2016/9/30

「アメリカ人は肩がこらない」  知識


 知り合いがひどい肩こりになったという話を聞いてふと「ストレスで肩こりってことあったかな?」と思い、検索にかけたら思わぬ情報が出てきました。それは「アメリカ人は肩がこらない」というものです。

 それによると、
@さまざまな調査によって外国人は肩こりを感じないことがわかっている。
Aその中には日本人と同じアジア系である中国人や韓国人も含まれる。
Bそもそも外国には「肩こり」という言葉自体が存在していない。
Cだから、もし肩の周りの筋肉が張っていたとしても、自分の肩がこっていることに気付いていないケースが多い。
Dただし、外国人が日本にきて「肩こり」という言葉を知ると、その瞬間から感じ始める。
E肩こりは一種の「気づき」による精神的な疾患なのかもしれない。
F実は日本人もこの「気づき」によって肩こりを獲得してしまった。
G夏目漱石が「門」において「指で圧してみると、頸と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝っていた」と書いた一行によって、私たちは肩が「凝る」ことに気づき、以後肩こりに苦労するようになった。夏目漱石は絶大な人気作家だったから一気に広まった。
H漱石以前に「肩こり」という言葉はない。
I日本人が肩こりに気づきやすかったのは、低い位置で食事をしたりする生活習慣とのかかわりがあるのかもしれない。

 目からウロコ、耳から垢。

 何だ「肩こり」なんてほぼ100%精神性じゃないかと、さっそく困っている知り合いにメールし、このブログでも紹介しようと文章を書きかけ、そのうち初老性健忘症のために漱石の作品が「門」だったのか「それから」だったのか分からなくなって再検索。そのときたぶん、検索ワードを前と違うものにしてしまったのです。その結果出てきたのは、これ。

「肩こりは日本人特有の症状である!という定説の真偽について」

 え? あの話、ウソなの?

 結論から言うと、嘘ではないが間違い、誤りと偶然が重なってそうなったのです。
外国人に「肩こり」はないが「首こり」や「背中最上部こり」はある、英語で言えば、“Stiff shoulder”はないが “stiff neck”や “stiff upper back”はある、ということです。
 考えてみると、そもそも私たちが「肩こり」と呼んでいるのは腕の付け根(肩)の疾患じゃない。首、もしくは背中最上部の筋肉の“こり”です。だから“stiff neck”とか“stiff upper back”といえば外国人もわかるのに直訳して“Stiff shoulder”なんて言ったりするから「知らない」「聞いたことがない」ということになってしまったのです。
日本人だって「腕のつけ根のところ、こったことある?」と訊けば「そんなのないよなあ」となるでしょう。

 考えてみると最初、「外国人に肩こりはない」という話の最中に頭の隅をよぎったものがあったのです。何か微かに引っかかるもの――それは映画「座頭市」(北野武主演ではなくずっと昔の勝新太郎のもの)一場面です。その中で主人公の市はしょっちゅう他人の肩(腕の付け根から首にかけて)を揉んでいるのです。
 時代考証が甘い可能性もありますが、まさか按摩という職業自体がなかったということはないでしょう。江戸時代の日本人だって肩はこったのです。
 その場面にこだわっていれば、まんまと騙されることはありませんでした。

 上記のサイトによれば、
 肩がこるという表現は、文豪・夏目漱石が最初とされていますが、それよりも前から、肩が凝る、張るという表現は使われていたという記録は残っております。夏目漱石の作品が、肩こりという言葉を広めたというのは事実と思われます。それ以前の江戸時代には、肩こりに該当する言葉として、けんぺき(痃癖/肩癖)と呼ばれていたようですが、一般的ではなかったようです。
だそうです。

 私はときどきこんなふうにまんまと騙されることがあります。

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2016/9/29

「アメリカ大統領選挙の憂鬱」  政治・社会


 多くの人がそうだと思いますが、今回ほどアメリカ大統領選挙に注目したことはありません。
 27日に開かれたテレビ討論会は、リアルタイムで見たわけではありませんがおよそ半日、チャンネエルをバシャバシャ変えながら各局の評価・解説を見たりしていました。
 CNNの直後の調査ではクリントンの勝利と回答した人が62%、トランプと答えた人が27%だそうですが、それがそのまま票に繋がるというものではありません。

