2018/1/31

「月食と『2月になります』」〜月初めの話題に  歴史・歳時・記念日


【月食】
 今夜は皆既月食だそうです。月食についてはこれまで何度も 書いています(たとえば2009/11/4 Moon & Earth)。
「月が、地球を挟んで太陽の反対側に来ると、月食になるの? 満月になるの?」
という私にとっての大問題について書いてありますので、よろしかったら読んでみてください。

 子どものころ、理科の授業で月食を説明する模型(右のようなヤツ)を見ながら、
クリックすると元のサイズで表示します 「これじゃあ毎月、月食になるじゃん」
と思ったのですが、そんなことを聞いたらバカだと思われるかもしれないと思って黙ったばかりに、その後何十年もナゾを抱えたままでした。
 そういう痛恨ってありますよね?(…ないかァ)。

 さて、
【明日から2月です】
 日本は季節の移り変わりのはっきりした国ですから、2月は2月なりに子どもたちに意識づけてやると、将来、感覚の研ぎ澄まされた子が育つかもしれません。

 特に学校の先生は対象が常に30人以上ですから、効果が1割でも3人の子どもに影響を与えることができます。やりがいのある仕事ですね。

 2月について、子どもたちに何かを話すヒントになるかと思って、下にまとめてみました。なお、リンクは基本的に公式サイトに向かうようにしてあります。

クリックすると元のサイズで表示します
*写真は2月の誕生石アメジスト

【2月について】
「2月(にがつ)はグレゴリオ暦で年の第2の月に当たり、通常は28日、閏年では29日となる」(Wikipedia)。
ということですが、それ以前のローマ暦では、2月は1年の最後の年でした。 1年は3月に始まって2月に終わったのです。

 それをそのまま、
「ローマ暦では3月が最初の月で、2月が最後の月となります」
といってもなかなか気持ちになじんできません。3が最初で2が最後と言われても、ね?
 そこで私はあまり好きでない英語を使って、
「ローマ暦ではMarchが最初の月、April、Mayと続いて、最後がFebruaryでした」という言い方をしました。これだと少し入りがいいようです。
「Februaryが1年の最後の月なので、ここで日数の帳尻合わせをします。だからひと月が28日だったり29日だったりするのですよ」
 それですんなり話が通ります。

 日本では旧暦二月を「如月(きさらぎ)」と美しい名で呼び、いまでも使用することがありますが、その由来には様々なものがあるみたいです。ただし私は「寒い日が続くので、衣(きぬ)をさらに着る月(=衣更月)」という由来が好きです。
「如月」という漢字をあてるのは、単に中国で二月を表すのにこの文字が使われていたからであって、意味はよく分かりません。


【2月の主な行事】
 2月の主な行事としては
2月3日―節分
2月4日―立春
2月7日―北方領土の日
2月8日―針供養
2月11日―建国記念の日
2月14日 - バレンタインデー
2月22日 - 竹島の日・猫の日(2/22 ニャン、ニャン、ニャン)

 今年の初午(はつうま)は2月7日(水)。
 「さっぽろ雪まつり」は2月5日(月)〜2月12日(月)です。 
 秋田県男鹿市の「なまはげ紫灯(せど)まつり」は2月9日(金)〜2月11日(日)。
 正直言って、「なまはげ」の住む地域ってうらやましいですね(2016/2/1「鬼のいる世界」

 同じく秋田県横手市の「かまくら、ぼんでん」は2月15日(木)〜17日(土)です。
 突然西へ移動して、裸の男たちが宝木を奪い合う岡山県西大寺の「西大寺会陽」は2月17日(土)。宝木投下は22時だそうです。


【2月のスポーツ】
2月4日―別府大分毎日マラソン
2月4日―スーパーボウル(アメリカンフットボール・NFL)日本時間は5日
2月9日〜2月25日 平昌オリンピック
2月10日 Jリーグスーパーカップサッカー(川崎フロンターレ v.s セレッソ大阪)
2月16日〜18日―NBAオールスターゲーム(バスケットボール)
2月25日―東京マラソン


【その他】
月星座は水瓶座から魚座へ。
誕生石はアメジスト、誕生花はマーガレット、梅、フリージアだそうです。








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2018/1/30

「やっぱ先生たちはすごいや」〜教師の見る目  教育・学校・教師


 「不惑同窓会」の話の続きです。

 自慢ではありませんが、私くらい物忘れがひどいと、世界はいちいち新鮮です。
 このブログも投稿数が2800を超え、「教育・学校・教師」のカテゴリだけでも今日で2002です。こうなると初めの方で書いた文はほとんど記憶がなく、特に調べながら書いたような記事は書き終えた瞬間に頭から消えてしまって、いま読むと感動するほど新鮮です。
「ああ、世の中こうなってるんだ。この記事に巡り合ってよかった! だれが書いてるんだろう?」
(オレだよ!!)
てな調子です。

 ですから同窓会などは鬼門で、昨日のカレーライスの話ではありませんが、「ああ自分ならやりかねないな」とか「ありうるな」「そうかもしれんな」と感じるものの、記憶としてはまったく甦ってこないのです。
 酒宴の途中で男の子(もはや40歳の!)が声をかけてくれたときもそうです。
「先生のノストラダムス、当たってました」
「・・・・・・・」

 ホラ見ろ、分からない。
“先生のノストラダムス”って何なんだァ〜〜?

