2016/6/8

「躾の問題」c〜メラビアンの法則・心にヤスリをかける  教育・学校・教師


「3歳以上だったら言葉で話せば必ず分かります」(尾木ママ)といった専門家のアドバイスにもかかわらず、私たちは言葉だけの指導に限界を感じています。一般人にとって、口で言って分からない子をどう分からせるかというのは、“専門家”の想像を遥かに越えて大問題なのです。
 今回の北海道の事件に際して「これは虐待です!」と叫んだ尾木ママに、多くの人々が当惑したのもそのためです。そりゃあ山の中への置き去りしたのは悪いかもしれない、でも、だったらどうしたらよかったのか――何度訊ねても”専門家“は「時間をかけても親が向き合って、何が悪いのか理解させないと意味がない」と繰り返すだけです。
 私の不満はそこにあります。それで人並み以上の収入を得ているのだからもっと我々にできそうなことを言ってほしい、置き去り以外の有効な道を示せ、ということです。

 もちろん私も子どもを山に置き去りにしたり家の外に出す指導が良いと思っているわけではありません。まったく逆で、それはもうすべきではないと考えています。人権的な意味合いではなく、効果が薄いばかりか危険ですらあるからです。
 置き去りにするような指導に絶対的な効果があったのは、家の外は百鬼夜行、山の中には悪霊・精霊・鬼・化け物が住んでいると信じられた時代、あるいはそういうふうに育てられてきた子どもについてだけです(例えば私の娘は、お寺の法話に通っていた関係でかなりの年齢になるまで百鬼・亡者を信じていました)。
 しかし現代の普通の子は違います。
 幼少のころからアウト・ドア・スポーツに親しんできた子を山の中に置き去りにしても昔ほどの効果はないでしょう。数十m歩けば繁華街といったところに住む子どもを、外に閉め出してもあまりいいことはなさそうです。そして現在はもうひとつ、一歩間違えば(それどころか半歩、三分の一歩でも間違えば)虐待で通報されてしまいます。
 今回の北海道の事件でも、最終的に誰が一番懲りて誰が一番「二度とすまい」と反省したかと言えばもちろんお父さんです。子どもへの指導で親が反省するような羽目に陥ってはいけません。
 
 それでは子どもに恐怖感を与えるような指導はしてはいけないかと言うとそれも違います。
 子どもは年を下れば下るほど言葉による指導が難しくなります。そこにはどうしても言葉や論理によらない、意識の下に直接刷り込むような指導が必要になってきます。そのとき多用するのが恐怖の表情と恐怖の声です。


 ひところ流行したメラビアンの法則は「人の行動が他人にどのように影響を及ぼすかというと、話の内容などの言語情報が7%、口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%の割合であった」という実験結果によって提唱されたもので、別に「7-38-55のルール」とも言ったりするものです(Wikipedia)。そこから「人は見た目が9割」とか「あなたは第一印象で55%損をしている」とかいった話になりますが、すこし誤解されている面もあって、メラビアンの研究はそもそも「感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について」と条件付きで展開されているのです。簡単に言うと、「へらへら笑いながら怒る」とか「重々しく冷たい口調で優しいことを言う」とか、言語情報・聴覚情報・視覚情報のいずれかの組み合わせが矛盾して発せられた場合、受け取る側は主としてどんな情報を頼りに判断するのかという研究なのです。そう言われると、ある意味とても分かりやすい。
 例えば、
 ニコニコ顔の女の子が明るい声で「殺しちゃうゾ!」と言っても青くなって警察に駆け込む必要はありません。しかし冷たい表情をした男が押し殺したような声で「おめえ、いい車に乗ってるじゃねえか」と言ったらとりあえず逃げておいた方がいいでしょう、決して本気で車を誉めているわけではなさそうですから――
ということです。

 子育てを考える上でメラビアンの法則が示唆するのは、少なくとも表情は明確に叱っていることを示さなければならないということです。できれば声や口調も同じものでなくてはなりません。極端に言えば中身などなくてもいいのです(どうせ7%しかないのですから)。
「そんなことをしたら他の人が迷惑でしょ?」とか「困るでしょ?」「悲しい想いをするでしょ?」といった言語内容は、おそらく三歳児以下には全く通用しません。この年代の子どもたちには「他者には自分とは別の、まったく異なる内的状況・目的・意図・知識・信念・志向・疑念・推測といったものがある」ということも分からなければそれを推測する力もないからです。5・6歳でも分からない子は分かりません。
 また“迷惑”といった抽象的なことは8歳・9歳でも理解できない場合があります。
 つまり、尾木ママの信念に反して、小さな子に言葉で話すだけでは絶対に分かってもらえないのです。

