2017/5/25
「車が突然、目の前に降ってきた」 知識
〜あれほど言ったのに自分がコリジョン・コース現象にはまる
常々「注意しましょう」と申し上げているにもかかわらず、畑のど真ん中の丁字路で車にぶつかりそうになりました。
後部座席左に座っていた89歳の母が
「止まって! 止まって! 止まって!」
と叫んだので慌ててブレーキを踏んだのと、相手の車の運転者(女性)の停止も間に合ったので事故にはなりませんでしたが間一髪のところでした。
母は「見えなかった?」と聞き私は「見えなかった」と答えましたが、本当に見えなかった、天から車が降ってきたか、地から湧き出てきたか、いずれにしろ突然目の前に降って湧いて出てきたのです。
何が起きたのか。
【そのとき何が起こったか】
幸い私の車には車載カメラが乗っていたので、家に帰ってから改めて確認してみました。
@ この時点では相手の車は見えていません。
風景としては右に野球場のフェンスがあったりその先にアパート群があったり、また、私は突き当りで右折するつもりでしたので、その点でも気持ちが右方向に重くかかっていたのかもしれません。
実はその時、対象の車は左の農業用ハウスの陰にいたのです。
A ハウスの陰から車が出てきました。

B 1秒後、車はフロントガラスのほぼ同じ位置にいます。
C さらに1秒後、車はむしろ左に下がります。
D 車はフロントガラスの中で、さらに下がります。正面に一旦停止の標識があり、路面にも書いてあるのに、おそらく私は右方向に気を取られています。左には何の問題もないと思っているのです。
E 車はさらに左に移動してピラーに近づきます。ただしもちろん近づいた分、車体は大きく見えるようになっています。
F もうぶつかる直前ですが、私は気づきません。
G 急ブレーキ!!
センターラインを越えないところで停止しましたのでどっちみちぶつからなかったと思いますが、危機一髪でした。
【コリジョン・コース現象】
このように、同じ交差点に直角方向のから、ほぼ同じ速度入ってくる車があると、それを見失ってしまう現象をコリジョン・コース現象というのだそうです。
人間の目は“動いているものには反応しやすいが止まっているものは見落としやすい”という性質があり、上記の条件下では、一連の写真で見た通り、フロントガラスの中で車が止まってしまい見落としがちになるのです。
これについては7年前に(2010/8/30)「コリジョン・コース現象」というタイトルで紹介し、つい先ごろ新しい知識とともに改めて記事にしました(2017/3/14)「激突!!」。
そして田舎道を走ることの多い私としては十分注意してきたはずのことです。
今回それにもかかわらず事故直前までいってしまったのは、ひとつにはコリジョン・コース現象は十字路で起こるという思い込みがあって丁字路についてはまったく考えていなかったため。もうひとつは母の用事に付き合って慣れない道を通っていたいたことなどがあげられます。
しかし実は、もうひとつ大きな要素があったのかもしれません。
家に帰ったあと、母からこんな話があったのです。
「あの丁字路ね、私も昔そっくり同じ感じで飛び込んじゃって、車をぶつけちゃったことがあるのよ。それで運転をやめる気になったったんだけど、その時も軽トラが突然横に出てきた――」
親子二代が30年近い年月を経て、同じ場所で同じようなことをやっていたのです。
それは因縁などではなく、あの場所が特に事故を起こしやすい交差点だという証明なのかもしれません。そう言えば畑のど真ん中に一時停止の標識というのも贅沢です。コリジョン・コース現象を起こしやすい魔の丁字路なのかもしれませんね。
皆さまもお気を付けください。
*このあと、フロントガラスの左隅を気にしながら運転してみたのですが、通常その部分はほとんど見えていないことに気づきました。火の手が上がるとか強いフラッシュ光があるといった特別なことのない限り、そこに意識が向かうことはないように思われます。
やはり見晴らしがよく退屈な道でこそ、意図的にあちこち見ながら運転しなければならないということなのかもしれません。
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常々「注意しましょう」と申し上げているにもかかわらず、畑のど真ん中の丁字路で車にぶつかりそうになりました。
後部座席左に座っていた89歳の母が
「止まって! 止まって! 止まって!」
と叫んだので慌ててブレーキを踏んだのと、相手の車の運転者(女性)の停止も間に合ったので事故にはなりませんでしたが間一髪のところでした。
母は「見えなかった?」と聞き私は「見えなかった」と答えましたが、本当に見えなかった、天から車が降ってきたか、地から湧き出てきたか、いずれにしろ突然目の前に降って湧いて出てきたのです。
何が起きたのか。
【そのとき何が起こったか】
幸い私の車には車載カメラが乗っていたので、家に帰ってから改めて確認してみました。
@ この時点では相手の車は見えていません。
風景としては右に野球場のフェンスがあったりその先にアパート群があったり、また、私は突き当りで右折するつもりでしたので、その点でも気持ちが右方向に重くかかっていたのかもしれません。
実はその時、対象の車は左の農業用ハウスの陰にいたのです。

A ハウスの陰から車が出てきました。

B 1秒後、車はフロントガラスのほぼ同じ位置にいます。

C さらに1秒後、車はむしろ左に下がります。

D 車はフロントガラスの中で、さらに下がります。正面に一旦停止の標識があり、路面にも書いてあるのに、おそらく私は右方向に気を取られています。左には何の問題もないと思っているのです。

E 車はさらに左に移動してピラーに近づきます。ただしもちろん近づいた分、車体は大きく見えるようになっています。

F もうぶつかる直前ですが、私は気づきません。

G 急ブレーキ!!

