2017/4/6

「eメールというやっかいな道具の話」A  教育・学校・教師


 メールが厄介だという話をしています。

【メールが政治問題になる】

 考えてみれば今評判の(と言うか、いつまでもだらだら続いている)籠池問題で、安倍総理夫人と籠池夫人が直接口で話していたらあんな面倒なことにはならなかったのかもしれません(おまけに証拠も残らない)。メールのやり取りだからあんなややこしい人といつまでも会話ができた。これが口頭だったら(ましてや面と向かっての話だったら)すぐにも嫌気がさして(あるいは恐怖に駆られて)早い段階で遠ざかることができたはずです。
 ドナルド・トランプ氏だってあれがツイッターではなく、直接言葉で話し続けるとなるとあそこまで過激な話にはなりません。面と向かっての会話ならいちいち反論されますから、攻撃も長続きしないはずです。


【メールが家族を引き裂く】
 孫のハーヴが生まれて以来シーナの影響もあって若い母親たちの「子育てブログ」に目を通すことが多くなっています。子どもの成長ということに興味があるのです。
 離乳食の話や運動発達の話、言葉の進捗や認知力の変化、小物づくりや保活(保育園入園活動)、子どもを取り巻く話題にはいくつかのバリエーションがあります。そのひとつが義理の親に関する愚痴、そして驚くほど多いのが実父・実母に対する嘆きです。特に実父・実母の方は義理の関係よりはるかに難しくなる傾向があります。
 ところがその中でやたら出て来る不和の原因がメール(またはLINE等のSNS)を通しての行き違い――言葉足らずや余計なひとこと、そして読み違い・深読み、どう考えたってこれが口を通しての言葉のやり取りだったら(特に面と向かっての会話だったら)絶対に起きないような感情のすれ違いです。
 そこには電子メールならでは理由があります。

 いかに優秀なスマホ使いであっても長いメールを打ち込むにはそれなりの時間がかかります。勢い説明不足になる。できるだけ短い文で話そうとすれば時にはぶっきらぼうにもなる。
おまけに長い文章を打つのはたいていが子どもも寝つき家事もひと段落した夜中のことですから、夜の魔力に犯されて文章が狂乱し始める。
 なんでメールなどという妙なものを使いたがるのか。


【保護者からメールが来る】
「保護者とメールのやり取りはしないように」という指導はどこの学校でも行っていると思いますが、部活の連絡等でLINEグループを作らならなかったり、携帯番号を渡したらショートメールで返されたりと、教員であっても保護者のメッセージを受け取らざるを得ない場合もあります。
 しかしくれぐれも守らなくてはならないのは「難しい話は必ず対面で行う」という原則です。話が困難であればあるほど、嫌な相手であればあるほど、こちらから出向いていての顔色を見ながら、生身の言葉で話すことが大切です。
 家庭訪問となれば当然時間に制限があります。夜中という訳にはいかないでしょう。それで夜の魔力から逃れることができます。
 こちらから出向いているのですから、こちらから引き下がれます。話が面倒になったらいったん失礼して改めて出直せばいいのです。呼びつけてしまったらそういう訳にはいかないでしょう。

 まだ若いうちは特に、年上の保護者と対峙するのはシンドイし面倒なことです。しかしメールや手紙でやり過ごそうとするととんでもないしっぺ返しを受けます。
 メールより電話、電話より直接対話、学校へ呼びつけるより家庭訪問、こじれたら人の手を借りる――それが鉄則です。
 



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2017/4/5

「eメールというやっかいな道具の話」@  教育・学校・教師

【妻がメールをよこす】
 所用があって実家に帰っている妻からメールが来ます。
「(件名:前置きなしでゴメン!)本文: 4月28日と30日の○○ホテルの予約状況を調べて。大人3人」
 思うに、このいずれかの日に妻を含む三姉妹で宿泊しようという話が持ち上がっているのです。
 妻はガラケーですし、メール一本で私という便利な検索老人を遠隔操作できるので、自分ではほとんど調べることがありません。それはそれでいいのですが、困るのはメールではことの緊急性やそのあとの展開が分からないことです。