 2000年のブッシュ対ゴアではテレビ討論で圧倒的な力を見せたゴアが選挙本番で敗れています。「討論の最中のゴアの冷笑的な態度が票を落とした」と今は説明されますが、どうでしょう? ブッシュの発言は明らかにトンチンカンでレベルが低く、テレビのこちら側でため息をついたり口元をゆがめた人も少なくなかったのです。ゴアの反応は何も特別なものではなかったのです。
 それにもかかわらずブッシュが勝利したのは結局、新大統領が決まったあと、毎朝テレビで見なければならないとしたらどちらが良いか――ひょうきんでヤンチャなブッシュと厳めしく退屈なゴアとどちらがいいのか、というのが判断基準となったからだ、当時はそう説明されました。理解できるところです。
 おそらく識字障害もあってブッシュは言葉をよく間違える、愛読書は「はらぺこ あおむしくん」だなどと言って周囲を呆れさせる、特に略称に弱く、IAEAなどはすぐに忘れて妙なことを言う。ところがそれを逆手にとってパーティーの余興ではそっくりさんと並んでわざと「EIEIO(イー・アイ・イー・アイ・オー)」と間違えて笑いを取る、そういう可愛いヤツなのです。

 もしそうした判断基準が現在も生きているとしたらヒラリーではなくドナルドです。こちらの方が圧倒的に面白そうなのは間違いありません。毎日なにか面白いことを面白い言い方で行ってくれます。
 トム・ソーヤー、アナキン・スカイウォーカー、ハリー・ポッター。アメリカ人が好きなのはたいてい自制心に欠け、無鉄砲で他を省みないガキです。鉄腕アトムとドラえもんとサザエさんとちびまる子ちゃんのわが国とは違います。

 クリントンであろうとトランプであろうと大統領になれば対日政策はあまり変わりないだろうとう評論家もいます(そう言えば反ユダヤ・軍国主義・拡張主義を掲げたアドルフ・ヒトラーが政権に就いた時も、専門家たちは“大したことはできない(はず)”と言っていました)。。しかし私はとりあえず、トランプの顔を見るのが嫌なのです。今後4年間アメリカに関わるニュースを見るたびにあの男が出てくるなんてまっぴらなのです。
 他人を小馬鹿にし、嘘とはったりと勢いだけで生きるような生き方は、教育関係者として許せないのです。
 ヒラリー、どうか頑張ってください。アメリカ国民の皆さん、どうせ4年間我慢するなら取らんうよりヒラリーです。


 ところで今回のアメリカ大統領選挙を見て、改めてつくづく思うのは直接選挙というのはどうしようもなくダメなものだということです。ド素人がアメリカ大統領になってしまうかもしれないからです。
 世界の命運が素人に任される、核のボタンが激情家が握られる、イスラム教徒を追い出せメキシコ国境に壁を造れ、日本や韓国が核兵器を持っても構わない、といった荒唐無稽がまかり通るかもしれないのです。
 アメリカ以外に目を移せば、ロシアでは元KGBの親玉が大統領となって人気を博しています。フィリピンでは暴力団の組長みたいな人が本当にボスになってしまいました(ただし私はドゥテルテには少し同情的なところがあります)。

 もっともその点では日本だって偉そうには言えないのであって、かつて東の東京知事が青島幸男、西の大阪府知事が横山ノックという時代がありました。東京は以来、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子です。知事としての手腕は別として、取りあえずテレビで顔を売って都知事選に出た人たちです。そうでないと選挙に勝てないのかもしれません。

 翻ってヨーロッパは、と見ると、最近安全宣言を出したというので初めて知ったのですが、パリ市長はアンヌ・イダルゴという55歳の美人です。
 今年の6月に選ばれたローマ市長ヴィルジニア・ラッジは言わずと知れた38歳の超美人。
 ヒラリー・クリントンも小池百合子も美人ですから美人じゃだめだと言うつもりはないのですが、なかなか素直になれないところです。

 その点、間接選挙だとイギリスのメイ首相やドイツのメルケル首相のような“それなりの”人が出てきて少し安心させられます(こちらの方がセクハラか?)。
 そんなふうに書いているうちに、今、日本で直接選挙による国家首脳の選挙が行われたら間違いなく村田蓮舫だろうなと思い当たって、また気が重くなりました。





