高校卒業後、家業(農業)に従事していたものの陸上競技への思い断ち難く、22歳で順天堂大学に進学し、箱根駅伝に3年連続出場。卒業後は千葉県の高校教員に採用され、県内の高校を異動しながら多くの選手、指導者、トレーナーを育成し続けました。
 1986年には市立船橋高校を全国高校駅伝で優勝に導き、翌々年教職を辞してリクルート・ランニングクラブ監督に就任。のちに積水化学女子陸上競技部監督に移籍しましたが、この間に有森や高橋を育てたのです。

 最初からオリンピック選手の育成に携わるつもりだったわけもはないでしょう。陸上競技を心から愛し、手に入れた技術や指導力で目の前の子どもを育て続けた結果、次から次へと機会に恵まれていったわけです。

 体育大学や体育学科、あるいは有名な大学運動部出身の教員の中には、こういう人たちがたくさんいます。
 もちろん自身が選手として活躍できればいいのですが、オリンピックや世界選手権レベルとなるとできるのはごく一部です。多くは競技者としての道を諦め、普通の生活に戻っていくのですが、それでも一生運動にかかわっていきたいと考えると、体育科の教員は絶好の職業と言えます。

 子どものころから必死に取り組んできた世界、一時は生涯をかけようとまで思った世界ですから傾ける情熱が違います。研究熱心で労を惜しまず、全身全霊をかけて後進の指導にあたる、その意味ではとても尊敬できる人たちです。
 音楽大学を卒業して音楽科の教員となり、吹奏楽や合唱に驚くべき力を発揮する教員も同じです。


【生徒指導=人間を育てる糧として】
 覚せい剤で人生を誤った元読売巨人軍の清原和博氏は自身のことを、
「野球がなければ極道にしかなれなかった男」
と言ったりします。事件を考えるとそうした自己認識はかなり正確だったとも言えます。

 学校は基本的に勉強をするところで、しかも圧倒的に座学(机の前に座って学ぶ学習)が中心の世界です。しかしその座学が全く向かない子たちがいます。
 座っていることが苦手な子、読み・書き・計算が馴染んでいかない子、勉強よりも楽しいことがたくさんある子――そういった子たちは学校に来ていること自体が苦痛です。しかし義務教育はもちろん高等学校だってなかなか行かないで済ませるというわけにはいきません。

 授業に集中できない、授業で輝けない、恥じしかかけない子どもの中に、しばしば間違った方向に進みそうになる者がいます。それを救ったのが運動、といった話はあながち珍しいことでもありません。
 ドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルとなった伏見工業高校ラグビー部がその代表で、監督の山口良治氏には後に悪いうわさが付きまといましたが、話半分だとしても大したものです。

 元大関の千代大海龍二は、
 九州でも1、2を争う勢力の暴走族「十二単」を率いていて大分の龍二の名を九州全土に轟かせ、大分県警内でも有名になる。さらにやくざ数人と喧嘩したところ、相手のやくざに気に入られ、スカウトされたことがあった。佐賀県出身で同年代のはなわ曰く「大分の龍二と言えば僕でも知っている位の凄く有名な人だった」(Wikipedia)
 そのくらい本格的なワルでした。関取になってからもテレビに出るたびに「アイツだけは許せない」と画面を睨みつける人が何人もいたという伝説が残っています。

 しかし格闘技には才能があって(だから喧嘩にも強い)、小学校5年生の時には柔道歴1年で全国大会3位、中学3年生の時は年齢を偽って出場した極真空手九州大会で3位にもなって言います。ですから角界に入ってもすぐに頭角を現すことができました。

 千代大海は部活と無関係ですが、学校にはミニ千代大海やミニミニ千代大海みたいな子がいくらでもいます。勉強がまるでダメ、乱暴なので人間関係もダメ、誰も相手にしてくれない、けれど運動だけは得意で生き生きとしている、そういう子たちです。

 学校のどこにも寄る辺がなくてかろうじで部活動で崖っぷちを歩いている――そういった生徒に対しては学級担任も部活顧問も本当に気を遣います。天から降りてきた一本の蜘蛛の糸を切ってはいけないからです。
 その子たちの活躍の場を教師は奪ってはいけない、十二分に活躍の場を与えて、学校生活を全うさせなければいけない――それが一部の部活顧問の情熱と誇りです。

