2016/4/29

「更新しました」  教育・学校・教師




「キース・アウト」

2016.04.23
小学校でのプログラミング教育必修化を検討 文科省


2016.04.25
中学校の部活動、教員は現状どう考えている?


2016.04.28
菊池桃子さん「PTAは任意」 発言に広がる共感なぜ?




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2016/4/28

「はじめの一歩」  教育・学校・教師


 娘のシーナが引っ越しをするので東京まで手伝いに行ってきました。
 引っ越し自体は業者に頼んでしまったので大した仕事はなかったのですが、婿のエージュが休めなかったので赤ん坊の世話をする人間が必要だったのです。ハーヴと会うのは2か月ぶりでした。
 生後十か月になりますが、今回は特別に違ったことがありました。寝返りをうちズリバイ(ズルズルと腕だけで這う)もするようになったのです。もっともズリバイは後退のみでそれもたいへんゆっくりとしたものですが、これができれば一か月後くらいにはハイハイも夢ではありません。たいぶんそうなるでしょう。

 2月4日のブログにも書きましたが、生後7か月で体重が9kgもあったハーヴはその重さのせいもあるのか、いつまでたっても寝返りもしなければハイハイの予兆すらもありませんでした。8か月になっても9か月になっても、そして生後十か月の日を迎えてもダメでシーナは腹を決めつつありました。この子は寝返りもハイハイもしないままなのかもしれないということです。

 寝返り・ハイハイは発達課題ではなく、両方ともしないまま大きくなる子はいくらでもいます。ですから大した問題ではないのですが、それでもシーナの心の隅にはシコリとなって引っかかっていたようです。普通の意味で「寝返りもハイハイもしなまま大きくなる」ならいいのですが、別の意味でやらないとしたら、それはそれなりに覚悟が必要だからです。普段は忘れたように振舞っていますが出産時のトラブルは忘れられないようで、一般的な(あるいは一般的と信じられているような)成長の過程を経ないと落ち着かないのです。

 首が座ること、お座りができることそして笑うことは(決定的ではありませんが)それぞれ発達課題です。それができないと何か重大な問題が隠されている可能性があります。ですからハーヴの首が座り、お座りができるようになり、声を立てて笑うようになると、シーナはそのたびに大きな階段を登ったようで大きく胸をなでおろしていました。
 ですから苦にしなくてもいい、寝返りもハイハイもしない子はいくらでもいると頭ではわかっていても、やはり引っかかっていたのだなと、最近気づきました。

 ハーヴがどういうきっかけで「寝返り」を覚えたのかわかりませんが、先週の木曜日、それは突然やってきました。シーナの目の前で突然グルッと回って見せたのです。シーナは手を打って喜んだようですがハーヴ自身は驚いた上に困り果てたみたいです。うつ伏せなんて大嫌いだったからです。
「何がいけなかったの分からないけど、気がついたら不本意にもうつ伏せになってしまった」そんな感じです。しかしクルクル転がることには魅力があったのかもしれません。ここに子どもの成長の不思議があります。

 私がハーヴに再会して寝返りを見たのは、初めての寝返りからわずか五日目のことです。たった五日なのに、ハーブは私たちの目の前で何度も何度もゴロンゴロンと回って見せるのです。あれほど嫌がっていたうつ伏せも苦にせず、しばらくすると腕で強く床を突き放し、ゆさゆさと体をゆすってゆっくり後ろに移動していきます。私がハーヴの背後に移動すると、その姿を目で追いながら180度回転することもできます。驚くほどの変化です。

 はじめの一歩。それが大切なのです。
 寝返りは最初の1回ができればいい。2回目・3回目はすぐにできるようになる。
 ズリバイも最初の1回ができればいい。それが可能だとわかると人間は必ずするようになる。
 逆上がりも最初の1回ができればいい、
 自転車も支えなしで1回だけ走れればいい、
 走高跳も、例えば1m20pをまず1回跳べることが必要、
 1回できればあとは必ずできる。