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【『諸世紀』〜ノストラダムスの大予言】
 1973年に大ベストセラーとなった五島勉の「ノストラダムスの大予言」は、16世紀のフランスの医師で占星術師のミシェル・ノストラダムスが書いた予言詩集、「諸世紀」を紹介したものでした。
 ノストラダムスは自分が仕えた国王アンリ2世の死を予言するなど、存命中からすでに予言者として有名でしたがその詩集の中に、
  1999年7の月、
  空から恐怖の大王が来るだろう、
  アンゴルモアの大王を蘇らせ、
  マルスの前後に首尾よく支配するために。

というのがあって、これが人類の滅亡、地球の最期を予言していると大騒ぎになったのです。

 空から来るという「恐怖の大王」も核ミサイルのことだとか、巨大彗星だとか、天変地異全体のことだとかいろいろ言われましたが、予告された1999年が近づいても一向にそれらしい雰囲気はなく、やがて「実は西暦1999年のことではなく、ノストラダムスの誕生日から1999年目のことだ」とか(これで人類滅亡は一気に1500年ほど先延ばしされた)、何かよく分からない複雑な計算式から割り出された年数をたさなければいけないとかいった話になって、肝心の1999年にはほとんど忘れられた(直前にちょっと思い出された)ものでした。

 しかし「不惑同窓会」の子どもたちが中学校を卒業したのはそれより5年前の1994年ですから、予告された年まであとわずかということで再流行というようなこともあったのかもしれません。それで何かを話したのでしょうか?
 しかしそれにしても「先生のノストラダムス」とは言わないでしょ。何のことだろう?

 そんなことを考えながらキョトンとしていると、別の子が、
「先生忘れちゃったんじゃないよね、自分の書いたノストラダムス」
 え?


【『新諸世紀』by ノストラダムス・SuperT】
 それは卒業文集の生徒のページの最後につけられた、担任からの「ひとこと」のことでした。「ひとこと」のはずなのにA4用紙1ページも割り振られて困った私は、そこで、
『タロットカード「新諸世紀」 ノストラダムス・SuperT 作』
という文章を載せたのでした。

 これは生徒一人ひとりタロット風のカードに見立て、「諸世紀」風の謎めいた文章を添えて1995年時点でのその子の人物評と「こうなってほしい」「こうなるといいな」といったことを記述したものです。例えば「あたっていました」と言ってくれた男の子のものはこうです。

(カード番号)No.6(カードの名前)「未完成のオタク」(カードの意味)『いまさら誉めるまでもない。だが完成ではない。すべて揃っているように見えながら、まだ恐ろしさが十分ではない。人を驚かせ、とてもかなわないと舌を巻かせるほどの力にはほど遠い。何かのプロであること、そのためにすべてを自分の周囲に集めること』

 改めて読んでみて、ああ自分はこの子をこんなふうに見ていたんだと思うと同時に、25年前はこの子の能力をとても高く買いながら、何か決定的でないことにイライラしていたんだろうなと想像できたりします。
 たしかに優秀でしたが、マラソンのトップ集団の最後から、まるっきり意欲のない走り方で集団についている、そんな感じの子なのです。
 この子は中学卒業後、地域のトップ校におそらく最下位近くで合格しましたが、半年後には上位10位以内に入っています。花卉農家の息子で、花の出荷は待ったなしで徹夜でもやらなければなりませんから、それを手伝ってきた彼はいざとなれば強いのです。
 その話を聞いたときは、高校に入学するや否や「すべてを自分の周囲に集めること」に成功したのかなと思ったりもしましたが、40歳になった今、改めて「当たってました」というのは、もしかしたら今も「ほど遠い」と感じているのかもしれません。


【他のカードたち】
 同窓会の場にはたくさんの子が卒業文集をもってきていたので、一冊を借り、慌てて自分の25年前の文を読みます。そこには例えば、
No.5「ひとり歩くジョーカー」『独立不偏。周囲に惑わされず我が道を行く。しかし人々を置いていくのではない。忘るなかれ、彼の名はジョーカー。自分を笑いの種にできる者は強者の特権なのだ。その力をもて、他に手を延べよ。ひとり歩く者が周囲を携えるとき、おまえの力は最大となろう』
などというのもあります。陽気でおっちょこちょいで、ちょっと寂し気な、頭の良い子でした。人間関係はうまくいっているようでその癖どこかよそよそしい、友だちらしい友だちがいない、そんなところを心配してこうした文になったのかもしれません。

No.34「山頂に立つ鷲」『独立不羈。受け入れると見せて受け入れない、受け入れないと見せて受け入れる。常に心にあるのは判断と整合。それが価値だ。いつでも孤独になれる者は、だからこそひとりになることもない。しかし生きる場の選択は難しくなるだろう。意志が意志ゆえに、今をはるかに上回る力も必要となるはずだ』
 昨日の「水商売に入っても生きて行ける子」(やっぱ言ってないぞ!)です。その強さ逞しさに信頼を置きながら、一方で心配もしていました。

No.37「鏡の国のアリス」『鏡よ鏡、私に欠けたものは何? 繊細なまでに自己を見つめる。常に自分を省みて、高めることに怠りはない。美しき内省。だが言っておこう。だれからも嫌われない生はあるが、全てに愛される生はないのだ。絶大に愛される者は、時に憎まれる者でもある』
 私はこの子の自己探求癖や不器用さが心配でした。あとから聞くと小学生時代はずっといじめられていたとか。内省的で探究的になるのも致し方ないかもしれません。
 今回久しぶりにあって5児の母になっていると聞き、みんなでびっくりしました。私も驚くとともに、予言が良い方向に外れたことで安心しました。

 外れたと言えば、
No32「流れる雲」『たおやかに流れる雲の豊かさ。低く垂れ籠めた雷雲の激しさ。このカードの意味は多様で複雑である。いかようにも姿を変える雲の行方はいかにも予想しがたい。時を置き改めて見れば、様々な意味で意外なその姿を見ることになろう。自らをどう捉えるかだ』
 外見上、全く想像できなかった姿で現れた、という意味ではまったく正鵠を射たようなものですが、ここまで「意外な姿を見る」とは思っていなかったのでその意味では外れです。
 おとなしくて目立たない子でした。でも秘めた激しさのある子で、どう出るのか分からない怪しさと希望を感じる子でした。


