2017/12/31

「お世話になりました」〜2017年を気分よく終わらせるために  政治・社会


 2017年の最後の記事が、今年最も気分の悪い事件(大相撲問題)というのも面白くないので、ひとこと挨拶をして終わりにします。

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 2017年、お世話になりました。
 今年は私にとって、
「この先、数年間はこんなふうに暮らし、生活の様式はさほど変わらないだろうな」
と目星のついた一年でした。
 あれこれ野心もなく、淡々と過ごす日々、それだって悪くはありません。結構やることはありますから。


 しかし私が淡々と動かなくても、時代はこれから大きく変化するはずです。

 22日に書いたように、なんといっても「『平成の終わり』の始まり」です。歴史が動かないはずはありません。

 それと同時に、来年の今日(大晦日)の東アジアの状況が、いまと同じはずもありません。
 私の予想だと金正恩氏はもう国際政治の表舞台にいませんし、それにつれて中国や韓国・日本の勢力関係も変わってきます。
 トランプ氏が播いた悪しき種は芽を吹き、じわじわと世界中に弦を伸ばしているはずです。
 日本は・・・大方の予想に反して、なかなか悪くないかもしれません。
 いずれにしろ生きるに値する、見応えのある一年になる気がします。

 時代がこの先どういう方向に進むのか、それを予測しないで子どもを育てることはできません。世界の行く末を読んで、子どもに伝え、子どもとともに考え、長い時間をかけて対処していきたいと思います。

 一年間ありがとうございました。

 一生懸命書いているブログですが、近ごろアクセス数も減り(内容がつまらないからシジャ!の声あり)、私自身営業活動に出たりしている始末ですが、今後も誠実に更新していきたいと思います。
 2018年もよろしくお願いします。



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2017/12/29

「忖度報道の行方」〜日馬富士暴行事件と2・26  政治・社会

 
 22日の記事で今年は終わるつもりでしたが、昨日貴乃花親方の処分が出て、様々な方面からの多様な意見を聞くうちに、いろいろ考えさせられるところがあって文を書く気になりました。

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 様々な意見というのは例えばDIAMOND ONLINEの『貴乃花親方バッシングに見る相撲協会とマスコミの「狂気」』のような記事です。タイトルにある通り、相撲協会と結託したマスコミによって貴乃花親方が袋叩きにあっている現状を憤る内容なのですが、これが私の見方とは著しく異なる。

 私の方は同じテレビのワイドショーやニュース番組を見ながら、貴乃花支持者であるMC、リポーター、コメンテーターが狂気めいた擁護論を振り回していると感じていたからです。理不尽なまでに貴乃花親方に肩入れし、モンゴル力士や相撲協会を叩いている、そんな印象です。
 振り返ってみましょう。


【物言わぬ親方、百万言を語る】
 もとを質せば最初は11月14日に発覚した「日馬富士暴行事件」、つまり単純な暴力事件でした。誤解のないように言っておくと、“単純な”というのは加害者と被害者がいてその関係がかなり明白で、理の大部分が被害者側にあるという意味です。
 ただし翌日の興行にも出ているくらいでケガの程度は軽く、その段階ではまだ日馬富士の処分も、重くても2〜3場所の出場停止くらいというのが大方の見積もりでした。
 日馬富士は何と言ってもこれまで一度も問題を起こしたことのない立派な横綱ですし、9月場所を大逆転で優勝し、一人横綱としての責任を果たした功労者ですから相撲協会が粗略に扱うはずがない、とみんなが考えたのです。

 それがここまで大きな問題になったのは、一も二もなく貴乃花親方の“ダンマリ”――いや正確に言えばその“ダンマリ”をいいことに、貴乃花親方に仮託して自分の思いを叫び続けたマスコミ各誌、出演者たちの思惑のためだったと言えます。

「貴乃花親方は星の回しあいや八百長にまみれた現在の大相撲に、一石を投げ込もうとしている(に違いない)」
「その八百長試合の申し合わせの場がモンゴル会である」
「大体地方巡業とはいえ、明日の対戦を控えた力士同士が一緒に酒を飲むなど、常識としてあり得ない」
「この戦いは貴乃花親方と白鳳グループのガチンコ勝負だ」
「貴乃花親方は張り手やカチアゲを多用する白鳳の取り口に重大な異議申し立てをしている」
「貴乃花親方は純粋に自分の弟子を守ろうとして孤独な戦いをしているのだ」
「真の相撲道を希求する貴乃花親方と、稼ぎ頭のモンゴル人横綱に傷をつけたくない相撲協会との最後の決戦」


