2017/6/16

「バカが世界を動かしている」  政治・社会

    〜バカな子、オタクな子、意地悪な子

 たいていの男の子がそうであるように、18歳の私はとても神経質で弱気で、そして根性なしの情けない青年でした。
 その私に、今の私が駆けつけて何かアドバイスをするとしたら、それはこんなことです。
「そんなに思いつめなくてもいい。世界はキミが思っているよりはるかにダメなヤツ、いい加減なヤツ、だらしないヤツによって動かされているんだから」

「今の若い連中は世の中を舐めている」
 そういう言い方がされなくなってどれくらいたつのでしょう。もしかしたら今もそんな若者もいるかもしれませんが、私が気になるのはむしろ、臆病で傷つきやすく、あまりにも真面目できちんとした子たちです。
 私は彼らにも言っておきます。
「キミの周りには“バカな子”も“オタクな子”も“意地悪な子”もいるでしょ? 大人の世界だって同じなんだよ」


【バカな子】
 私がよく参考にする「JBpress」(日本ビジネスプレス:日本のウェブメディア)に、「目の前に迫ったトランプ退任、ペンス大統領就任〜予算教書で明らかになった"まさか"の無知無能ぶり」という記事があり、その中に次のような一節がありました。
「もしかしたら、(トランプ大統領は)本当にバカなのかもしれない」
 私に言わせればこの記事を書いたあなた(伊東 乾:作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督)こそバカなのかもしれない。
 アメリカ大統領がバカだなんて、今や山に行って穴を掘り、その中に囁き入れるような話ではありません。大声で叫び、心配している人が何人もいるのですから。今さら何を言っているのですか!

 そもそもFBIの長官をクビにしちゃだめだとか、ロシア疑惑で捜査対象になっていないからといっても潔白が証明されたわけではないとか、さらにそもそもロシア疑惑より前に捜査妨害が問題になっているのだとか、ド素人の私でも分かることが分からない。
 さかのぼって2月の「マー・アー・ラゴ」での夕食会の最中、北朝鮮のミサイル発射の報が入ってその場で協議し(そのこと自体がバカ、巻き込まれた安倍首相は気の毒だった)、そのあとの記者会見が悶絶ものでした。
 トランプは安倍首相にスピーチの順を譲り、あとからしゃくしゃくと出てきて、
「米国は偉大な同盟国=日本の背後にあって、100%これを支持する」

 私はその瞬間テレビに飛びついて叫んでました。
「バカかお前は! 北朝鮮のミサイルなんてもう何年も前から日本を射程内におさめてるんだ。いま発射されたのは米軍基地や将来のアメリカ本土を叩くためのものであって、標的はアンタなんだぞ、そんなこともわからんのか!」

 私が「バカかお前は!」といった下品な言葉を使ったのは、まだ初任で子どもの扱い方も知らなかったころ、生徒に対してやっただけです。以来40年近くまったく口にしたことがありません。
 
 アメリカ国民が選んだのだからそれなりの人物だろう、不動産業での成功者でもあるから一見無謀と見える発言や挙動の中にも、実は深い思慮があるのだと考えるのは間違いです。
 彼は親から引き継いだ不動産会社をつぶし、借金まみれの生活をコメディで立て直して、その名声で再び不動産を買い集めた天賦のお調子者です。
 そう思って彼の言動を見直すと、かえって見えてくることがたくさんあります。


【オタクな子】
 北朝鮮は国際情勢のどういうタイミングでミサイル発射を繰り返しているのか――長い間議論になっていましたが最近は「どうやら国際情勢とは関係なく、北朝鮮の実験計画にそって淡々と打ち上げているだけだ」ということで落ち着きつつあります。
 私は最初からそう思っていました(ととりあえず言ってみる)。
 これは金正恩氏を一国の指導者、有能な三代目と考えるから間違えるのであって、単なるオタクだと考えると見えて来るものがたくさんあるのです。

 私の息子のアキュラも、小さなころからプチ軍事マニアの傾向があって「バンバン(幼児言葉で“拳銃”)」もたくさん持っていました。小学生の頃には家庭内に銃の密輸(おもちゃ屋さんから)を図って父親に見つかり、こっぴどく叱られたこともあります。

 大学生になって都会に出て、しっかり勉強をしていると思ったらサバイバル・ゲーム(大掛かりな戦争ごっこ)にはまっていて、毎週末、軍服を着て野山を駆け回っていたようです。
(ただしその際も勉強不足で、ネットオークションで手に入れた軍服は上着が米軍でズボンが中国紅軍というキテレツなもので、仮想米中戦のサバゲーでは参加者全員が“敵”という悲惨な目にあったみたいです)

 金正恩氏とアキュラの違いは持っている権力の圧倒的な差ですが、やっていることは同じです。要するに新しい武器が欲しい、もっと強いのが欲しい、打ってみたい、やってみたい、それだけです。
 “専門家”たちは「アメリカ本土に届くICBMを開発することでアメリカを話し合いのテーブルに着かせたいのだ」とか言ったりしますが、テーブルに着いたって話し合いが1ミリも進まないことは目に見えています。

 金正恩氏はきっと話し合いになんかに興味はない。
(ただしもちろん、核ミサイル開発のための資金を出してくれるというなら話し合ってもいいけど)


【意地悪な子】
 自分が小学生のころ、中学生のころ、そう言えば高校生や大学生だったころもそういう女の子はクラスにいました。もちろん教員として見て来た児童生徒の中にも必ずいた――。

