2016/12/27

「お世話になりました」〜2016年、私の過ごし方  教育・学校・教師



【仕事のために家庭を犠牲にしない世代】

 私たちより上の、団塊の世代よりさらに上は、仕事のためにいかに家庭を犠牲にしたかが自慢になるような人々でした。教員の世界ももちろん、
「運動会なんて何十回やったか分からないが、自分の子どもの運動会には一度も言ったことがない」
とか、
「子どもの担任の名前を、ついに知らないまま終わった」
とかが堂々と語られ、家族のために休みを取るなどとんでもないことだと信じられていたのです。

 ところがちょうど私が教員になったころから、不登校や家庭内暴力が教育問題として沸き上がってきて、それがけっこう教員一家にも見られるようになってきたのです。
「○○先生のところのお子さん、最近学校に行っていないみたい」
「△△先生の奥さん、また警察に呼ばれたらしい・・・」
 そうした噂はいわば、
「オマエ ガ 仕事二 カマケテ イルト 家デ 大変ナコト ガ 起コルゾ」
と脅迫されているようなもので、その声を私は聞いたのです。
 自分の子どもが学校に行かなかったり家庭で暴れていたり、あるいは非行に走っている状態で他人のお子様への指導もへったくれもありません。どんなに素晴らしいことを語っても保護者や生徒の目は「だけど先生、自分の子ども指導すらできないじゃん」と言っているように見える――そう見えただけで指導の矛先も鈍ろうというものです。


【社会と家庭、あわせて100点】
 ですから私は家庭人としての仕事にも非常にエネルギーを注ぎました。私、以降の先生方にも、そういう人は多かったように思います。学校のために家庭を犠牲にすると、それが仕事に差し支えることが少なくないと、わかってきたからです。
 そして私は自分の子どもも含め、若い先生方や生徒には、いつもこんな話をしてきたのです。

「私たちはね、社会人として50点、家庭人として50点、合わせて100点で満点になる人生を生きているようなものなんだ。社会人として完ぺきな生き方をしても、家庭がダメならその人の人生は50点でしかない、どんなに家庭を大事にしてもそれだけでは50点を越える人生は送れないということだ。
 私は教員として最高の仕事を成し遂げたわけではない。けれどもちろんそれなりに頑張りもしたから自分で自分に7割の評価を上げよう。
 家庭人としてもよく努力してきたからこちらも7割、つまりそれぞれ35点ずつ与えて合わせて70点の人生、そういうことになる、――70点の人生、悪くないだろ? 仕事ばかりにかまけていても家庭にばかり集中していても取ることのできない数字だ」


【家の中は意外と大変だった】
 この4月に、公的な仕事の一切をやめて、私はひたすら家庭人として私事だけに専念してきました。
 以来どうやって過ごしてきたかというと、朝から家事の大部分をし(妻がまだ正規の教員ですので忙しい)、89歳の母の面倒を見、娘や息子のことを気にかけ、畑を耕し、本を読み、サイトやブログを更新し、家の片づけをする、それがこの9か月余りにしてきたことのすべてです。それだけでとんでもなく忙しかった!!

 特に室内の片付けというのは、その際限のなさに呆れるばかりです。
 履きもしないズボンが数十本(そのうち三分の一は独身時代のもの)、かけたままのネクタイも数十本、防寒着は10点近く出てきました(全部重ね着したら雪ダルマだ)。
 書籍の整理は諦めるにしても、読みもしない教育雑誌のバックナンバーが数百冊。渡り歩いてきた学校の学校要覧、研究のまとめ、修学旅行などの各種旅行記・文集。
 
 カセットテープ数百本(カーステレオに使っていた音楽テープはまだしも、研究会の記録だの講演会のテープなど、なぜ捨ててこなかったのか)。
 写真スライドは数百枚。これなどすでに投影機が存在しません(「写真スライド」と言っても若い人は何のことかわからないでしょう)。
 その他、CD、DVD、フロッピーディスク(5インチFDなんて見たことないダロ?!)。
 家のあちこちに散らばって置いてあった文房具(ハサミだけで12本、カッターは各種8本もあった。その他、消しゴム、ボールペン、マジック、サインペン、ゼムクリップ、定規・・・)。
 信じがたいことに謄写版用のガリ版と鉄筆(「謄写版」「ガリ版」「鉄筆」が何のことかわからない人も多いと思うけど)等々々・・・。

