2016/5/31

「ソシオグラムの話」  教育・学校・教師


 組織運営というのは詰まるところ予算と人事です。
 例えば国家について、この国を軍事大国にしようと思ったら国防予算を増大させ、大臣以下に政府の言うことをよくきく優秀な人材を当てていけばよいのです。逆にもう国防は十分だと思えば予算も人事もほどほどにということになります。予算は国家方針そのものですから国会の予算委員会は最重要とされ、各会派も最も優秀なメンバーを送り込みます。委員会でありとあらゆることが質問されるのもそのためです。

 学校も組織ですからその意味では同じなのですが、現在の校長先生には学級担任を決める程度の人事権しかありません。予算もほとんど自由にならないのです。口頭の職員指導だけで運営していこうというのですからなかなか大変です。
 学級も同じで、学級費と言ってもせいぜいがドリル帳をA社にしようかB社にしようかといった程度で運営方針を左右するほどのものではありません。人事と言ってもクラスの係など勝手に決めることはできません。しかし昔の教師はそうではなかったのです。

 私が教員になったころ、クラスの班づくりは当然担任教師が行うものでした。生徒に任せたりくじ引きで決めたりしたら学級経営なんてできるはずがないと教師は考えていたのです。
 どんな企業だって団体だって、部長や課長、部や課の職員をくじ引きやジャンケンで決めることはないだろうというのが彼らの言い分です。くじ引きで決めてしまったらとんでもなく弱小な班ができてしまい班のまとまりどころではないだろう、班競争などさせたら連戦連敗ですっかりやる気をなくしてしまうじゃないか、それでは生徒がかわいそうだ……と、彼らは考えます。
 そこでテーブルにクラス全員の名札を並べ、誰を班長にしてどういう組み合わせにするかを考えます。そのとき使うのがソシオグラムです。
 映画のパンフレットやテレビドラマのウェブサイトを見ると、しばしば「登場人物の人間関係図」というのが出てきます。誰と誰が恋人同士で誰と誰が反目しているとかを矢印で示したあれです。ソシオグラムはそれとよく似ています。

 作成に当たってはまず生徒のアンケートを取ります(これをソシオメトリックス・テストと言います)。
「同じ班になりたい人となりたくない人を男女それぞれ三人ずつ書きなさい。三人というのは『最大三人』という意味で、どうしても思いつかない場合は一人でも二人でも、あるいはゼロでも構いません」
 そういって始めるのです。
 ソシオグラムはそれを図にするだけですが、これが案外難しい。
 それぞれ一人から好き嫌い6本の矢が出ていくわけですからB4程度の紙(当時はB版でした)を使てもあっという間にごちゃごちゃになってしまいます。
 とりあえず男女間の好き嫌いは学級運営にあまり影響なさそうですから、これは別にする。それから人気のありそうな子を最初から中央付近に散らばらせ、誰にも選んでもらえそうにない子は用紙の端に仮置きします。そして「同じ班になりたい(選択)」を実線、「同じ班になりたくない(拒否)」を破線の矢印で結んでいくのです。

 始めのうちはフリーハンドで繋げていきますが、生徒の名前を避けて線が何本も大きく迂回しているようでは一目瞭然というわけにはいきません。最終的な仕上げは直線で引かねばなりません。そのために図は何回も書き直し、そのたびに生徒の位置を替えて考え直します。
 そうしてできあがると、図(ソシオグラム)の中にクラスの人間関係は鮮やかに浮かび上がってきます。

