2017/4/13

「当世本邦都会の保育園事情」A  教育・学校・教師

 園庭が小さく遊具もないのは、都会の保育園として致し方ないでしょう。何しろ土地代がハンパではありませんから。園舎自体は適切な大きさかと思いますが遊戯室(プレイルームというらしい)は狭く、入園式では祖父母が遠慮しなければならないほどの狭さだったと聞きます(私たちは行かなかった)。
 ただしその他の設備は整っていて、私がシーナやアキュラを育てていたころとはまったく違います。それが時代の変化によるものか田舎と都会の違いなのかは分かりませんが。

【降園の作法】
 私は“お迎え”の担当でしたからそこから説明しますが、まず敷地内に入るところから違う。門扉の柱にテンキーボードみたいなものがついていて、そこに暗証を打ち込まないと扉が明けられないのです。
クリックすると元のサイズで表示します しかも入室のセキュリティシステムは三か所もあって、外の門扉、中庭に入る門扉、玄関の扉と4桁の暗証を三回も数字を打ち込まないと入れません。悪心に駆られた人間がフラッと入るという訳にはいかないのです。

 ロックを開いて園舎の中に入ると最初にやるのが、ホールでタイムカードに時刻を打ち込むことです。登園時刻はどうでもいいのですが、降園が午後6時を過ぎると「延長保育」の料金が発生するのでどうしても必要な作業なのです。

 続いて子どものいる部屋に行き、そこで一覧表に手で時刻を書きます。
保育士さんが残っている子どもたちの人数等を把握するものらしく、私たちには二度手間ですが、タイムカードは一覧性がないので、やはり必要なのでしょう。

 子どもを受け取る前に、棚に並べられた連絡帳を受け取り、ロッカーの中の紙オムツの数を確認し、フックに掛かった汚れ物袋を取ります。こちらを先にやらないと、子どもが来てからではあれこれ気を遣わなければならないことも多く、忘れ物をしがちなのです(ということを最初の三日で学んだ)。

 子どもに声をかけ、名札を外して壁の「名札入れポケット」に入れて終了です。

 帰りはいちいち数字を打ち込まなくても手でロックを外せば出られます。けれどこれが案外難しく、最初の内は回転式のカギを90度回せば開けられることに気づかず、半回転させたり一回転だったりで結局表に出られず、外から来た人に開けてもらったりしました。
 出た後で忘れ物に気づいてもサッと戻るわけにもいかないので、面倒が先に立って諦めたりもしました。

 言い忘れましたが紙オムツの数を確認したのは翌日の“送り”の係(ウチの場合は父親のエージュ)が補充する必要があるからで、園によっては使用済みを持ち帰らなければならないところもあり、その場合は確認作業が不要になります。


【そう言えば昔は・・・】
 そう言えば、昔は紙オムツなんか使いませんでした。使っている人もいましたが私のところは徹底したケチなので布オムツで通したのです。
 朝、乾いた布オムツを何枚かもって出かけ、帰りは園で簡単に水洗いしてくれた使用済みオムツをポリバケツに入れて持ち帰ります。
 基本的に“迎え”は妻の仕事でしたが時には私が行くこともあって、そんな折は右手にシーナを抱え、左手にはずっしり重くなったポリバケツをぶら下げて、車まで歩いたものです。

 すっかり暗くなった帰り道、シーナが「デター」と言って空を見上げるので、何かと思ったら大きな満月が出ていました。
 誰かが「出た、出た、月が」と歌ってくれたので、シーナは満月のことを「デター」というのだと思ったのでしょう。懐かしい思い出です。

クリックすると元のサイズで表示します ところで、さて先ほどちょっとお話しした連絡帳。
私が子育てをしていたころは単なるA6ノートの往復でしたが、孫のハーブのものはA5を少し長くした大きさのもので、左半分が家庭から、右半分に園からの連絡を記入すように書式が印刷されています(右図)。
 驚いたことにそれが二枚複写になっているのです。
 一日が終わって左右が書きそろったところでコピーは切り取られて園で保管されます。将来のトラブルに備えて、同じものを保護者と保育園の双方で持つという配慮なのでしょう。