 なにが「家庭人として7割」か。いつのまにか家が雑然とした倉庫と化していて、それに気づかなかっただけじゃないか! 何もしてない!
 畑だって鉢植えの植物だって、今年になって知ったことも山ほどあるじゃないか!


【来年もよろしくお願いします】
 かくて周囲からは「悠々自適」などとからかわれながら、しかし内実は以前よりもずっと忙しく悪戦苦闘の日々を過ごしてきたのです。
 2016年、それにしても悪くない年でした。


*学校の年末年始休業に合わせて明日からしばらくお休みします。
 新年のあいさつを除いて、次回の更新は1月8日(月)1月10日(火)を予定しています。それでは皆様、良いお年を!!



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2016/12/26

「サボテンと不揃いの階段」  教育・学校・教師


【なんと愚かなことを!】
クリックすると元のサイズで表示します ジャコバサボテンが今年も花芽をつけていよいよ花開きそうになったので、暖かな居間に入れて毎日楽しみに待っていました。
 ところが何日たっても花が開かず、さらにしばらくすると白い蕾が黄味がかってきて、そのうちひとつふたつと落ち始めたのです。
なんと愚かなことか!
 鉢を育てるということはもう何十年もやってきたのに、どこか本気でなかったのか、しょっちゅう失敗します。
 寒いところで花芽をつけ始めた植物を、急に暖かなところに持ってきてはいけなかったのです。


【サボテンは周囲を見る】
 秋も深まり霜が降り、屋外気温が氷点に近づこうとするこの時期は、ジャコバサボテンにとって生命の危機を感じるときです。春から夏そして秋にとかけてと、何もせずにノウノウと怠け暮らしてきた植物の脳裏に「凍死」の二文字がちらつきます。
 生き残る道はほとんどないのかもしれない、しかしせめてDNAだけは残したい――何とか子孫は残せないものか、あるいは一度死んでも再び生まれ変わるというわけにはいかいないだろうか――ジャコバサボテンはそう思いつめます、そして思いつくのです。
「そうだ! この体はだめでも、寒さにも乾燥にも強い“種”の形でDNAを残し、暖かい季節になったら再び生きなおせばいいんだ!」
 そして“種”をつくるべく、その前段階として花を咲かせようとするのです。状況の良かったときはまったくする気のなかった努力を、今初めてしはじめます!!

 ところがそんな状態の時に、私は鉢を暖かな居間に移してしまったのです。しばらく頑張ることに忙しくて変化に気づかなかったジャコバサボテンも、次第に理解していきます。
「あれ? 寒くないじゃん?」
 最初は疑心暗鬼で慎重でしたが、やがて確信を持つに至ります。
「あ、このまま暖かい部屋にずっといられるんだ! もう花も実も種も造らなくていいんだ」
「今まで通りやっていても何も困ることはなさそうだ」
――そして生き方の舵を、大きく「安逸」に向けてしまうのです。
 暖かな居間い入れられたジャコバサボテンは次第に花芽を落とし始めます。


【植物は裏切らない、人は植物を裏切るが】
 学校の先生の中には植物栽培の好きなひとがかなりいます。
 斯くいう私がそうですが、教育は生身の人間相手ですのでしょっちゅう裏切られ、アテが外れ、努力のわりに成果があまりにも少なかったりしますが、植物は裏切りません。一方にそうした確実なものを置いておかないと、教育という仕事は続けていくのが困難なのかもしれません。

