2017/4/21

「子どもの不思議」B  親子・家族

   〜微笑み返し・手練手管・そして意味不明

 先端恐怖症というのがあるように、人間は尖ったものや三角形のものが嫌いです。キバや鋭いツメを見たら引き下がれという本能的なものが根っこにあるのかもしれません。

 逆に丸いもの、ふんわりとしたものは好きで、だから多くの動物の赤ちゃんは親よりも丸っこい顔をしているのです。そういう話を聞いたことがあります。
赤ん坊は愛されるようにできているのです(*)。

 さらに人間の子どもには、見目かたちが可愛いという以外に、行動や仕草に大人の関心を引いたり優先的に保護されるための仕掛けがたくさんあります。話は月曜日の続きです。


【微笑み返し】
 町で出会った赤ん坊の視線を捉えるのがうまい方だと思っています。例えば電車の中で視線を合わせるというようなことです。人に言ったり訊ねたことがないのでよくわかりませんが、もしかしたら誰でもできることなのかもしれませんが。

 一歳未満前後で、ベビーカーに乗っているような子の顔を優しい表情をしながらジーッと見るのです。するとある瞬間、目が合って離れなくなります。ちょっと不安そうにジーッと見つめ返すようになります。そのときニコッと微笑んでやります。すると赤ん坊の方もニコニコ笑い返し、中には手足をばたつかせて喜ぶ子もいます。
 もちろんそうしない子もいますが、そうれは個性というよりも月齢の差によるように私は思っています。感覚的に言うと6ヵ月から1歳半のくらいの子にやると大抵はうまく行くのです。
 電車の中は普通いつでも退屈ですから、それからしばらくは百面相で子どもを笑わせ楽しみます。親に気づかれないようにやるのは余計な気を回させないためです。

 こうした“微笑み返し”――親和的な態度をとる人間に対して同じく親和的であろうとする態度は、無力な赤ん坊に備わった一種の防衛本能ではないかと思うのです。例えばそのとき電車に事故が起こって、しかも親にその子を助けられない状況が生まれたら、代わりに私が救いに行くに決まっています。そうした関係を、短時間の間に、私との間につくってしまったからです。
 危険が日常的な時代――原始時代だとか、戦乱だとか、災害だとか――そうした生存競争の厳しい時代だったら、愛想のいい赤ん坊ほど生き残るチャンスが増えます。


【手練手管】
 児童館に勤めていた時のことです。
 母親と一緒にお姉ちゃんの迎えに来る3歳のレン君は私と仲良しで、来ると必ず事務室に顔を出しました。私が気づかないでいると「カンチョーセンセー!」と大声で呼びます。そこで私も席を立ってレン君を抱き上げ、あるいは言葉をかけて頭をなでたりしました。
 ところがある日、玄関に姿が見えたので私の方から行くと、タッタッタと走ってきたレン君は私の前でさっと進路を変え、横をすり抜けてそのまま奥の部屋へと行ってしまったのです。その翌日も同じです。
 さらに次の日は事務室の中をチラッと見て私がいるのを確認し、何も言わずにお姉ちゃんの部屋に走っていきます。

 そんなことが2〜3日続いて、私の方もほったらかしにして置いたら数日後、事務室のドアから顔を出して
「カンチョーセンセイ!」
とニコニコ顔。私が席を立って抱き上げに行こうとすると、またドアを勢いよく閉めて奥へ走って行ってしまいました。
 からかっているのです。

 そうした駆け引きには慣れていたので苦にはなりません。小さい子の中には、そうした手練手管を使いたがる子がたくさんいるのです。
 追えば逃げ、止まれば引き寄せる――悪い女に引っかかっているようなものです。
  
 どうやってそうした技術を身に着けのか――。多くの子どもが似たようなことをするからには、そこに本能的な何かがあるはずです。
 子どもは大人を虜にするさまざまな技術をいつの間にか手にしています。


【あれは何だろう】
 おしまいはハーヴです。
 1歳10ヵ月ですからもう食事の大部分はひとりでできます。しかし最後の、ごはんやおかずを寄せ集め、スプーンできれいに掬い取って食べる部分はうまくできません。したがって大人がやってやることになります。
 