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2016/9/28

「後世に伝えたいこと」  歴史・歳時・記念日


 最近まったく聞かれなくなった言葉に「戦前派」「戦中派」「戦後派」という言い方があります。第二次世界大戦を挟んで、青春時代をどこで過ごしたかで世代を分ける方法です。これがなくなったのはもちろん国民の大多数が「戦後派」になってしまったからですが、今後同じようにひとつのでき事を挟んで世代を分ける方法が出てくるかというと、私は東日本大震災とその復興期を挟んで、前か最中かその後かで分ける考え方が出てくるのではないかと思っています。いわば「震前派」「震中派」「震後派」です。

 東日本大震災は日本にとって大きな厄災でした。地震と津波だけならまだしも福島第一原発の事故も重なって日本のあり方を大きく変えてしまったのです。しかしどんな不幸の中にもポジティブな側面は必ずあり、震災について言えばそれは日本人が日本人を見直す契機になったということです。
 それまではテレビで本でも、日本や日本人の欠点・短所をあげつらうことが進歩的で正しいことだと思われていたのです。“専門家”や“コメンテーター”たちは、
「だから日本は世界からバカにされるのです」
「そういう点で日本は欧米から10年は遅れていると言えますね」
そう言っていれば仕事になりました。しかし東日本大震災以降、空気は一変します。

 震災報道の中で世界に発信された日本人の姿――略奪もなく暴動もなく奪い合うこともなく、困難に耐え他人を優先し、列をつくりものを分け合う。愚痴を言わず絶望もせず、明るく前向きに、互いに信じあって難局を乗り切ろうとする――その姿は海外の人々の評価を経てようやく私たちのもとに戻ってきました。
そうだ私たちはこんなにも素晴らしかったのだ!
 3・11を挟んでテレビの内容も一変します。
「日本人のここが素晴らしい」「外国人の憧れる国」「まだあった日本の美点」
 それはもうほとんどやりすぎとも言えますが悪いことではありません。ようやく胸を張って自分たちを語ることができるようになったのですから。

 しかし昔から日本人がそうであったように話すのは間違っています。百年も前からそうだったこともあれば、ここ数十年でようやく今のレベルに達したこともあります。
 例えば私が子どもの頃、道路にはタバコの吸い殻があちこちに落ちていて、ジュースの空き瓶やパンの袋やらがいつも散乱していました。都会の空気はどんよりと曇り、川も悪臭を放っていたのです。長距離列車に窓から乗り込む輩がいます。仲間と一緒に座るには並ぶより効率が良かったからです。車内では飲み食いしたものはすべて座席に下に押し込みました。

 つまり昔から日本人が立派だったわけではないのです。世界に評価される「素晴らしい日本」は最近ようやくできあがってきたもので、まだ幼く、危ういものなのです。

 私たち震前派がそれを生み出しました。けれどその幼いものを大切に育て、強靭な力にしていくのは次の世代――東日本大震災と復興を多感な青春時代に経験し、本気でこの国を建てなおささなければならないと考えた、つまり「震中震後派」世代なのです。

 それが私の「後世に伝えたいこと」です。


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2016/9/27

「おめでとう!イグ・ノーベル賞受賞」  政治・社会


 6年前にNHKの「クローズアップ現代」で見て感激し、このブログで紹介したころはイグ・ノーベル賞もまだまだマイナーで知る人も多くありませんでした。ところが今や毎年必ずニュースになり、職場や学校で話題になることもたびたびです。日本人も大活躍で、今年で10年連続の受賞だそうです。もっとも過去26年間のイグ・ノーベル賞で、日本人が受賞できなかったのはたった7回だけですから、もはや常連と言うべきでしょう。

 今年の日本人受賞者は立命館大学の東山篤規教授と大阪大学の足立浩平教授。受賞理由は「『股のぞき』をすると物の大きさは実際よりも小さく、距離は近くに見え、奥行きがなくなったように感じることを実験によって確認した」ことだそうです。すべてのものが逆さに見えるいわゆる「逆さメガネ」をかけてもこの現象はおきないので、この特異な現象は視覚の問題ではなく体を逆さにする感覚的な部分から生じることも証明しました。しかしそれが何の役に立つのか――。
 そこに実はイグ・ノーベル賞の価値があるのです。

「ポリエステル・綿・ウールでできたズボンがそれぞれラットの性生活にどのような効果を与えるか」
「白い馬がもっともアブに刺されにくい馬である理由と、トンボが黒い墓石に引きつけられて激突死する理由