 相思相愛のような微笑ましい関係もあれば互いに拒否の危険な関係もあります。しかし何といっても目立つのは誰からも選んでもらえない子、好きとも嫌いとも言ってもらえない子です。
 ソシオグラムでほんとうに炙り出したいのはそういう子たちです。皆から好かれる子、みんなから嫌われている子なんて何もしなくても普段の生活ですぐに見えてきますが、孤立している子はうっかりすると見過ごしてしまうのです。そういう子には特に気にかけてやらなくてはなりません。
 ソシオグラムの中にはみんなから好かれているのに「一緒の班になりたい人」を一人上げただけで「なりたくない人」は一人もいないといった人格者がいます。何人かいます。孤立している子、孤立しがちな子はその人格者と同じ班にしておけば何かと便利です。担任が何も言わなくてもその子を助けてくれます。
 もちろん互いに「なりたくない」同士はやはり一応避けておきます。しかし「一緒の班になりたい」者同士を同じ班にする必要はありません。してもいいのですが班づくりの要素は複雑ですから、そこまで配慮することはなかなかできないのです。人気者がひと班に固まるのも何かと不便ですし、嫌われ者がひと班に二人もいるとかないませんから避けます。
 班同士は学力も運動能力も平準化されるべきです。リーダーシップのある子も一人は入れておかなければなりません。
 そんなふうに夜通し考えながら行うのが昔の班づくりです。それがうまく行けば次の班替えまで学級は安泰ですし、班ごと競って学力を上げたり特別活動に取り組んだりしてくれるので、学校でつけるべき力が生徒同士の切磋琢磨によって果たされるようになるのです。

 そんな便利なソシオグラムや担任主導の班づくりはいつごろからなくなったのか――。
 私の地方で、それはもう30年近く以前のことだと記憶しています。「私の地方では」と断ったのは平成10年(1998年)、北海道の小学校でソシオメトリックテストが行われそれが大きな問題となったと記録にあるからです。「一緒に遊びたくない子」の実名を書かせたことに配慮が足りなかったというのです。
 学校は人権教育の砦ですので「人権侵害」を訴えられると引き下がらざるを得なません。実態は知りませんがもはや学級で「一緒に遊びたい子(同じ班になりたい子)」を書かせることすらできないでしょう。

 ソシオグラムは孤立児や憎しみの関係を炙り出して担任の注意を喚起し、指導の方向性を示す有力な道具でした。担任による班づくりと競争は児童生徒の自主的な成長を促す、これも非常に有効な方法でした。しかしどちらも子どもの人権を守るためのものだったのに「人権尊重」の名の下に奪われてしまったのです。
 その子の将来の人権を守る活動が “目の前のその子の苦痛を取り去る”という人権尊重のために消えて行った例は枚挙にいとまがありません。

 そこに私は不毛な問答を思い浮かべます。
「そんなやり方でなくても、子どもの力は伸ばせるだろう」
「どうやって?」
「そんなことプロなんだから自分で考えろよ」



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2016/5/30

「眩しい人々」  政治・社会・文化


 舛添知事の定例記者会見が金曜日のため3週に渡って土日の報道番組・バラエティは同じ人の顔を映し出します。気分の悪いことこの上ありません。
 先週あたりから「第三者の公正な目で見てもらうことにした」と言う話になっていますが、テレビや雑誌に出てくるどの専門家も口をそろえて言うのは「法律違反とは言えない、ただし道義的問題はある」。だったら「第三者の公正な目で見て」も結果は同じになるに決まっています。結局決定的な問題は出てこないのですから多少疑問の残る例については「申し訳ありませんでした。お金を返します」と言ってあとは逃げ切れる――そんなふうに本気で考えているのかもしれません。

 しかしこの国で仁義を欠いて生きていくのはたやすいことではありません。“たかが不倫”で国会議員を辞めた人もいれば、とんでもない違約金を抱え込んだ芸能人もいるのです。都民の税金を使っての不道徳となればなおさら人々が引き下がるとも思えません。
 毎日大量の苦情に翻弄されている東京都職員はうんざりしていますし、議会もいつまでも知事の味方でいるわけもありません。このまま炎上・再炎上を繰り返し、結局むかしの映画の「座頭市」みたいに“いやなトセイだなァ”といって辞任するしかなくなります。早く辞めればいいのになぜこうもみっともなくしがみつくのか・・・
「昔の武士ならとうに腹を切っとるわ!」
と私でさえ時代錯誤の説教もしたくなります。