 ある時、母親のシーナが忙しく、父親も帰宅していないので私がやろうとすると、唇を固く結んで顔を背け、上体を思い切り遠ざけて断固拒否します。どう声をかけてもその姿勢を崩そうとしません。
 あまり頑固で微動だにしないその姿が面白くて、私はシーナに声をかけ写真を撮ってもらうことにしました。
「ちょっと面白い風景だから写真撮ってくれ!」
 シーナも面白がって慌ててカメラを持ちに行き、帰ってきてさあ撮影と構えた瞬間、ハーヴは突然私の方を向いて大きな口を開け、いい子の顔で食べさせてもらおうとします。“ボクは最初からこんないい子なんだ”みたいに。
――あれは何だったのだろう?

 また別の時、ハーブと私の二人きりの時間、おもちゃの電車を床から棚へと走らせていたハーヴは、やがてテレビの画面上でガーガー走らせ始めました。そこで思わず、
「ダメだよ、そこは!」
 と声を荒げると、ハーヴはいきなりおもちゃを投げ捨てて床に突っ伏し、まるでこの世の終わりみたいに、絶望して激しく泣き始めます。
 その様子が面白いので撮影しようとスマホを取り出すと。
クリックすると元のサイズで表示します
 泣きながら私をチラ見して、


クリックすると元のサイズで表示します
 撮影していることを確認。


 泣きやんで普通の顔に戻り、やがてニコニコ顔になったので私の方が興味を失って撮影をやめてしまいました。

 カメラを向けられたらニコニコするという習慣があるわけではありません。親に言いつけられたら困る、といった判断もないでしょう。
 引き寄せ本能とも関係なさそうです。しかしそうした仕草のひとつひとつでに、私たちを捉えて離さない魔力があるのです。


*世の中には本当に赤ん坊が嫌いという人もいます。しかし遺伝子的にすべての子どもが愛されるように生まれてくること考えると、子どもが嫌いというのはかなり深刻な問題だと私は考えます。





3

2017/4/20

「子どもの不思議」A  教育・学校・教師

            〜排便と言葉

 孫のハーヴはつい先日ようやく1歳10か月になりました。
 初めて寝返りをしたのが10ヵ月、ハイハイは一歳1ヵ月から、歩き始めが1歳4ヵ月と万事ゆっくり目で乳幼児健診のたびに再検診になっています。
 生まれたときに小さな事故があったので(2015/9/24「いのちのこと」E〜その直後以降)そのことは常に心の隅に引っかかっていますが、母親のシーナがおおらかに育てていますので、まずは順調といったところでしょう。
 その「順調に育っている」という範囲の話なのですが、ハーヴは今もオムツをしていてウンチが出たことも伝えられません。

【なぜ排便のことは遅れるのだろう】
「トイレットトレーニングは2歳になった夏から」とか言いますし「躾は2歳半から」という言葉もありますから、人間としては問題ないのですが、他の動物のことを考えると首を傾げざるを得ません。
 だって馬なら出産直後に歩き始めますし半年もたてば離乳、1歳になると人を乗せて歩く練習をはじめ、早い(速い?)仔は2歳半で稼ぎ始めます。3歳で億単位の金を稼ぐ馬だって珍しくはありません。
 ところが人間の場合は、正式に稼ごうとしたら15年以上も(中学卒業まで)待たなくてはなりません。あまりにも非効率です。

 ハーヴに話を戻すと、「ウンチが出そう」と言えるまでにはまだ時間がかかるにしても、「ウンチが出た」くらいは言ってもよさそうなのに言えない。これが私には理解できない。
 排便をする前とした後では、オムツの内部環境は著しく変わっているはずです。ですから「ウンチした?」と聞かれたら答えることができてもよさそうなのに、できない。
 要するに全体的なコミュニケーションの力が不十分なのだと考えてもいいのですが、その他の場面ではけっこうなやり取りのできる場合も少なくありません。