センターラインを越えないところで停止しましたのでどっちみちぶつからなかったと思いますが、危機一髪でした。
【コリジョン・コース現象】
このように、同じ交差点に直角方向のから、ほぼ同じ速度入ってくる車があると、それを見失ってしまう現象をコリジョン・コース現象というのだそうです。
人間の目は“動いているものには反応しやすいが止まっているものは見落としやすい”という性質があり、上記の条件下では、一連の写真で見た通り、フロントガラスの中で車が止まってしまい見落としがちになるのです。
これについては7年前に(2010/8/30)「コリジョン・コース現象」というタイトルで紹介し、つい先ごろ新しい知識とともに改めて記事にしました(2017/3/14)「激突!!」。
そして田舎道を走ることの多い私としては十分注意してきたはずのことです。
今回それにもかかわらず事故直前までいってしまったのは、ひとつにはコリジョン・コース現象は十字路で起こるという思い込みがあって丁字路についてはまったく考えていなかったため。もうひとつは母の用事に付き合って慣れない道を通っていたいたことなどがあげられます。
しかし実は、もうひとつ大きな要素があったのかもしれません。
家に帰ったあと、母からこんな話があったのです。
「あの丁字路ね、私も昔そっくり同じ感じで飛び込んじゃって、車をぶつけちゃったことがあるのよ。それで運転をやめる気になったったんだけど、その時も軽トラが突然横に出てきた――」
親子二代が30年近い年月を経て、同じ場所で同じようなことをやっていたのです。
それは因縁などではなく、あの場所が特に事故を起こしやすい交差点だという証明なのかもしれません。そう言えば畑のど真ん中に一時停止の標識というのも贅沢です。コリジョン・コース現象を起こしやすい魔の丁字路なのかもしれませんね。
皆さまもお気を付けください。
*このあと、フロントガラスの左隅を気にしながら運転してみたのですが、通常その部分はほとんど見えていないことに気づきました。火の手が上がるとか強いフラッシュ光があるといった特別なことのない限り、そこに意識が向かうことはないように思われます。
やはり見晴らしがよく退屈な道でこそ、意図的にあちこち見ながら運転しなければならないということなのかもしれません。

2017/5/24
「発達障害に関わる用語の問題」 知識
〜発達障害に関わる用語が定まらない件について
昨日お話ししたNHK「発達障害〜解明される未知の世界」の中で、発達障害の説明として「ASD(自閉スペクトラム症)」「ADHD(注意欠陥・多動症)」「LD(学習障害)」と分類して下のように重なり部分も含めて図で示していました。

