2016/11/2

「絵画鑑賞の喜び」A〜モネ  芸術・音楽


 三十数年前、私は十年以上住んだ東京を離れ、田舎に帰る決心をしました。それなりに傷ついた帰還でした。
 その最後の年は“とにかく遊ぼう、東京を満喫しよう、学校や職場とアパートを往復するだけの生活を見直し、ここでなければできないことをしよう”と頑張った1年でした。具体的に言えば、演劇を見て音楽を聴いて、絵画を見るということです。そのひとつが国立西洋美術館で開かれた「モネ展」です。

 有名な「睡蓮」のシリーズはもちろんのこと、日本の浮世絵の影響をはっきりと示す「ラ・ジャポネーズ」や「国会議事堂」、「ルーアン大聖堂」も出展される大掛かりなものでした。そもそも「印象派」というグループの名前の元となった「印象、日の出」も展示されていたのです。
 その後、何回か「モネ展」と称するものを見てきましたが、あれほど大規模な展覧会はなかったように思います。

 しかし初めてのモネは私にとってさほどのものではなかったのです。何がいいのかさっぱりわからない――。大学生だった弟と一緒に行ったのですが弟の方も首を傾げている。
 結局、1時間半ほどかけて全部を回り、最後の部屋を出ようとしてまだ未練があり、その部屋の出口で何の気なしに振り返ったのです。そして20mほどの先の正面の絵が、特別な意味をもって立ち現れたのです。
クリックすると元のサイズで表示します 「ルーアン大聖堂、朝」です。最初見たときは何が描いてあるのかも分からなかったのに20m離れると朝もやの中に立つ聖堂の姿が鮮やかに浮かんで見えるのです。私たちは驚いて館内を逆進し、最初の部屋に戻って一からやり直しです。 見方を変えると、すべてが了解できました。

 印象派は形にこだわりません。形が正確なことを求められると絵画は写真にかなわないからです。印象派が生まれたのはちょうどそういう時代でした。
 そのかわり光に対するこだわりは強く、ルネサンス以降ひたすら暗くなってしまった画面を日本の浮世絵のように明るくする方法が模索されます。そのひとつが色の視覚混合です。
 パレットの上で絵具を混合するのではなく、キャンバスの上に重ね塗ることで色をつくるでもなく、目の中で混ぜ合わせる――カラーテレビを例にするとわかりやすいのですが、極端に言えば光の三原色だけで描いても、離れて見ると色は混ざり合い、それぞれの色彩となって現れるのです。印象派の画家たちが真剣に求めたのがそれです。

 モネも晩年に近づくと形はどんどん失われ、ただ光への希求だけが見えてきます。ですから例えば「国会議事堂」などはほとんど形がなく、近くで見ると何が描いてあるかさえ分からないのです。カラーテレビをルーペで見るようなものですから。
 昨日お話した「モネは本物を見ないとわからないことが多い」というのはそういう意味です。
 よく絵画展の会場で、絵に近づいたり遠ざかったり何度も繰り返して見ている人がいますが、それはそういう意味なのです。遠く離れないと絵が見えない、近づかないと技法が見えない、だからそうなります。

 以来私は、大きな展覧会には必ず足を運ぼうという気持ちになりました。



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