 ところが私の妻は今でもピンと来ていないようで、
「だってあの『遠距離介護』の舛添さんでしょ? そんな人が不誠実なことなんて・・・」
 聞けば、厚労大臣になる前に毎週遠距離介護のために帰省し、痴呆症の母親の面倒を見続けたとか。その介護を題材にして2冊も本を書いていますし「介護の舛添」のキャッチフレーズで厚労大臣になったともいわれています。
 妻はその姿に当時一筋の光明を見つけたような気がしたと言います。
「こうした有名人、立派な人が介護に必死になっている姿を見せることによって、日本人の介護に対する認識は変わるのかもしれない」

 ただしつい最近になって、その介護も、
「1か月に1回来るか来ないか。それも母親の顔を見て帰る程度でした」(スポーツ報知
という話が出てきており、かなり眉唾となってきています。
 どちらが事実を言っているのかわかりませんが、本人が「私は年間約500万円の足代がかかる遠距離介護を選んだ」PRESIDENT Online 201.01.17)と言っていますからむしろ怪しい。自分のためでなく、誰かのために500万円も出す人だとはとても思えないからです。
 ただし同じ文のあとの方で、「また精神的な負担になる可能性があるのが親族との関係。(中略)特に金銭が絡むと話がややこしくなる。これを解決する1つの方法は介護を親のお金ですること」と言っていますから、ケチでも毎週行くことはできたのかもしれません。
 しかし「毎週末」がほんとうだったとしても、それで「介護」はないでしょう。他の五日間は誰が面倒を見ていたのか――。

 ところで、
「1か月に1回来るか来ないか。それも母親の顔を見て帰る程度でした」
 そんな証言がいつでも出てきそうな状況にありながら、舛添要一氏は本を2冊も書き、厚労大臣になりました、そして介護問題も中心公約にして都知事にも立候補する――私は呆れるというよりはむしろ眩しい想いで仰ぎ見ます。
 私には絶対できない――。

 話は変わりますが、同じような想いにさせられるニュースがもう一つありました。
 それは今月12日、神奈川県の墓地で女性の遺体が発見された事件の裁判で、被告の女性が「北川景子に負けたくなかった」と証言したことです。
 それによると主犯とされる男は、「お前がやらなければ北川景子と撚りを戻して手伝ってもらう」、そう言われて協力する道を選ばざるを得なかったというのです。男はそれまでも何度も北川景子の名をあげており、相武紗季に迫られて困っているといった話もしていました。
 それが信じられてしまう。
 もっとも路上で電話をかけるふりをして、「私としてはここはエグザイル押しで行こうと思います」と見知らぬ人にまで芸能関係者を装うような男ですから、芸能人の名前などいくらでも口にできたのかもしれません。
 しかし厚顔!しかし無恥!

 そう言えば昔、女性銀行員から億単位の金を引き出させた結婚詐欺師は“自分はCIAの諜報員だ”とか名乗ってしばしばデートの最中に東京中を逃げ回っていたそうです。
 ショーンKはアラバマ大学大学院くらいにしておけばよかったものを「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得、パリ第一パンテオン・ソルボンヌ大学に留学」でした。
 佐村河内守に至っては「日本のベートーベン」です。
 芸能人の年齢詐称や出身地詐称(東京出身の歌手がデビュー曲に合わせて熊本出身とか)には枚挙にいとまがありません。
 事実真実を知るかつての同級生や親せきや友人かつての仲間がこの世にいていつ発言するか分からないというのに、この人たちはなぜ怯えなかったのか、平気でいられたのか――。

 私は彼らを眩しい気持ちで見るとともに、妻についた小さなウソにも戦々恐々と怯える自分の小ささにもウンザリしています。


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2016/5/27

「距離の問題」b  教育・学校・教師


 球形の地球を二次元の用紙に正確に写すことはできない、だからすべての地図は不正確である――中学校の地理で最初に学ぶ内容のひとつです(今でもそうかな?)。そしてそのために様々な世界地図、メルカトル図法だのモルワイデ図法などを学ばなくてはいけなくなるのですが、中でも馴染みにくいのが正距方位図法です。
 なぜ馴染みにくいのかというと、それぞれの大陸や国の形がこれまで見慣れていたものとまったく違い南アメリカ大陸などそれと言われても分からない、ユーラシア大陸やアメリカ大陸が妙に小さく南極大陸が島の形をしている、それが第一。
 第二は中学校や高校の地理の時間に勉強したきり二度とお目にかからない、使ったことがない、なんのためにあるのかわからない、そういった事情があります。
 それはこの図法が航空機専用だからです。