その中で問題になるのは「ASD(自閉スペクトラム症)」の部分です。ここの表記が安定しません。
もちろんADHDも「注意欠陥多動性障害」「注意欠陥多動症候群」「注意欠陥多動症」等表記の振れはあるものの根幹の「注意欠陥多動」は変わりありません。LDについては「学習障害」以外の表現はないと思います。
ところが図のASDの部分については、これが今回のように「自閉スペクトラム症」だったり「自閉症スペクトラム」だったり、「自閉症スペクトラム症候群」だったり「高機能自閉」だったり、そもそも図のその位置にあるのがASDではなく「AS(アスペルガー症候群)」だったり「PDD(広汎性発達障害)」だったりと、まったく落ち着かないのです。
日曜日の放送でも、スタジオでは「自閉スペクトラム症」としているのに読者からの投書では「私は二十歳の時に広汎性発達障害と診断されました」といった形で出され、しかも何の説明もなく何の抵抗もないまま、ふたつは同じものとして通り過ぎてしまう――。
司会の有働アナウンサーはこの問題で何度も番組をやっているので相当に詳しく、だから抵抗なく話を進め、ファックスを送った広汎性発達障害の当事者も本質的にこの問題のプロですからすんなりと通過してしまう。しかし初めて接する人たち、あるいは学習をしはじめたばかり人たちにとって、「自閉スペクトラム症」と「広汎性発達障害」が同じものとして語られるのは相当に抵抗ないしは混乱があるのではないでしょうか。少々心配になります。
と言うのはかくいう私が、二十年ほど前にこれらの用語の分からず、無駄に時間を費やした経験があるからです。当時はこれに重ねて「高次高機能広汎性障害」だとか「微細脳障害」だとかいうのもあってほんとうに大変だったのです。
そもそも「自閉症」というのからして分かりません。
【「自閉症」はなぜ「自閉」なのだろう】
「自閉症」という言葉を、私はおそらく高校生のころに聞き知ったと思います。そのころ芥川賞をとった古井由吉の「杳子(ようこ)」という小説の主人公が「自閉症的」と表現されたからです。
のちに読み直すと、それはまさにアスペルガー症的で魅力的な少女なのですが、覚えたての「自閉症」という言葉はなぜかすぐに魅力的な主人公から離れ、うつ病的なものとして私の中に定着してしまったのです。なにしろ「自閉」ですから。
“自らに閉じこもってしまうような病気”という印象が勝ってしまうのです。
教員になって初めて会った自閉症の子がギャーギャーと騒いでばかりいる子で、とても内に籠るタイプでなく、そこで改めて「自閉症」についてしっかりと勉強し直して理解したものの、“内に籠る”という印象を変えるのはなかなか時間のかかる作業でした。
Wikipediaなんかを読むと、最初にこの障害の研究をはじめたレオ・カナーが、
「聡明な容貌・常同行動・高い記憶力・機械操作の愛好」などを特徴とする一群の幼児に対し、統合失調症(精神分裂病)の一症状を表す用語である「自閉」という言葉を用い、「自閉症」(オーティズム)と名づけた」
ということですが、「オーティズム: “autism”」の頭の部分“aut(o)”は『「みずから,自己,自動(的)」の意の結合辞』だそうで、おそらくautarchy(絶対主権・専制政治・自治)とかautomatic(自動・自動式の・機械的な・無意識的な)と繋がるものです。
つまり完全に独立して周囲の影響から免れているといった共通性を持っているのです。
これに「自閉症」という語を当てた人は、やはり特殊な印象に縛られていたのでしょう。
大雑把に言って二つに一つなら、自閉症の人たちから多く感じるのは、内に籠る暗さよりも独立覇気といった一種の気高さです。「自閉」にはやはり無理があります。しかしだからと言って「孤高症」といった新たな名前をつけても、それでしっくりするような気もしないのですが。
【では、とりあえずどうしたらいいのか】
私が正式に「アスペルガー症候群」と診断された子どもと出会ってから20年になります。その間ずっと自閉症に関わる用語は統一されずに来ました。それはこの分野の研究があまりにも若いからです。
自閉症研究の創始者であるカナーとアスペルガーはともに1940年前後に主たる著書を出した人ですが、アスペルガーが再評価されてカナー型の自閉症と同じ脈絡で注目されたのはわずかここ30年余りのことです。つまり歴史の浅さのために、研究者の判断や分類がまだ定まっていないのです。
まったくド素人の私でさえも、右から左に色合いを変える印象の「自閉スペクトラム」より、東西だけでなく南北方向にも多様性があるという印象の「自閉圏」という言い方を好みます。私を含めて、そうしたこだわりを持つ人がいなくなるまで、用語の問題は解決しないでしょう。
しかたがないので近接の言葉はすべて覚え、何が出てきても対応できるようにしておくしかないのかもしれません。
なお、
NHKスペシャル 発達障害 解明される未知の世界 5月21日
の動画がYoutubeにありましたのでリンクを張っておきます。興味のある方は、見てみてください。
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昨日お話ししたNHK「発達障害〜解明される未知の世界」の中で、発達障害の説明として「ASD(自閉スペクトラム症)」「ADHD(注意欠陥・多動症)」「LD(学習障害)」と分類して下のように重なり部分も含めて図で示していました。