 必要もないのに徒党を組み、常に内部で競わせ、放って置けばいいものを掘り返し、まぜっかえし、対立を煽っては常に自分は君臨している、あの、人柄の悪い女子のことです。
 
 その言動を見ていると何か意味があってやっているのではないことも明らかで、ただ本能的に対立を煽って自分が有利になる道を見つけ出し、何の邪気もなくそれに乗っかってしまうのです。
 本人は無邪気ですが、周辺はたまったものではありません。

 あまり詳しくは書けませんが、私にはトラウマがあります。

 私が小池都知事に怯え、反射的に身構えるのはそのためです、たぶん。


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2017/6/15

「アウフヘーベン」  政治・社会

   〜遅れてきた人々の夢想

 小池百合子という人はどうも日本語に難があるみたいで、ときどきとんでもないところに難しい英語を差し挟んで私たちを混乱させます。
 ただしおそらくそれで相手を煙に巻こうとしているとか教養をひけらかしているとかではなく、ものを考えるときいつも英語が頭の中を渦巻いていて、それをいちいち日本語に変換するのが面倒だったり、“その概念は日本語にできないから”と単純に突っぱねているだけのかもしれません。
 確かに「コンピュータのキーボードをブルートゥース仕様にしたりマウスをトラックボールに変更することで・・・」を英語を使わずにやれと言ったって不可能ですが、「ホイッスルブロワー(内部告発者・公益通報者)」だの「ワイズスペンディング(税の有効活用)」だのを日本語にしないのは怠慢としか言いようがありません。

 一方「カイロ・アメリカン大学でアラビア語を修めカイロ大学に移って卒業した」(Wikipedia)はずなのに会話にアラビア語が挟まることはない。何年もエジプトに住みながら頭の中は日本語と英語だったということもないでしょう。
 もちろんアラビア語を挟んだら誰も分からないという事情もありますが、それだったらあまり一般的でない英単語だって同じでしょう
 そして今度はドイツ語です。

「アウフヘーベン」と聞いて「バームクーヘン」から頭を逸らすのに苦労している人は大勢いるのではないでしょうか(もちろん冗談です)。
 ところがこの「アウフヘーベン」、私より上の世代(さらに正確に言えば全共闘世代)にとっては、ほとんど日常語だったのです。「アウフヘーベン」と聞いて懐かしく思う人はたくさんいても首を傾げるひとはまずいません。
 
 それがどういう意味かというと、私もよく分からないのですが全共闘的な意味では次のようになろうかと思います。
(かなり低レベルの理解ですがこれに対する抗議、および訂正は受け付けません。指摘いただいてもたぶん理解できませんから)


【アウフヘーベン(止揚:しよう)】
 最初に「弁証法」について(改めて調べながら)お話しします。これは物事の考え方(小池さんの好きな言葉で言うとパラダイム)のひとつで、
『物事は必ず内部に矛盾する二つのものを生み出し、ひとつを「正」(命題・テーゼ)とするともうひとつを「反」(反命題・アンチテーゼ)と名付けることができる。この二つはどちらは正しいとか重みがあるとかいったものではなく、等価であり矛盾しあう。その矛盾はやがて限界まで高まり、その結果さらに高い立場である「合」(ジンテーゼ)を生み出して解消する』
 その“高い立場で統合(あるいは総合)する”作用を「アウフヘーベン」と言うのです。
 何のことか分からないでしょう?

 全共闘学生が好んで引用したヘーゲルは、「歴史」を弁証法の大きな繰り返しと考えましたから、その線にそって考えます。すると例えば、
 1300年ほど前に始まった律令制は「すべての国民と土地を天皇のものとし(公地公民)」「田を分けて貸し与えることで税を徴収する(班田収授)」ものだったが、国が安定して人口が増えるに合わせて土地を増やすことができなくなった。つまり矛盾が生じた。
 その矛盾を「墾田永年私財法」によって土地の私有を認めることでアウフヘーベンし、農地は爆発的に増えて国は安定に向かう。
 ところが自分が耕作できる以上の大量の土地を所有する者たちが現れ、彼らはさらに土地を広げようと武器を手にし始める(武士の誕生)。そこに「土地所有者(貴族・寺社)」と「土地を実効支配しかつ耕作する者(武士)」という矛盾が生まれ、対立は極限まで進む。
 それをアウフヘーベンして武家社会が生まれ、再び国家は安定に向かう。ところが・・・と延々と続く弁証法が歴史だ

という言い方になるのです。

 全共闘の学生たちがこの言葉を盛んに使ったのは、
「資本主義の矛盾はやがて極限まで高まってその結果アウフヘーベンして社会主義国家が生まれる。ただし自然に任せた社会主義への移行は制御の効かない残酷な変化となり、それでは犠牲が大きすぎるからソビエト連邦の指導の下、自分たちが制御可能な形での社会主義革命を起こす」
 そういう考えがあったからです。
 だから彼らは盛んに「テーゼ」だの「アンチテーゼ」だの、あるいは「アウフヘーベン」だのといった言葉を使いました。

「テーゼ」と聞いてヘーゲルやマルクスを思い出すのが全共闘世代。エヴァンゲリオンを思い出すのがアニメ世代です。
(「残酷な天使のテーゼ」の作詞者の及川眠子さんは1960年の早生まれですから全共闘運動にはまったく間に合っていません。ただし彼女が大人になろうとする多感な時代、世間にはまだ学生運動の残り香はあったはずです)