 宿泊状況次第で予約をするのか、その場合、妻と私の電話のやり取りで話を詰めていくのか、いやそこまでの気持ちはなく、ただ調べておきたいだけなのか、文面からはまったく想像できません。

 しかしメールで問い合わせているい以上、通話できないなんらかの理由があるのかもしれませんし、
そこから「急ぐの?」とか「予約は?」とかメッセージでやり取りするのも面倒だし、どちみち調べるには変わりないのでとりあえず検索の上、幾種類もの部屋に空きがあるのを確認してからメールを書き送りました。けっこうたくさん書いて送りました。
 それに対して返信がない。
「ありがとう」でも「了解」でもいいのですが、何か言ってもらわないと落ち着きません。
 特に今回の場合は携帯でメールを受け、コンピュータのメーラーから返信するという回りくどいことをした(スマホで長い文章を書くのが嫌だったから)ので、何となく不安なのです。
 しかしいくら待っても返事がない。
 しかたないので「届いている?」と書き送ると、
「届いてます。ありがとう」。
 そしてまた後の話がありません。

 夕方、再びメールが来ます。ホテルの件とは全く関係ありません。
「今から帰るので、夕飯、食べずに待っていてください」
 すでに運転中という可能性がありますので返信はできません(着信音が鳴ると高速道路運転中でもケータイを開きかねない人です)。しかしほんとうはすぐにも言っておかねばならないことがあったのです。それは「炊飯器にご飯がない」ということ、妻が家に帰って炊飯器が空だと困ることになるかもしれません。もちろん必要ならご飯くらい私にだって炊けます。しかしそれを伝えるすべがないのです。

 以上、妻のメールに関する二つの愚痴ですが、この問題を解決する、というかそもそも問題にならないようにする簡単な方法があります。それは連絡をメールではなく通話でやればいいということです。
 電話を通しての会話ならその場でこちらから質問をして話を詰めたり「ご飯、炊いておく?」と訊ねることもできます。何の問題も起こりません。
 ところは世の中には(私の妻も含めて)通話が死ぬほど嫌いで片っ端メールで済ませようとする人がたくさんいるのです。そしてそのことは問題をかなり複雑にする場合があります。

                                     (この稿、続く)


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2017/4/4

「新入生を迎える」  教育・学校・教師


 異動で私の学校に来て、新一年生(小学校)の担任になることが決まっていた若い先生が、新年度準備をしながら何かブツブツ言っています。時折ポケットに手を突っ込んで紙を出してはちらっと確認し、またブツブツ・・・。
「何をしてるんですか?」と尋ねると、
「子どもの名前を覚えています」とのこと。
 入学式で担任発表があったあと教室に入り、そこで一人ひとりの名前を呼んで立たせる、そして一対一でよろしくの挨拶をして座らせる、それが彼流の対面式なのだそうです。
“この野郎メ”と思いました。
 児童も保護者も感動することでしょうね、それで一気に親子の心を掴むことができます。どうしてそんなことを思いついたのか――それが人間性というものなのでしょう。
 ただしそれは人間の名前という実に非論理的な(というのは美子さんは必ずしも美人ではないし賢太郎君が賢い顔をしているとは限らないからです)名詞を暗記できる能力のある人だからできることで、私のように2年間担任した子どもですら突然フルネームを聞かれるととっさに出てこないようなボンクラには到底できそうにないことです。そんな大切な場でひとりでも名前を間違えたら台無しです。
 もちろん彼にしても大変な努力をしているわけで“この野郎メ”は単なる私の嫉妬から出た言葉なのですが、それにしても羨ましい限りです。カッコいいですね。

 また別の担任(中学校1年生)は、教室の後ろの入り口の横に「出席札」を用意していたりします。職員室の横にあって出勤すると裏返すアレです。
私は入学式前日にそれに気がついたので真似したくても時間が足りませんでした。もっとも真似したところで、使い方もよくわからないものを教室に置いても意味はなさそうです。
“出席札”を用意した先生はきっとその札の持つ特別な意味を最初にお話しされるに決まっています。私にはその深い意味が分かりません。