その中で問題になるのは「ASD(自閉スペクトラム症)」の部分です。ここの表記が安定しません。
もちろんADHDも「注意欠陥多動性障害」「注意欠陥多動症候群」「注意欠陥多動症」等表記の振れはあるものの根幹の「注意欠陥多動」は変わりありません。LDについては「学習障害」以外の表現はないと思います。
ところが図のASDの部分については、これが今回のように「自閉スペクトラム症」だったり「自閉症スペクトラム」だったり、「自閉症スペクトラム症候群」だったり「高機能自閉」だったり、そもそも図のその位置にあるのがASDではなく「AS(アスペルガー症候群)」だったり「PDD(広汎性発達障害)」だったりと、まったく落ち着かないのです。
日曜日の放送でも、スタジオでは「自閉スペクトラム症」としているのに読者からの投書では「私は二十歳の時に広汎性発達障害と診断されました」といった形で出され、しかも何の説明もなく何の抵抗もないまま、ふたつは同じものとして通り過ぎてしまう――。
司会の有働アナウンサーはこの問題で何度も番組をやっているので相当に詳しく、だから抵抗なく話を進め、ファックスを送った広汎性発達障害の当事者も本質的にこの問題のプロですからすんなりと通過してしまう。しかし初めて接する人たち、あるいは学習をしはじめたばかり人たちにとって、「自閉スペクトラム症」と「広汎性発達障害」が同じものとして語られるのは相当に抵抗ないしは混乱があるのではないでしょうか。少々心配になります。
と言うのはかくいう私が、二十年ほど前にこれらの用語の分からず、無駄に時間を費やした経験があるからです。当時はこれに重ねて「高次高機能広汎性障害」だとか「微細脳障害」だとかいうのもあってほんとうに大変だったのです。
そもそも「自閉症」というのからして分かりません。
【「自閉症」はなぜ「自閉」なのだろう】
「自閉症」という言葉を、私はおそらく高校生のころに聞き知ったと思います。そのころ芥川賞をとった古井由吉の「杳子(ようこ)」という小説の主人公が「自閉症的」と表現されたからです。
のちに読み直すと、それはまさにアスペルガー症的で魅力的な少女なのですが、覚えたての「自閉症」という言葉はなぜかすぐに魅力的な主人公から離れ、うつ病的なものとして私の中に定着してしまったのです。なにしろ「自閉」ですから。
“自らに閉じこもってしまうような病気”という印象が勝ってしまうのです。
教員になって初めて会った自閉症の子がギャーギャーと騒いでばかりいる子で、とても内に籠るタイプでなく、そこで改めて「自閉症」についてしっかりと勉強し直して理解したものの、“内に籠る”という印象を変えるのはなかなか時間のかかる作業でした。
Wikipediaなんかを読むと、最初にこの障害の研究をはじめたレオ・カナーが、
「聡明な容貌・常同行動・高い記憶力・機械操作の愛好」などを特徴とする一群の幼児に対し、統合失調症(精神分裂病)の一症状を表す用語である「自閉」という言葉を用い、「自閉症」(オーティズム)と名づけた」
ということですが、「オーティズム: “autism”」の頭の部分“aut(o)”は『「みずから,自己,自動(的)」の意の結合辞』だそうで、おそらくautarchy(絶対主権・専制政治・自治)とかautomatic(自動・自動式の・機械的な・無意識的な)と繋がるものです。
つまり完全に独立して周囲の影響から免れているといった共通性を持っているのです。
これに「自閉症」という語を当てた人は、やはり特殊な印象に縛られていたのでしょう。
大雑把に言って二つに一つなら、自閉症の人たちから多く感じるのは、内に籠る暗さよりも独立覇気といった一種の気高さです。「自閉」にはやはり無理があります。しかしだからと言って「孤高症」といった新たな名前をつけても、それでしっくりするような気もしないのですが。
【では、とりあえずどうしたらいいのか】
私が正式に「アスペルガー症候群」と診断された子どもと出会ってから20年になります。その間ずっと自閉症に関わる用語は統一されずに来ました。それはこの分野の研究があまりにも若いからです。
自閉症研究の創始者であるカナーとアスペルガーはともに1940年前後に主たる著書を出した人ですが、アスペルガーが再評価されてカナー型の自閉症と同じ脈絡で注目されたのはわずかここ30年余りのことです。つまり歴史の浅さのために、研究者の判断や分類がまだ定まっていないのです。
まったくド素人の私でさえも、右から左に色合いを変える印象の「自閉スペクトラム」より、東西だけでなく南北方向にも多様性があるという印象の「自閉圏」という言い方を好みます。私を含めて、そうしたこだわりを持つ人がいなくなるまで、用語の問題は解決しないでしょう。
しかたがないので近接の言葉はすべて覚え、何が出てきても対応できるようにしておくしかないのかもしれません。
なお、
NHKスペシャル 発達障害 解明される未知の世界 5月21日
の動画がYoutubeにありましたのでリンクを張っておきます。興味のある方は、見てみてください。