 いいことなのか、世の中が悪くなっているということなのか、考えさせられるできごとでした。

                          





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2017/4/12

「当世本邦都会の保育園事情」@   教育・学校・教師

 実は先週、およそ一週間の間(4/2〜4/7)、東京にいる娘シーナのところに行っていました。

 シーナが産育休明けで2年ぶりに職場復帰するのに合わせて、1歳9か月の孫のバーヴも保育園に入るからです。慣らし保育の期間があって、初日・二日目は11時降園(今回、この「降園」という言葉を初めて覚えました)、三日目・四日目が給食を食べての12時半、最終日に至ってようやく4時降園なのです。フルタイムで働くシーナにはとても対応できません。そこで4人のジジ・ババを見渡したところ、一番ヒマな私に白羽の矢が立ったわけです。

 私は“子育てが趣味”と言っていいくらい好きでしたし、「オムツ交換のできる男子」「子どもと何時間でも遊べる大人」というのにロマンや誇りを感じる人間なので一向にかまわないのですが、「ハーヴと二人ボッチが長時間」という状況もこれまであまりなかったので、少し緊張しながら東京に向かいました。そして多くのことを勉強したのです。

【本邦保育園事情】
 しばらく前、「東京の孫が4月から保育園で・・・」と言うと必ず返ってきたのが「入れるといいですね」という反応、“待機児童”は誰でも知っている大問題でした。

 ところがハーヴの入園を通して分かったことは、都会といっても千差万別――郊外だから楽ということも都心に近づくほど悪いということもなく、また同じ行政区の中でも自宅のある場所によって状況が全く異なるということです。ちなみにシーナの場合は比較的厳しい行政区であるにも関わらず、自宅から徒歩で15分以内に、連れて行ける保育園が8園もあるのです。ひとつの園の玄関から道路に出ると、隣の園が2つも見えるという潤沢さ、稠密さです。
 手続き書類には8園まで書きますが、“通う”ということだけで考えるとどこに決まっても似たようなものなのです。

 じゃあどこでもいいのかというと、そういうことにもなりません。内容がこれまた千差万別なのです。
 一方に同年が6名、全園児で30名以下という保育園もあれば同年20名、全体120名といった園もあります。
 園の規模によって保育士の数が決まるので、小さな園では年齢的な偏りができてそれも気になり始めます。

 園舎がビル中と畑の隣りとではまったく違った雰囲気になります。
 広い園庭がある、園庭があることはある、隣りの児童公園(あるいはお寺)が園庭替わり、そもそも外遊びはできない――は保育内容にかかわります。
 保護者のやること(登園時の体温計測、用品のチェック等)の多寡、保育士の年齢構成、保育サービスの内容、おやつの種類。
 子どもが発熱した場合でも預かってもらえる、夜間保育が併設されている等々のサービスは親の働き方を根本的に規定します。

 そうした条件がいちいち異なっているので、通う保育園によってその子と保護者の生活はまったく違ったものになってしまうのです。
 もちろん「入れればいい」のであって、それ以上は望むべくもないのですが、考えさせられる状況です。

【田舎は関係ない――こともない】
 私が住んでいるような田舎は、今のところ待機児童問題も保育園によって保育内容にバラツキがあるいった問題もありません。
 保育条件は市町村内で統一されており、広い園庭に囲まれた広い園舎が基本です。保育士も潤沢――というより余り気味ですから、自然に年配の、安心して任せられる感じの人が多くなります。
 淹れる側からすると、保育園や幼稚園に関しては何の問題もない、のですが、ここに実は、深刻な大問題が潜んでいるのです。それは田舎の村々が逆アマゾネス、男ばかり村になってしまうという問題です。

 平成不況の20年間に職業として人口が増えたのは介護職だけです。不況の中でも職があるということで多くが資格を取り、需要が多く待遇の良い都会に流れて行きました。その多くは女性です。
 続いて医療制度の改革によって看護師不足が起こり大病院では一気に100人もの看護師を採用するといった噂もあり、看護師資格をもった若い女性が都会に移動しました。
 そして今、待機児童が社会問題化したおかげで、都会では大量の税金が保育に投下され、深刻な保育士不足が起こっています。これも田舎が供給することになります。そしてやはり多くは女性です。
 つまり30年近くに渡って、若い女性がどんどん都会に流れてしまうのです。
 田舎が「男ばかりの都」になってしまう――。