【さて、築地・豊洲だ】
 では小池百合子都知事は「アウフヘーベン」をどう使っているのかというと、次のような文脈です。(月刊「文芸春秋」2017年7月号p120上段)
 豊洲市場の盛り土問題の改善案は、提案する専門家会議の紛糾で、立ち止まっている。一方、築地市場の改修案も市場間題PTから出され、百花繚乱の様相を呈しているが、ここはアウフヘーベンすることだ。2020年のフロン規制強化もにらみつつ、豊洲市場のコールドチェーン拠点、築地ブランドを生かした賑わいのある市場創りなども参考に、鳥の目で総合的な判断を下したい。
 おそらく、
「築地か豊洲かということではなく、そうした二者択一を越えた高次の解決策を模索べきだ」
といった話のようです。
 これだけああだこうだいった後でまだそれを上回る(ほとんどの関係者が納得するような)アイデアがあるとはとても思えないのですがいかがでしょう。

 小池都知事は私と一歳違いのいわゆる「遅れて来た世代」「ポスト全共闘」です。ドイツ語や英語をカッコウよく使いこなす革命的な先輩にあこがれて高校時代を送り、大学に入ったら(関西学院大学社会学部にいったん入学しています)そこには何もなかった――そういう世代です。彼女の精神的な時間はその段階で止まっているのかもしれません。
 そう言えば彼女の愛読書は山本七平の『「空気」の研究』(文藝春秋、1977年)。私も相当に感化され愛した書籍です。


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2017/6/14

「超売り手市場の狭間で」C(拾遺)  教育・学校・教師

   〜アルバイト学生はどこに消えたのか

 現在の雇用状況と私たちの子どもたち(教え子や元教え子)について考えてきて、一応ケリをつけたつもりだったのですが、突然積み残したことがあることに気づきました。

 この一連の文章の始まりは、予約を入れようと思った居酒屋が休業で、どうも原因は人手不足らしいということでした。居酒屋と言えば学生アルバイトの華――というか、要するに授業に差し支えず短時間で高収入ということで、学生ばかりが目立つバイト場所でした。そこが休業に追い込まれるとすると、一体学生アルバイトはどこに行ってしまったのか。
 そう言えば外食産業は、今や学生よりも外国人が目立つ場となった感じがあります。

 もちろん「超売り手市場だから」というのがひとつの答えですがそれは正規社員の話で、アルバイト学生を正規にしてしまうのでバイトが足りないというような事情はなさそうです。


【学生は働かなくなったのか】
「景気が回復基調で親の収入が増え、そのぶん仕送りが増加したのでバイトに出なくてもよくなった」
 これもひとつの仮定ですが、アベノミクスの努力にもかかわらず賃金が上がってこないことは周知のとおり、それも答えになりません。
 そこでネット検索に頼ると、やっぱり出てきた、
「今の学生はものを欲しがらないから金もいらない」
です。
 確かに思い当たる節もあります。

 私は高度成長の末期に青春時代を送った者です。正確に言えば「さあ大学生だ! 青春だ! 精いっぱい学んで遊ぶぞ!」と張り切って花の東京に出てきたら、突然のオイルショックで経済成長は止まり華やかな雰囲気はしぼんでしまった、それにもかかわらず脳天気な私たちは前時代を引きずっていて、派手で、エエカッコウシイで(←この言葉、今の人たち分かるかなあ?)、見栄っ張りな生活を送っていたのです。

 具体的に言えば、髪を伸ばし(パーマ代がかかった)、花柄の粋なシャツを着てブランドのジーンズをはき(穴の開いたのをいつまでも履くという訳にはいかなかった)、デートは小粋なラウンジかバー(居酒屋はオジさんの行くところ)、私は持っていませんでしたが仲間ウチの何人かは立派なマイカーのオーナーで、逗子だの鎌倉だのへはしょっちゅう出かけていました――そういう生活を、精いっぱい背伸びして行っていたのです。

 ですからもちろん見えないところではバイトをせざるを得なかった。
 案外楽で実入りの良かったのは庭師の手伝い。さらにその上を行く高収入はたった一日で潰れてしまった地下鉄の工事現場(電話がないので直接断りに言ったら「兄ちゃん、せっかく来たんだからあと半日働いていけ」と言われて泣く泣く現場に行って、今度はほんとうに殺されそうになった。プロはどうしてあんなにうまく土砂を一輪車にうず高く積めるのだのだろう?)。

 そんなみっともない姿をしても、いい格好をしたかった。
「白鳥は優雅に泳いでいるように見えても、水面下では激しく必死に水をかいているのだ」
――『巨人の星』の花形満がそんなことを言ったと思うのですが、とにかく一生懸命働いて、目いっぱいカッコウをつける、それが私の青春時代です。

 ところが今の子たちはムリをしない。
 等身大で生きているというか、ファッションにもさほど興味はなく床屋に行くのも面倒。買い物に行くのも面倒なので母親が送ってくれるTシャツやジーンズを何の抵抗もなく着ている。
 飲みに行くのはもちろん居酒屋。今の女の子は居酒屋デートもまったく気にしないし、そのそもデート自体あまりしたくない、面倒で。
 冬のスノボーや夏の海水浴は、行ってもいいけど行かなくてもいい。車は維持が面倒、原付くらいならあったら便利だけどダメならチャリ、それもダメならゆっくり歩いていくさ――とこれでは頑張ってバイトに行く気にもなりません。