2017/5/23
「発達障害を理解することの難しさ」 教育・学校・教師
〜NHK「発達障害〜解明される未知の世界」を見て
21日(日)夜9時から放送された「発達障害〜解明される未知の世界」は私たちがよくかかわりあう子どもたちの世界を、目に見える形にしたという点でとても意味ある番組でした。
具体的に言えばADHDの子どもが教室でボンヤリ過ごす様子をアニメで追った部分と、自閉症スペクトラムの人たちが多く持つ感覚過敏を映像化した点で、とても分かりやすいものだったのです。
【授業に集中できない子】
前者について言うと、主人公の少女は教室内で突然壁に貼られたポスターに気づき、
「あ、新しいポスターだ」
と心を奪われます。文字を読み、内容を吟味し、ああこれいいなあと思っているうちにハッと我に返って黒板を見ます。困ったことに授業はずっと先に進んでしまっているのです。
そこからよく分からないなりに授業に集中するように努めるのですが、見ると目の前の同級生の髪についているシュシュがとても可愛くて、「ああ、本当に可愛いな」と思っているうちにまた授業から離れてしまう。そして最後は先生に、何度も何度も声をかけられてやっと気づき周囲から笑われる、というストーリーです。
ああそんな子は確かにいるなと思ったり、そう言えば小学校の頃の私もそんな感じだったかもしれないと思ったり――とにかくちてもよくわかる話でした。
同じアニメを繰り返し見れば、教師として対処すべきこともたくさん見つかるかもしれません。
【感覚過敏の世界】
視覚過敏については今回初めて、子どもたちの言う「光が目に痛い」が実際の映像として見ることができました。
昼の街の風景は露出オーバーの写真が全体として輝いているといった印象です。太陽のように直視できない強さではなく、蛍光灯の光が直接当たってバックライトのように風景の後ろに存在する言えばそれに近いかもしれません。
「キラキラと輝くものが無数にある」という感じも映像にしてみると辛さが分かります。
私にとっての一番の収穫は、聴覚過敏の人が聞き取る世界を、実際の音として感じとることができた点です。
ひとつはスーパーマーケットのしんどさ。
人の声やもののぶつかる音といった“聞こえて当然の音”以外に、冷蔵庫の唸る音、蛍光灯の発する微細な音など、専門のマイクが近づいて初めて採集できるような音が、人の声と同じレベルで耳にはいってくるのです。たしかにこれでは街にいるだけで大変です。
聴覚過敏の人が聞き取るスーパーマーケットの騒音は、そうでない人がパチンコ屋で聞き取る音のレベルよりさらに大きいと番組では紹介していました。
もうひとつは人の話を聞き聞き取るしんどさです。
再現されたのは喫茶店内で雑談する場面ですが、最初はまずアナウンサーが普通の状況でこちらに向かってしゃべります。指向性のあるマイクで拾った音声ですので何を言っているのかよく分かります。
現実の世界で、私たちは単一指向性マイクの代わりにいわゆる「カクテル・パーティー効果」(騒がしいパーティー会場でも、必要な言葉を抜き出して聞き取ることのできること)を使って選択的に声を聞き取りますから、やはり何を言っているのかはっきり分かるのですが、聴覚過敏の人たちにはそれが難しい――。番組では女性アナウンサーの声のレベルを極端に下げ、周囲の音に紛れるくらいにまでしてその様子を表現しました。
確かにこれだと、内容を吟味する前に声を聞き取るだけでエネルギーを使い果たしてしまいそうです。
【発達障害の人々を受け入れる困難】
番組後半ではそういう発達障害の特性を理解し、受け入れることの大切さを訴えていました。しかしそれもなかなか難しいことのように思いました。
ゲストとして出ていた栗原類さんのようにカミング・アウトしてしまった人ならいいのです。私たちはワンクッション置いて、その人たちと接することができます。
しかしそうではない人――発達障害を怪しむより高慢や身勝手やわがままを疑いたくなるような人々の不思議な態度・行動に対して、どこまで受容的であっていいのか、よく分からないのです。
急に思い出したのですが、例えば、
「昨日メール送ったけど、見てくれた?(返信もないので対応をしてくれたのかどうか心配なんだけど)」
と尋ねたときに返ってきたひとこと。
「見てない」
私はそれを“この人、どうやら虫の居所が悪そうだな。でも確認しないと困ることなんだけどどうしよう”と困惑していたりします。しかしそれが虫の居所の問題ではなく、「見た?」と聞かれたから「見てない」と返しただけの自閉的な反応だったとしたら気を遣う必要もありません。「じゃあ、こうしてね」とメールの内容を口頭で伝え直せばいいだけです。しかしそれが発達障害的なものではなく、単なる不機嫌だったらそういう言い方は火に油を注ぐようなものです。
あるいは職場で比較的仲の良い相手なのに、話しかけるとほぼ8割以上の確率で別な話をする人がいたります。
「あの、昨日の話なんだけどさ」
「今日のお昼何を食べに行く?」
もしかしたらそれは相手を察知しながら声をかけられたことに気づいていない、全く聞こえていない人なのかもしれません。しかし一般的に「この人聴覚過敏かもしれない」と思うより、「コイツ、人の話、全然聞いてないじゃん(無視しとる)」と腹を立てるのが普通でしょう。
あるいは“お前の話は聞く気はない。話しかけていいのは俺様の方だ”といった偉そうなヤツだった、といったこともないわけではありません。
相手が何らかの障害者だと分かっていればいくらでも対処できる、しかしそれが明らかでない場合、私たちはどう対処するのが正しいのか、私にとってはかなり厄介な問題です。