【やっぱり先生は凄いや】
 どうしてこんなことをしたかというと、与えられたA4の広さに困ったのが一番ですが、同時に「担任がそれぞれの子をどう見ていたか」子どもたちに知っておいてもらおうという意図があってのことかと思います。

 本人に対する評価や期待は通知票や個人面談を通じていつも伝えていましたが、他の子たちに評価について生徒に知らせることはまずありません。言葉の端々や、何かあっての時に口にすることはあっても、まとまった形で話すことはないのです。

「(キミたちの見ているその子とは違うかもしれないけど)担任はこんなふうに見ていた」「いつも厳しい態度だったけど本当は温かい目で見ていた」、逆に「ひいきしているように見えたこともあるけど、意外と厳しかった」「基本的には公平な見方をしていた」、そんなことを知らせたかったのかもしれません。

 あるいは、「この子にはこういう面もあるから、これからも気をつけて見てやってくださいね」とか「キミたちは誤解しているけど、この子、本当はこうなんだ」とか、「三年間こんなふうに見えたと思うけど、こういう事情もあったんだ」とか、もう担任の手の出せないところに行ってしまう子どもたちのことを、互いに頼みたい気持ちもあったに違いありません。
 そしてこういった文を42人の生徒全員について書いたわけです。

 すでに書いた事実も、書いた内容も忘れていた程度のものです。それに25年前の私なんて(責任を取らないとは言いませんが)今の私とはまったく別人みたいなもので、関係ありません。そういう自分を誉めったって自画自賛とか自慢とかにはならないでしょう。

――そんなふうに言い訳をしておいて、

「やっぱ先生たち凄いや。生徒のことをよく見ている」








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2018/1/29

「子どもは何から学んでいるか分からない」〜意図的教育と意図せざる教育   教育・学校・教師



 もう25年も前に卒業させた中学生の「不惑同窓会」というのに招待され、行ってきました。彼らも40歳です。

 私の今住む地域にはそうした風習はないのですが、その市では20年ごとに「成人式」「不惑」「還暦」の三つの大同窓会があるみたいで、私が招待されるのはこれが二回目です。地域の伝統とはいえ、それぞれの学年を越えた同窓会組織がない中で、よく続いていると感心するとともに「還暦同窓会」に出席できる旧担任がどれほどいるかと、余計な心配もしたりしました。
 20年後は私も85歳、ちょっと微妙な年齢です。

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 さて女性役員による「開会の辞」こそ短かったものの、働き盛りの男がステージに立つ時の常で「実行委員長挨拶」も「乾杯の言葉」もやたら長く、“オレたちはこんな間延びをした人間を育ててしまったのか”と心の中で愚痴ったりしていましたが、感心したのは挨拶の中に25年以上前の旧担任の言葉が引用されたことです。


【麻中乃蓬(まちゅうのよもぎ)】
「くねくねと曲がりやすい蓬(ヨモギ)もまっすぐ伸びる性質の麻の中で育つと自然にまっすぐになる、それと同じで、まっすぐな人間の中で成長すると人は自然とまっすぐに育つ」という『荀子』の中にある文章からできた四文字熟語で、それを実行委員長は原文「蓬生麻中,不扶自直《蓬(よもぎ)、麻中(まちゅう)に生ずれば扶 (たす) けざるも直し》」のまま引用したのですから大したものです。

 これだけ難しい言い回しを忘れないということは、担任の先生(私ではない)が繰り返し訴えられたからでしょうし、その後25年間、実行委員長の彼が生活の中で何度も何度も思い返したからに違いありません。座右の銘のひとつくらいになっているのかもしれません。

 その長い長い挨拶と乾杯の音頭の後、旧担任が一人ひとり言葉を述べるわけですが、“これはまた長くなるぞ”という私の予想に反して、それぞれ簡潔に、近況報告をしたり感想を述べたりして進みます。


【10年後の私への手紙】
 1組の元担任は「麻中乃蓬」の先生ですが、そうした話の好きな人らくしく含蓄のあるお話をされ、2組の先生はユーモアを交えて簡単に挨拶し、3組の先生も担任当時は新卒だった若々しさで(とはいえ今は50歳代)元気よくお祝いの言葉を述べられました。さらに、
「実はキミたちを卒業させるとき、T先生(私のこと)から“生徒に10年後か20年後の自分への手紙を書かせ、その時が来たら出してあげるといいよ”と教えられて、以後そのようにしてきました。だいぶ前にキミたちのところにも届いたはずです」
 その先は、“しかしそれとは別に、たまたまキミたちの作文が残っていたので今日渡すことにします”といった内容だったのですが、聞きながら私は心の中で「ヤベエ」とつぶやいていました。

 じつは「10年後の私へ」のアイデアを教えた私自身も手紙を書かせたのですが、20年前の引っ越しのどさくさの中で、紛失しまっていたのです。先週金曜日はそれこそ一日がかりで家中をひっくり返して探したのですが見つからない。
 しかたないので元生徒から催促されたら謝る、覚えていないようだったらトボケルという方針でやってきたのに、いきなりこの始末です。

 もう観念して自席で、
「ごめんね、ウチのクラスでもやったのに、どうも引っ越しの際中になくしちゃったみたいなんだよ」
 そう言うと、近くで聞いていた子がひとこと、
「先生、いただいてますよ。ちゃんと」
 郵便料金改定で不足となるので、追加で切手を貼ってあったと、そこまで覚えているのですから間違いないでしょう。
(私には仕事自体を忘れることも、仕事をしたことを忘れることも、両方あります。つまり片っ端忘れてしまう)
 謝って損をしました。しかし責任を果たせていてほっともしました。

 手紙(たぶんハガキ)を出したこと自体忘れているのですからのぞき見をしたとしても、それぞれが何が書いてあったかなんて覚えていません。
 20代の中ごろに受け取った自分の手紙から、あの子たちはどんな激励を受けたのか、ちょっと聞いてみればよかったと後で思いました。