【言葉は理解できている】
 例えば夕食を終え、ひと段落してからシーナが、
「バーブ、お風呂よ。お父さんと行っておいで」
 と声をかけると、一瞬立ち止まって考えるふうな様子を見せ、それから遊んでいたおもちゃを元の場所に戻し、出入り口で待つ父親のエージュのところに行って抱っこをせがみます。浴室は階下にあるので自分では行けないからです。
 抱っこされると首をひねってシーナを見、バイバイと手を振ります。そのままおとなしく連れられて行きます。

 一応やり取りとしては完璧です。親の言葉の意味を理解して、期待される行動をきちんととれます。他の場面でもこんな調子で、大まかなところは家族の一員としてあまり問題なく日々を過ごせます。
 しかし排便の部分だけは、新生児のころとほとんど変わりありません、成長が遅れる――なぜだろう?


【もうひとつ】
 お風呂の事例に絡んでもうひとつ不思議なのは、人間の場合、言葉がつかえるようになると生活は飛躍的に便利になり欲求も叶えられやすくなるはずなのに、子どもの言葉の発達はあまりにも遅いということです。
 ハーブが使える“意味ある言葉”は10個にも及びません。しかもそのうち四つくらいはしばらく喜んで使った後でやめてしまったので、むしろ退化したような印象まであります

 親たちが優秀でハーヴの欲求をうまく拾い上げてくれ、そのために語彙を増やす必要はない、そう言ってしまえばそれまでですが、親の言葉はたいてい理解できているのに、意思の表白の方はぐんと遅れる、そこが分からないのです。

                                       (この稿、続く)



1

2017/4/19

「今日の家庭訪問」〜教師の武装解除  教育・学校・教師

 帰ってきた妻が「聞いて、聞いて、聞いて」みたいな感じで話し始めたのは、同僚で中1のお子さんのいる方が今日家庭訪問なのに年休を取らなかったという話です。
「なぜだと思う?」
 分かるはずのない質問。
「子どもだけでいいんだって、家を確認するだけだから親はいらないって」
 ああ、そういう時代が来たんだと、何となくやりきれないような気持ちで私は思いました。


【消えた家庭訪問】
 考えてみれば予兆はあったのです。
 15年も前のことですが、当時勤務していた小学校の校長が突然、家庭訪問は玄関先で済ますこと、接待・土産等も一切受け付けないこと、と言い出したのです。
「保護者のプライバシーは尊重されなければいけません。そもそも他所様の家に平気で上がり込むような非常識が許されてきたこと自体ぎ問題。本来は許されないことです」

 プライバシーを言い立てるなら、家庭での学習の管理だとか登下校の指導だとか、下校後の生徒指導、休日の万引きの対応、交通安全の指導など、やめるべきことはたくさんあります。
 非常識を言い立てるなら、膨大な時間外労働、持ち帰り仕事、しかも無給・代替え措置もないというそちらの非常識から改善すべきと、いつもの不満をぶちまけながら(心の中で)、一方で、「ああ、あの人たち、とうとう校長の篭絡に成功したな」と思いました。
 かなりしつこく家庭訪問廃止を訴えていた保護者がいたのです。
不幸なことにその時の校長は学区内に自宅があり、学校の内と外、夜討ち朝駆けで地域の要望を聞かされていましたから、撥ね退けることの難しい場合もあったのかもしれません。

 さて、それからほどなく私が学校を異動してしまったので、玄関先家庭訪問がどうなったか知りません。しかし考えてみると玄関先ではロクな話もできませんから行っても児童の家の位置確認だけになってしまう、そうなると特に中学校では生徒本人が居さえすればいいことになります。道に迷ったとき案内してもらうためです。保護者をわざわざ休ませて行うことではありません。
おそらくそういう経緯があって、妻が聞いてきた「生徒本人が家にいればいいだけの家庭訪問」は始まったのでしょう。バカな話です。


【家庭訪問の必要性】
 家庭訪問については3年ほど前にまとめて書きました(2014/1/27「家庭訪問のこと@」2014/1/28「家庭訪問のことA」)ので改めて言いませんが、本当に子どものことを知り、指導に役立てたいと思ったら必須なのです。
「百聞は一見に如かず」
 見るだけで分かることはたくさんありますし、見ないと分からないことも少なくありません。子どもも家庭もあっという間に変化してしまいますから毎年行うことにも意味があります。