 しかし私の知る限り、一か月半にわたるそうした議論の際中、貴乃花親方は一言も発していなかったのです。まさに忖度だけで番組を盛り上げ、紙面を埋めていたのです。

 やがて視聴者の一部は相撲協会にガンガン抗議の電話を入れ、それを聞いて横綱審議委員会の北村正任委員長も白鳳の取り口について苦言を呈する。本来の暴力事件はいったん影を潜めます。
 そうこうしているうちに危機管理委員会の中間報告が出て、それが「加害者寄り」だと非難される。
「被害者が何も言わなければ加害者寄りにもなるよな」
という一般論はまったく通用しなくなります。
 さらに記事のネタがなくなりと、貴ノ岩事件は実は最初から白鳳によって仕組まれたリンチだったとか、一度は消えたアイスピックを振り上げた関取がいたといった話まで蒸し返され、どこまで話が広がるかまったく先が見えなくなってしまいました。


【人は自分の想いを軸に忖度する】
 “忖度”だけで物事が動くということは、これまでもなかったわけではありません。その深刻な例は「2・26事件」です。

 首謀者のひとりの磯部浅一は事件半年後、日記(「獄中日記」)の中で次のように叫んでいます。
「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、私は今は 陛下をお叱り申上げるところに迄 精神が高まりました、だから毎日朝から晩迄 陛下をお叱り申しております、天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」
 磯部が怒っているのは彼らの起こした「天皇のための昭和維新」を天皇自らが潰してしまったことです。

 磯部浅一はまさに「憂国の士」でした。日本との日本国民と天皇一家のために身も心もささげるつもりだったのです。
 その自分がこんなに真剣にこの国のことを考えているのに、そして天皇陛下は当然「現人神」として自分たち以上にこの国のことを深刻に考えてくださっているはずなのに、なぜ世の中はよくならないのか――。

 答えは簡単でした。
「それは天皇陛下と自分たちの間に、漢奸たちが側近として立ちはだかっているからだ」
「その漢奸たちを排除すれば、天皇陛下の意思と自分たちは繋がり、あるべき政治の姿が実現するに違いない」
 天皇の重臣たちを暗殺しながら、小指の先ほども自分たちを反乱者と思わなかったのはそのためです。勝手に天皇の想いを忖度し、自分たちと同じだと思い込んでいたのです。

 私はこの一か月半、空転する「貴ノ岩問題」を眺めながら、それを思い出していました。人は自分の想いを軸に忖度するのです。そしてそれはされる側の人間が否定しない限り、果てしなく増幅できるものなのです。


 今日の段階でメディアの一部は「これは全面戦争の始まりだ」といった見方をしています。貴乃花親方は地位保全を求めて裁判所に仮処分を申請するだろうということです。しかしそれも“忖度”でしょう。親方は全く違うことを考えているのかもしれません。あるいはまったく何も考えていないのかもしれません。
 しかしいずれにしろ年明けは「貴乃花親方は相撲協会を二つに割るのか」「親方はクーデターを起こせるか」といった立ち位置から議論がスタートするはずです。親方が何か言わない限りは。


【もう素直に相撲を見ることはない】
 一連の忖度報道で大相撲は大きく傷つきました。

 モンゴル人力士に対する社会の目が、これほど冷淡なものだということを、私は初めて知りました。
 私自身は白鳳のファンだったのですが、星の回し合いや八百長試合の同元のような存在だったという印象(私は信じませんが)は、これからも払拭されることはないでしょう。
 モンゴル人力士を見る目も変わってきます。幕内力士の三分の一にも及ぶ勢力ですから、大相撲全体を見る目も違ってくるに違いありません。
 貴乃花部屋以外の相撲取りはガチンコではないという印象も、角界にとっては大きな損失でしょう。もう素直な気持ちで大相撲を見ることはできません。


 その他言いたいことは山ほどありますがやめておきましょう。
 九州場所の千秋楽で白鳳が「日馬富士関、貴ノ岩関を再び土俵に上げてあげたい」言ったとき一緒になって心からうなずき、「来年も大相撲をよろしくお願いします」と言って万歳を始めた時、心の中で一緒に万歳したのは私です。