【私はこんなふうに覚えられている】
 座がほどけて宴が盛り上がってくると、あちこちでさまざまな思い出話が始まります。
「私、今でもT先生の言ったこと覚えている」
「先生のことはしょっちゅう思い出す」
などと言ってもらえるのはいいのですが、どうも聞いていると「麻中乃蓬」みたいな立派な話ではありません。

「先生、家庭訪問のとき、ウチの母に『この子は水商売に入っても生きて行く』って言ったこと覚えてる?」
 20数年を経た積年の恨みか、と身構えたのですが少し様子が違う。
「いくらなんでも人様のお嬢さんを『水商売でもOK』とは言わんでしょ」
 そういうと、
「水商売じゃなかったかもしれないけど、それに近いこと言われた。それでいつでも、何やっていても『私は何とかなる』、そう思って今日までやってこれた――」
 なんだかいい話なのかそうでないのか、よくわかりません。

 そうかと思うと、
「私、カレー食べるたびに先生のことを思い出す。先生が泣きながら食べてたこと」
“何だいソリャ?”みたいな話です。心当たりもなければおよそ私らしくもない。生徒の前で泣いたことがないわけではありませんが、カレーを食いながらというのはイメージにはまってきません。そこで訊くと、こういう事情でした。

 調理実習のある日に、私の連絡忘れから給食のカレーが一クラス分まるまる届いてしまった。すでに満腹の生徒に頼み込んで少しずつ食べてもらったが、さすがに二食続けては生徒も食べきれずかなりの量が余った、それを私が泣きながら食べたというのです。
「オレの責任だから何とかするって言って、泣きながら食べて、結局完食した――」
 泣きながらかどうかわかりませんが、それだったらありそうなことです。”給食を残さない”は当時から私のクラスの級是(国是みたいなもの)でしたから、残菜を出さないためにそのくらいはしたかもしれないのです。


【意図的教育と意図せざる教育】
 学校教育は基本的に意図的教育です。それぞれに目的があって目標もあり、活動は評価され、再構築されなければなりません。
 例えば1組の担任の先生のように「麻中乃蓬」を紹介し、繰り返し検証させながら、クラスの団結力や質を高めていこうとするのがそれです。
 ところが子どもたちは、そこから学んでいるだけではないのです。

 水商売云々はともかく(やっぱ言ってないよなァ?)、保護者に伝えた「この子は心配しなくていい、必ず何とかできる子だ」というメッセージは本人に横取りされ、人生の杖になります。
 泣きながら(?)カレーを食べていた私の姿は、食べ物を粗末にしない姿勢に、わずかながらでも繋がっているのかもしれません。

 子どもは私たちから何を学んでいるか分からない――教員に高すぎる道徳性や人間性を求められても困りますが、やはり居住まいを正し、緊張して子どもの前に立たなくてはいけないなと、改めて思いました。






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2018/1/26

「これを捨て、あれを目指すのか」〜ある二人の女性教諭の肖像 2  教育・学校・教師


クリックすると元のサイズで表示します シノマはかつての私の教え子で二十代後半、優しい夫を持ち豊かな生活を送る才能あふれる女性です。
 昨日そう書きました。
 採用試験を一発で合格して今年で5年目。ただし途中で産育休を2年取りましたから実質的な教員経験は3年です。


【最も優秀な教師】
 子どものころからとてもまじめな努力家で、素直で、前向きな子でした。私の息子のアキュラより年上ですが、いつかシノマのような子が(ほんとうはシノマ本人が)我が家の嫁に来てくれたらいいなと思った時期もありましたが、年を経るにしたがって人格に差が開きすぎてしまい、とてもではありませんがこちらから言い出せる状況ではなくなってしまいました。そして気がつくとアキュラが卒業する前に嫁に行ってしまったのです。

 人格的にも優れていますが、教師としても極めて優秀です。
 私は昨日、教職について、
 しかし言うまでもなく「普通は」という条件付きの話で、「よほど適性にかける」に該当する人はどの世界にも必ずいるはずです。
と書きましたが、逆もあって、
「異常な適性を有している」に該当する人もあらゆる世界にいます。
 いわば天才的なひらめきを持つ人々ですが、シノマもその一人なのでしょう、一度研究授業を見に行ったことがありますが、元担任の欲目をひいても舌を巻くレベルのものでした。

 授業の組み立てがいい、授業者としての落ち着いた態度がいい、発問や切り返しがうまい、黒板の使い方が非常に適切――やはり人柄と能力はどうしても授業に出ます。
 もっともシノマに限らず最近の(といってもここ20年程の)先生たちはみな大変優秀ですが、その中でも際立って優れた教師と言えるのです。


【シノマの迷い】
 ご両親ともに教員ですが特にシノマが教職に就くことを望んだ様子もなく、私が担任していたころは無邪気に「看護師さんになる」とか言っていました。それが教員になったのは、本人によると器用貧乏であれもこれもやりたがっているうちに時間切れで、それで目の前にある教員に飛びついた、ただそれだけだそうです。

 その「どうしてもなりたくてなった職業ではない」という気持ちの澱(おり)と、「器用貧乏であれもこれもやりたがっているうちに時間切れ」という記憶が、シノマの頭の中にいつも渦巻いていたようです。

 さらに私が若いころは学級の荒れと授業崩壊という嵐の中で否が応にも仕事に熱中せざるを得なかったのに対し、シノマはずっと無難な教員生活を送ってきた様子もうかがえます。
 私が中学校でシノマが小学校の低学年という違いもあったのかもしれません。とにかく決定的な困難には出会わずに来た、年齢や経験にふさわしい役割しか与えられずに来た――時間的には厳しいことはあっても、ほとんど努力らしい努力をせず、産育休を挟んだ前後3年をやってこれたのです。もちろん能力と人柄のなせる業です。
 しかしそれがシノマの不満なのです。