 さらにもうひとつ。
 4月に保護者と大まかな一年の予定を立て、12月の個別懇談で中間報告と立て直しを図り、3月の通知表(または翌年の家庭訪問)で総括するというサイクルは、これも絶対必要なものだと思っていました。
 PDCAサイクルなどというアメリカ由来のマネジメントが導入されるはるか以前から、日本の教員はそうしてきたのです。
家庭訪問は教師の武器なのです。


【武装解除】
 考えてみるとかつての教師が持っていた大量の武器を、今の教師はほとんど持っていません。
 体罰なんてその代表です。

 私は体罰容認派でも賛成派でもありませんし、仮にそうだったとしても今さら昔に戻せるわけはないので言っても仕方ないのですが、昔の教師はその“抑止力”のおかげで楽な生徒指導をしていたのは事実です。いい悪いは別として“体罰”は教師の有力な武器だったのです。

 忘れ物一覧表などというのもけっこう役に立ちました。後ろの黒板に貼ってあった「○○君、忘れ物△△回」というあの模造紙の棒グラフです。私は有力な忘れ物名人でした。

 帰りの会で必ず行われた「女子による悪辣男子の人民裁判」も、子どもに何がよくて何が悪いかを知らせるのに有効な手段でした。ここでも私は常連でしたのでとても嫌でしたが、先生は楽だったでしょうね。子どもによる相互批正ですから聞いているだけで済みます。
 しかしこれも今では「教師が見て見ぬふりをする集団いじめ」と捉えられかねません。

 生徒を呼び捨てにしたり罵声を浴びせるのは、“怒り”を伝える上でとても便利でしたが、今はそれも控えられています。人権問題ですから。

 昔の教師は偉かった、優秀だった、立派だったと言いますが、そんなことはありません。重武装して児童生徒にしっかり聞く態勢を取らせてから授業をしたり話したりするので、内容がよく分かったのです。そうやって聞いてみると、先生たちは案外いい話をしていました。
 今の先生たちはロクに武器も持たないのに子どもに話を聞かせ、子どもたちを動かしていく――その意味では本当に優秀で、大したものです。


【家庭訪問の回帰】
 さて、私の住む田舎では家庭訪問もなくなる傾向にありますが都会はどうかなと思って小学校で教諭をやっている婿のエージュに電話をすると、
「家庭訪問はやっていますよ、毎年。玄関先でということになっていますが、必要に応じて家に上がることもあります。接待は受けないようにしていますが」
 とのこと。おやおや案外古い体質を保っているのだと喜んでいると、
「いや、以前はなかったんですよ。“地域巡り”といって子どもの家や地域環境を見て回るだけだったのが3年前から戻したのです。やはり親との関係づくりができない、特に新しいクラスでは顔も覚えられないですから」

「そうだろう、そうだろう、そうだろう」と私は電話口で前のめりになります。
都会はやはり一歩、前を進んでいます。
 必要なものは、やはりなければならないのです。
 



4

2017/4/18

「PTA会長が悪人である場合がある」A  教育・学校・教師

 PTA会長や保護者会長になるのは必ずしも人格者や実力のある人ではない、ひとつは学校が小規模で役員が持ち回りになる場合、もうひとつは無謀なくじ引きによって決められる場合で、そうしたときには多少力不足な人が役員になったりする、というお話をしました。けれど悪い人がなるわけではありません。
 ほんとうに困った人が役員になるのは特別なケースです。

【悪い奴が会長になる】
 私が知る中で一番たいへんだったPTA会長は、30代前半の、地域ではまるっきりの“若造”でしかない、もともとは “よそ者(地区外から移住してきた人)”で地域によく知られていない人でした。

 不動産業を営むと聞きましたが実態は分かりません。
 ナンバープレートを折り曲げたバイクをノーヘルの で乗り回すような人で、警察にも知己が多く、おかげで運動会の際、大勢の保護者が駐車違反で摘発されそうになった時にはとても役立ってくれました。