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21日(日)夜9時から放送された「発達障害〜解明される未知の世界」は私たちがよくかかわりあう子どもたちの世界を、目に見える形にしたという点でとても意味ある番組でした。
具体的に言えばADHDの子どもが教室でボンヤリ過ごす様子をアニメで追った部分と、自閉症スペクトラムの人たちが多く持つ感覚過敏を映像化した点で、とても分かりやすいものだったのです。
【授業に集中できない子】
前者について言うと、主人公の少女は教室内で突然壁に貼られたポスターに気づき、
「あ、新しいポスターだ」
と心を奪われます。文字を読み、内容を吟味し、ああこれいいなあと思っているうちにハッと我に返って黒板を見ます。困ったことに授業はずっと先に進んでしまっているのです。
そこからよく分からないなりに授業に集中するように努めるのですが、見ると目の前の同級生の髪についているシュシュがとても可愛くて、「ああ、本当に可愛いな」と思っているうちにまた授業から離れてしまう。そして最後は先生に、何度も何度も声をかけられてやっと気づき周囲から笑われる、というストーリーです。
ああそんな子は確かにいるなと思ったり、そう言えば小学校の頃の私もそんな感じだったかもしれないと思ったり――とにかくちてもよくわかる話でした。
同じアニメを繰り返し見れば、教師として対処すべきこともたくさん見つかるかもしれません。
【感覚過敏の世界】
視覚過敏については今回初めて、子どもたちの言う「光が目に痛い」が実際の映像として見ることができました。
昼の街の風景は露出オーバーの写真が全体として輝いているといった印象です。太陽のように直視できない強さではなく、蛍光灯の光が直接当たってバックライトのように風景の後ろに存在する言えばそれに近いかもしれません。
「キラキラと輝くものが無数にある」という感じも映像にしてみると辛さが分かります。
私にとっての一番の収穫は、聴覚過敏の人が聞き取る世界を、実際の音として感じとることができた点です。
ひとつはスーパーマーケットのしんどさ。
人の声やもののぶつかる音といった“聞こえて当然の音”以外に、冷蔵庫の唸る音、蛍光灯の発する微細な音など、専門のマイクが近づいて初めて採集できるような音が、人の声と同じレベルで耳にはいってくるのです。たしかにこれでは街にいるだけで大変です。
聴覚過敏の人が聞き取るスーパーマーケットの騒音は、そうでない人がパチンコ屋で聞き取る音のレベルよりさらに大きいと番組では紹介していました。
もうひとつは人の話を聞き聞き取るしんどさです。
再現されたのは喫茶店内で雑談する場面ですが、最初はまずアナウンサーが普通の状況でこちらに向かってしゃべります。指向性のあるマイクで拾った音声ですので何を言っているのかよく分かります。
現実の世界で、私たちは単一指向性マイクの代わりにいわゆる「カクテル・パーティー効果」(騒がしいパーティー会場でも、必要な言葉を抜き出して聞き取ることのできること)を使って選択的に声を聞き取りますから、やはり何を言っているのかはっきり分かるのですが、聴覚過敏の人たちにはそれが難しい――。番組では女性アナウンサーの声のレベルを極端に下げ、周囲の音に紛れるくらいにまでしてその様子を表現しました。
確かにこれだと、内容を吟味する前に声を聞き取るだけでエネルギーを使い果たしてしまいそうです。
【発達障害の人々を受け入れる困難】
番組後半ではそういう発達障害の特性を理解し、受け入れることの大切さを訴えていました。しかしそれもなかなか難しいことのように思いました。
ゲストとして出ていた栗原類さんのようにカミング・アウトしてしまった人ならいいのです。私たちはワンクッション置いて、その人たちと接することができます。
しかしそうではない人――発達障害を怪しむより高慢や身勝手やわがままを疑いたくなるような人々の不思議な態度・行動に対して、どこまで受容的であっていいのか、よく分からないのです。
急に思い出したのですが、例えば、
「昨日メール送ったけど、見てくれた?(返信もないので対応をしてくれたのかどうか心配なんだけど)」
と尋ねたときに返ってきたひとこと。
「見てない」
私はそれを“この人、どうやら虫の居所が悪そうだな。でも確認しないと困ることなんだけどどうしよう”と困惑していたりします。しかしそれが虫の居所の問題ではなく、「見た?」と聞かれたから「見てない」と返しただけの自閉的な反応だったとしたら気を遣う必要もありません。「じゃあ、こうしてね」とメールの内容を口頭で伝え直せばいいだけです。しかしそれが発達障害的なものではなく、単なる不機嫌だったらそういう言い方は火に油を注ぐようなものです。
あるいは職場で比較的仲の良い相手なのに、話しかけるとほぼ8割以上の確率で別な話をする人がいたります。
「あの、昨日の話なんだけどさ」
「今日のお昼何を食べに行く?」
もしかしたらそれは相手を察知しながら声をかけられたことに気づいていない、全く聞こえていない人なのかもしれません。しかし一般的に「この人聴覚過敏かもしれない」と思うより、「コイツ、人の話、全然聞いてないじゃん(無視しとる)」と腹を立てるのが普通でしょう。
あるいは“お前の話は聞く気はない。話しかけていいのは俺様の方だ”といった偉そうなヤツだった、といったこともないわけではありません。
相手が何らかの障害者だと分かっていればいくらでも対処できる、しかしそれが明らかでない場合、私たちはどう対処するのが正しいのか、私にとってはかなり厄介な問題です。