「教員は努力や工夫が数字になって表れないからつまらない」
 いつだったか飲み会の席でそんな話をしたことがあります。
「どんなにがんばったってどれほど成果を上げたって、それでお給料が増えるわけでもない」
「私はほんとうは、努力が成果にどんどん現れるような仕事がしたかったのかもしれない」


【シノマが学校を去る】
 今週の日曜日、ばったり会ったシノマから教員を辞めるという話を聞きました。
 ヤブから棒の話です
 辞めてどうするのかと訊くと、当面は子育てとアルバイトをしながら投資の勉強をするのだといいます。そういえば2〜3年前からFXやら株式やらで小金を稼いでいるという話をしていたような気もします。お金儲けをしたいといった話も、いつか出たように思い出しました。

「ああ残念だな、しかし頑張りなさい」
 路上の立ち話で簡単にそう言って励ましてから、私は電車に乗って家路を急ぎ、その車中で我ながら病気かと思うほど体と心の沈んでいくのを感じました。立っているのも辛いほどです。
 何が起こったのでしょう?

 元教え子ですが親でもない。親だったとしてももう嫁に行って一家を構えている大人です。
 シノマのことが心配だとか不安だとかいったことでもなさそうです。いや心配や不安はあっても、あの娘だったらうまく家庭を切り盛りし、夫の収入でしばらくは食つなぐに決まっています。もしかたら数年後、彼女の目論見通り投資で大儲けして女性起業家になっているかもしれません。
 仮にそうならなくても、私の教え子には専業主婦もたくさんいますしパートに出て家計の足しにしている子もいます。そういう子たちた同じになることに、何の問題もないはずです。
 それなのになぜこうも心沈むのか。

 今週、生頼範義展の感想を書くについて「職業としてのイラストレーター」という視点からしかものが考えられなかったり、久しぶりに「山月記」を思い出したりといったことは、すべてシノマの件を引きずっていたからでした。
 元教え子で特につき合いの長い親しい関係とはいえ、なぜこうも心を揺さぶられるのか、動揺するのか――。

 そして一昨日あたりからようやく理解し始めたのです。


【これを捨て、あれを目指すのか】
 『阿Q正伝』で有名な中国の作家魯迅は、共産党員で愛弟子の女流作家丁玲(ディン・リン)が国民党軍に捕らえられ転向したと聞いて、慟哭しながら責めたと言います。それと同じです。

 シノマが教員を辞めてまでもやりたいことが、例えば、
「児童虐待を何とかしたい。保健師の立場から支援するようにしたいから今から看護学校に入りなおす」
とか、
「不登校の子たちの支援をするためのNPOの活動に専念したい」
とか、あるいは、
「発達障害の子どもたちの支援に入る。そのために臨床心理士の勉強を始める」
とかだったらこうも激しく動揺はしなかったはずです。

 誰か(児童・生徒・保護者)を助ける仕事を捨てて、別の誰か(被虐待の子・虐待する親・不登校の子・発達障害の子やその親)を救う仕事に移る、それなら私は喜んで送り出すことができました。しかし教職を棄てて心移す相手が、「金儲け」というのはあまりにも酷いじゃないか――それがおそらく私のホンネです。

 かつて村上ファンドを率いた投資家の村上世彰は、
「お金儲けは悪いことですか?」
と繰り返してこの名言を残しましたが、金儲けが悪いのではありません。
 しかしシノマほどの教師だったらこれから先、何十人も何百人もの児童生徒や保護者の深刻で切実な悩みを解決できるのに、年齢を重ねれば私のように若い先生たちを通して何千人もの親子を救えるというのに、それなのに金儲けなのです。

 もちろんシノマは守銭奴ではありません。子どものころからお小遣いの管理もできないと嘆いていたくらいですから。シノマにとっての金儲けは、村上世彰や堀江貴文と同じように「力の確認」「力の誇示」にすぎません。
 けれど自分自身の力を確認し誇示することにどれほどの意味があるというのか、シノマにはシノマにしかできないことがあったはずです。


【もうだれにも止められない】
 そういえば一年前、娘の友だちのエリカが教員を辞めると聞いた時も同じでした(2017/2/20「老爺心ながら」〜親になりなさい)。
 
 何かに際立った才能があって他の道に進むのなら仕方ありませんが、普通に働いていく上で、教職以上にやりがいと価値のある仕事を私は知りません(もちろん他にもあるはずですが、単純に“知っているか知らないか”という意味で“私は知らない”のです)。
 それほど大事に思っている教職という仕事が、軽々と捨てられるのはやはり悔しいですね。


 そこそこ余裕を見せていますが、実はもう少し揺れていました。それでも今回ほどでないのは、シノマとの付き合いの深さのためでしょう。

 有能な若い教師がこうも簡単に教職を捨てていくのはやはり景気がいいからなのかもしれません。
 教職はブラックだという評価もすっかり定着しました。
 2020年に向けての学習指導要領の移行措置も始まり、学校はますます忙しくなります。
 
 私のように教職の理念的な素晴らしさを語るだけでは、もう人材は繋ぎ止められないのかもしれません。







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2018/1/25

「崖に追い詰められながら生きる人」〜ある二人の女性教諭の肖像 1  教育・学校・教師


 今日は私がシノマとセレナと呼ぶ、二人の女性教諭についてお話ししようと思います。二人とも三歳児を持つ母親教師ですが、それ以外は全く似ていません。

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 シノマはかつての私の教え子で二十代後半、優しい夫を持ち豊かな生活を送る才能あふれる女性です。それに対してセレナ女史はかつての同僚で、二年前に離婚して、シングルマザーとして教員生活を送る40代前半の女性です。