「行ってブラックバイトだったら怖いじゃん?」

 以上、東京で何をしているか分からない我が家のバカ息子、アキュラのことを念頭に書いてみましたが、確かにこれだと金はかかりません稼ぐ気にもなりません。


【それでも学生は働いている】
 しかし結論から言うと、それでも学生は今も働いているのです。アキュラもそれなりに気の長いバイトをしています(ついでみたいに学生もやっているけど)。

 確かに高度成長期やバブル期と違って彼らは身の程を知り、見栄も張らず、堅実に生きていますから使う金も少なくて済みますが、昔と違って親の仕送りも抑えられているので、皆、ちょっとしたプチ苦学生なのです。皆、昔と同じように頑張って働いています。

 では、それでもなおアルバイトが不足するのはなぜかというと、それは単純な話、パート労働の求人自体が急速に増えているからなのです。

 1973年のオイルショック以来、企業は一貫して正社員の数を減らし、可能な部分は次々と派遣社員かパート労働に切り替えて行きました。その傾向は平成不況を経て、2008年のリーマンショックでさらに顕著になり、その数は厚労省が統計を取り始めた1972年のなんと22倍といいます。大変です。

 一方、求人に応募する方は減り続けます。
 団塊の世代の頂点はリーマンショックの年が60歳の定年です。以後も続々と人数の多い層が職業人としての生活を辞めて行きます。パートとて同じです。そしてそれに合わせるように、大学生の数も頭打ちから減少へと転じようとしています。

 パートの求人が飛躍的に増えて応募人口が減っているのですから、アルバイト不足が深刻なのも当然です。

 ならば激烈な時給競争が始まってアルバイト生活がぐんと良くなるかというと、それもそうではありません。なにしろデフレ脱却がうまく果たせず、ものの値が挙げられないので時給も頭打ちなのです。したがって高給でバイトを呼び寄せる力のないところは、儲かっているのに休業という理不尽な目に遭うことになるのです。

 このことが子どもたちの未来にどういう影響を与えるのか。
 外国人労働者に門戸を開かなければならないのか、機械に頼るのか、はたまた経済の規模自体を縮小する方向に進むのか。
 もう少し勉強してみたいと思います。


参考 
「アルバイトが足りない」は“本当”なのか?〜データで概観する「人手不足」

中小企業の人手不足の原因とは?アベノミクスで雇用改善してるのになぜ?
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2017/6/13

「超売り手市場の狭間で」B(最終)  教育・学校・教師

   〜10年後の世界

「ニューヨークのビルのガラス扉の前で立ち止まったり、真っすぐ歩いて行ってぶつかったりするヤツはトーキョー帰りだ」
というジョークがあるそうです。何しろ東京ではタクシーまで自動ドアですから。
 
 歌手のマドンナは12年ぶりに来日した際、最初に発した言葉が、
「またウォシュレットに会いに来たわ!」
だったとか(他に「暖かいトイレシートが恋しかったわ」とか「暖かいトイレに座ると日本に来たという実感がわく」とかさまざまなバリエーションがあります)。
 また一説に、そのとき大量の温水洗浄便座を購入して帰国し、自宅は言うまでもなくツアーの際は行く先々のホテルやライブ会場、移動に使う航空機の会社に送り付け、自分の使用するトイレについては到着までに便座を取り替えておくよう指示していると言います(とんでもないヨタ話のような気もしますが、なにしろマドンナですからーー)。

 また、少し古い統計ですが2013年の段階で、産業ロボットが普及している国とその稼働数は次のとおりです。(「世界で最もロボットの導入が進んでいる国は日本」 マイナビニュース 2016.03.31 )
  日 本 310,508
  米 国 168,623
  ドイツ 161,988
  韓 国 138,883
  中 国  96,924
  英 国  15,046
  インド  7,840
  ブラジル 7,576
 見ればわかる通り日本はダントツ。第二位であるアメリカの経済規模や人口を考えると、とんでもない数のロボットが活躍している様子が分かります。


【ロボット好きの日本、嫌いな欧米】
 かように日本人は自動機械が好きですが、外国、特に欧米はではさっぱり普及していく様子が見られません。

 もちろん自動ドアについては石造りの古い建物が多いので設置が困難だとか、温水洗浄便座の場合は、欧米は硬水がほとんどなので水の噴射口が詰まりやすいとか、バスと一体のため電源の扱いが難しいとか、便器メーカーがシェアを囲い込んでいるために参入しにくいからだとかいろいろな説明がありますが、結局は“嫌い”だからじゃないかと私は疑っています。
 この件については昔聞いた、
「日本人はロボットと聞くと鉄腕アトムを思い出して親近感を持つのに、欧米人の頭にまず閃くのはフランケンシュタインだ」
という話が一番すんなりと心に落ちるのです。


【恐ろしきアメリカのロボットたち】
 確かに映画ひとつをとっても、欧米にはろくなロボット、AIがありません。

 ターミネーターを筆頭に「スターウォーズ」のバトル・ドロイド、「ブレードランナー」のレプリカント、「エイリアン」のアッシュ、みんな悪い奴です。
 AIでは「2001年宇宙の旅」のHAL2000、「アイロボット」のヴィキ。「マトリックス」の巨大コンピュータ。人類を破滅に導こうとするヤカラばかりです。
 少しマシなのを探しても「ロボコップ」は頭脳が人間、「アイアンマン」は中身がそっくり人間。
 「スターウォーズ」にはC-3POとR2-D2という魅力的なロボットが出てきますが、弱っちくて無害で、味方としては戦力になりません。
 「ウォーリー」は孤独で気立ての良いロボットです。しかしそれは人類がいなくなった無機質な世界での出来事。スピルバーグの「A・I」の主人公も人類のいなくなったあとが幸せな子どもロボットです。
 つまり共生できない。
 本格的に人間の味方というと「トランス・フォーマー」とか「ベイマックス」。しかしどちらも日本由来か日本人が産みの親という設定です。
 日本人が作ったから人間に味方する変わり者で、普通の人間が作るとロボットは悪者になるーーアメリカには本当にいいロボットがいない。