 その行為は相撲協会理事会から「品格のないもの」として厳重注意を受けました。あの日福岡国際センターでニコニコしながら万歳をした観衆も同じですが、私も「品格のない人間」と認定されたわけです(会場にいなかったので全国に顔が知られなくてよかったですが)。

 これ以上なにかを言えばさらに品格を疑われそうなので(っていうか、そもそも私の品格ってまだ残っているのか?)
 今日のところはこれでやめます。
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2017/12/23

「更新しました」〜給食は休憩ではありません  教育・学校・教師



「キース・アウト」

 給食指導に関する優れた記事が、西日本新聞にありましたので紹介します。
  ↓ 
2017.12.23
「給食は休憩ではありません」10分で食べ終える先生 泣く、席を立つ…児童の素顔が噴出する時間


 
*スマートフォンではうまくリンク先へ進みません。
 下の方へ記事を探してください。



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2017/12/22

「ご苦労様でした」〜終業式、2017年のまとめと”時代の終わり”が始まる予感  教育・学校・教師


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 長かった2学期が終わります。先生方、ご苦労様でした。

 学校を去ってだいぶ経ちますので、具体的なあれこれやその時の雰囲気といったものもだいぶ思い出せなくなっていますが、終業式の日、子どもたちを帰宅させて教室に戻り、やり残したことはないかと全体を見回すときの静寂と安堵は、確かな体の感覚として今も蘇らせることができます。
 これから1〜2時間、教卓や職員室の机の周辺を整理して、忘年会の会場へ向かう交通手段を算段しながら2学期全体を振り返ってほっと一息つく。
 いい時間でした。

 もちろんその日のうちに何らかの問題が発生する確率はゼロではないのですが――。


【2017年のできごと】
 2学期の終わりは1年の終わりです。
 年度を中心に回る学校にとって「一年の振り返り」というのはちょっとなじまないのですが、それでも思いを巡らせると、今年もやはりたくさんのことがありました。

 野際陽子さんと小林麻央さんが亡くなり、浅田真央さんが引退しました。宮里藍さんも引退し、安室奈美恵さんが引退することを決めました。
 SMAPがバラバラになり、清水富美加さんやも堀北真希さんもいなくなりました。日馬富士が暴力事件を起こして角界を去り、さまざまな噂で相撲界自体もボロボロになりました。

 トランプ大統領が誕生し、ソニーの新型aiboが生まれ、史上最年少の中学生プロ棋士が出現しました。
 大リーガー大谷翔平が誕生し、上野にシャンシャンが生まれました。
 9秒98の新記録も生まれた。

 豊田真由子議員が全国の禿頭男性を敵に回して奮闘しました。モリカケ問題と豊洲問題はずいぶん長引きました。
 衆議院選で一時は過半数割れと言われた自公政権が圧勝し、「希望の党」は彗星のごとく現れたかと思ったらあっという間に消えた(印象)
 小池百合子人気はロフテッド軌道でした。

 北朝鮮のミサイルがガンガン打ちあがって「Jアラート」が鳴り響きました。 金正男氏が白昼堂々と空港で暗殺されました。けれど国際社会は何もできなかった――。

 米国ラスベガスで乱射事件があり(死傷者500名以上)、日本では座間市で9人をバラバラにするという猟奇的な事件が起こりました(現実が想像を軽々と飛び越えてしまった)。

 九州北部豪雨をはじめとする水害が多かった。
 姉弟のように顔の似た二人、ブルゾンちえみと清宮幸太郎が目立った。
 天皇退位法案が可決して平成の終わりが視野に入った。
斜体は、私が特に興味を感じたもの)

 ほんとうにいろいろあった一年でした。

 もちろん何もない平和な年なんてあるはずはないのですが、世界の最強国アメリカにトランプ政権が誕生したことや、北朝鮮が核保有の一歩手前まで来たことなどは、世界や歴史を変える大きな事件の前触れかもしれません。

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【予感――“時代の終わり”が始まる】
 私は社会科の教師で、中でも日本史が専門でした。さらに近現代史が得意の範疇で、長年、明治・大正・昭和・平成と勉強してきました。ところがあるころから、年号が変わることには単に名前が変わること以上の意味があるのではないかと思うようになったのです。
 年号が変わると時代そのものがまったく違ったものになってしまうのです(2013/9/11「年号や世紀が変わることへの思い」)。

 しかも前の年号の最後の2〜3年は新時代を予感させ、新しい年号の最初の2〜3年は前時代を引きずるといった感じになります。

 例えば明治時代の最重要テーマである条約改正の、最後の交渉(関税自主権の回復)は、明治43年に始まっています。いわば明治の「終わりの始まり」が43年だったわけです。

 大正は第一次護憲運動(大正2)に始まり、普通選挙法(大正14)で役割を終えます。その大正14年は、悪名高き治安維持法のできた年でもあります。
 昭和の匂いがするでしょ?