 セレナ女史については二か月ほど前に悩ましいことがあって気持ちの隅に引っかかりっぱなしだったのですが、今週はシノマに大きな事件が起きてここ四日ほど私は激しく動揺しています。
 もちろん色恋沙汰ではありません。一昨日・昨日と書いた『1/23 「生頼範義という生き方」〜展覧会場で思い出したこと』『1/24 「虎にならずに教師になった」〜教師の本懐』にかかわる問題です。
 さてどちらの話を先にしたものか・・・。


【教職に向かない人々】
 私は昨日、
 教職は職人芸の世界です。よほど適性に欠ける人でない限り、まじめに、誠実に努力していればいつかは最低限のことのできる一人前になっていきます。
と書きました。私の信念でしかも拠り所です。
 しかし言うまでもなく「普通は」という条件付きの話で、「よほど適性にかける」に該当する人はどの世界にも必ずいるはずです。

 集中力のまるでない時計職人、先端恐怖症の刃物師、血を見るだけで気絶してしまう看護師、動物アレルギーのトリマー、もちろん100%ダメだというわけではありませんが本来はやめた方がいい組み合わせでしょう。
 教員について言うと、子どものこころの読めない人や、視野が狭く同時に複数の仕事をこなせないひとは避けた方がいい職業かと、そんなふうに思うのです。

 私はかつて発問が全く通っていかない授業というのを見たことがあります。教師が何度聞き返しても子どもたちは意味を解さず、答えが返ってこないのです。無理もありません、私だって分からないのですから。
 こうした場合、教師は児童の分からなさをあれこれと推測して、言い方を変えたりヒントを加えたり、あるいは直前までの授業を復習したりと、あの手この手で質問の意図を伝えようとするのですが、その担任は声の抑揚や強さを変えるだけで、おなじ言い方の質問を執拗に繰り返したのです、いつまでも、いつまでも。

 子どもの分からなさが分からない、こちらの聞き方が悪いから答えが出ないということに思いが至らない、教師の責任ですが子どもと担任、両者にとってほんとうに不幸な時間でした。

 セレナ女史は、そこまではいきません。しかしやはり他人の心の読み取りが弱い人なのかもしれなと最近思うようになっています。
 しかしそれよりも問題なのは同時に多くの仕事を処理ができない――妙なところにこだわりがあってそれを完璧にしないと次の仕事に移れない、そのためにあの仕事もこの仕事も遅れがちになる、そこに問題がありました。

 例えば学年会計の書式の改善にこだわって、そのために会計報告自体が完成しない、社会見学のバスの乗り継ぎ時間を限りなくゼロに近づけようと計画をいじり続け、結局間に合わない、そんなふうです。

 教師としての本筋以外のところで時間を食うので、そうこうするうちにクラスがガタガタし始めます。
 小学校低学年のクラスなんて落ち着かないもので、大枠として授業ができればそれでよしとすべきを、一から十までピシッとしていなければ気がすまない。だから子どもをむやみに追い詰めて、それでかえって子どもたちは言うことをきかなくなる、言うことをきかないからまた追い詰める、すると今度は保護者から不満や不安の声が出てくる――。

 あれもこれもうまく運ばなくなり、やがて彼女は心を病み、療休を取ってしばらく休んでから復職し、いくらもしないうちに他の学校に転任していきました。10年以上前、私と同じ学校に勤めていたころの話です。

 同じ学校の教員として、私はずいぶん彼女に肩入れをし、援助の手を差し伸べることを惜しみませんでした。昨日お話ししたように私自身が若いころ、大勢の先生方に支えられて教師としての最初の数年を過ごしたからです。
 その中で次第に職人芸を磨いて、やがて生き生きと毎日を過ごせるようになった――セレナ女史にもそうなってほしかったし、そうなるよう支援するのが私自身の先輩に対する恩返しのだと思ったのです。


【10年目にいただいた、長い長い、長い手紙】
 同僚としてのセレナ女史との付き合いは2年足らずでしたが、私の気持ちは十分伝わったと思います。その後年賀状のやり取りの他、しばしば長い手紙で相談を受けることもありました。
 しかしその内容は楽しいものではなく、2度目の療休とその後結婚してすぐに生まれた子どものための産育休も含めて、すべての時期、すべての時間でずっと苦しい生活を送っていたようです。

 昨年11月末に届いた手紙はその集大成みたいな長文で、A4コピー用紙に42×40文字、10枚という大部、どこにも救いのない結婚生活やその間につくった300万円ほどの借金。3歳になった息子の心配、仕事に対する不満と不安、それらが綿々と綴られていたのです。

 学級担任の仕事が支えきれないため小学校に居場所がなく、中学校で国語の教師になったのですが、子どもがいますから部活顧問ができない。学級担任も部活顧問もできないとなると赴任先も限られ、職住近接というわけにはいかなくなる。するとその分通勤距離も時間も長くなり、生活や心身に負担がかかるようになる。
 子どもを保育園に預けていますから勤務時間も制限され、独身時代は21時〜22時といった超過労働で凌いでいた仕事も滞り始めます。
 校務はできるだけ楽なものを集中させてもらっていますが、なにしろ学年会計の書式にこだわるような人ですから、楽になった分を自分で難しくし、首を絞めていきます。

 そうこうしているうちに自分が難病を患うようになり、にっちもさっちも行かなくなった。もう明日には心筋梗塞か脳溢血で死んでしまうかもしれない、交通事故も怖い――。

 私もたくさんの「母子家庭のお母ちゃん先生」を見てきましたが、みな実家で両親の援助を受けながらやっていました。セレナ女史のようにアパートで二人暮らしという例は聞いたことがありません。
 それでも本人が楽しく、生きがいを持って働いているなら励まし甲斐もありますが、まるでうまくいっていない、10年たってもたくさんの先生方の支援を受けてようやく立っている――。