 子どもを叱るときは怖い顔をして、低い声、落ち着いた口調でゆっくり話さなくてはなりません。それでも恐怖が足りないと感じたら怒鳴りあげ、まくし立てます。
「それは決してしてはならないこと」として子どもの心に恐怖とともに刷り込んでおかなければ、その子や周囲の人々の命に係わる場合だってあるのです。

 その子の個性や成長の度合いを見ながら、子どもの心に丁寧に傷をつけて磨き上げること、それを私は「子ども心にヤスリをかける」と言っています。
 子どもの心をまったく無傷のままに育てようとする試みは必ず禍根を残します。

                                   (この稿、続く)


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2016/6/7

「躾の問題」〜北海道、しつけ置き去り行方不明事件に際してb  教育・学校・教師


 教育評論家の尾木ママこと尾木直樹氏も「3歳以上だったら言葉で話せば必ずわかります」と繰り返し強調します。もちろん幼児に理解できる日本語に翻訳すれば、大人が伝えたいことのほとんどはわかります。もともとそんなに難しいことを要求しているわけではありませんから。しかし“わかる”ことと“できる”ことは必ずしも一致しません。
 掛け算の構造がわかったからといって掛け算が自由に使えるわけはなく、バッティング理論が理解できたからと言って普通の投手の球が打てるわけではないのと同じです。躾の現場で困るのも「何が悪いのか」理解させること(井上仁・日大教授)ではなく、その「悪いこと」を二度としない子ども、決して思いつかない子どもに変容させることです。

 しかしそう言うと、
「もちろん“理解”はそこまでの意味を含む。
 他人の痛みを我がことのように感じ、行為の罪深さを痛いほど知り、二度とそんなことはすまい、したくないと痛切に思うようになること、それが“理解する”だ。“時間をかけても親が向き合って、何が悪いのか理解させ”るというときの“理解”はそういう深い意味での“理解”のことだ」
とおっしゃるかもしれません。しかしそうなると今度は、
「そんなにレベルの高い“理解”を普通の親が子どもにさせられるのか」「どういった話法、どのような理論がそうした高尚な“理解”を達成するのか」ということが問題になります。

 しかしはっきり申し上げれば、普通の親にはそんなことはできません。道徳の時間に、訓練を積んだ教師がたっぷり時間をかけ、綿密な計画のもとで十分な資料を駆使して授業を行っても、目標の半分も達成できなかったりするのです。普通の親が突発的な事象に対して、瞬時に適切な言葉を用いて深い意味での“理解”をさせ、二度と悪いことをしないようにする、そんなことができるはずはないのです。
(もちろんできる人もいます。尾木ママや井上教授だったら「私はできる」「私はやってきた」とおっしゃるかもしれません。しかしそんなスーパーマンにしかできない指導は科学とは言えませんし、私たちにやれと言ってもムリです。それは芸術家か教祖の仕事です)

 言葉だけでは指導しきれない――だから古来より親たちは“恐怖”に頼ってきたのです。言葉の指導だけでは子どもは救えないというリアリズムが家庭における恐怖政治と専制を生み出したと言えます。

 ヨーロッパでは言葉だけでは森に入り込む子どもを押さえられないからトロルやゴブリンや魔女の話が繰り返され、日本では東北地方でナマハゲやアキノハギが「悪い子はいねェかァ」と暴れまくりました。寺院では地獄絵図が繰り返し開帳され、婆さまたちはこっくりさんやら神隠しやら酒呑童子やらの話をして外の世界の恐ろしさを盛んに吹聴したものです。村を一歩出ればそこには地獄が広がっているかもしれませんから皆必死だったのです。

「日本ではお仕置きとして子どもを家の外に出したりするが、子どもは怖さから逃れることしか考えず、自分の行為を振り返らない。教育的効果はない」
などと悠長なことは言っていられなかったのです。