 植物は努力が反映しやすく、水や栄養の適量とか適温とかがはっきりしています。特に鉢物の場合、教科書に従ってきちんと管理すればまず失敗することがない、しおれても水をやればすぐに息を吹き返す、元気がなかったら日当たりの良いところに出したり追肥をすればどんどん大きくなる。ものによっては潅水を控え、別の植物には毎日たっぷりやる、そうすることでいくらでも思い取りに育てることができます。
 さらに言えば日照や温度を管理することで真夏に菊を咲かせたり、真冬にトマトを育てたりといったこともできます。昨日はそうやって騙されたイチゴが、全国で食卓に上っていたはずです。しかし人間をそんなふうに騙すことは絶対にできません。

【人間に時が訪れる】

 孫のハーヴが歩き始めました。先月の初めのことです。
 母親のシーナが20数年前にそうであったように、歩くことが楽しくてしょうがない様子です。とっとっとっと歩いてはコテッと倒れ、よっこらしょと立ち上がってはまたとっとっと、コテッ、コテッ・・・、全く飽きもせず、ニコニコ顔で果てしなく歩きます。まるで人間にとってこれ以上の幸せはないといった感じです。
 それにつれて歩く以外のこと、例えば発話なども進み、できることも多くなりました。バイバイ、いただきます、ごちそうさま、抱っこ!

 出産時に事故があってとても心配された子です。
 早い子だと生後3か月でしている寝返りができたのが10か月目。ハイハイは11か月でようやく前に進み始めました。その間は他の子がのしかかったり跨いでいったりするのを、仰向けに寝て、あるいは座ったままで、ただ黙って見ているだけでした。母親のシーナもその長い期間をよく落ち着いて眺めていたものです。
 シーナは辛抱強い努力家ですのでめげずに教えましたが、「いただきます」も「ごちそうさま」もいつまでもできませんでした。はめ込みパズルも渡されると床にガンガンたたきつけるだけです。それが時を得て、一気にいろいろできるようになってきたのです。

 以前、「私が先輩から教えられた最も重要なことのひとつは、子どもの成長は不揃いの階段だということです」といったお話をしました(「成長の階段」2010.01.29)。
 機が熟さないと人は成長の階段を駆け上がることができません。
 植物だって時期を見ないで水やら養分やらをガンガン注ぎ込めば死にます。人間の場合はそこまで単純ではないにしろ、与えたものが無駄になるだけではなく、もしかしたら目指したものとは違う、怖ろしい部分を育てることになっているのかもしれません。
 植物と違ってやったことの成果が出るのは、取り返しのつかないくらい先のことですので、それを恐れるのです。
 私はそんなふうに考えながら、学校教育と自分の子育てをしてきました。



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2016/12/22

「戦場〜子どもに何を伝えるか」  教育・学校・教師


【アレッポを忘れるな】
 19日、トルコの首都アンカラで、ロシアの駐トルコ大使が暗殺されました。犯人は22歳の警察官でその場で射殺されたそうですが、彼の「アレッポを忘れるな」「シリアを忘れるな」という叫びには心動かされるものがあります。
 もちろんテロは称賛されるべきものではありませんし、今回のロシア大使はシリアの反体制派や一般市民をいかにアレッポから平和裏に脱出させるかを話しに来た特使です、その人を殺されて怒ったプーチンは攻撃をさらに強めるしかないと言っていますから、市民の安全を考えるとかえって逆効果だったのかもしれません。
 22歳の青年の浅知恵と言えば全くその通りです(もしかしたら事態を複雑にしたい人々にそそのかされただけなのかもしれませんが)。しかしその心情には心惹かれる――。

 振り返ってみればロシアの本格介入は対ISということで国際社会が認めたものです。にもかかわらず攻撃を仕掛けた相手はアサド政権を足元で揺るがしている反政府グループの方。
 忘れがちですがその反政府グループは、“アラブの春”の中ではシリアの民主派と目されていた人々です。私たちはかつて本気で彼らを応援しました。
 その反政府組織がいま窮地に立たされているというのに国際社会は何もせず、独裁政権だったはずの政府側が勢力を取り戻すのをただ見ているだけなのです。