【ハーヴの保育園】
 ところでハーヴの入った保育園は、というと、これが全くの新設園で、保育内容についてはすべてこれから、といった雰囲気です。たった1週間なのに、細々としたルールが実態に合わせて変わっていきます。しばらく様子を見ないと評価しにくいところです。
 希望の出せる8園すべての見学を果たしたシーナによると、「一番新しくて一番園舎が大きく、園庭も最大の園」だそうですが、田舎者に私からすれば、車5台も停まるといっぱいになるような園庭は「最大」という言葉を使って表現するようなものではありません。

                               (この稿、続く)

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2017/4/11

「年度初めに思い出す父のこと」A  親子・家族

 あまり思い出のない父について思い出しながら書いています。
 話そうとしたのは、私が二十歳になった年の秋、たまたま父が出張で都会に来た晩のことでした。

【父にとって特別な日、私にとっては平凡な日】
 新宿駅で待ち合わせた父は夕食に私を誘うと一緒にうなぎ屋に入りました。
うな重などという高価なものは、別に食べたくもなかったのですが父は「特上」とかを頼んでしまいます。その上お銚子を2本も頼み、嬉々として私に酌などをします。私は酒も飲みたくなかった、酒のためにせっかくのうなぎを十分味わえないような気もしていました。
 しかし父はほんとうに嬉しそうだった。

 しばらく当たり障りのない話をしながら(たぶんそうだったと思う)食事をし、酔いも回ってさて父の泊まるホテルまで送ろうかというときになって、父は突然、駅近くのパチンコ屋に私を引きずり込みます。その上100円も出せばたっぷり玉を借りられる時代に、200円も出していっぱいになった箱を私に押し付け、隣に座って打ち始めます。
 パチンコなんて二人で並んだらどちらかが必ず負ける、あるいは二人とも負ける(アタリ台が並んでいるなんてことはありえないから)、だから家族や仲間で並んで打ってはいけないのですが、隣に来たがる。私は少しイライラしました。
 勝てそうになかったからではありません。息子と一緒に酒を飲みパチンコをする、そんな絵に描いたような大人の親子物語を演じるのはかなわないと感じていたからです。

 最初からそういうつもりだと知っていれば、私ももっとうまく演じることもできたかもしれません。しかしいきなり特別な価値観を突きつけられて巻き込まれるのは御免なのです。
 もちろんそうした場合にもさっと対応できる優秀な“息子”はいようかと思いますが、私はそういう人間ではありませんし、そうしたことを親子で楽しむには小さなころからもっと丁寧な親子関係を紡いでおく必要もあったはずです。

 あっという間に玉を使い果たすと、私よりさらに早く終わってしまっていた父は追加の玉を私の箱に流し込みます。それも何となく嫌でした。
 そしてホテルへ送り――それだけです。以後、父と二人きりで飲むことは二度とありませんでした。

 父はこの日を心待ちにしていたに違いありません。息子と一緒に酒を飲みパチンコを打つ――もしかしたらその日のために頑張って仕事をしてきたのかもしれません。なのに私は少しもそれを楽しんでいない。私はその日のことを長く引きずりました。
 それで父との関係が悪くなることも良くなることもありませんでしたが、何か心に引っかかったのです。


【父と似ていること】
 後年、私も二児の親となり、けれど父とは全く異なる子育てをしました。厳しく自分を戒め、社会人として、家庭人として、均衡のとれた人生を送ろうと決めていたからです。
 仕事も子どものことも怠ることなく努めたつもりです。
 
 それは仕事人間だった父とは根本的に異なる生き方ですが、ただしそうした生活を送るうちに、子どもに対して全く異なる対応をしながら、自分の中に父とそっくりな部分を発見したのです。
 
 それは子どもが幼稚園に上がるとき、小学校に入学する時、3年生を終えて小学生を折り返すとき、中学校へ進むとき、高校への進学したとき、そして家から手放したとき、その時々で子どもへの対応を大きく変えたということです。
 小学生になったのだからこれは許そう、あれは禁じよう、中学生になったらあれはやってもらわなくてはならない、これはもうしなくていい――そういったことです。
 そして理解したのです。