                             (この稿、続く)
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2016/6/6

「躾の問題」〜北海道、しつけ置き去り行方不明事件に際してa  教育・学校・教師


 北海道のいわゆる「しつけ−置き去り行方不明事件は、発生一週間目にして無事保護され、事なきを得ました。しかし社会的には大きな問題を残したと言えます。

 ひとつは国際評価です。
 イギリスのBC放送など欧米のメディアがこぞって速報を流したように、海外からの注目度も高くAP通信も無事保護の一報を受けて「親バカや専業主婦といった先入観があるが、それよりはるかに(日本では)子どもの遺棄や虐待が一般的」などと伝えているようです。(日刊ゲンダイ
“一般的”とまで言われるとイラッとしますが、アメリカの基準に従うと子どもが親と離れているだけで虐待ですから、夕方児童公園で遊んでいる子どもや家で留守番している子ども、地下鉄に友だちと一緒に乗っている子どももみんな被虐待。したがって(日本では)子どもの遺棄や虐待が一般的というのも確かにその通りになってしまいます。
 ただし毎日5人の子どもが殺されそのうち4人は親の手にかかっているというアメリカに非難されるのも筋違いです。それに対しては一方的に反省したり引くのではなく、国際社会にはきちんと説明していく必要があるでしょう。
 日本は今でも親子が川の字になって眠る親子密着型の国です。運動会では親同士が席取りで喧嘩し、受験に成功したと言って親子手を取り合って泣くような国です。そのくらい子どもと密着し子どもを大切にする国ですから、叱るときにも特殊な形をとります。異性の親子が並んで寝ているだけで性的虐待になってしまう国とは、基礎となる条件からして違うのです。


 もうひとつは、山の中に置き去りにする、家から追い出す、あるいは物置に閉じ込めるといった“昔ながらの躾”が現在でも有効かといった問題です。
 私自身はそういった躾を受けたことはなく自分の子にしたこともなかったので、 今回の事件を通して「自分もやられた」「自分もやった」という話が次々と出てきたのには驚かされました。案外多くの親たちが同じ方法に頼っているのです。そしてさらに同時に聞かされたのは「親の気持ちも分からないでもない」といった多くの戸惑いの言葉です。

 これについて専門家は言います。
 日本大学文理学部の井上仁教授(児童福祉)は「日本ではお仕置きとして子どもを家の外に出したりするが、子どもは怖さから逃れることしか考えず、自分の行為を振り返らない。教育的効果はない」と指摘。「時間をかけても親が向き合って、何が悪いのか理解させないと意味がない」と強調した時事通信

 しかし井上教授は大切なことを忘れています。
 それは今回の事件の発端において、父親は子どもに言い聞かせ、一回目の置き去り地点から走って追ってきた子をいったん車に乗せ、そこでも話をして聞き分けがないのでまた置いたという事実です。ただ置き去りにしたのではないのです。
 もちろん教授はそれでも不十分だとおっしゃるでしょうが、しかし普通の親は小学2年生の子どもを言葉だけで折伏するだけの力を持たないのです。言葉だけで子どもを動かすのが専門の教員だってしばしば戸惑います。

 例えば、「人や車に向かって石を投げてはいけません」と説明し、「投げる方は面白くれも当たった方は痛いでしょ? けがをすることだってあるよね。車を傷つけたりしたら何万円も払わなくちゃいけないことだってあるんだよ」と話し、自分の失敗談を話し、人から聞いた最悪のケースを紹介してようやく話し終えたと思ったらもう石を投げている、そうした状況で次の一手を思いつく親はそうはいません。
 北海道の事件の父親だって口頭で叱って子どもが聞き分けれくれたら「置き去り」などといった面倒なことはしなくて済んだのです。

 父親には「置き去り」以外、打てる手がなかった――。それを、
何が悪いのか理解させないと意味がない
と言い切る以上、“専門家”はどういう言い方だと理解させ悪い行いを止められるか、具体的に説明する必要があるでしょう。父親として何ができたか、何をすべきだったか、もっともっと具体的に話さないと、それは単なる絵空事に終わってしまいます。

 もっとも、私自身は「何が悪いのか理解させ」れば子どもが良くなるとも、「自分の行為を振り返」れば正しい行いをするとも思いません。
“専門家”たちは 子どもは理解すれば行動を正す、がんばると信じて疑いません。だから「何が悪いのか理解させないと意味がない」といった言い方をしますが、しかしどうでしょう。
 私たちは正しく理解すれば正しい行動をとるようになるでしょうか。