【気持ちを変えました】
 さて、私はこの記事を次のような計画で書き始めました。
@ 日本にはたくさんのロボットや自動機械があるのに欧米には少ない。
A それはどうも日本人のロボット好きと欧米人のロボット嫌いによるものらしい。
B アメリカ映画でロボットやAIの出て来るものを見てもそれはよくわかる。
C 今でもアメリカ人の心の中にあるロボットは、人類に襲いかかるもの、怖ろしいもの――現実社会では“俺たちの雇用を奪う”ものといった役どころなのだろう。
D ところでロボットは味方だという日本人の感じ方と、恐ろしいものエイリアンみたいなものだという欧米人の見方と、どちらが正しいのだろう。
E つい最近まで私はそのことを考えてもみなかった。ロボットやAIを中心とする技術革新は私たちに益すると信じ込んでいたのだ。
F しかしこの10年間をとっても、ロボットやAIにとって替わられた仕事は少なくない。
G このまま現在の人手不足が続けば、人間がやってきた仕事の多くを機械にやってもらわなくてはならなくなる。人手不足が賃金を釣り上げ、機械の方が安上がりという時期になれば、どんどん置き換えられる。
H けれどそれは再び人余りの時代が来た時、人間の戻る職場がなくなっているということなのだ。
I オックスフォード大学が『あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」』を発表してから3年もたっている。
J 予言通りだとすると、そのとき真っ先に仕事を失うのは妻が勤務するような特別支援学校の生徒、そして私が教えてきた大半の生徒がそうであるような、“これといって才能のない普通の子”たちなのだ。
K この先どうなっていくのだろう。

 しかしそんな計画で映画の部分まで書いくうちに、気持ちが変わってしまったのです。
 そうです。『あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」』自体がロボット嫌い・AI嫌いの欧米人の考えたことです。
 前半で引用したマイナビニュースの「世界で最もロボットの導入が進んでいる国は日本」でも、
 2020年までに遺伝学、人工知能、ロボットなどの技術開発によって15の先進国および新興国で200万人分の雇用が産まれるものの、700万人分の雇用が失われるだろう
などと言っていますがそんなことは分からない、どうせ米国Bank of America Merrill Lynchの考えたことですから変なバイアスがかかっているに違いありません。

 この問題、改めて考えてみたいと思います。
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2017/6/12

「仙台 中学生自殺事件」B(最終 )  教育・学校・教師

 〜軽々に判断してはいけない

「仙台 中学生自殺事件」のような「いじめ」がらみの自殺事件があると、学校や教育委員会は大変な非難を受けることになります(不思議なことにこの国では、加害の児童生徒やその保護者が非難されることはありません)。

 特に担任教師は鬼畜のごとく扱われ、現代のことですからあっという間に個人が特定され、ネットに名前が曝されたりします。もちろん彼らに責任がないわけではありません。しかしそうした私刑にあっていいほどには、彼らは悪くないと私は信じています。

 元教員だから身内をかばっているというのではありません。身内云々よりもまず、私は日本人を信じているからです。

 この国は平和で穏やかであって、ここに暮らす人々はみんな親切で優しい。清潔と規律を重んじ、仕事に熱心で誠実で、他人の痛みや苦しみに敏感である、多少シャイで、他人の思惑を必要以上に気にするため、差し出す親切や支援の手が遅れることもあっても、人が苦しんでいる様子を平然と見過ごすことのできない、それが日本人だと思うのです。

 教師ももちろん同じで、この国にあってひとり教職に就く者だけが冷酷で、子どもの苦しみにも鈍感などといったことはないと思うのです。

 ただしそれにもかかわらず、いったい何を考えてこの教師はあんなことをしたのか、理解できなくなる場合もあります。

 今回の「仙台 中学生自殺事件」について言えば、本人や保護者が何度も「いじめ」の訴えをしたのにもかかわらずいちいち両成敗みたいな話にさせられたり放置されたこと、口にガムテープを貼る、頭にゲンコツを食らわすといった弱者に鞭打つ行為が繰り返されたこと、そして「いじめ」の事実が隠されたことなどです。

 そう思ってみると教師の、こんなふうに強者に甘く弱者に過酷な横暴といった話は昔からあって、例えば「葬式ごっこ自殺事件」と呼ばれる件はその典型であり先駆的なものだったと言えます。


【葬式ごっこ自殺事件】
 事件は1986年2月、岩手県の盛岡駅で東京都杉並区の中学2年生S君が自殺したことから発覚しました。自殺現場に落ちていた遺書には「このままだと生きジゴクになっちゃうよ」と書かれてあって、当時「生き地獄」はしばらく流行語のように扱われました。