【ロシアは誤爆をしない】
 対IS作戦の中で、アメリカはしばしば病院などを誤爆して問題となりました。しかしロシア軍が誤爆したという話はまったく伝わってきません。
 ロシア空軍は誤爆をしないからです。

 聞くところによるとアメリカ空軍のピンポイント攻撃というのはとんでもなくすごいもので、「あの建物のあの窓から」というと本当にその窓の中に爆弾を投げ込むような落とし方ができるのだそうです。それでも誤爆をするのは、実は攻撃対象の情報が違っていて(ニセで)、敵の作戦本部と信じて攻撃した場所が病院だったりしたということなのです。爆弾の落とす場所を間違えたのではなく、落としてはいけないところに正確に落としてしまうわけです。
 またピンポイント攻撃というのは正確になればなるほど効果が上がらないという問題も出て来ます。それだけ正確だと攻撃を受けた側は、「あの建物が狙われている」と知った瞬間に100m離れるだけで被害を免れることができます。正確な攻撃のおかげで身の安全が保てるわけです。
 アメリカがISに対して長らく空爆をしながらなかなかことが進まなかった背景には、そうした事情があるのかもしれません。

 ところがロシア軍にはピンポイント攻撃がない。それを行う技術もなければ行おうとする意志もない、もしかしたらそもそもピンポイント攻撃の概念もない。目標があれば「その辺り」に爆弾を落とせばいいのですから非常に簡単です。
 しかし受ける方はたまったものではありません。アメリカの空爆と違ってどこへ逃げても爆弾が落ちて来る、民間人に紛れ込んでも落ちて来る、安全と言える場所はどこにもない――。

 そしてその状況は民間人も同じなのです。どこにいても爆撃される。


【子どもたちに何を伝えればいいのか】javascript:void(0);
 今、アレッポで起きていることはそういうことです。たくさんの子どもや女性が命の危機にさらされています。それなのに国際社会は何もしようとしない、心を動かそうともしない。
 アレッポ市民はアサド政権と国際社会によって、二重に孤立させられているのです。

 そうした状況に対して私はどうか、何を考え、どうしようとするのか――。
 結論は明らかです。私は何もしない。今までもこうした状況でただ指を咥えて見ていましたから今回もそするはずです。
 先月、シリアに防寒着を送る活動というのがあることを知って、家にある冬物を整理してきれいなものを送ろうと思い――思っただけで忘れてしまいました。
 私にとってその程度のことだったと言うのも、私がその程度の人間だというのもどちらも正しい言い方です。

 教職の現場にいるとき、私はしばしば授業を端折ってその時々の社会状況だとか世界情勢だとかについて話しました。社会科を過去の物語や遠い世界の話にしたくなかったからです。
 しかしそうして話している最中も、私は実は、自分がどういう願いをもって子どもたちに語り掛けているのかよくわからなかったのです。
 もちろん事件が単なる絵空事として通り過ぎていくのは困る、しかしだからと言って生徒が報道カメラマンとして戦地を飛び回るようになったらそれでうれしいかと言うとそうではない。アレッポは女性戦場カメラマンの山本美香さんに亡くなった街です。教え子がそうなることは望みません。
 あるいは駆け付け警護ができるようになった自衛隊に入って、紛争地で直接現地の人々を助ける仕事についてくれたら喜ぶかと言うとそれも違います。
 自分の子ならまだしも、人様の子どもが危険な場所に向かうことを教師は積極的に望んではいけないという気持ちがあります。