 全校でただ一軒の給食費未納です。
 給食はPATの自主活動から始まったという歴史的経緯があるので、未納者には会長が督促に行くことになっていましたが、本人が未納では話になりません。回収には時間がかかりました。

 しかし一番困ったのは春に行われた資源回収の収益金を「オレが行けばさらに高く買い取ってもらえる」と言って受け取りに行き、そのまま何度催促しても学校に入れてくれなかったことです。一時は横領されたのではないかと本気で心配しました。
 結局年度末近くなってようやく返してもらいましたが、そのほかにも山ほど問題があってほんとうに薄氷を踏むような一年間でした。
 悪人 というほどのこともありませんが、何があっても不思議ではない、危険な人でした。


【悪人選出の経緯】
 なぜそんな人がPTA会長になったのか。
 彼を選出した地域の保護者に訊くと、要するに「立候補しちゃったから」なのだそうです。
 地域総会の席で、司会者がまず「立候補はいませんか」と尋ね、続いて「ないようでしたらこちらに腹案がありますので・・・」と根回ししておいた人を提案し、それでシャンシャンシャンとやる予定だったのです。PTAに限らず、それが役員を決めるときの伝統でした。ところがそのスタートで躓いた。「立候補はいませんか」と尋ねたときに元気よく手を挙げた人がいたのです。それが彼です。
 まさかほんとうに立候補する人がいるとは誰も思っていなかったので、そのまま決めざるを得なかった――それが“なってはいけない人がPTA会長になってしまった”経緯です。

 なぜ彼は立候補したのか――。
 これには諸説あって、ある人は「将来、市会議員に立候補するための布石だそうだよ」と言い、別の人は「商売をやる上で、名刺に『元PTA会長』と書いてあるのは都合がいいんだ」と教えてくれました。
 私はなんとなく、“この人は、ただ人の上に立ちたかったのかもしれない”“上からあれこれ指示して人を動かしたかったのかもしれない”、そんなふうに思っていました。
 しかしある保護者(女性)はひとことで両断します。、
「バカだからよ」


【事件から学ぶべきこと】
 今回の我孫子の事件も、
「最も信頼できるはずの保護者会長が起こした犯罪」
ではなく、
「悪い奴が保護者会長になったところから始まった事件」
なのかもしれません。
 殺人という最悪のケースでしたが、これが万引き程度の犯罪だったとしても大問題です。学校の名に関わります。

 どういう経緯で渋谷容疑者が保護者会長になったのか、それを阻止するすべがはなかったのか、きちんと調査し明らかにする必要があるでしょう。
 保護者会長ですら危うい、誰も信用できない、といった問題ではありません。


 もうひとつ。
 こういった事件があると親たちは慄然として立ちすくみ、集団登下校だとか学校職員による見回りだとか言い出します。
 しかし以前ここでも書いた通り(2014/10/16「愚かな不審者対応」A〜いいことはやめられない)集団登校に対して私は懐疑的です。

 今回の事件でも、被害者は家を出るとほとんど同時に拉致されたようです。このような場合は集団登校も役に立ちません。
 また集団登校の列に車が飛び込んで大きな事故になるような例は、おそらく子どもが誘拐される事件よりもはるかに多いはずです。単純に“子どもを守る”という観点だけで言えば、集団登校はむしろ不可です。

 集団下校を言う人は学校が分かっていません。小学校では学年ごと、下校時刻が異なっているのです。まさか5・6年生が下校するまで下の子を待たせておくわけにも行かないでしょう。
 学校職員による見回りも、全員が玄関に入るのを見届けるという訳にはいきませんから完全ではありません。
 
 ほぼパーフェクトと言えるのは多くの国々がやっているような「親が責任をもって送り迎えをする」システムですが、そんなことを提案したら保護者に袋叩きにあいます。また、ここ10年あまりを見ても、もっとも多く子どもを殺しているのは「親」ですから、これだって安全かどうかは分かりません。