 昭和2年、金融恐慌が起きて大正のノホホンとした雰囲気は一気に吹き飛ばされ、一朝にして昭和らしくなります。

 昭和の終わり、いわゆるバブル景気は昭和61年に始まって平成3年まで続きます。つまり足かけ3年ずつを昭和と平成に跨いだ社会事象だったのです。

 今回は初のケースですが「平成」が31年で終了することが決まっています。つまり今年は「平成最後の3年間」の始まりの年だということになります。
 今年から再来年にかけてのできごとは、平成を終了するものと同時に新時代の方向性を示すものなのかもしれません。

 そう考えると、例えば先ごろ決定したイージス・アショアの導入――。設置完了まで5年ほどかかるそうですが何か嫌な感じはしません?
 もっとも第2回東京オリンピックは新しい年号の2年目ですから、新時代は平和で調和の取れた明るい時代になるという可能性もないわけではありません。

 時代を、じっくり見ましょう。

 では皆様、良いお年を!!


*「アフター・フェア」は例年学校のカレンダーに合わせるように書いています。ですから私も年末年始休業です。
 ですが学校の先生方がそうであるように、休み中もしばしば出て来て、何か仕事をするのかもしれません。その時はよろしくお付き合いください。





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2017/12/21

「ともに考える」〜ブラック校則をなくせ 4  教育・学校・教師


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 もういい加減にしてくれよ。
 オレたちは茶髪だとかパーマだとか、女の子の下着指導がしたくて教師になったわけじゃない。
 数式の美しさだとか化学変化の不思議、日本語の魅力だとか歴史の面白さとかを教えたくて教師になった。自分の思いを英語で伝えたり音楽で伝えたり、絵が描けたり家の中のものが簡単に直せたり作れたり――そういうことを教えたくて教師になったのに、今やっていることは何なんだ!

 なあ、頼むからつまらないことはやめてくれよ。
 イキがってトサカみたいな髪をしたり唇を真っ赤に塗ったり、それが何だというんだ。そんなことは自分の部屋でやればいいことで、学校になんか持ち込まないでくれ。

 頼むから勉強してくれ、黙って座ってオレたちの話に耳を傾けてくれ。退屈な時もあるかもしれんが、じっと聞いていればオレたちだってけっこういい話をしているんだ。だってのほとんどはオレたちが発見したものでもつくりあげたものもでもなく、偉大な先達たちがもたらした素晴らしい財産だからだ。つまらないはずがない。

 宿題をやってこい、向上心をもって学べ。半歩でも前へ進めるよう努力しろ!


 先生たち頭の中を覗くと、そんな言葉が渦巻いているのかもしれません。
 昨日引用した新聞記事(2017.08.21「地毛証明書」「無言給食」 学校のルールを考える)にも、校則について、
「くだらない」
「いまだにこんなことやっているなんて、信じられない」
「これは教師の仕事なのかな。ほかにやるべき仕事があると思う」

といった表現がありましたが、それは教師もまったく同じ考えです。
 先生たちがほんとうにやりたいのはそんなアホな指導ではなく、授業であり、教育なのです。

 ブラック校則をなくすヒントがここにあります。
 先生たちだっていやなのです。

 校則がなくても、指導がなくても、生徒が勉強に前向きな努力を続ける学校であれば、教師は喜んで授業に邁進します。誰も校則なんかに汲々としたりしません。


【誰が校則問題の主体なのか】
 この記事の発端となって再三引用している2017.12.17付け毎日新聞『茶色の髪問題契機「ブラック校則なくそう」運動スタート』)に、とても気になる一文がありました。
 不合理な校則やルールについて全国的なアンケート調査で実態を把握し、全国の学校に見直しを求める活動を展開する。

 全国の学校に見直しを求める活動?