 もしかしたら私の年齢になってもそういうことはあるのかもしれません。
 ハーヴの姿を見て、私も自分の「はじめの一歩」を探してみようという気になりました。


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2016/4/27

「熊本城と日本の城」b  知識


 なぜ戦国武将たちは城をつくり、最後には籠城しようと考えたのか。別の言い方をすると、自国領内深く攻め込まれ城に籠った人々はその先どうするつもりだったのか――。
 答えは簡単です、待っていればよかったのです。

 敵が本気で城を攻め落としにかかるならむしろ目っけものです。
 城はそれ自体が巨大な迷路、繰り返す罠ですから来る敵、来る敵、面白いように倒せるはずです。石垣を登って来る者があれば石でも煮えたぎった油でも糞尿でも何でも落とせます。そこまでしなくてもそもそも登るために両手の塞がった兵ですから倒すなど簡単なのです。
 城内にはいたるところに鍵の手(直角に曲がった道)があり、乗り越えるべき塀があり、堀があり橋があります。そのすべてが守る側に有利につくられています。侵入者に都合よくなんかできていません。
 つい先日のNHKテレビ「真田丸」でやっていた第一次上田合戦は、上田城に籠った真田勢2000を徳川方7800が力ずくで潰そうとしたものですが、真田の死者が20〜40名だったのに対して徳川方は1300も失い、ほうほうの体で引き返していきます。
 こんなふうに城をめぐる攻防戦というのは圧倒的に防御有利で、攻撃側は相当な覚悟と兵力がないと踏み切ることができないのです。
 こちらが籠城したらあちらはそう簡単には攻めてきません。

 それでは持久戦。城の中の兵糧がなくなるまでじっくり待ちましょうということになりますがそれも簡単にいかない。
 とりあえず兵の大部分は半農ですから田植えだの稲刈りだのといった農繁期になると地元へ帰らざるをえません。越後のような雪国だと早めに帰国しないと領国から雪によって締め出されます。つまり半年も一年も包囲を続けるわけにはいかないのです。
 これは籠城側から見ると期限があるということです。いつまで我慢すればいいのか見通しがもてる、包囲は必ず解けるということになります。籠城もし甲斐があります。
 さらに籠城戦には経済的な問題もからみます。

 先の第一次上田合戦を例に、史実とは異なり兵糧攻めになったと仮定しましょう。
 外の徳川勢は城を二重三重に取り囲んでコメの一粒も入らないようにして待ちます。城内の2000人に対して7800で完全に封鎖できるかどうかは疑問ですが、仮にできたとしてどちらが有利か。

 もちろん城内では備蓄米を食いつぶして生きるしかありません。しかし中の2000が食つなぐのも大変ですが、外の7800を食わせるのも容易ではありません。一食を現代の学校給食並みの300円と仮定して一日5000円ほどの日当をつけてひとり6000円かかるとしましょう。7800人で日に4680万円。それが3か月(90日)に及ぶチキンレースをしたとすると、ざっと42億1200万円もかかるのです。
 城内に籠る側は(防衛戦ですから)日当を払う必要はなく、食料も最低で済ませますので日に600円として2000人90日、ざっと1億800万円ほどです。しかも備蓄米ですから年に換算するとさらに少ない計算になります。7800人分を自国から運搬したり現地調達しなければならない侵略軍に比べたらずっと楽なものです。

 城を巡る攻防戦というのは攻める側に相当な負担をかけます。したがって侵略軍が意図を放棄して自国に帰ればその戦いは籠城側の勝ちです。人的損失はそこそこでも経済的には大打撃を与えて撤退させるわけですから、引き返させるだけも圧勝ということになります。
 ベトナム戦争において「北ベトナムが勝ってアメリカが負けた」というのもそういう意味で、アメリカはたいへんな軍事費を使い、時間を使い、5万8千人の死者と33万人に及ぶ負傷者を出しながら何ひとつ手に入れることなくかの地を離れることになりました。まさに惨敗でしょう。