 しかし大丈夫です。
 1億2600万人もの人間の住む国ですから時にはこうした残酷で不幸な事件も起きます。しかし基本的にこの国は極めて安全なのです。
 無闇に怯え、怖れて暮らすのではなく、ひとを信じ、ひとを頼って生きるのがこの国の正しい身の処し方です。もちろん危険はゼロではない、しかし過剰な安全策はかえって子どものためになりません。
 私はそのように考えます。
 

2

2017/4/17

「PTA会長が悪人である場合がある」@  教育・学校・教師

 先週の金曜日朝、大きなニュースが入りました。 
 千葉県我孫子市でベトナム国籍の女の子の遺体が見つかった事件で、渋谷恭正という不動産賃貸業の男が逮捕されたというのです。
 驚いたことに容疑者は被害者と同じ学校に2児を通わせる保護者で、保護者会長を務め、毎朝の登校指導にも関わっていたのです。

 犯人が保護者会長・見守りボランティアということで、
「頼りにすべき人が犯人となるとだれを信じたらいいのか」
「今後は見守りの大人が子供に声をかけても、不審者と思われてしまうのではないか」
「見守り活動に取り組む人にも懐疑の目が向けられるようになるかもしれない」
などと深刻な発言が続いています。
そして、
「もはや他人の大人はアテにならない。親が交代で子どもを車に乗せて送るしかない」とか、「集団登下校で子ども同士が守りあうしかない」とかいった話がワイドショウなどでまことしやかに流されています。しかしどうでしょう?


【PTA会長や役員が必ずしも立派なわけではない】
「PTA役員、特にPTA会長にはそれなりの有能な人物がなっているはずだ」というのは一面の事実です。
 児童生徒数が500人〜600人の学校となるとPTA(あるいは保護者会)会員は1000人を越えてきます(《会員=ほぼ両親》なので)。ですからそれをまとめて行くのは相当の人物でなけれなりません。
 私も多くの学校を渡り歩いてきましたが、40歳そこそこで “人格者”と呼びたくなるような方はいくらでもいました。

 ただし規模の小さな学校では、それほどでもない人物が役員に納まっている場合も少なくありません。

 かつて勤めていた一村一校の中学校でのできごとです。
 ある年のPTA役選の後、ひとりの保護者が私を訪ねて、
「先生さぁ、私、役員になっちゃったけど、中学校のPTA役員なんてロクなもんじゃないからね(覚悟しなさい)。何しろ小学校の6年間一度も選ばれなかったか逃げ回っていたのが、中学校になって逃げ切れなくてやってるんだからさ」
とかおっしゃいます。
 結論から言えば口ほどになくしっかりした方でしたが、聞いた当初は一理ある話だとは思いました。

 世の中には1学年の児童生徒数が2名だけという学校だってあって、その場合は「小学校のPTA会長はAさん、中学校3年生になったらBさん」という具合に二人で分け合うしかありません。

 それより多少規模が大きくなっても、PTA役員は“いつかはやらなければならない持ち回りの仕事”です。

 要領のよい人は学校全体に関わることの少ない小学校低学年のうちに役員をやってしまい、それで “義務”を果たしたことにしてしまいます。ところが事情に疎いと機会を逃しますから、先の「何しろ小学校の6年間一度も選ばれなかったか逃げ回っていたのが、中学校になって逃げ切れなくてやってる・・・」の中には、「のんびりとしている内に中学校の役員をやるハメになったお人好しさん」も大勢含まれているはずです。

 さて、さらに規模が大きくなってしかし「人材有り余る」とまではいかない、中規模学校の場合は厄介です。やらされる人がいる反面、義務教育の終わるまで一度も役員をやらずに逃げ切ることができる程度の規模の学校です。
 そうした場合は、役を地区に割り振ったり学年に当てはめたりと様々に工夫して強制的に掃き出させる仕組みを作ります。次年度の役員を本年度の役員が、一軒一軒家庭訪問して掻き口説く場合もあれば、くじ引きで決める場合もあります。

 くじ引きとなるともう“出たとこ勝負”で、何が起こるかわかりません。私は自分がPTA担当職員のとき、役員のなり手がなくて「完全公平くじ引き(要するに全員参加のくじ引き)」でひどい目に遭ったこともあります。とても素敵な可愛い女性(でも社会性はまるでない)が女性副会長になってしまい、何も動かなくなってしまったのです(このときは前副会長が、子どもは卒業してしまったにもかかわらず顧問として残ってくれ、一応仕事だけは回してくれたので何とかなりましたが)。