 恐縮ですが私自身は、
 今日がんばらなければ締め切りに間に合わないと分かっていながら努力を怠るときがあります(というかしょっちゅうです)。
 そんなに飲んでは体に悪いと分かっていながら深酒をすることもあります(というかしょっちゅうです)。
 制限時速は守らなければならないと十分理解していますが、周囲の車に合わせ平気で10kmオーバーくらいで走っています(というか、いつもです)。
 それは私が大人だからダメなのであって、子どもは理解するとサッと行動を正せる――
 そんなバカなことはないでしょう。

                                       (この稿、続く)




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2016/6/3

「教員不祥事の憂鬱」b  教育・学校・教師


 若く優秀で熱心な教諭が盗撮容疑で逮捕されてしまった。しかも本人が容疑事実を認めている――それを考えているところに折あしく(彼にとっては)息子のアキュラから電話がありました。そこで用件のすんだあと、ことの顛末を説明して年齢的には近いアキュラの意見を聞きました。
「何もかもどうでもよくなったんじゃない?」
 これは新鮮な発想でした。しかし私の気持ちの深刻さがわかっていない。
「どうでもよくなったって、でもそれで自分を警察に売る?」
「いや、そこまでは考えていない。何も考えていない。自分だけは捕まらないと、そんなふうに考えていたのかもしれない。そう思わないと盗撮なんかできない」
「でも防犯カメラが山ほどあるショッピングモールのエントランスだよ。熊みたいな大男がスマホをスカートの中に差し入れたらどう考えてもバレるだろう」
「それはお父さんが思っているだけで、実際はもっと微妙だったのかもしれない。エスカレーターで何歩分か下にいて、手首だけ返してスマホを上に向けたらちょうど入るくらいの位置って、あるかもしれない」
「なるほどね」
「それにね、女子高生のパンツの写真なんてネットで見ればいくらでもあるじゃない。それなのに自分で撮りに行くっては結局スリルを味わいたかったんだよ。スリルだったらむしろ見つかる危険が高いくらいの方がおもしろい」
 なるほどなと一応合点しました。ある意味しごくまっとうな考えです。

 私は容疑者の“彼”を知っているから“スリル”が浮かばなかったのかもしれません。もっともそうは言っても“スリルを求める教員”あるいは“スリルに対して親和性の強い教員”というものを思い浮かべると、“彼”に限らずまったく浮かんできません。教職と言うもの自体がそもそも超保守的な世界なのですから。
 また仮に“スリル”が主因だとしても、得るものと失うもののバランスシートは著しく合いません。
 
 教師が盗撮事件を起こせば懲戒免職は確実です。懲戒免職となれば失うのは職や退職金だけではありません。教員免許自体が失効します。普通の職業はもちろん「より高い道徳性を求められる」医師や法曹関係者ですら盗撮程度で資格が消滅することはありませんし、禁固刑以上の犯罪でようやく5年・10年といった資格停止処分になるだけです(医師の場合は殺人や強制わいせつ、薬事法違反といった重大犯罪で年数件の免許取り消しがある)。しかし教職はそうではない。 免許を取り直したうえで欠格期間が過ぎない限り採用試験すら受けられないのです。つまり基本的に二度と教職につけない――。
 そして昨日も言った家族や同僚、そして何より子どもたち――その犯罪を犯すときに教え子たちの顔は浮かばなかったのか、その落胆と哀しみを思わなかったのか、担任の犯罪で傷ついた子どもたちが将来どんな生き方をしていくか考えなかったのか。

 そして私はひとつの結論に達します。
“彼”は女子高生のスカートの中を撮影しようとするとき、そうしたことを一切考えなかった、そうした抑制的な情景は一切頭に浮かんでこなかった、浮かんできてもアキュラの言うように「何もかもどうでもよくなった」ようにしか感じられなかった、だからこそそれができたということです。

“彼”がそういう人間だったというのではありません。
 判断力が極端に衰えていたのではないかという可能性です。

                                     (この稿、続く)