 あるいは、
「体の左側がかゆいとき、鏡を見て右側をかくとかゆみが治まることを発見」
「その時々にアナグマ、カワウソ、シカ、キツネ、鳥となって大自然で生活した」
「両手足に装着してヤギそっくりに歩くことのできる装具を製作して、ヤギの群れに交じって野山を放浪して過ごした」
(以上、いずれも今年の受賞者の受賞理由)
等々、どれも「何の役に立つのか」「どういう意味があるのか」と問いたくなるような内容ばかりですが、しかし「何の役に立つか」と聞いたら科学は発展しないという事例は山ほどあります。

 例えば、
「アンペア」で知られるフランスの物理学者アンドレ=マリ・アンペールは電流と磁場の関係を発見した夜、感激のあまり、もう眠っていた助手を叩き起こして現象を見せます。すると助手は「先生、確かにその現象は分かりました。でもそれが何の役に立つのですか?」と訊いて師匠から激怒されます。
「『何の役に立つのか』と聞いたら科学の発展はない!」
 言うまでもなくアンペールの発見がなければ人類の近現代社会はありません。

 何の役に立つのかわからないイグ・ノーベル賞に日本人受賞者が10年連続。
 主催者のひとりマーク・エイブラハムズ氏はこんなふうに言っているそうです。
「日本はイギリスと並んで、ほかの国だと排除されてしまうような、本当に突拍子もない研究が次々と出てくる国だと思う。ほかの人と全く異なる発想の研究を尊重する風土があるのではないか。これからも突飛な研究をどんどん生み出して欲しい」NHKニュース
 日本人が日本人について語るとき、常に言われるのはこれと反対のことです。
(日本人はひとと同じであることを好み異質を嫌う。少しでも自分たちと違うものは排斥しようとする)

 どちらが正しいのかわかりません。しかしこんなユニークな研究ができるのも日本らしさのひとつなのかもしれません。
 アメリカの産学共同体のように「企業が金を出し大学が研究する、研究成果は企業が吸い上げる」という方式を取るとどうしても短期的に収益を生み出す研究が中心になってしまいます。
「笑いを誘うとともに、考えさせられ、つい友だちに話したくなるイグ・ノーベル賞」にうつつを抜かしている日本――それがきっと日本の科学技術の奥深さをつくっているのです。

 ところでこのイグ・ノーベル賞と本家のノーベル賞、ふたつとも取った受賞者はいるのかというと実はひとりだけいるのです。
 ロシア生まれのオランダ人物理学者、アンドレ・ガイム博士は2000年に「カエルの磁気浮上」でイグ・ノーベル賞も受賞し、2010年に「炭素新素材グラフェンに関する革新的実験」でノーベル物理学賞を受賞しています。
 その点からしても、イグ・ノーベル賞が単なる“おふざけ”でないことは明らかです。


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2016/9/26

「書けばよかったこと、書かなければよかったこと」  政治・社会


 いつも思うことですが、人間、怒ってはいけない、怒ると判断を誤ります。

 実は先週の木曜日、築地市場の豊洲移転についてブログ記事を書き始め、途中でふと浮気してネットニュースを見たらそこに件の“調査書問題”のコラムがあったのでそれでカッと血が昇って「調査書の話をするぞ」と一気に書いてアップしたのです。
 豊洲の問題は来週でいいやと思ったのですが、土曜日あたりから雲行きが怪しくなり、何か「大山鳴動して鼠一匹」みたいな話になりそうです。つまり私が予想した通りなのです。

 24日のNHKニュースによると、
『豊洲市場をめぐる問題で、専門家の提言に反して、建物の地下に盛り土が行われなかったのは、都の建築部門による「盛り土の上に建物を建てることは非現実的だ」とする認識が影響したと見られることがわかりました』(NHKニュース『建築部門の「盛り土の上に建設 非現実的」認識影響か』9月24日 6時25分)

 ひとが言ったあとで「ボク、それ知ってた。そう思ってた」というのはまさに後出しジャンケンで卑怯者のやることです。卑怯者と思われるくらいなら何も言わない方が得なのですが、その話が日本中のどこからも出てこなかったことが実に不思議なのです(私の知らないところでは出てたのかもしれませんが)。
 1億2600万人もいる日本人の中で私一人がそれに思いつくなんてことは絶対にありませんし、たぶん多くの人がそう思っているはずなのになぜその観点からの話が出てこないのか、それが謎です。