 これまで何度も励まし元気づけてきましたが、もう限界だと思いました。いやそもそも彼女自身が限界だと叫んでいます。そこで――。


【返事を書いた(要約)】
 20年やってきて一貫して苦しかったなら、次の20年が楽になるとはとても思えません。何かが起こって劇的にすべてが変わるということもなさそうです。
 
 もしかしたら結婚に活路を見出そうとしたのかもしれませんが、その結婚が次の苦労の種になる。結婚をしないで借金もつくらず子どももできなかったら、少なくとも時間的、金銭的には今よりずっと楽だったことは明らかですよね。それは子どもを得た幸せとは別の問題です。

 人生には先のことを考えず、とにかく目の前の困難を次々と処理しなければ土俵を割ってしまう、負けてしまう、そういう時があります。しかしそんな時でも、土俵を割らないようにぐるぐると回りながら、勝機を伺い、次の危機に備えなくてはなりません。危険なことはないか、後顧の憂いはないか、先行きを心配しなければならないことはないか――。

 当面心配なのはお子さんです。いまは問題なさそうですが、うまくいっている時こそ問題の種を播いていないか気にしなくてはなりません。
 毎日にこやかに、落ち着いて接していますか?
 いまの苦しい生活を続けることで、お子さんの中に好ましくないものが育つ危険性はありませんか?
 そういうことを恐れなくてはならないのです。子育てというのは、そういうものだと私は思っています。

 もういいでしょう。
 セレナ先生は十分に戦いました。これ以上の戦いは戦死か戦病死を招くだけです。ご自身の健康とお子さんの将来も考えると、もう戦いの矛を収める時です。

 その年齢で退職すれば退職金は微々たるものですが、それでも借金の返済に充てることはできるでしょう。借金がなくなれば、給与が半分近くに減っても生活はしていけるはずです。足りなければ公的支援を受けます。
 世の中の母子家庭のお母さんたちは、セレナ先生よりずっと少ない収入で、しかし先生よりずっと穏やかな日々を送っているはずです。

 教職がすべてではありません。教職にしがみつかず、本質に立ち返り、ほんとうに教員でなければならないのか、ほんとうにこの先20年もやっていけるのか、お子さんにとって、ご自身の健康にとって、この先どうやって行くのが正しいのか、今一度考えなおしてみたらいかがでしょう。


 私の手紙への返事は、速攻、翌々日にはとどきました。
 酷いものでした。

 先生は私がどれほど苦労して正規になったか知らない、どんな思いでこの仕事をしてきたか知らない、お金のない苦しさも知らない、
 次の仕事も決めずにいま退職するなど絶対に考えられない、それをやれというのはあまりにも冷たすぎる――。

 そういった内容です。


【熟し柿は落ちる】
 逆切れされて腹を立てるほど私は若くありませんから、そのまま放置してあります。
「私がどれほど苦労して正規になったか」という点については配慮が足りませんでした。

 どんな場合も“忠告”は、相手に受け入れる状況があって初めて意味が出てくるものです。

 かつて『だから、あなたも生きぬいて』というベストセラーで一躍有名になった大平光代弁護士は、16歳で背中に“観音様に蛇”という大きな入れ墨を入れ、ヤクザの組長夫人になって子を産み、21歳で離婚してクラブホステスをしていたときに父親の友人から説教をされて改心、そこから猛勉強して当時最難関だった司法試験に合格した人です。

 その父親の友人(のちに養子縁組をして養父となる)がどれほど素晴らしい説教をしたかというと、これが案外とつまらないのです。おそらく似たような説教は学校の先生をはじめ、様々な人からされていたはずです。それがホステスをしていた21歳のときに限って効いたというのは、そのとき弁護士の方に準備があったからなのでしょう。
 「熟し柿は、落ちる」のです。

 だからセレナ女史が反発したことは苦になりませんし、私が誠実に考えて一生懸命書いた手紙は、もしかしたら時期が来れば有効性を発揮するのかもしれません。
 それはそれでいいのです。

 ただ困苦に困苦を重ねて教職の崖っぷちを歩く彼女の姿は痛ましくも気の毒です。
 彼女はあまりにも多くの人々に支えられて生きていますが、そのことの重みを理解していません。感謝の言葉は幾度となく書き連ねてありますが、それを誰かに返す日は来ないということの重みが分かっていないのです。
 原稿用紙で40枚にも及ぶ手紙をいきなり送ってくるような人です。頭では分かっていても気持ちを読み取るところまでできないのでしょう。

 結論のない話です。放置してあります。
 けれど私は気になっています。


                       (この稿、続く)




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2018/1/24

「虎にならずに教師になった」〜教師の本懐  教育・学校・教師


【無為の天才】
 昨日、生頼範頼の文章について紹介し、
 あると信じた、あるいはあって欲しいと願った己の才能に見切りをつけ、しかし今できることに誇りもち、精一杯努力しようとする姿勢は、そのころの私そのものでもあったのです。
と記しました。

 ではその直前の私はどういう人間だったかというと、ひとことで言うと自分を天才だと考えていたのです。
 自分には何かとてつもない天分があり、それを生かせば名声も金も地位も手に入る、高級車に乗り、高層マンションに住み、人も羨む生活をができると――。

 ただし問題があって、その天才が奈辺にあるか分からない、それが当時の最大の悩みでした。天才であるのには間違いないが、何の天才なのか分からない、どの分野なのか分からない、どんな職業なのか分からない――。

 ですから間違った道を選んで、自らの天分のないところで勝負をかけたり、金脈のない坑道でいつまでも掘り続けたりといった過ちをしないよう、いつも気にかけていました。その様子を客観的に見て、ひとことで説明しようとする人がいたら、きっとこう言ったに違いありません。
「要するに、何もしていないってわけだ」