4

2016/6/2

「教員不祥事の憂鬱」a  教育・学校・教師


 私のよく知る若い教諭が盗撮で逮捕されました。
 研究熱心な教師で会議や研修会にもよく足を運んでいました。教育雑誌にもしばしば名前の出るような人ですから、googleで検索にかけるとその研究成果ばかりがヒットします。ただし数日中には「盗撮」一色になるでしょう。
 真面目で誠実な人柄です。いつも子どもと一緒にいることを喜び、休み時間も昼休みも職員室に来ることは稀でした。子どもの遊ぶ時間は一緒になってドッジボールをしたりサッカーに興じたり、大縄跳びの縄を飽きもせずに回していたりしました。
 身長1m90p近く、体重も100sに届かんという巨漢ですから小学生の大繩を回すのはたいへんです。いつも身をかがめて頑張っていました。
 保護者へも早め早めの丁寧な対応ができます。朗らかな好青年で年長者に対する態度もきちんとしていました。

 人は見かけに依らないと言いますし心の中は見えませんから、どんな性癖があり何に興味を持っていたかは、ほんとうのところは分かりません。性教育や性指導について話し合うことはあっても教員同士の会話に性的な軽口が出たりすることはありませんから、彼が特殊な趣味を持っていたとしてもその匂いを嗅ぎ取ることはできなかったはずです。
 ただし彼の性行は分からなかったとしても、別に分かることはあります。それは、彼はバカではないということです。

 平成不況の真っただ中で教員試験を受かってきた人たちは皆とんでもなく頭がよく、それ以前の採用(私たち)とは隔世の感があります。勉強のできることと賢さとは必ずしも一致しないと言いますが、実はそうでもありません。賢くない人の方がむしろ稀なくらいです。
 彼はそうした平成採用の一人で、しかも一発合格です。どれくらい優秀かがうかがいしれるというものです。
 その頭の良い、賢い人が、なぜ盗撮などという愚かなことをしでかしたか。
 仮に特殊な性的嗜好を持っていたにしても、なぜ知性がそれを留めなかったのか。理性は何をしていたのか。

 あんな熊みたいな大男が腰をかがめて女子高生の後ろに着けば、それだけでも疑われかねない。疑うどころか誰の目にも怪しく見えたはずです。しかも防犯カメラが十字砲火のように構えるショッピングモールのエントランスの、エスカレータの下だというから呆れるばかりです。やるにしても場所を考えなくてはいけない。犯罪者のほとんどはそうしています。なのになぜ彼はそれが分からなかったのか。
 繰り返しますが彼はバカではありません。学校で繰り返し研修を受けていますから捕まれば何が起こるかは容易に想像ができたはずです。

 警察に連れていかれてそこで尋問を受ける、それは大したことではありません。何しろ相手は顔見知りですらない警察官ですから粛々と捜査に協力すればいい。ほんとうに苦しいのはその先で、まず妻子と会わなければならない、子どもはまだ赤ん坊で何も分かりませんが、分からないだけにさらに不憫だ、それから現在も社会人として働く両親に会わなければならない、就職したばかりの弟妹とも会わなければならない、祖父母ともそのまま絶縁と言うわけにはいかない――。
 校長先生と会わなければならない、その校長の背後で戸惑う同僚の姿も透けて見える、面倒を見てくれた先輩の先生が浮かぶ、さまざまなことをアドバイスしてきた後輩教諭の顔も浮かぶ、名前の知らない何千という県内の教職員が自分のためにまた長い長い研修を受けなければなくなる。

 そして何よりも、哀しい表情で下を向くクラスの子どもたちの様子が浮かぶ。あの子たちはこの現実をどう受け取るのだろう――。
 嫌われ疎まれる担任だったらまだしも、自分はあの子たちとかなりうまくやってきた、尊敬もされていた、その自分が破廉恥事件の容疑者となってしまい、あの子たちは何を感じるのだろう、このことから何を学び、どう生きていくのか。
 保護者たちは何をおもうのだろう、子どもたちに何と説明するのだろう――。

 そうしたことが全部わかっていたはずなのに彼はなぜあのような愚かなことをしたのか。

                                 (この稿、続く)