「昔の常識でつくられた校則が子どもたちを苦しめている。新しい時代の校則はどういうものか、社会全体で議論したい」(上記新聞記事より)
と言うにはあまりにも古い考え方で驚きます。“校則は学校が下し置くもの”だから学校に見直しを求めるというのは昭和の考え方でしょ。
 尾木直樹先生あたりはかなり昔から繰り返し「校則は生徒参加で決めるべき、学校が一方的に押し付けるものではない」オギ💛ブロ 尾木ママ オフィシャルブログ)と訴えています。

 もっとも「校則は生徒参加で決めるべき」といっても、私は理念としては賛成できますが、現実問題として難しいと思います。なぜなら中学校も高校も毎年三分の一ずつ生徒が変わってしまうからです。
 校則を学校と生徒の契約のように考えると、毎年新入生のあるたびに更新しなければならない理屈になりますが、全校生徒の意見を吸い上げ、整理し、討論して議決するという遠大な作業が、果たして四月五月といった忙しい時期に可能かどうか?
 また、特に入学したばかりの生徒に、校則各条項の具体的な意味を理解しろといったところでそれも可能なのかどうか、はなはだ疑問です。


【ブラック校則をなくす決め手】
 ほんとうの決め手は、それが対象とするような事象そのものをなくしてしまうことです。生徒の力でそれを達成するのが一番望ましい。

 髪を染めたり化粧したりする子をなくす、派手な下着を誇示するように着てくる子をなくす、自転車を学校周辺に放置する生徒をなくす、ジュースやコーラの缶やペットボトルをポイ捨てする生徒をなくす――そうしさえすれば馬鹿げた校則の一部はわざわざ削減しなくても宙に浮きます。
 あってもなくてもいいような校則は誰も気にならないでしょう。しかし生徒だけで、あるいはNPOの力を借りても、学校の浄化運動というのはそう簡単にできることではありません。

 では何ができるのか?


【校則の意味をともに考える】
 私は、子どもたちとともに、みんなで一緒に不可思議な校則について考えていったらどうかと思うのです。その点でキッズドアと考えをひとつにします。

 子どもたちが首を傾げるような校則は「昔の常識でつくられた」からかどうかも疑問の余地がありますし、「昔の常識」は現代に通用しないかどうかも議論しなくてはなりません。
 さらにその「昔の常識でつくられた校則」で苦しめられている子がどんな子なのか、多数派なのか少数派なのか、少数派でも救わなくてはならない子たちなのかそうでもないのか。苦しむ子がいるからなくしましょうでいい話なのか、苦しむ子がいてもあえて残さなければならないものかどうか――、それらすべてが話し合いのテーブルに乗せるべき主題です。

 一昨日書いたように、私はすべての校則には理由(わけ)があると思っています。しかしその理由(わけ)は、すぐに理解できて納得できるものである場合もあれば、そもそもなぜそうなったのか先生たちですらわからなくなっている場合もあります。例えば「カーディガン禁止」などがそれです。
 そして「カーディガン」がそうであるように、広く意見を求めれば必ず禁止条項成立時の事情を知っている人も現れてきます。


【どこでだれがやるか】
 さきほども申し上げた通り学校のカリキュラムはもう限界で、校則について何時間も話し合っている時間などどこにもありません。したがって深い話し合いをしようと思ったら、議論の場は校外に求めるしかありません。キッズドアのような組織が手を挙げてくれたことは非常にありがたいことです。

 そして全国の学校に見直しを求めると言ったシラミ潰しよりたいへんな活動に手を取られるのではなく(だって中学校だけでも全国に1万校もあるんですよ)、現在ある校則についていったん肯定的に意味を問いなおし(どうしてこの校則はできたのだろう、なぜ必要だったのだろう)、それを基礎に、新たな校則の在り方を全国に提案していけばいいと思うのです。

 それは言わば「校則の憲法」というべきものであって、その憲法とともに具体的な「校則案」を提示できれば、全国1万校の中学校と5千校の高校・中等教育学校・特別支援校の参考になると思うのです。もちろん小学校だってかまいません。

 一方、私は学校の先生たちも、校則が説明できるように日頃から情報を集め、頭を鍛え、「ああ訊けばこう答える」ことのできる教師になっておく必要があると思うのです。その場しのぎの中途半端な答えが、子どもの不信感を高めている側面は確かにあります。
 このブログで先生たちに何かを求めることは滅多にありませんが、今はそのよう思います。


*注
 ここまで書いてきて思うのですが、そんなふうにあれこれいじくりまわしても結局、文言が現在よりもずっと洗練された適確で分かりやすいものになるだけで、現在の校則と大差ないるのではないかと思っています。それくらい校則には必然性があります。