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 正距方位図法の名のごとく、距離と方位だけが「正」であとは全部(面積や形)でたらめなのです。しかも図の中心にある都市から見て正しい距離と正しい方位を示しているだけで、同じものは他の都市からは使えません。それぞれの都市で違う地図ができてしまうのです。
 外国までの距離と方位ですから基本的には国際空港のある都市でしか必要はありません。しかしもしかしたら大陸間弾道ミサイルの秘密サイロのある町では作ってあるのかもしれません。

 航空機やミサイルは飛んでいく方向と航続距離さえわかればいいので、形はどうでもよくなります。上の地図は東京を中心としたもので、オリンピックの開かれるリオデジャネイロはほぼ真東で、ニューヨークは北北東、パリは北北西に位置することがわかります。南アメリカ大陸がほぼ円弧に沿ってあるのは、この大陸のほとんどの都市と東京はほぼ等距離にあることを示しています。それで全部です。

 ところで同じ発想で、“ひとの心の距離の正距方位図”をつくったらどうなるでしょう?
 例えば今日の私にとって三重県の賢島はかなり近い距離にあります。関心がありますから。長崎は私の隣の県です。ネット上の友だちがいますから。しかし大分や宮崎は長崎よりずっと西にあります。友だちも親戚もいませんので。そんなふうな地図です。
 北朝鮮のピョンヤンは韓国のソウルよりずっと手前にあります。ペキンもかなり近いです。リオデジャネイロはじわじわと近づきつつあります。三か月もしないうちに隣町くらいになってしまうかもしれません。
 そう考えると心の正距方位図は刻々と変化することがわかります。
 小金井のアイドル刺傷事件の容疑者にとって、東京は京都に隣接するくらい近かったはずです。勤務する会社はそれよりずっと遠くにあったのかもしれません。

 話は変わるみたいですが、私が子どものころ、世界は私の自宅の周辺、半径100m以内程度の広さしかありませんでした。正確に言えば通学路と小学校の敷地も「私の世界」でしたがそれ以上ではありません。
 私は好むと好まざるとによらず、その世界で生きていくしかありませんでした。
 いいヤツもいましたが嫌なヤツもいっぱいいて、「半径100mの世界」の辺境に住む“ヒロシ”などはいわば性質の悪いジャイアンで、私たちはしょっちゅう逃げ回っていました(「ワー! ヒロシが来たー!」)。関わりたくないのですが、とにかく向こうが近所をウロウロしているから困るのです。

 ところが今の子どもたちは違います。
 今の子どもたちは嫌なら自転車で隣町へ行ってしまえばいいのです。嫌なヤツとは関わらず好きな友だちとだけ交わっていればいいのです。
 考えてみると赤ん坊の時からそうでした。現在の母親は私の母親たちと違って地域に縛られません。その気になったら自家用車か電車か電動アシスト自転車に乗って気の合う人とだけ会っていればいいのです。向こう三軒両隣の人よりも数キロ先の友だちのことの方がよく理解できています。
 あるいは半径10q以内に知己がなく、ネットを通して何百qも先にたくさんの友だちがいるという人だってあるかもしれません。
 心の正距方位図、描いてみると自分の意外な面も見えてくるのかもしれません。

(と、ここまで書いてそう言えば昔、「心の正距方位図」を一生懸命に描いていたことを思い出しました。そのころは「心の正距方位図」などと言わず、「ソシオグラム」と言っていました。来週はそのこと書いてみたいと思います)


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2016/5/27

「更新しました」  教育・学校・教師

 
「キース・アウト」

2016.05.27
運動会で暴れ出す「モンスター保護者」 校庭でバーベキュー、徒競走に「ビデオ判定」




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