3

2016/6/1

「家庭菜園ティストの話」  人生


「なぜ人は年を取ると農業や園芸に興味を持つようになるのだろう?」
 そう訊いたら妻が、
「そろそろ自分も土に還ろうとするからじゃない?」
 その妻は“土に還る”気などさらさらないようで、我が家ではもっぱら収穫担当もしくは指示担当といった立場で私をこき使っています。

 先日仲間と飲む機会があって東京に住む友人も実家に立ち寄ったついでに参加してくれました。2〜3年に一遍くらいしか会わない友だちですが中学校1年生からの付き合いですから、かれこれ半世紀にもなります。その彼が抽選に当たって区の市民農園を借りられるようになり、畑仕事を始めたというのです。まるで土の似合わない男ですが――。
 広さはわずか10u。3m×3mに少し足したくらいです。クリックすると元のサイズで表示しますかくいう私も1a地主で夫婦二人で食べるには多すぎますが外に出荷するほどの量は取れない(質を言えばさらに出せない)。それでも今年はジャガイモにエンドウ豆、ホウレンソウに小松菜・ニンジン・ネギ、ピーマン・ナス・トマト・ミニトマト、モロヘイヤ・ブロッコリ・カボチャ、ゴーヤにアスパラガス、イチゴ・ブラックベリー・トウモロコシ、二十日大根、ニラ、ミョウガと21種類も栽培(もしくは自生)しています。他にカキ・桜桃・プルーンといった果樹もありアゲハチョウを呼び寄せたくて植えたサンショが巨木(サンショとしては)になっていたりします。

 友人の方ですが、これは本物中の本物の初心者ですのでまず「はじめての野菜づくり」みたいな本を買ってきてジャガイモやらミニトマトやらを植えたらしいのですが、
「どんな野菜が楽なんだ?」
「楽ということもないが、ナス、ピーマン、キュウリなんか毎日あっても困らないから作りたくなるところかな?」
と言うと、
「おい待てよ、ナスなんて本には『作りやすさ』三ツ星の難敵で“初心者は手を出すな”って書いてあったぞ」
 私にとって厄介なのはキャベツやブロッコリ。キャベツなんて肥料が足りないと丸い球にならない、モンシロチョウはやたら卵を産みたがって気がつくと青虫の巣になったりしている、収穫のタイミングが分からないで、2〜3年挑戦して辞めてしまいました。
「消毒ってどうやるんだ?」
 すると別の友だちが、
「そんなものはな、噴霧器を買ってきて・・・」
 そう言ってポンプをあおるようなしぐさをするので、
「冗談じゃない、3m四方の畑でポンプ式の噴霧器はないだろう、その程度だったらスプレー缶で十分だ」
と、ずいぶんにぎやかな農業談議が続きました。

「なぜ人は年を取ると農業や園芸に興味を持つようになるのか」
 基本的にはサラリーマン生活に邁進してきた人間には他に思いつくことがない、そのあたりがホンネなのかもしれません。
 定年退職したら釣り三昧だとかアウトドアに狂うぞとかキャンプに行くぞとかいった人は大勢います。本格的な研究に取り組むぞ読書三昧だといった高尚な人もいます。けれどそういったものない人にとって、ガーデニングや畑仕事はとてもとりつきやすい、初期費用も掛からない、失敗したり飽きたりしても損失が少ない(これが喫茶店を始めるぞとか花屋をやるぞとかいった話だと中途半端では済まされない)、そういった利点もあるのかもしれません。

 植物相手の正直な仕事です。人間相手と違い努力が単純に報われる、努力の因果関係がはっきりしています。
 作物が虫食いだらけになるのは私の努力不足、作物が成長しないのは自分の勉強不足、そいういうことがはっきりしている。もちろん長雨だとか台風だとか病害虫の異常発生だとかいった天災はありますが、努力や知識で対処できないものはむしろ諦めやすい。
 東日本大震災のときに「しょうがない」という言葉が注目されましたが、絶望ではない諦め、まるで「さあまた頑張ろう」といいたげな諦めは、そうした日本人の農業体験からきたものかもしれません。

 以前、私の勤めていた学校で心の病のために休職した若い先生がいました。その休職期間中、彼は父親のつてをたよって農家のお手伝いに行っていました。
 2か月ほどたってからその家を訪ねたのですが、そこで父親からとても印象深い言葉を聞きます。

「そうだね。百姓は心を病まんから」
 そんなところにも畑仕事や園芸の良さはあります。




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