 さらにひとつ、
 児童生徒に校則や決まりを任せる時、注意しなければならないのは「骨抜きにされる」ことではなく、異常に厳しいものがつくられてしまう危険です。
 私たちは、彼らが「正義の人」たちであることを忘れてはいけません。



                            (この稿、終了)



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2017/12/20

「人権は矛盾する」〜ブラック校則をなくせ 3  教育・学校・教師


 2017.12.17付け毎日新聞『茶色の髪問題契機「ブラック校則なくそう」運動スタート』)で記事になった「キッズドア」は総務省のサイトでも紹介されているかなりまじめなNPO法人です。



 サイトによると、
 生まれてきた環境や、災害によって子どもたちの将来の夢や希望に不平等が生じる社会はおかしいと私たちは考えます。
 貧困などの困難な環境にある子どもたちにも、公平なチャンスを与えるために、私たちは活動しています。

と、「子どもの貧困」で話題になった児童生徒や、被災地の子どもたちの学習支援を主として行っているようです。10年の実績もあります。

 そんな「キッズドア」がなぜ校則問題なんかに首を突っ込んだかというと(失礼)、これもサイトでは、
 髪の毛が生まれつき茶色いにも関わらず、教員から黒染めをするよう強要され、精神的苦痛を受けて不登校になった女子高校生が裁判を起こしました。この報道をきっかけに、この問題を放置できないと感じた有志が発足したプロジェクトです。
と説明されています。
 10月末から11月にかけてマスコミやネットでたいへんに話題となった事件です。


【大阪羽曳野、茶髪地毛、黒染め強要事件】
 大阪羽曳野市の“茶髪地毛、黒染強要事件”(私が勝手に名付けた仮称)は、まだ裁判中で様子を見るしかありません。

 しかしこうした裁判は、マスコミ上、提訴された時点では大きく取り上げられるのに、裁判の経過や結果についてはほとんど伝えられませんから、すでに終了、軍配は上がっているという面もあります。
 当該校の悪名と悪行、大阪府教委の厚顔と無恥は、私たちの記憶とネットに長く残ることになります。多くの支持を取り付けたという意味で、すでに原告は勝ったようなものです

 ただし私としては、事実はもっと複雑ではないかと疑っています。
 訴えに対して府があまりにも平然と「『学校の指導は適切』と請求棄却を求め、全面的に争う姿勢を見せている」からです。よほどの信念か自信があってのことなのでしょう。

 実際、今月17日の会見でも向井正博教育長は「3人の教諭が根元を見て地毛は黒だと確認した」とか「中学校時代はどうだったかという聞き合わせもした」とかおっしゃっています。
 どちらの言い分が正しいのか、裁判の行方に注目しましょう。
   


 ただしひとつ言っておきたいのは、こうした事件に対するマスメディアの対応があまりにも不公平だということです。

 上記17日の記者会見についても、私はあるサイトの読者コメントで知り、「ENDIA」という“ニュースまとめ”サイトで確認しましたが、新聞やテレビで見ることはありません。ENDIAの引用元となったMBSの動画も現在は削除されてしまっています。

 生徒が被害を訴える事件では被害者側の言い分はそれこそ洪水のように流されるのに、受け手である学校や教育庁の主張は(「被害者弁護士によると」というかたちを別とすれば)ほとんど伝わってこない、公正な判断をする上でとても困ったことだと思っています。


【地毛証明】
 この裁判報道でもうひとつ困惑しているのは、「地毛証明」が問題化していることです。

 「地毛証明」は、生まれつき髪の赤い子や縮れ毛の子に、黒染めやストレートパーマを強制しなくて済むようつくられた学校の知恵です。まじめに学校生活を送ろうとしている普通の子に、髪を「黒くしろ」とか「伸ばしてこい」というのは明らかに人権侵害で、それを避けるために取り入れられた“生徒のための仕組み”だとも言えます。

 ところがそうした仕組みが、中国の諺に「上に政策あれば、下に対策あり」というように、悪用されることがあります。
 先輩から指導を受けて入学前に茶髪に染め、親を脅迫して証明書を書かせる輩、「地毛証明」をカサに入学時よりさらに赤く染めてくる輩。
 「昔はそんなに赤くなかったはずだ」と問い詰めると、今度は子どもに脅された親が「小さなころからそうでした」と必死に訴えてくる、そうこうしているうちに普通の黒髪の子たちが「なぜアイツだけは許されるんだ」と突きあげてくる――。