 だとしたら何を望むのか――そう心に問いかけて、いまだに答えが見つからず今日にいたっているのです。

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2016/12/21

「ポスト真実とおでんツンツン男の物語」B  教育・学校・教師


【そこは秘所】
 かつてネットの社会は匿名が基本でした。営業に使う人を除けば普通はハンドルネームを使い、身元は極力知られないように苦労しました。かくいう私も文章内で細かくウソをつき、粉飾し、直接話をしたいという切実な願いにも背を向けて自分のサイトやブログを守ってきました。
 それはネットの世界で自由に生きるために、リアルな世界を遮断しておく必要があったからです。ネット上の責任をリアルな世界で取らされるのはかなわないし、逆にリアルな世界の人現関係に縛られてネット上で自由にものが言えないこともいやだったからです。
 最大の悪夢はPTA総会で、「この学校の教師にはネット上でこんな発言をしている者があるが、校長はどう考えるか」と指摘されることです。私個人が責められれるなら辞めれば済むことですが、学校の責任にされると様々に面倒です。
 退職した今はかなり脇も甘くなって一部の人にはサイトやブログの存在を知らせたりしていますが、それでも不特定多数に公示する気になれないのはそのためです。

【2013年のバカッター】
 ところがツイッターだのフェイス・ブックだのといったSNSがネットの主力に躍り出てから事情が変わってきました。参加者はあまり匿名性を意識しない、仮に偽名を使っても、「〇〇ナウ」とか言って位置情報をガンガン出したり画像をバンバン貼り付ける。文字情報と違って画像や動画は一場面に含まれる情報量がハンパでありませんから、かなりのことが判別できます。
 写真の背後を走るバスのデザインから都道府県が類推できる、トラックの横にかすかに見える「○○土建」からさらに場所が絞り込まれる、そんなふうにしていくと場所はほとんどピンポイントで特定される。
 おまけにネット上ではニューヨークと隣町の区別がつきませんから、「こんな風景、誰が見たってわかるはずがない」と思うその街並みを、今、歩きながらスマホと見比べている人もいたりするのです。しかしその危険さは掴みにくい。
 2013年の流行語大賞にも入選(4位)した「バカッター」はその“掴みにくさ”にはまり落ちた若者たちの騒動で、彼らは自分たちのアップした画像が無限に拡散して回収できないこと、匿名で出した情報もあっという間に発信元を突き止められてしまうこと、そしてリアルの世界で責任を取らされる場合のあることを、のちに身をもって知ることになるのです。
 やっていることは数十年前の若者(つまり私たち)と大差はないのに、反応や影響力、しっぺ返しも数千倍といったところです。

【ヤツは何者なんだ?】
「おでんツンツン男」はそのバカッターの後継には違いありません。しかし彼が特異なのは、コンビニのおでん鍋に指を入れて「ツンツン」と声に出しながら突っつく動画を、自らアップしてそれがネット上で拡散し炎上しても全く意に介さなかった点です。むしろ楽しんでいた。
 自ら姓を名乗り、「2ちゃんねる」に取り上げられた言っては喜び、鼻をほじくりながら「ハンセイしてま〜す」とさらに挑発する――2013年のバカッターたちが炎上の時点でうろたえて画像や動画を消し、アカウントも削除して何とか自分の形跡を消そうとしたのとは対照的で、リアルな世界のマスコミが押し寄せ、警察の手が伸びて初めて慌て反省をしたみたいですが、その直前まで、まったく事態を理解せず、来るべきものに思いを馳せることもできなかったようなのです。
 ヤツは何者なのか?

 28歳、プロのスノーボーダー、2児の父、妻は美人モデル――まんざら社会の欠格者でもなさそうです。母親の言う通りのただの“アホ”ならいいのですがそうでないとしたら怖ろしいことです。
 商品のおでんに指を突っ込んで廃棄処分に追い込み、さらに鍋の洗浄もさせる、風評による営業不振にもつながりかねない――そうした威力業務妨害という客観的事実よりも、「面白いこと」「受けること」が優先される世界、彼はそこに生きていたわけですから。

                                  (この稿、終了)
 