「そんなこと言ったって誰もが清原和博や千代大海になれるわけではない。運動で生きて行けるのはごく一部じゃないか」
――それは全くその通りです。
 しかし運動選手としては中高で終わったとしても、その時期に“不良”にならなかったことには大きな意味があります。
「デビューさせるな」と私は言いますが、”非行少年“のレッテルを張られずに卒業することは、その子の人生に重大な影響を与えるのです。

 以上はとても教育的な、高尚な理由で部活に熱中する人たちです。もちろんそこまで立派でない理由で部活動に熱中する教師もいます。私もその一人ですが、明日はそのお話をしましょう。

                               (この稿、続く)




  
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2018/1/17

「更新しました」〜ウサギの飼い方も知らない教師たち  教育・学校・教師

  

「キース・アウト」

2018.01.17
「生き物係」どう育てる? 学校の動物飼育崩壊、教師も知識なく「ニワトリの卵、食べれるんですか」驚きの質問


 
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2018/1/17

「考える力は必要なのか」〜答えのない問い4  教育・学校・教師


 最近、“考える力”の必要性ということがよくわからなくなってきました。指導要領などで求められている“考える力”のレベルが高すぎて、ほんとうにこれ、すべての児童生徒が目指すべきものかわからなくなったという意味です。

【“考える力”の歴史】
 平成30年度から施行される新学習指導要領は、
 知識及び技能の習得と思考力、判断力、表現力等の育成のバランスを重視する現行学習指導要領の枠組みや教育内容を維持した上で、知識の理解の質をさらに高め、確かな学力を育成。
幼稚園教育要領、小・中学校学習指導要領の改訂のポイント
とあるように、決して知識を軽んじるものではありませんが、一般には、
「インターネットが発達して“知識”がいくらでも掘り出せる時代に、なぜ知識を詰め込む必要があるのか。これからの世界は思考力・判断力・表現力といった“考える力”こそが重要な時代となり、それがないと生きてはいけなくなる」
 そのための指導要領改訂だといった話になっています。

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 例えば、
 今までの時代はひとつの正解に向かって、最短距離、最短時間でたどり着くことがゴールでした。しかしこれからの時代は、将来の予測が困難な複雑で変化の激しい社会になると考えられており、正解が複数ある、あるいは正解がないことも考えられます。
 つまり、これまでのように解決のパターンだけ覚えていても通用しない時代になれば、試行錯誤しながら自分なりの答えを見つけていかなければなりません。そのとき、思考のプロセスを知らないと何もできないことになってしまいます。だからこそ、「考える力」が必要なのです。また、これまでは誰かが「課題」を用意してくれて、それを解決するという前提での話でしたが、これからは、課題そのものを探すところから必要になることも考えられ、そういう意味でも「考える力」が重要になります。

(ベネッセ教育情報サイト『第9回:「考える力」はどうはかる? 新時代の子どもたちの評価』)

 しかし“考える力”の強調など、今に始まったことではありません。
 総合的な学習の時間が始まった2000年にも
 総合的な学習の時間 総合的な学習の時間は、変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることなどをねらいとすることから、思考力・判断力・表現力等が求められる「知識基盤社会」の時代においてますます重要な役割を果たすものである。(文科省「総合的な学習の時間」
と言われました。

 さらにあの悪名高い「ゆとり教育」でさえ、
『「詰め込み教育」と言われる知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針をもって、学習時間と内容を減らしてゆとりある学校を目指し、1980年度、1992年度、2002年度から施行された』(Wikipedia「ゆとり教育」
のです。


【20世紀・昭和時代の“考える力”】
 “考える力”という言葉自体はありませんでしたが、思考力や判断力、表現力の偏重という傾向は、私が子ども時代の半世紀前ですらあったものです。

 例えば私の学んだ中学校の、1年生最初の数学の授業内容は、「2進数と5進数」でした。コンピュータが身近なものになるずっと以前の話です。
 指導要領にもない内容で、しかし教科担任は数学的な興味・関心、思考力をけるうえで大切だと考えたのでしょう。たしかにおもしろい授業で、おかげで私は数学がいっぺんに好きになりました。
 その中学校では以後も「三平方の定理」の証明コンテスト(定理の証明法を何通り編み出せるか)だとか、希望者のための「超難問図形問題集」だとか、考えさせる授業にいとまがありませんでした。話し合いが励行され、常に「自分の意見」を持つことが求められる――。