 その通りです。

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【虎にならず教師になった】
 当時の私にもそうした自覚はあって、中島敦の「山月記」にある、
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」
というフレーズは棘のようにこころに引っかかっていました。

(臆病な自尊心と尊大な羞恥心のために)
「進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった」
「己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった」

 そして、
「憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった」
「人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」


 しかし私は「山月記」の主人公のように“虎”になることはなく、教員になりました。
 教員は、自分に見切りをつけ、諦めたところから始めた仕事だったのです。


【キミは勝負していない】
 もちろんだからと言って何の希望も夢もなく、教師になったわけではありません。
 歴史が好きでしたから歴史を教えるのはやりがいのある仕事だと感じていましたし、やるからには誰よりも楽しい、よく分かる社会科教師になろうと、そのくらいは思っていました。

 しかし授業さえしっかりやっていれば何とかなるというほど、教師は楽な仕事ではありません。学級担任としてクラスを掌握できてこそ授業に邁進できるのです。
 そんな根性だから(傍から見れば)案の定、学級は荒れ、授業は崩壊していきます。

 思い遣りある先輩教師(皮肉ではありません)からは「Tさんは生徒と勝負していない」などと責められましたが勝負の仕方が分からない、武器もない、相手を倒す自信もない、全くの徒手空拳では勝負も何もなかったのです。自分が間違ってると分かっていてもどう修正したらいいのか分からない、どこから手を付けたらいいのか分からない、どういう方向に努力したらいいのかさえ分からない、そんな状況だったのです。


【独り立ち】
 しかしいつも言っているように、教職は職人芸の世界です。
 よほど適性に欠ける人でない限り、まじめに、誠実に努力していればいつかは最低限のことのできる一人前になっていきます。

 何年か苦労して年季を積むと、さまざまなことが可能となってくる。
 例えば毎日指導案を書くようにしてきた授業も、いつか手が抜けるようになります。特に中学校の場合、教科担任は同じ授業を違うクラスで1〜2回行うことができます。しかも毎年毎年同じ授業を繰り返すので、そのたびに少しずつ修正し、改良し、試すことができるのです。
 小学校の先生に比べるとはるかに教科指導のプロになりやすい(*1)。

授業で手が抜けるようになると、その分を学級経営や総合的な学習の時間、特別活動の準備・計画にあてることができ、さらにその間に不測の事態(主として生徒指導)をたくさん経験し、対応力も身につけていきます。
 いつしか保護者たちと近い年齢になると、保護者対応もぐんと楽になります。
 そしてある日、突然、自分のスキルが人々の役に立つまで高まっていることに気づくのです。

*1)小学校の先生の場合、毎年同じ学年だけを受け持つ「学年張り付き」の制度を取っている都道府県でない限り、同じ単元の授業を毎年行うということはありません。次にやるのは数年後といったこともありますし、うっかりするとその間に指導要領が変わって単元自体がなくなってしまうといったことだってあります。


【一人前の教師】
 それ以後、教師の仕事は俄然おもしろく、楽しいものとなっていきました。

「悪くなりたい子どもなんて一人もいない」
と言われように、たいていの不良行為は人間関係の中で追い込まれて行われるものです。あるいはしなくてもいい自縄自縛で自分自身を追い込んで起こる場合もあります。
 ですから生徒指導ではがんじがらめの子どもの心に無理やり手を突っ込んで、捻じ曲げるような場面がしばしば出てきます。しかも手を突っ込んだことを知られてはならない。
 そうした技術も身につけると、辛いと言われる生徒指導もむしろやりがいのある生活の柱になってきます。
 生徒指導と同じことを、時間をかけてじっくり行う道徳の授業も、好きで楽しみになってきたりしました。

 さらに長じて大部分の同僚が年下になってくると、今度は若い先生たちに助言できる立場となってきます。昔私に「勝負していない」と指摘したあの「思い遣りある先輩教師」と同じです。
 それは若い先生たちを助けると同時に、先生たちを通してより多くの生徒や保護者の役に立つということでした。

 私はこの世界での天才ではありませんでしたが、20年修行してようやく一人前の職人になることができました。もちろん“一人前”は「苦痛なく、最低限のことができる」という程度の意味ですが。
 そして若い時期に求めたすべてのものを、手に入れたような気持ちになったのです。


【教師の本懐】
 私はおそらく名声も金も地位も、高級車や高層マンションも、人の羨む生活といったものも、本気でほしかったのではありません。それらは単なる指標であって、これまで培ってきた技術や能力、努力の成果を、実感をもって味わいたかっただけなのです。

「20億円稼ぐヤツは、10億円稼ぐ人間の2倍偉い(賢い、才能ある、努力した)」
 そこまで単純ではありませんが、金や名声はわかりやすい能力の指標です。それがあるというのは能力が高いということ――私はそう思っていたのです。だから欲しかっただけで、教師として「人々の役に立っている(それだけの力を私は持っている)」という実感が手に入れば、あとのことはどうでもよかったのです(それにしても労働時間だけ考えても、「給与はいまの1・5倍はあってもいいな」とは常々思っていましたが)。

 しかしそれは私の個人的な体験でも特殊なことでもなく、この国に住むほとんどの大人たちに共通のできごとだったように思うのです。

 社畜(*2)などといういやな言葉ができて、一昨日の東京の帰宅ラッシュや昨日の出勤模様からサラリーマンを奴隷や家畜のように揶揄する風潮がありますが、何があっても定刻には会社につきたいと考えている人々の大部分は、飼いならされたのではなく、主体的にその道を選び取ったに違いないからです。


(*2)主に日本で、社員として勤めている会社に飼い慣らされてしまい自分の意思と良心を放棄し奴隷《家畜》と化した賃金労働者の状態を揶揄したものである。「会社+家畜」から来た造語かつ俗語で、「会社人間」や「企業戦士」などよりも外部から馬鹿にされる意味合いを持つ。(Wikipedia)


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