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2016/12/20

「ポスト真実とおでんツンツン男の物語」A  政治・社会


【坂本金八の亡霊】
 マスメディアは正しい情報を、流していないのではないか、そう疑う人は多いでしょう。それは自分がよく知る世界が描かれたときに感じます。
 例えば私の場合は学校。
「ごくせん」や「GTO」くらいハッチャケると誰も本気のしないからいいのですが、中途半端に真面目だったりすると厄介です。「3年B組金八先生」などもう40年近くも前の話なのに、いつまでも亡霊のごとく立ち現れます。
(「素人の武田鉄矢さんにできることが、なぜプロのアンタにできないんだ?」by保護者、といった具合に)
 あんな部活顧問もしない、生徒と同じ時間に登校してくる、チーム支援もできない教師が、何ほどのものかと思ったりもするのですが、その論理が通用しない人には通用しません。
 教員だったら皆同じ気持ちで「金八」を見ていたはずです。そして他の職業であっても、同じような苛立ちや被害を感じながら、マスメディアに接している人は多いのではないでしょうか。

【医師や公務員は悪人なのか】
 例えば人気ドラマ「Doctor-X 外科医・大門未知子」のオープニング・ナレーションはこうです。
これは一匹狼の女医の話である。
大学病院の医局は弱体化し、
命のやりと りをする医療もついに弱肉強食の時代に突入した。
その危機的な医療現場の穴埋めに現れたのが
フリーランス…すなわち、一匹狼のドクターである。


 私たちはドラマの中で、大学病院の医師たちが患者の命よりも出世や勢力争い、金のために奔走するのを見ます(主人公のみ別)。もちろん大人ですからそのまま鵜呑みにしたりはしませんが話半分、あるいは9割フィクションと思っても、残る部分があります。
 さらに連日医療事故や誤診のニュースが流されると、心の隅に固いしこりのように、小さな疑念が宿ります。そうした状況を、実際の医師や看護師たちはどう見ているのか。

 あるいは、「外務省の伏魔殿」とか「都庁の伏魔殿」とか言われる政府・地方公共団体の役人たち、己の出世や天下り先確保のために日夜奔走しているように言われますが、実際どうなのでしょう。
 かつての私の教え子は、「なぜ日本には“官僚”がはびこっているのですか? “官僚”をなくすことはできないのですか」と真顔で質問してきましたが、熱心なニュース・ウォッチャーの彼に、“官僚”と“悪人”の区別がつかないのは無理なからぬことだったのかもしれません。 
 ただし、私の知っている公務員は大部分が小心翼々とした普通人で、誠心誠意、真面目に業務を果たしている人たちです。彼らの目にそうした報道や議論がどう映るのか、想像に難くありません。

 困ったことに医療ドラマにも非常に質の良いものもありますし、報道バラエティにもまじめなものがたくさんあります。悪いものばかりなら問題ないのですが玉石混交なので難しくなります。

【ウソつきが一から十までウソをついてくれるなら楽なもんだ。困ったことにアイツら半分は本当のことを言う】
 インターネットの草創期、ネット情報のほとんどはとるに足らないもので、あの野口悠紀雄さんでさえ『「超」整理法』では使い物にならんと言っていました。それがわずか6年後には『インターネット「超」活用法』などという本を書くようになったのですから、この世界の成長は凄まじいもでした。しかしもちろん正しい、正確な情報だけが増えて行ったわけではありません。言うまでもなく、こちらはマスメディア以上の玉石混交さです。
 さてその上でマスメディアとネット、どちらを信じるか――。

 つい最近までそれは設問にすらなりませんでした。
 日本放送協会や民放各社、新聞社など顔の見える組織が運営しているマスメディアの方が信頼できるに決まっている――誰もがそう思っていられました。しかし今はそうでもありません。
 メディアが独立したものでなく、政治家と結託してことを進めているとしたら、真実はむしろネットの中にこそあるのかもしれない――玉石混交とはいえ確実に宝玉のあるネット社会の方が、すべてが欺瞞に覆われた現実社会よりむしろ確かではないか、玉と石とを区別する能力さえあれば確かな情報をつかむ可能性はこちらにこそある――そしてオレにはその能力がある――。

 かつて現実社会とネット社会との間には明確な壁があり、彼岸と此岸は厳しく分けられていました。しかし今や二つは同じ地平にあって人々は意思に従って自由に選び取るようになったということです。
 そしてそのうちに、今、自分がどちらの側にいて何をしているのか分からなくなる人間も出てきます。
「おでんツンツン男」はそのような人なのかもしれません。