 あの新宿の夜は、父にとってそうした切り替えの最後の一回だったのではないかということです。ひとつずつ昇ってきた階段の、最後のステップを踏んで以後、父は私の生き方に何も言わなくなりました。黙って出すときは金だけは出してくれた。
 就職のときも転職の時も、長く結婚しなかったことについても結婚することに関しても、家を建てることについても、一切なにかを言うということはなかったのです。

 そして新宿の夜、二十歳の私もそのことをうすうす感じていたのです。
 ただし当時の私はほんとうに根性なしの甘ちゃんで、まだ大人扱いされるだけの十分な自信がなかったのでしょう。
「もう大人だ、自分で決め自分で責任を取れ」そんなふうに扱われるのはたまらなく怖かったのです。
 あの夜の“嫌な感じ”には、そういった意味があったのだと、今は思うことができます。
 ですから私自身の二人の子については、大学を卒業するまでは子ども扱いにし、今も一人はそうしています。


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2017/4/10

「年度初めに思い出す父のこと」@  親子・家族


【震災の申し子】

 父は大正12年(1923年)の6月に生まれ、平成23年(2011年)10月に亡くなりました。歴史的には関東大震災の年に生まれて、東日本大震災の年に死んだということになります。

 生前、父はよく「関東大震災は3ヵ月で体験したが、あれはすごかった」などと申しておりましたがもちろん記憶にあるはずもなく、生まれた場所も東京からはるかに遠いところですから“経験”したかどうかもかなり疑わしいところです。
 ただし88年後の東日本大震災のときは体も頭もかなりしっかりしていましたから、“あの世”で「あれはすごかった」と吹聴してもあながちウソとは言えないでしょう。

 その父については、つい6年前まで生きていた人なのに、思い出として語ることがほとんどありません。それくらい疎遠でした。


【思い出のない人】
 特に家庭内に事情があるとか仲が悪かったとかではないのです。とにかく単純に、近くにいなかった、いつもどこかに出かけていて家にいなかったのです。

 普通の公務員で真面目な人ですから遊び歩いていたというのではなさそうです。ただ仕事が好きで、またすべきことも多く、当時の男性として当たり前のように家庭を省みなかった、それだけのことだったと思います。
 土曜日の帰りも遅く、日曜日も特別なことのない限り仕事に出かけていました。

 古いアルバムを見るともっと昔、私が幼少のころや生まれる前は、地域の運動会の仮装大会で出たり、雪山にスキーに行ったり、あるいはバレーボールの職員チームの監督だったりして、それなりに楽しんでいる様子がうかがえます。ところが私が小学校に上がったころ(父の年齢で言えば30代後半以降)、父の姿がアルバムからも私の記憶からも消えてしまうのです。

 やがて私は少年から青年になり、高校を卒業して都会に出ます。
 そこで12年暮らし、結局教員になって故郷に町に戻ったのですが、県内あちこちを異動していて実家にはいつかなかった、それでは父と疎遠になるのも無理ありません。

 さらに悪いことに、私は物心ついたころからずっと“いい子”で、父を煩わせることもなかったのです。それに対して四つ年下の弟は赤ん坊のころからかなり “悪い子”で、それゆえ父との間にたくさんの軋轢があって、思い出も持っています。
 喧嘩して3年も口をきかない関係だったのに年をとってからは随分そのことを悔いて、父を旅行に連れて行ったりあちこち食事に誘ったりと、かなりの孝行息子でした。父が亡くなったときには年甲斐もなく、嗚咽して涙を流していました、私は冷静だったのに。
 そんなものでしょう。

 そこから親子関係のについて重要なことが示唆されます。

 親は存在するだけでは子どもに何の思い出も残さない、一緒に何かをしなければ心に何ひとつ残らない――そういう至極当たり前の事実です。
 
 ただし、感傷的な思い出はないものの、よく考えると思い出す記憶がないわけではありません。そのひとつは私が二十歳になった年の秋、たまたま父が出張で都会に来た晩のことです。

                                  (この稿、続く)


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