 小学校の担任の先生方は教室を飾ることに比較的熱心です。それに対して中学校の先生方の中にはやや無頓着な方が大勢おられます。しかし教室は“学びの場”ですからそれにふさわしい仕掛けをしておいて損はありません。
 座右の銘を掲げておられる先生、自分の絵でちょっとしたギャラリーみたいにしてしまっている美術の先生、いきなり学級目標を掲げてしまう先生(生徒に話し合わせなくていいんか!?)、窓際にパンジーを植えたプランターの並ぶ教室、担任の願いが書き並べられている教室――私に真似のできるものもあればできないものもありました。
(ちなみに学級目標を自分で描いてしまう先生――「『学級目標』というのは学級運営の要だろう、こういうクラスにするぞという決意表明だろう、そんなもの子どもに任せられるか?」という立派な哲学をお持ちの方でした)

 さて私は――。
 やはり誰しも一番大切な決戦の場へは、自分の一番得意な武器を持って行きたいものです。
 私の場合、人生の節目の最も大切な出会いの日にふさわしい、将来にずっと残るいい話をしよう、入学式の校長先生のお話を忘れさせてしまうほどの話をしよう、そんなふうに張り切って出かけたと思います。

 ただしその上で何を話したのかは覚えていません。
 おそらくこんな話をしたのだろうという心当たりはあるのですが、大風呂敷を広げた後なのでとても話す気にはなれないのです。ハハ。


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2017/4/3

「平成29年度が始まります」  教育・学校・教師

 平成29年度が始まります。
 学校という場所には様々な良き点がありますが、そのひとつは、年に3回も心改めの日があることです。中でも新年度の始まりは格別です。

 一般企業でも入社式があり、人事異動によるメンバーの入れ替わりもあって雰囲気が一変するかと思いますが、一年を単位に同じことが繰り返される学校ではすべてが振出しに戻る――死ぬほど嫌な年だった人も、どんなに素晴らしい一年だった人も、4月1日をもって最初からやり直さなくてはならない――その感じがなかなかいいのです。
 去年うまく行かなかった部分がもう一度やり直せる、新しいメンバーと違った工夫ができる、新しいクラスを担任できる、新しい選手と新しいチームをつくることができる――ただしそんな“いい感じ”は教師や学校側のものであって児童生徒や保護者の“新年度”はまた違った趣を持っています。

 それは“新しいすべての始まり”ということです。私たちにとっては慣れたものであっても、子どもや保護者にとっては初めての世界です。
 1年生はもちろんのこと、それぞれ一段ステップアップした子どもたちは新鮮な気持ちで新しい世界に足を踏み入れようとしてます。2年生のボクは1年生のボクと全く違ったものなのかもしれません。3年生のワタシは2年生のワタシとは同じではないのです。新しい世界を生きる新しいボク・ワタシ、であるはずです。そうした気持ちをきちんと受け止めてやらなくてはならないでしょう。

 昨年、散々てこずらせてくれたA君は、今日からまじめで一生懸命なA君として登校してくるのかもしれません。もちろんそう簡単に人間が変わるわけはありませんから本人がどんなに真剣に取り組んでもすぐに“元の木阿弥”かもしれませんが、とりあえず、新年度のA君は特別の存在として扱ってあげましょう。
 かくありたいというその子の願いを察知し、そういう子であるかのように対応し、そういう子であり続けるよう支えて行かなくてはならないのです。
 たとえ三日で終わりそうでも、もしかしたら四日目もそうなのかもしれません。

 私はかつて、たった一週間で学校全体が変わってしまうのを見たことがあります(2012/4/4
いよいよ明日は
)。それも新年度の最初の一週間の出来事でした。

 さあ始業式まで〇〇日、その奇跡の日に向けて十分な準備をしておきましょう。




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