2017/5/22
「誰が子どもの歯をボロボロにしたのか」 教育・学校・教師
〜虫歯治療のジレンマ
まだ教員になりたての頃、研究授業で訊ねた田舎の中学校の教室で、後ろの掲示板に「うしの数」という模造紙に書いた汚いグラフが貼ってあったことがありました。
さすが山の学校、牛の数が話題になるのかと思いながら、中学校なのになぜ「牛」がひらがななのか、そもそも家で飼っている牛の数をグラフにすることに何の意味があるのか(まさかどこかの新興国のように牛の数が“富”を表していて自慢しているわけでもないだろう)と、首を傾げたものです。
「うし」は「齲歯」、つまり虫歯のことで、グラフは治療を急ぐよう促すためのものだったと知ったのは、ずいぶんのちのことでした。
昔の教室はこうしたグラフがいくつも貼ってありました。
「忘れ物グラフ」「宿題ノート未提出グラフ」「漢字テスト総得点グラフ」「マラソン・グラフ」・・・。
私は忘れ物や未提出で棒を伸ばし、漢字テストやマラソンでは逆に短いチャンピオングループの一員でしたのでよく覚えています。
現在はどこの学校のどの教室へ行ってもそうした表やグラフは見かけません。個人の能力差を明らかにしたリ辱めたりする掲示は、人権を考える上で問題があるとして遠ざけられているからです。
しかしそれで困ることもあります。
【虫歯だらけの世代】
私の両親は若いころ虫歯というものがほとんどなく、年齢を経てから爆発的に数を増やして最後は口の中が崩壊状態になった人たちです(母は生きていますが)。
若いころは甘いものをほとんど食べることができず、だからこそ歯磨き習慣はなく、長じて生活が豊かになり甘いものを食べるようになっても歯磨きなどしなかったためにそうなったのです。
彼らの子どもである私たちは、生まれながら甘いものに恵まれていたにもかかわらず適切な歯磨き指導を受けることがなかった世代です。そのため小さなのころから虫歯だらけという子が大勢います。歯の治療にかけた金は、私でもおそらく100万円は下りません。すでに総入れ歯になった友人の一人はなかなか入れ歯が合わず、50歳を過ぎてから使った金だけで車が買えると言っていました。
散々ひどい目に遭った私たちの多くは自分の子どもに歯にとても神経質で、もっとも熱心に歯磨きをした世代といえます。そして教師である私は、クラスの子どもの歯に対しても神経質でした。
【進まない歯科治療】
風邪や腹痛なら“我慢して放っておいたら治ってしまった”とか“自然治癒した”ということもありますが虫歯だけはそういうことはありません。放っておけば必ず悪化します。
さらに歯科検診でC1と診断された虫歯など、歯医者に一、二度かかればそれで終わってしまいます。治療費だってほとんどかかりません。
ですから虫歯のある子は何としても歯医者に行かせたかった――ところがこれが案外難しかったのです。
「要治療」の勧告書が渡された家庭のうち、およそ半数は十日以内に“治療済み”の証明書を持ってきます。それから3週間以内、都合一か月以内に残りの半分の半分、つまり4分の1程度が治療を済ませます。しかし放っておくと最後の4分の1からは証明書が出てきません。そもそも勧告書が親の手元に届いていない場合だってあるのです(カバンの中)。
【歯医者に行かせるお粗末な手立て】
私は学校の事務仕事がきちんとできるような人間ではありません。大切なこともどんどん忘れてしまいます。ですから誰が治療を済ませて誰がまだ行ってないか、そういったこは「うしの数」のようなグラフに頼るべき人間なのです。しかし時はすでに公の表示を許さない時代に変わっていました。他校で「うしの数グラフ」にびっくりしたのも、自分の赴任校ではとっくにやめていたからなのです。
困った私は教卓の隅に、目立たないように紙を貼って、そこに勧告書の出た生徒の名前と歯科医に行く日にちを書き、朝の会のたびに、
「○○〜(当時は呼び捨て)、きのう、歯医者に行く日だったけど、行ったか?」
と訊き、行ったと言うと、
「次はいつ来いって言われた?」
と尋ね、答えられた期日を記入する、そういうことを繰り返しました。
もちろん貧乏な家の子も、子どもの健康に無関心な家の子もいるのは承知していました。けれど貧乏だから行くのをやめましょうという話ではないでしょう。親が無関心なら関心をもってもらわなくてはなりません。ですからこの件に関しては一切妥協せず容赦せず、だから私のクラスで未治療が残ることはまったくありませんでした。
【何に優しい時代なのだろう?】
このことに関して私は一度も自慢したことはありません。そんなことをすれば必ず、
「他にもやり方があるでしょ? みんなの前でその都度名前を呼ぶなんて、子どもがかわいそうだとは思いません?」
みたいな話になりかねないからです。
もちろん記録は自分の手帳内で行って毎回こっそり呼び出して確認すればいい、それだけの話です。けれどそれが私にはできない。
私が忘れてしまうか忙しさのために呼び出す機会を失うか、そうこうしているうちに金曜日ごろ、
「先週の月曜日が治療日だったが行ったかぁ?」
みたいなトボケた話になって治療が進みません。教師としての私の、それが限界なのです。
さて先週の金曜日、神戸新聞NEXTに「子どもの虫歯二極化、口腔崩壊も 経済格差背景か」という記事が出ていました。
それによると、
2016年度に行われた歯科検診で、虫歯などが見つかり「要受診」とされた約3万5千人のうち、歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%に上ることが県保険医協会の調査で分かった。
ということなのです。しかも、
未治療の虫歯が10本以上あるなど「口腔(こうくう)崩壊」の子どもがいる学校の割合も35%に上った
乳歯の数は20本、永久歯は親知らずも入れて32本しかないのです。その中で10本も未治療の歯があるとなると、その子の将来は絶望的です。今なら数千円で済む話が、将来、車一台分払っても不都合なままということにもなりかねません。
もしかしたら「うしの数」グラフの堂々と掲げられていた時代は、今ほど状況が悪くなかったのかもしれません。
多くの子どもはグラフに書かれるのが嫌で親に「歯医者に連れてって」とせがんだに違いないからです。
そういうことのまったく気にならない子もいますが、参観日などに来た親が気づいて対処してくれたりします。
もちろん子も親も気にしない家庭というのも少数ながらあります。そういう家こそ、担任が本腰を上げて対処すべき家なのです。
歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%
家庭のことに学校は口を挟まないという人権的配慮、子どもに嫌な思いはさせないという優しさが、将来のその子の人権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)をズタズタにする、そうしたジレンマに、学校は常にさらされています。