(日本の戦国時代にもどって)しかし籠城戦は守る側が圧倒的に有利という時代はやがて終わります。
 ひとつには兵農分離が進んで職業軍人の数がどんどん増えたことです。特に織田信長軍において顕著でした。職業軍人が主力になると農期に関係なく戦争が継続できます。城の包囲が長引いても領国に帰る必要がないのです。

 第二の理由は戦国時代の最終盤に起った圧倒的な経済格差です。
 籠城側が次々と敗れた豊臣秀吉の中国遠征、このときの秀吉が用いた兵力は2万です。それだけの人数を秀吉はいくらでも食わせることができた、食わせるだけの財力が信長から渡されていたのです。
 何か月チキンレースを続けてもまったく困らない――そういう勢力を相手にすると籠城作戦は完全に効果がなくなります。その意味でも信長は歴史を変えたのです。

 そして最後に、戦場に大砲が持ち出され、兵力を失わず城の本体を破壊することができるようになったこと。
 大阪夏の陣が終わると、たとえ天災で天守閣を焼失しても再建しない例が増えます。平和な時代が来たからとも言えますが、大砲の圧倒的な破壊力を見た後では籠城の可能性はほとんど論議されなかったのではないかと思います。
 これも信長の敷いたレール上に起きたできごとです。

 ちなみに「真田丸」の六文銭は死出の意で、決して真田が金の亡者だったことを示すものではありません。しかし信長の旗印の永楽通宝からは守銭奴の匂いがします。
 全国有数の穀倉地帯である尾張に生まれ、美濃・越前と米どころを次々と押さえ、当時の経済の中核都市堺を飛び地のように制圧してしまう織田信長。永楽通宝の旗印はそんな戦国屈指の経済通の面目躍如といったところかも知れません。

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2016/4/26

「熊本城と日本の城」a  知識


 地震のおかげで熊本城というものを知ることができました。
 九州は長崎県以外に行ったことがなく、失礼ながら熊本城は国宝でもないし鉄筋コンクリート造りなので興味もなかったのです。しかし今回、地震報道ととともに熊本城についても多少の紹介があり、そして何よりヘリコプターやドローンによって全体の様子を見ることができたのです。なるほど三名城と言われるだけの素晴らしい構えです。修復に10年以上の歳月と100億円を替える資金が必要だとか言われいますが、それだけの価値はありそうです。そして何より熊本復興の象徴として、今後も注目されるに違いありません。

 三名城というのはWikipediaによれば、規模において「江戸城・名古屋城・大阪城」、設計者によって「名古屋城・大阪城・熊本城」、江戸時代に存在した巨大天守閣として「名古屋城・姫路城・熊本城」(名古屋城は第二次世界大戦で、熊本城は西南戦争でそれぞれ焼失)ということになるのだそうです。しかしやはり「名城」と言うからには武力装置として完成度を考えるのが適当で、「名古屋城・大阪城・熊本城」の三城で決まり、と私は思います。

 城郭については大昔(といっても20年ほど以前)社会科の授業で扱うためにかなり突っ込んで調べたことがあります。調べたうえで結局授業には乗らなかったのですが、やはり勉強すると興味はわいてきます。以後、職員旅行などで城のある町に行くと城郭には必ず寄ってみることにしています。
 本来の城は敵に攻められた時にいかに撃退するかという、ただひとつの目的のためにつくられたものですから、びっくり箱のような仕掛けに満ちていてとても面白いのです。
 石垣を登ってくる敵をここまで引き寄せて石をゴロゴロ落とすとか、天守閣の中に入り込んだ敵はこの位置で待ち伏せし、そこも撃破されたらこの場所で再度挑戦する、そんなことを考えながら見学するのはなかなかワクワクする体験です。
 熊本城がそれほどの名城なら、復興の暁には私も行って見てみよう。今回の震災でたくさんの映像を見せられ、今はそんなふうに思っています(10年後も生きていればですが)。