 「裏付けのために幼少期の写真を求める」ことの愚かしさなんて、学校だってわかっていますが、そうせざるを得ない事情があるのです。
 そこまでしてまじめな生徒の人権を守る――。

 しかし朝日新聞などは5月ごろから問題としていて、尾木直樹先生や脳科学者の茂木健一郎さんの口を借りて、「身体について証明書を出させるなんて明らかな人権侵害だ」(尾木)「生徒の人権を守るためと言うが、出自やアイデンティティーの証明を求めることが人権侵害だとなぜわからないのか。まず髪を染めた人が不良、不真面目という認識モデルを疑うべきだ」(茂木)などと批判しています(2017.08.21「地毛証明書」「無言給食」 学校のルールを考える)。

 子どもの人権を守るための仕組みが人権の名のもとに非難される――いったい何が起きているのでしょう?


【人権は矛盾する】
 これは“人権尊重の視点をどこに置くか”ということに関する、学校と世間の違いからきているのです。

 端的に言うと、学校は「将来のその子の人権を十全に守りたいという理由で、目の前のその子の人権を制限することにほとんど抵抗感のないところ」なのです。それに対して一般の人々は目の前の子どもが苦しむのに耐えられない――。

 学校の先生は、算数なんてこれっぽっちも好きでない子に平気で「掛け算九九を覚えましょうね」と言います。走るのなんか大嫌いな子に「ガンバレ」「ガンバレ」と大声をかけながらあとから追い立てたりもします。
 音痴だから歌なんて死ぬほど嫌だという子に対しても、「ああしましょう」「こうしてみたら」とあれこれ言って、励まし、叱り、応援し、何とか歌える子にしようとするのも先生です。本人は歌えなくていいのに。

「そんなに辛いなら、もうやめましょう」
と優しい言葉をかけてくれる人はひとりもいません。
 
 なぜそんなそんなことができるのか――。

 それは小学校で学ぶことぐらいできないと、とてもではないが大人になって「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)なんかを営めないと思い込んでいるからです(特殊な例で反論していけませんよ)。

 あるいは中学校では、その子の「数学や英語を学ばない自由」を認めてしまうと、将来「思い通りの高校を選ぶ自由」を失ってしまう(あるいは極端に狭めてしまう)かもしれない、実質的な意味での「職業選択の自由」を失ってしまうかもしれない、もしかしたら好きな人と結婚する自由さえ失ってしまうかもしれない――そう怖れているからなのです。

 元の話に戻れば、子どものころから髪の毛が赤いとか縮れ毛だといった個人情報の保護など、その子の現在や将来を考えたら取るに足らないことだと、かれらは大真面目で思っています。
 その点で、尾木・茂木先生とはどうしても一緒になれない。


【髪型や服装にこだわる教師側の情熱】
 ほとんどの教師は凡人ですから「勉強は苦しいもの」だと思い込んでいます、自分自身が苦しんで学んできましたから。
 稀に楽しくできた教科もあれば好きな分野もあったかもしれませんが、大部分は楽しくなかった。片手間に勉強しながら教員になったという人も、まずいません。

 ですから彼らは、髪の毛を赤くしたり化粧したり、流行りの服装を楽しんだりしながら苦しい勉強を続けることなどできないと思い込んでいます。
 だってそんなかっこうをすれば街にも行きたくなるしお店にも入りたくなります。同じような友だちと長時間ファッションやスマホの話もしたくなります。それでどうやって勉強をする時間を生み出すのか、どのようにして怠けたい誘惑に打ち勝てるのか、どんなふうに苦しい勉強に耐えていくのか(特殊な例で反論していけませんよ)。

それが、
「パーマ禁止、「くせ毛届」の提出」
「眉毛と髪の毛をいじってはいけない」

といったくだらない校則を生み出す基本的な認識となっています。

 勉強が生み出す将来の大きな自由(高校選択の自由、大学選択の自由、職業選択の自由、自己表現の自由)、健康で文化的な(最低限度を大きく越える)豊かな未来生活のために、現在のちっぽけな表現の自由なんて我慢しなさい、そのために学校に来てるんでしょ?

 それが教師のホンネです。

                        (この稿、続く)                               

*私はこれについて昔、短い物語を書いたことがあります。時間があれば読んでみてください。

一枚の絵











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