 そうした伝統は現在の小中学校に脈々と流れています。
 小学校の四則計算なんて死ぬほど練習問題をやらせ、繰り返し訓練をすればずっと上手くなるのに、計算の構造だとか意味だとか、そうした原理的なことをいつまでもチマチマといじっています。
 理科なども悠長に実験や観察を繰り返し、社会科なんてやたら時間のかかる調べ学習やら発表学習やらに延々と血道をあげているのです。おかげでテスト問題への対応・対策は遅れる、もしくはできない。

 私は二十歳代の大部分を塾講師として働いてきた者ですから、公立学校の教員になりたての頃は、そうした長い長い思考訓練にウンザリしていました。
「そんな部分は適当に端折って(塾ではそうしてきました)、もっと効率よく、たくさんの問題を解いてテストで点数を取れるようにしてやれよ!」
 それがホンネで、“考える力”の大切さを思うようになったのはずいぶん後のことです。

 指導要領や研修会のたびに言われる、
「21世紀は知識だけでは生きていけない」
「真に大切なのは“考える力”だ」
「子どもに思考力・判断力・表現力をつけなければ、その子は生きていけない」
 そうした説明に、身も心も次第に侵食されていったのです。


【“考える力”はほんとうに必要なのか】
 21世紀ももう五分の一近くが過ぎました。しかしベネッセや文科省の記事の言うような、
将来の予測が困難な複雑で変化の激しい社会も
思考力・判断力・表現力等が求められる「知識基盤社会」の時代

もきませんでした。少なくとも私や私の教え子の近辺はそうです。
 ましてや、
正解が複数ある、あるいは正解がない
これまでのように解決のパターンだけ覚えていても通用しない
試行錯誤しながら自分なりの答えを見つけていかなければなりません

といった過酷な時代は、来る気がしません。

 私自身の数十年間に起こった問題のほとんどは、世間によくある類型(パターン)収まるものでした。凡人の人生に起こることは平凡なことばかりなのです。
1億2600万人も人口のある日本では、誰かが私と同じことをして同じ境遇に陥り、そのためのたくさんの対応策や対抗策を残してくれてあります。中には制度として確立したものもたくさんあります。

 例えば交通事故を起こしたら、一人で悩み、レッカー移動を考えたり修理工場を探したり、あるいは難しくデリケートな相手との交渉をひとつひとつ丁寧にこなしたりといったことをする必要はなく、とりあえず保険会社に電話して指示を仰げばいいのです。
 教員として保護者との間にトラブルを抱えたら、まずすべきは校長先生・副校長先生をはじめとする先輩や同僚への報告・連絡・相談です。きっと誰かが良い対応策を持っています。その上で考えればいいのです。
 私個人が、手探りで、試行錯誤しながら進んで行っていい問題ではなく、制度の整った世界では、むしろそうした独断専行は危険でもあります。

 もちろん医療やITといった先端技術の場や、商品開発や国際政治といったところで働く人たちは、前人未到の荒野で過酷な仕事をしてもらわなくてはなりません。しかしそれはいわばエリートの世界。そんなエリートと私たちを一緒にされてもかないませんし、エリートを育てる教育に私たちの子どもが巻き込まれる必要もありません。


【答えのない問い】
 中途半端ですが、話はこれで終わりです。
 先が分からないのです。

 正直言うと、「考える学習など時間のムダ」なんて小指の先ほども思っていないのです。
 授業で新奇なことに出会い、こころ躍らせ、胸を熱くし、調べ、研究し、友だちと意見を戦わせ、相手を説き伏せようとするのは面白いのです。ワクワクと楽しいのです。
 教師としてはいつもそうした授業を目指してきましたし、教育の世界の先輩たちも、もう半世紀以上前からそうして頑張ってきました。

 しかしそれでも、
「これからの時代、“考える力”をつけておかないと生きていけないよ」
と脅されると素直になれないのです。

 人々が言う“考える力”、ほんとうにすべての子が獲得すべき目標なのでしょうか。




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