 ところで城郭について勉強するさらに以前、自分が勤務するのとは別の学校の研究授業で戦国時代の戦闘のことが話題になり、そのとき一人の先生が、
「籠城という絶望的な戦いに追い込まれた城主が・・・」
という話を始めて心に引っかかったことがりました。まだ教員になったばかりで勉強の行き届いていない時期のことです。
 何が引っ掛かったのかわからないのですが何か違和感がある――。

 話はそのまま進んでしまい結局ひとつの発言もしないまま戻ってきたのですが、家に帰ってからその引っかかりの意味が分かりました。籠城戦が絶望的な戦いなら、なぜ外に出て野戦を行わなかったのか、いやそもそもそんな「絶望に備えて城郭を整える」ということ自体が変じゃないかい、ということです。
 ああ、援軍を待っていたのかもしれない、逆転の可能性があるから城にこもったのかもしれない、そこまで突っ込んで質問をすればよかった、もしくは私自身が調べてみればよかった、そんなふうに考えてホゾを噛んだのです。
 しかしよく考えればそれも変です。
 敵に攻められて劣勢に追い込まれ、しかし援軍の来る可能性があるから頑張る、そういったかなり特殊な状況に備えて城を設けるというのもやはり変なのです。

                            (この稿、続く)

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2016/4/25

「災害支援自治体ボランティア・コーディネーター」  政治・社会


 最初の地震から十日たち、ようやく熊本も落ち着きを取り戻しつつあるようです。
 物資が行き届くようになり、多くの交通も復旧して、ボランティアも活動を始めました。
 今朝も未明に震度4の地震があったそうですが、それでも全体としては沈静化の方向にあり、生存を確保する段階から復興の段階へ移行しつつあります。

 思えば一週間前、行政が音を上げて民間が入りはじめ、隣県が協力体制を整え、さらに国が積極的に関与するようになってからは一切がうまく動き始めた――そういう印象があります。熊本県や、熊本市をはじめとする市町村には申し訳ないのですが、そのレベルで担える災害ではなかったのです。これを教訓として他の都道府県市町村も地震対策を練りなおさなくてはならないでしょう。

 ここ数十年間の大地震は、阪神・三陸・熊本と、いずれも大地震の来る可能性が低いと言われていた地域で起きています。単なる偶然かもしれませんが繰り返し危険が叫ばれてきた地域こそ安全で、他の地域はむしろ危険という気さえしてきます(危機意識や下準備の点だけを考えるとその通りなのかもしれません)。
 日本全国どこで大きな地震が起こっても不安なく対応できるよう、全員で考えていく必要があります。実際に当事者になって初めて気づくことも多いからです。

 例えば、今朝のニュースで「罹災証明書」発行の行われていない自治体が三つもあるという話をしていましたが、マイクを向けられた益城町長は「罹災証明となれば調査もしなければならないし、まず全体の調査をするのか、それとも申請があってから調査をするのか、まずそこから考えていきたい」とかいった悠長な話をしていたりします。

 基本的には人手が足りないのです。市役所や町村役場はすでに日常で人員を絞れるだけ絞っています。大規模災害があったからといって日常業務をすべて免除されるわけもなく、水道課も建設課も教育委員会もいつもより忙しい仕事をさせられているくらいです。そのうえ災害対策をしているのですから、もういっぱいいっぱいなのです。
 避難所に指定された学校では教職員が交代で24時間体制で対応しており、とてもではないが学校再開というわけにはいかないと言ったりしています。
 ボランティアは大量に入るようになってきましたが、町役場に行って罹災証明書を担当したり、学校に向かって避難所運営の中核になってくれるような人が足りないのです。
 言い方を変えると、つい数日前まで支援物資のニーズとサプライがマッチングしていなかったのが、現在はボランティアでニーズとサプライが一致していません。