 事件のあらましについてはWikipediaには次のように書かれていて、簡潔であると同時に事件の一般的な受け止めが分かるのでその部分をそっくり引用します。

 男子生徒は、2年生に進級した後に級友グループから使い走りをやらされるようになった。 生徒は祖母にこのことをもらした。それに対して祖母は使い走りをきっぱり断るように言ったという。やがていじめに遭うようになり、それが徐々にエスカレートし、日常的に暴行を受けるまでになった。さらに、そのいじめグループらの主催によって学校でその男子生徒の「葬式ごっこ」が開かれることとなる。その「葬式ごっこ」には担任教師ら4人が荷担し、寄せ書きを添えていた。荷担の理由として「どっきりだから」といじめていたグループに説明されたから記載したと釈明した。それがきっかけとなり男子生徒は学校を休みがちになり、のちに自殺することになった。

 マスメディアの第一の仕事は弱者の側に立って事実をきちんと報道することです。したがってこの事件も初期においてはS君の立場から報道されることがほとんで、クラス全員から背を向けられ、教師にまで見捨てられた最悪の自殺事件として世に知られました。
 しかしこの、どこにも救いのなさそうな事件ですら、詳細に調べるとさまざまに分かってくることがあるのです。


【加害者の目から】
 例えば使い走りのことにしても、これはいじめグループがS君を釣り上げて、自在に使っていたというような話ではありません。
 自殺した中学校2年生の1年間(正確に言えば自殺した2月1日までの10か月間)の大半を、S君はそのグループの一員として過ごしていたのです。

 一学期にグループが別の生徒をいじめていた時、S君はむしろ「いじめ」の盛り上げ役でした。10月に彼らがバンドグループを結成したときにはリードボーカルとドラムスという花型のパートを任されていますから、その時期でも決して疎んじられていたわけはないでしょう。

 葬式ごっこの行われた11月には、彼らを中心としたクラスの荒れが進んで授業を抜け出す生徒もあとを絶ちませんでした。そこで保護者による廊下での見守り活動が始まるのですが、そんな折、遅刻したS君が肩をそびやかして廊下を歩き、ドアを蹴飛ばして教師に食って掛かる場面が目撃されています。S君は内部でこそ今で言う “いいじられキャラ”でしたが外部に対してはあくまでも強気な、ちょっとした不良グループの正規メンバーだったわけです。

 使い走りの件にしても、彼らはしばしば買い食いをする際に金を出さなかった者が買いに行くのがルールでした。S君は月に2,3千円の小遣いをもらっていましたがすぐに使ってしまい、いつも金のない状態でした。ですからいつの間にか“買い物に行くのはS”ということになってしまっていたのです。別の言い方をすれば金を出さない分、労力で支払っていたのです。
 その関係が急速に崩れていくのは11月下旬以降のことです。

 きっかけはS君が買い物の釣銭を着服したこと、そして親に仲間を売った(と彼らは解釈した)ことです。
 ずっと仲間として扱ってきたのに、釣銭を繰り返しちょろまかしていたことが明らかとなり、親が「ウチの子を悪の道に誘うな」みたいな言い方で自分の家に乗り込んでくる――S君が親に対して自分たちを悪く言っているのは明らかでした。
 どんな場合も“裏切り”は最大の「悪」です。一緒に悪いことをやってきたのに今さら自分だけ“いい子”になろうなんて以ての外です。これだけでも制裁を受けても仕方ないと彼らは考えます。

 その上でさらに決定的な事件が起こります。それはS君がこれまで全く関係のなかった別の生徒たちと「元旦に初日の出を見る会」を勝手に企画・遂行してしまったのです。完全な足抜けです(と彼らは思った)。
 標準的なチンピラグループではボコボコにされて仕方のない完全な裏切り行為です。高校生以上だと、瀕死になるまで殴られてようやく足抜けという手順になります。それが通過儀礼なのです。
 S君はしかし、自死という形でそれを免れた――。


【教師たちは――】
 教師たちは何をしていたのか。

 実は彼らは何もしなかった、何もできなかったのです。
 私はよく、
「“クソババア”には指導はできない」
という言い方をします。
「“クソババア”と呼ばせて平気な関係が日常になると、指導というものは全く入らなくなる」
という意味です。

「クソババア」と言った後には「ありがとうございます」も「ハイ、分かりました」も「すみません」も絶対に入りません。来るのは「ふざけるな!」「うるせぇ!」「ほっとけ!」、そういった拒絶と対抗の言葉だけです。

 S君のクラスは11月に保護者の見守り活動が行われるほどに荒れており、S君ですら教師に噛みつくまでになっています。「葬式ごっこ」が好ましい遊びでないことは当然ですが、すでにクラスの多くが関わっていることを、ひっくり返すには巨大で爆発的なエネルギーが必要なのです。“クソジジ”扱いされている教師にできることではありません。

 修羅場となってもその子たちと本気で対決しなければならない場は他に必ず来る、もっと重要な問題が目の前に置かれる日がきっと来る――そのことを考えたら「葬式ごっこ」くらいでムダにエネルギーは費やしたくない、対決したくない、一刻も早くこの場を逃れたい――。それが追悼の色紙に“記帳”した4人の教師のホンネだったのです。

 子どもたちも、すでに制圧した教師だけを狙ってサインをさせたのであり、未処理の教師には声をかけていません。


【だから許せという訳ではない】
 無理ない事情があったから加害の子どもや教師を許せというのではありません。

 世の中で「ありえないこと」が起こることは普通はありません。ありえないことですから。
「あってはならないこと」も滅多には起こりません。それにもかかわらずそれが起こったとしたら、そこには分析すべき何らかの事情があるのだから心して向かえということです。
「教師がバカだから」とか「保身のためだ」とか言ってる限りは、本質的な原因分析や対応策など生まれようはないのです。