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まだ教員になりたての頃、研究授業で訊ねた田舎の中学校の教室で、後ろの掲示板に「うしの数」という模造紙に書いた汚いグラフが貼ってあったことがありました。
さすが山の学校、牛の数が話題になるのかと思いながら、中学校なのになぜ「牛」がひらがななのか、そもそも家で飼っている牛の数をグラフにすることに何の意味があるのか(まさかどこかの新興国のように牛の数が“富”を表していて自慢しているわけでもないだろう)と、首を傾げたものです。
「うし」は「齲歯」、つまり虫歯のことで、グラフは治療を急ぐよう促すためのものだったと知ったのは、ずいぶんのちのことでした。
昔の教室はこうしたグラフがいくつも貼ってありました。
「忘れ物グラフ」「宿題ノート未提出グラフ」「漢字テスト総得点グラフ」「マラソン・グラフ」・・・。
私は忘れ物や未提出で棒を伸ばし、漢字テストやマラソンでは逆に短いチャンピオングループの一員でしたのでよく覚えています。
現在はどこの学校のどの教室へ行ってもそうした表やグラフは見かけません。個人の能力差を明らかにしたリ辱めたりする掲示は、人権を考える上で問題があるとして遠ざけられているからです。
しかしそれで困ることもあります。
【虫歯だらけの世代】
私の両親は若いころ虫歯というものがほとんどなく、年齢を経てから爆発的に数を増やして最後は口の中が崩壊状態になった人たちです(母は生きていますが)。
若いころは甘いものをほとんど食べることができず、だからこそ歯磨き習慣はなく、長じて生活が豊かになり甘いものを食べるようになっても歯磨きなどしなかったためにそうなったのです。
彼らの子どもである私たちは、生まれながら甘いものに恵まれていたにもかかわらず適切な歯磨き指導を受けることがなかった世代です。そのため小さなのころから虫歯だらけという子が大勢います。歯の治療にかけた金は、私でもおそらく100万円は下りません。すでに総入れ歯になった友人の一人はなかなか入れ歯が合わず、50歳を過ぎてから使った金だけで車が買えると言っていました。
散々ひどい目に遭った私たちの多くは自分の子どもに歯にとても神経質で、もっとも熱心に歯磨きをした世代といえます。そして教師である私は、クラスの子どもの歯に対しても神経質でした。
【進まない歯科治療】
風邪や腹痛なら“我慢して放っておいたら治ってしまった”とか“自然治癒した”ということもありますが虫歯だけはそういうことはありません。放っておけば必ず悪化します。
さらに歯科検診でC1と診断された虫歯など、歯医者に一、二度かかればそれで終わってしまいます。治療費だってほとんどかかりません。
ですから虫歯のある子は何としても歯医者に行かせたかった――ところがこれが案外難しかったのです。
「要治療」の勧告書が渡された家庭のうち、およそ半数は十日以内に“治療済み”の証明書を持ってきます。それから3週間以内、都合一か月以内に残りの半分の半分、つまり4分の1程度が治療を済ませます。しかし放っておくと最後の4分の1からは証明書が出てきません。そもそも勧告書が親の手元に届いていない場合だってあるのです(カバンの中)。
【歯医者に行かせるお粗末な手立て】
私は学校の事務仕事がきちんとできるような人間ではありません。大切なこともどんどん忘れてしまいます。ですから誰が治療を済ませて誰がまだ行ってないか、そういったこは「うしの数」のようなグラフに頼るべき人間なのです。しかし時はすでに公の表示を許さない時代に変わっていました。他校で「うしの数グラフ」にびっくりしたのも、自分の赴任校ではとっくにやめていたからなのです。
困った私は教卓の隅に、目立たないように紙を貼って、そこに勧告書の出た生徒の名前と歯科医に行く日にちを書き、朝の会のたびに、
「○○〜(当時は呼び捨て)、きのう、歯医者に行く日だったけど、行ったか?」
と訊き、行ったと言うと、
「次はいつ来いって言われた?」
と尋ね、答えられた期日を記入する、そういうことを繰り返しました。
もちろん貧乏な家の子も、子どもの健康に無関心な家の子もいるのは承知していました。けれど貧乏だから行くのをやめましょうという話ではないでしょう。親が無関心なら関心をもってもらわなくてはなりません。ですからこの件に関しては一切妥協せず容赦せず、だから私のクラスで未治療が残ることはまったくありませんでした。
【何に優しい時代なのだろう?】
このことに関して私は一度も自慢したことはありません。そんなことをすれば必ず、
「他にもやり方があるでしょ? みんなの前でその都度名前を呼ぶなんて、子どもがかわいそうだとは思いません?」
みたいな話になりかねないからです。
もちろん記録は自分の手帳内で行って毎回こっそり呼び出して確認すればいい、それだけの話です。けれどそれが私にはできない。
私が忘れてしまうか忙しさのために呼び出す機会を失うか、そうこうしているうちに金曜日ごろ、
「先週の月曜日が治療日だったが行ったかぁ?」
みたいなトボケた話になって治療が進みません。教師としての私の、それが限界なのです。
さて先週の金曜日、神戸新聞NEXTに「子どもの虫歯二極化、口腔崩壊も 経済格差背景か」という記事が出ていました。
それによると、
2016年度に行われた歯科検診で、虫歯などが見つかり「要受診」とされた約3万5千人のうち、歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%に上ることが県保険医協会の調査で分かった。
ということなのです。しかも、
未治療の虫歯が10本以上あるなど「口腔(こうくう)崩壊」の子どもがいる学校の割合も35%に上った
乳歯の数は20本、永久歯は親知らずも入れて32本しかないのです。その中で10本も未治療の歯があるとなると、その子の将来は絶望的です。今なら数千円で済む話が、将来、車一台分払っても不都合なままということにもなりかねません。
もしかしたら「うしの数」グラフの堂々と掲げられていた時代は、今ほど状況が悪くなかったのかもしれません。
多くの子どもはグラフに書かれるのが嫌で親に「歯医者に連れてって」とせがんだに違いないからです。
そういうことのまったく気にならない子もいますが、参観日などに来た親が気づいて対処してくれたりします。
もちろん子も親も気にしない家庭というのも少数ながらあります。そういう家こそ、担任が本腰を上げて対処すべき家なのです。
歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%
家庭のことに学校は口を挟まないという人権的配慮、子どもに嫌な思いはさせないという優しさが、将来のその子の人権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)をズタズタにする、そうしたジレンマに、学校は常にさらされています。