 以上が「PTA会長や役員が必ずしも立派なわけではない」理由のひとつです。
 しかし“役員に力がない”は大した問題ではありません。組織ですから全体として補い合えればいいからです。

 問題は「PTA会長に、悪い奴が役員になっている」場合です。

                                (この稿、続く)

2

2017/4/14

「子どもの不思議」@〜孫が特別に可愛いわけではない  親子・家族

 孫が生まれた、孫がいると言うと多くの方々が、
「お孫さん、可愛いでしょ? 孫は特別って言いますからね」
とおっしゃいます。
 これについて以前、私より若いのに5人も孫のいる知人に、私自身が同じように言ったことがあります。するとその人は、
「いやあTさん、本当に可愛いのはやっぱり自分の子どもだよ」
そう答えます。
 ――もう30歳を越えた、あるいはそれに近い娘さんについてそんなふうに言えるのは、大したものだ、素晴らしいなあと思いました。そして振り返って思ったのは、やはり私も孫のハーヴより娘のシーナや息子のアキュラの方が可愛い、ハーヴはもちろん可愛いのだけれど「可愛い」の意味が違うということです。

【孫が特別に可愛いわけではない】
 なぜ孫は特別と思われやすいのか――。

 私のように教職にあったり保育士といった特別な職業でもない限り、普通の人は子どもと触れ合う機会がそう多くはありません。孫は特別と思う人の大部分は、おそらく、小さな子どもと一緒に暮らしたり遊んだりするのは自分の子どもの時以来という人ばかりです。

 おまけに自分が子育てしているのはたいていが社会の最前線で目いっぱい働いているときで、ですから子どもの可愛さを十分に堪能している余裕もなかったはずです。
 それが、久しぶりに子どもとふれあい、余裕のある中でじっくり子どもを観察するので、可愛らしさが格別に思えるのです。きっとそうです。

 実際、私の知り合いの保育士で年中他人の赤ん坊を背負っている人などは、「遠くの孫より近くのネコ」などと平気で言ったりしています。私はそこまで行かずネコよりは孫の方が可愛いとは思いますが(ネコはあまり好きではないので)、その言い分はよくわかります。
 もしかしたら子どもの見守りボランティアや児童センターの仕事などで年中子どもと接しているような人たちにとっても、孫だけが特別に可愛いという感覚は薄いのかもしれません。

 孫だけが特別に可愛いのではなく、子どもは普通、全部可愛いのです。


【すべての赤ん坊は可愛く生まれて来る】
 それはおそらく本当です。
 先ほど言ったように、私はネコなんてちっともかわいいと思いませんが、それでも子ネコは可愛い、数匹でニャーニャー言って戯れている様子を見たりすると思わず手に取ってみたくなったりします。

 ライオンの赤ちゃんだって大きな子ネコみたいなものですから可愛い、犬だって子イヌのうちはみんな丸顔で体全体もモコモコ、丸々してますから可愛い。パンダなどは親も可愛いが子どもを見ると親の可愛さが吹っ飛んでしまいます。

 それは当たり前で、何億年という歴史の中で、危機のたびに「可愛い子」はそうでない子に比べて生き延びるチャンスが多かった、より保護されやすかった――それが繰り返されることで「可愛い赤ん坊」のDNAは残されてきました。
 それは人間もネコもライオンも同じだったはずです。

(もちろん地球上にはカマキリやイワシの赤ちゃんのように、どう見ても可愛くなかったり「可愛い」というよりは「美味しそう」が先に立つような赤ちゃんもいますが、その子たちの遺伝子は「大量に生まれる」といった別の方略によって残されたと考えられます)

 さらに少なくとも人間については、見目形が可愛いという以外に行動や仕草に、大人の関心を引いたり優先的に保護されるための仕掛けがたくさんあります。
 それを私は、多くの子どもやハーヴとの付き合いの中で見せられてきました。

                                     (この稿、続く)

1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