                                (この稿、続く)


2

2016/12/19

「ポスト真実とおでんツンツン男の物語」@  政治・社会


【ポスト真実】

先月中ごろ、新聞に次のような記事が出ていました。

「ポスト真実を選出」 〇英 今年注目の単語
【ロンドン共同】
英オックスフォード大出版局は16日、今年注目を集めた英単語として「客観的な事実や真実が重視されない時代」を意味する形容詞「ポスト真実」(POST-TRUTH)を選んだと明らかにした。英国の欧州連合(EU)離脱をめぐる国民投票や、トランプ氏が勝利した米大統領選挙の選挙運動の過程で使用頻度が急増したという。
 「ポスト真実の政治」などの形で使われ、真実や事実よりも個人の感情や信念が重視される米英の政治文化や風潮を表現していると評価された。
 米大統領選の運動期間中には「オバマ大統領が過激派組織『イスラム国』(IS)をつくった」といった主張がネットで出回ったほか、英国のEU離脱派も「英国はEUに毎週3億5千万ポンド(約476億円)拠出している」などと事実に反するスローガンを使った。

「ポスト真実」という言葉自体が怖ろしい響きを持ちます。なにしろ『真実』が表舞台から退席してしまうわけですから。
 
 今回のアメリカ大統領選挙ではボランティアが最初から候補者の発言をチェックしており、トランプ(当時)候補の発言はその7割がウソや錯誤であることが明らかになっています。また同じ時期、SNSでは「オバマIS創始者説」ばかりではなく、「1970年代、オノヨーコとヒラリー・クリントンの間に性的関係があった」とか「ローマ法王がトランプ支持を明らかにした」といったヨタ話が蔓延していました。
 そんな怪しげな情報が、しかしアメリカ国民には信じられた、そしてトランプ次期大統領が誕生したのです。
 さらに遡ってブレグジット(英国のEU離脱)の際の離脱派幹部の鮮やかな引退、主張の取り下げを思い出すと、「ポスト真実」は笑い話ではなく、ほんとうに世界から“真実”や“正義”が退出してしまうのではないかと、怯えざるをえないのです。


【汚いホンネがまかり通る】

 思えばネットの広がりは、これまでマスメディアが扱わなかった“事実”や“ホンネ”を次々と打ち出してきました。
 たとえば人権問題が起こるたびにテレビや新聞は「本当に困ったものですねぇ」とか「絶対許せません」といった発言は取り上げるものの、「差別されて当然!」とか「あんな虫けら、なんで大切にしなくちゃならねぇんだ!」といった“正直な私”には目もくれませんでした。と 
 ところがネット社会では堂々と発言が取り上げられ、次々と市民権を得ていきます。マスメディアが扱わない分、“非マスメディア的な真実”“秘話”“隠された真実”といったかたち信憑性が深まっていったのです。
“メディアの伝える真実”と“ネット上の真実(私の真実)”はこうして対置されるようになり、等価で検討されるようになりました。


【マスメディアは正しい報道をしていない】

「ポスト真実」は「客観的な事実や真実が重視されない時代」というのが定義ですが、おそらくネット住民はこれに反発するでしょう。
「そうじゃない! 政府やマスメディアこそ客観的事実や真実を伝えてこなかったじゃないか!」
 私も一部賛成です。
 教員でしたから学校や教員、授業や子どもの実態についてはほかの人よりものを知っています。そうした目から見ると、マスメディアから聞こえてくるアナウンスのほとんどが間違っていたりお門違いだったり、あるいは著しく偏向していたりするのです。
 先週お話ししたPISAの分析記事などもそうですが、国立教育政策研究所もメディアも、間違った方向に私たちを引きずり込もうとしている、そう思うことがしばしばなのです。
 私は、そうした政府やメディアに対する腹立たしさからサイトを立ち上げブログを書き始めた。しかし他の業界の人々だって、同じように苛立ちを募らせているはずです。

                              (この稿、続く)

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