 これまであまり言ってきませんでしたが、私の家は公務員一家で父と弟が市役所職員(母は元市役所職員)、私と妻と娘が教員です。ほぼ全員が公務員かそれに近い職業で、民間企業の人間が周辺にまったくいないのです。そういった公務員感覚ムンムンの家で育つと、よくも悪しくも公務員根性というのはよく見えてきます。
 要するに冒険しません。少しでも山っ気のある人はこの世界に不向きです(というか普通は入ってきません)。根性なしですから汚職と言っても規模が小さい。もちろん例外はありますが基本的に億単位の金を自分の懐に入れられる公務員は政治家だけです。
 豊洲にしても、盛土をしないことで浮いた数百億円を自分のものにしようといった気骨のある悪人は、まずこの世界からは出てきません。みんな小役人なのです。
 仕事ぶりは誠実で丁寧です。失敗がないようにビクビク暮らしています。ですから上で決まったことを個人の裁量で覆すなんて思いつきもしません。

 豊洲の問題でも、関わった都職員は皆それなりに誠実な仕事をしたのです。しかしどこかにとんでもないポカがあった。Aが誠実な仕事をしてBも誠実で、Cも含めらた全員がきちんとやったのに、高い場所から俯瞰したらとんでもない不誠実なことになっていた、それが真相ではないかと思ったのです。

 さて、私は思うのですが、どこの建設現場に行ったって、ある程度大きな建物を建てるときには必ず建物分の穴を掘ってそこに土台を造ったり配管したりしますよね。地下の階がなくても1mや2mは必ず掘っている。
 そうなると豊洲の場合も、建物部分は必ず掘るわけじゃないですか。つまり当初の計画通りに進めると2mの汚染土を掘ってきれいにして埋め戻し、その上に別の土地から持ってきた2.5mの土を乗せ、しっかりと落ち着かせてからまた穴を掘って建物を建てる――そんあバカなこと、普通はしないだろうと思うのです。
 先ほど言ったように杓子定規にいったん全部盛土をして、それからまた掘ってもいいのですがそれこそお役所仕事、融通が利かない税金泥棒と言われかねない話です。掘って埋めて埋めてまた掘るわけですから。
 たしかに通常2mもあればいい地下空間が4.5mにもなったことには違和感があるかもしれません。しかし埋めたところを掘りなおすよりはるかに合理的ですし、建物下だけは盛土を2.5mとかするのは手間も経費もかかってかなわないじゃないですか。普通はそう考えるでしょ。
「いや、いや、いや。有識者会議の結論に従って全敷地に4.5mの盛土をし、その上に2mほどの高床式の建物を建てればいいじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが、そうなると建物以外のところはさらに2mほど上げないとどの建物も道路から直接入ることができなくなってしまう、建物が伸びたぶんパイル(地中杭)も長いものを使わなくてはいけない(盛り土に杭を打っても弱い)、さらに工事費も伸してしまう――。

「普通、そんなことはありえないでしょう。建物の地下は空洞で当然。考えるまでもない」
と建物屋さんは思ったのです。 
ところが土壌屋さんの方は、
「完全な汚染排除のためには合計4.5mの盛土が当たり前」
と考えていた。
 両者は話し合うチャンスがないまま、お互いの常識で動いてしまった。
 それが私の想像です。トボケた話ですが悪意のある話ではありません。
 問題は情報の共有が不十分だったこと、どんなに不合理でも盛り土はしなければならないという社会的コンセンサスに配慮が行き届かなかったこと、そのあたりでしょう。
 もし違っていればいけませんが、以上が「金曜日、やはり書いておけばよかったこと」です。


 一方、書かなければよかったこと、それは高畑裕太問題です。
 示談がすんだあと、週刊誌やテレビに「逮捕されるような事実はなかった(かもしれない)」といった話が続々出てきました。しかしそれは跡出しジャンケンの私以上に卑怯な話です。

 高畑裕太君の芸能界追放はほぼ決まりです。事実がないなら裁判で戦えばよかっただけのことです――。
 そう私は思うのですが、この話、元は単純なのに今頃複雑にしようとしている人がいるのか、そもそも難しかった話が実に単純化されて報道されたことなのか、よくわからなくなりました。
 したがって「そもそも話題にしなけりゃよかった」と後悔している次第です。


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2016/9/23

「調査書の話をするぞ」〜イライラしながら  教育・学校・教師


 雨のせいもあってちょっとイライラしているので、以下、丁寧な口調を改めて、投げやりな気持ちで書き殴ります。
 言葉が悪いからと言って、気分を悪くしないよう、お願い申し上げます。