 例えば次の記事みたいに。
 「なぜ教育委員会の対応はいつも不誠実なのか 『いじめはある』を大前提にすべき」(2017.06.06 JB PRESS)



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2017/6/9

「仙台 中学生自殺事件」A  教育・学校・教師

   〜時間軸の問題
 
 学校における「いじめ」が社会問題となってから少なくともすでに30年にはなります。
 この間、子どもたちも学校もたくさんのことを学びました。

 子どもたちは「いじめ」がいかに残酷な仕打ちであるか、重大な人権侵害であって時には友だちを死に追い込むこともあるということ、決してやってはならないことだということ、それらを学習しました。
 学校については、「いじめ」の指導がどれほど重大で喫緊の課題なのか、それに誤るとどういうことになるのか、嫌というほどしっかり学ばされた期間とも言えます。
 しかし自殺を引き起こすような深刻ないじめはなくならなかった――。

 さらに言えば(冷淡な言い方になりますが)学校にとってこの30年間は、「いじめ」を含む指導の在り方や外部対応が定式化した時期とも言えます。
 つまらない部分から言えば、記者会見は午前と午後の二回開き(夕刊と朝刊のそれぞれに合わせるため)必ず3人以上で対応することとか、謝罪は直立してからいったん静止し、上体を45度以上傾けて10秒以上静止することとか――多くは他の業界の謝罪会見から学んだものですが、都道府県あるいは市町村の中にはそういう専門家も次第に現れ始めました。

 そしてそうした定式の中には、(外部の人は驚かれるかもしれませんが)「いじめ」の有無を絶対に隠ぺいしてはならない、のちのちそれがバレると大変なことになる、というのもありました(*)。
 今、問題となっている「仙台 中学生自殺事件」の第一報で、私が強い違和感を持ったのもそのためです。
*これについては苦笑いしたくなるような思い出があるのですが、10年ほど前、当時勤務していた信じられないくらい平和な学校で、「いじめ」の実態などひとつもないのに「ゼロ」と報告することが躊躇われ、しかたないのでどうでもいいようなイジワル事件をようやく3件掘り出して県に報告したことがあります。
 「いじめ」の絡む重大事件のあとの調査で、認知数が突然跳ね上がるのには、こうした事情もあるのかもしれません



【校長の過ち】
 メディアがすでに生徒の訴え(「悪口を言われたり、物を投げられたりした」「冷やかしや無視をされた」)を掴んでいるにも関わらず、学校(この場合は校長)が平然と
 いじめとは捉えておらず、「関係する生徒から事情を聴いて指導し、問題は解消された」と説明
できなたのはなぜか。
 危機管理という点では大変お粗末ですが、おそらく校長は本気で「問題は解消した」と信じていたのです。この段階で当該生徒に関するかなりの情報を掴んでいてその上で「問題はない」と踏んだのです。

 ところがわずか三日後に前言は翻されます。
 4月29日の記者会見で、校長は男子生徒に対する一連の行為を「トラブル」と表現。「トラブルはその都度指導して解消した。いじめには発展していないと判断した」と説明した。
 1日の会見で校長は「事実関係を詳細に把握していない部分もあり、いじめと認定するかどうか迷ったまま(4月29日の)会見に臨んだ。いじめと言うべきだったと反省している」と釈明した。
05/02 河北新報

「危機管理という点では大変お粗末」と言ったのはそのためです。
 いくらたくさん情報を持っていたとしても知らないことはいくらでもあるのです。それに事態は常に動いていますから、今手に入れた情報は次の瞬間には古くなっています。
 学校が昨年6月と11月に実施したいじめに関するアンケートに対し、死亡した生徒は「悪口を言われたり、物を投げられたりした」「冷やかしや無視をされた」と回答していた。
 その件については
「関係する生徒から事情を聴いて指導し、問題は解消された」
かもしれません。しかしそれ以降に起きたことについて、学校はしっかりつかんでいたのか、生徒から事象を聴いて指導し、問題は解消したのか――。
 二回目の会見で校長が前言を翻したのは机の上に「死ね」との文字が書かれていた事実があったためですが、それは昨年二回目のアンケートが行われた翌月のことです。もしかしたらそれは学校がつかみそこねた事実だったのかもしれません。


【「いじめ」における時間の問題】
「いじめ」に限らず学校問題に関する考察や分析において、しばしば見落とされるのは時間の問題です。
 例えば、
「A児は半年に渡って『いじめ』により3人の児童から10万円を脅し取られた。しかしいじめた児童たちは『おごってもらっただけ』と言って『いじめ』を認めようとしていない」
といえばかなりあくどい事件に見えます。街のチンピラがめぼしい人間を見つけて半年もの間恐喝をし続けた挙句に白を切っているといった印象です。
 しかしその間には別の物語があったのかもしれません。

 私の経験した中学一年生の男の子の場合は、最初から被害者の方が金を見せびらかしていました。見せびらかした上で菓子やらゲームやらを奢り、相当にいい気分になったのです。
 もちろんいきなり札びらを切って見せたわけではありません。一緒に街で遊び始めたころは互いに金を出し合っていたのです。ところが彼だけがいつも一けた多い。そこでずるずるといつの間にか金を払う金庫番になってしまったのです。