『ハイ、ハイ、ハイ、いつものアレね。
 あなたたちは話題がなくなるといつもそれを持ち出して、しかも解決策を示さない。

「子どもたちは調査書(内申書)に縛られて自由にものも言えない。調査者が教師の管理に使われる、これは何とかしなくてはいけない――」
 そう言うからにはそれなりの解決の方向性でも示せばいいのに、いつも言いっぱなしだ。

 そもそも調査書重視はそれまでの入学試験一発選考という、分かりやすいが容赦のない方式の改善策として始まったものだ。当日、風邪をひいただの緊張感に押しつぶされたのといった気の毒な子どもを出さないために日ごろの学習の様子を見てもらおう、その上で成績に加味してもらおうというものだから当然“日ごろの学習の様子”が問題とされる。別な言い方をすると「三年間、真面目に一生懸命やった生徒」を救おうという仕組みなのだ。
 それがダメだというのは、おそらくそこに誤解があるからだろう。

・「内申点が欲しければ俺のお気に入りの生徒になれ」とばかりに自分の好き嫌いで点数をつける教師がいる。そのためうまくゴマをする生徒が高得点を取り、反抗的な生徒は不当に低い点数をつけらる。

・内申点を上げるために無理して部活動や委員会活動に精を出す生徒が出てくる。それが合う子はいいが、合わない生徒は塗炭の苦しみとなる。

・いじめられて死ぬほどの思いを味わっても学校や部活を休めない。そのため不登校や自殺に追い込まれる生徒も出てくる。

・中学校生活全体のいたるところで「良い子」が求められ、息苦しい生活が強いられる。

 学校教育の素人が言うのならまだしも、いやしくも「教育評論家」を名乗る人がその程度の認識じゃ話にならんだろう。

 私はかつてサイトにこんなふうに書いた。

 調査書(内申書)

 入試の際、高校に送る学業に関する書類一式。正しくは「調査書」だが、一般には「内申書」と呼ばれることも多い。
 生徒は恐れて戦々恐々としているというが(ホントかね?)、これも絶対に悪いことは書かないという原則にのっとった偽文書。

 下手に中学浪人でもされて1年余計に付き合わなければならないことを考えると、ぜひとも合格してもらいたく、教師はさらに熱心に書く。したがって先生に嫌われている生徒ほど、よく書いてもらっている公算が高い。

 だからといって嘘を書くわけにもいかないから
「わがままで好き勝手を言う」は「自己の願い・考えをよく理解しており、自己主張ができる」、
「乱暴で破壊的」は「元気よく活動的」
などと書いた。

 しかし(後に知ったのだが)高校は高校で、こうした偽文書の解読班がいて、いちいちそれを置き戻していたというからタマげた。

 現在は「内申点(各教科の評定点)」以外はほとんど記入しない。


            (「教育用語症辞典」→「調査書(内申書)」)


 書いた当時に比べれば調査書の記載内容はかなり増えたが(一種の揺り戻しで、一時は数値と名詞《○○部員、△△委員など》しかなかった時代から多少ふくらみを持つようになった)、基本となるのは中学校3年生になってからの学業成績(つまり何回か行われるテストの点数)、ノートの提出状況、発言の様子など客観的に説明できる範囲のものだ。
 文章として書く部分もあるが決して悪くは書かない。開示請求される可能性があるというのも理由の一つだが、同時に数十人が数校を受験する忙しさの中で、その子に受験失敗でもされたら本当に面倒だからだ。次の学校を探し本人や保護者と面談し、連絡を密にし、ミスのない調査書を作り直して書類を整え、送る。それだけでも神経を擦り減らす。
 教師にとって一番楽なのは、生徒全員が、志望する高校に一発で受かってくれることだ。そのためにも、生徒には一生懸命勉強してもらいたい。

 ところで、基本的に調査書の内容を本人に知らせることはないが、面接のある私立高校の場合、話に齟齬があってはいけないので文章部分について読んで説明することがある。そうしたとき、緊張の面持ちで面談にきた生徒が破顔一笑、スキップでもしかねないニコニコ顔で出ていくのを私は何度も見ている。

 調査書とはそういうものだ』

 しかし、調査書が子どもの自由を奪っていると考える方々が想定している「自由」というのはどんなものなのでしょう?
 まさか安倍政権を批判したり安保法制に反対するような子たちが押さえつけられているなどと考えているわけではない(そんな立派な子はたくさんいない)と思うのですが。

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