 やがて彼の蓄えは枯渇します。母親の財布からくすねる小銭でも追いつきません。それにもかかわらず仲間たちはしつこく誘い、街に出れば金を出さざるを得ません。
 彼は切羽詰まって父親の財布から千円二千円とくすね始めます。そしてついに一万円札にまで手を出し始めるのです。
 最終の段階では、彼はもう怯えきっていました。金を出さなければ仲間ではいられないかもしれません。もう出さないと言ったら何をされるか分からない、そうも思いました。彼は祈るような気持ちで、そのたびごとに父親の財布から一万円を抜き取るという危険を冒し続けたのです。

 この場合、最後の部分だけを切り取ると、彼が仲間に怯えながら金を出し続けたのも、遊び仲間が「ただ奢ってもらっただけ」というのも事実です。

 あるいは、
 6年生のクラスの女の子の中に、かなり指導しにくい8人ほどのグループがありました。その頂点に立つ子はわがままでキツく、仲間の鼻づらを取っては引き回すような子です。
 グループ内部ではしょっちゅう仲間はずれがあり、しばらく干されたかと思うと突然引き戻されなど、飴と鞭によって常に緊張感が漂い結束が図られていました。
 ところがそんな状況が(5年生のときから)1年半近く続いたあと、ある日突然のクーデターがあって、頂点が追い落とされたのです。その上で放逐された。
 追い落とした側からすれば「もう我慢がならなかった」ということです。

 ほどなく頂点だった子は学校に来るのをやめてしまいます。
 彼女の言い分はこうです。
「仲間外れにされている」――もちろんその通りです。
「クラスの他のみんなも冷い」――8人の仲間以外の女子はずっと見下されていましたから、冷たくしているわけではないのですが、いまさらどう付き合ったらいいのか分からなかったのです。もちろん男子は最初から蚊帳の外です。
「昔のようにみんなと仲良くしたい」――原状回復なんてとんでもないと他の子たちは思っています。

――この事件の結末はあっけなくも残酷なものでした。
 担任や学年職員の指導に応じて、追い落とした側から手を差し伸べ互いに握手した上で元のさやに納まったのです。彼女は再びクラスの女子グループの頂点に立ち、以前に増して過酷に仲間を引きずり始めました。

 この事件も真ん中の部分だけを切り取れば「ひとりがクラス全員に背を向けられた」残酷な「いじめ」事件です。


【仙台の場合】
 昨日も引用しましたが、5月初めに行われたアンケートや調査の結果は次のようなものでした。
 この生徒が机に『死ね』と書かれたり、ほおを叩かれたりするなどのいじめを受けていたことが明らかになったほか、(中略)この男子生徒が「臭い」「こっちに来るな」などと毎日のように悪口を言われていたことや、「菌扱い」されていたり、消しゴムのかすを髪の毛に乗せられたりするなどのいじめを受けていたことが新たにわかりました。(略)こうしたいじめに対して男子生徒が言い返すこともなく、トイレの前で1人で座っていた姿を目撃したという生徒もいました。また、自殺した当日、男子生徒が「朝は顔色が悪くてフラフラしていた」ことも報告されました。
06/06 NHK

 これを読めば、やはりこんな残酷な状況を放置した学校は糾弾されるべきだと思います。
 さらに(他の人は言いませんが)、そんな状況があるにもかかわらず、自分では何もせず、大人社会に通報することもしないで放置し、今頃になって訴えて来る他の生徒たちも卑怯者です。
 学校全体が狂っていたとしか思えません。
――といったことになりそうですがそうではないでしょう。

 「男子生徒は私の授業を楽しみにしていた、と他の生徒が話していた」
 これは今年2月に男子生徒の口にガムテープを貼り現在は無期限の自宅待機となっている女性教員の言葉です(05/26 河北新報)。

 「一方的ではなく、互いに(悪口を)言い合っていたので、双方を指導して解消した」
 こちらは4月29日、最初の取材に答えた校長の言葉です(05/08 弁護士ドットコム

 私はどれも間違っていないと思うのです。
 ある時期それは正しかった。

 生徒は国語の教科担任がけっこう好きで、そこで羽目を外しすぎて注意され、「もー頭にきた、そんなにおしゃべりならガムテープ貼っちゃうからね」とか言われて、本当に貼られてしまった。それでよかった。
 またあるとき、友だちに悪口を言われて腹が立ち、こちらもがんがん言っていたら喧嘩状態になって担任に呼び出されてしどうを受けた。それでよかった。そういう時期もあった。
 しかしそれとはまったく違った事実もあったーーそういうことではないかと思うのです。

 アンケートに書かれたことや取材から分かってきたことをいちどきに書くととんでもなく残酷な風景も浮かんできますが、現実にあったことはもっと複雑でさまざまで、良い日もあれば悪い日もあった、目に見えるものも見えないものもあった、本人にしか分からないことも本人ですら分からないこともあった――時間軸に添って実際に起こったことを並べ、それぞれの時におのおのが何を見、何を感じて何をしたのか、丁寧に紐解かないと分かるべきことは分からないのです。

 私の申し上げたことはもちろん仮説のひとつですから、実際には報道の印象の通り、彼はまったくのひとりぼっち、孤立無援で学校中の教師から見捨てられ体罰を与えられ、友だちからも完全に見捨てられてひとりで死んでいたのかもしれません。それだって可能性のひとつです。

 しかし可能性だけでいうなら、もっと様々に考えられることがあります。それは古典的とも言える過去の「いじめ=自殺」事件の教えてくれるところです。

                              (この稿、続く)
 
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