 もう20年以上前、学校ボランティアが話題となり始めた時期、私は先進的な取り組みをしていた新潟県の小千谷市に視察に行ったことがあります。そのときとても感心したのは学校ボランティアを組織するに際して、小千谷の場合、まずボランティア・コーディネーターをやってくれるボランティアを募ったのです。組織そのものをボランティアにつくってもらい、さらにその上で運営までしてもらおうというのです。
 これは優れた知見です。どんなに素晴らしい組織ができたとしても、そしてどんなに優れたボランティア名簿が完成したところで、学校が運営の中心を担っていると絶対に長続きしないのです。先生も管理職も忙しいですから、名簿から人を拾って連絡をつけ、打ち合わの日程を詰めて話し合いをする、そんな面倒なことは続けられないのです。小千谷の場合、ボランティア・コーディネーターに電話を一本かけ、例えば「戦争中の町のようすについて話してくれる人を探して下さい」の一言で済みます。いなければ「いない」という返事があり、いれば「打ち合わせはいつが都合いいですか?」といった問い合わせが来るだけです。

 先の被災地の問題に戻せば、益城町長が「罹災証明書を出さなければいけないみたいなんだけどどうすればいい?」と問い合わせると「じゃあ専門家を手配して送ります」とか言ってくれる人がいればいいのです。
「学校を再開したいんだけど、先生たちが避難所運営に忙しくて学校が始められないんだよ」といえば、「わかりました。避難所運営の方に専門家を派遣しましょう」、そう答えてくれる人がいればいいのです。
 誰ができるのか。

 基本的には経験者が一番だと思います。東日本大震災で苦労していただいた各自治体から経験者に来てもらうのが一番いい。特に東日本の場合、被災地が広範に広がっていますから各自治体から一人ずつピックアップしても相当な人数になります。
 おそらくすでにたくさんの市町村職員が熊本に派遣されていると思いますが、救援物資と同じで、必要なところに必要な人材が配置されているとは限りません。それを何とかする。東日本の自治体が連絡を取り合って、いつでも新鮮な自治体ボランティア派遣し続ける、そうすればいいだけです。

 そして現在の事態を克服したら、今度は熊本が災害対応ボランティア・コーディネーターとなるのです。


 




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2016/4/22

「震災をめぐる個人的な違和感」  言葉


その1 

 東日本大震災のとき、ギターを抱えて避難所を訪れた若者が二人、路上ライブの態勢をつくってひと言。
「今ぁ、ボクたちにできることは歌うことだけです」
 その瞬間、ギターを奪い取る者がいて代わりにスコップが渡された・・・。

 最期の部分はよくできた笑い話でしょうが前半はいかにもありそうな話です。
 AKB48や嵐が来て歌や踊りを見せるのではありません。ど素人が来て下手な歌を歌っても、誰も嬉しくはない、しかしとんでもない勘違いをする人は世の中にいくらでもいます。

 さて、熊本地震のテレビ放送を見て、その流れでスポーツコーナーまで行ってしまうと、しばしば嫌な言葉を耳にすることがあります。それは通り過ぎる際に私の感情を引っ掻いて、傷を残していくのですぐに気づきます。
「自分のプレイを通して被災地に勇気を与えたい」「元気を与えたい」「喜びを与えたい」等々。
 芸能人もしばしば「楽しみを与えたい」「笑いを与えたい」「安らぎを与えたい」と言ったりします。
「与えたい」に強い違和感を持つ人はもはや少数派なのでしょうか?

 私の感じ方からすると「与える」には明らかに「下し置く」という意味がある――つまり目上の者から下の者に“授ける”要素があります。
 自分の言語感覚が狂っているとは思いませんが、あまりにも堂々としかも繰り返し出てくるので穏やかではないのです。言葉は時代とともに変化するもの、だから今や上下関係をふくまない言葉に変わっているのかもしれません。

 ただしそうなると近々、「先生にお歳暮を与えなくちゃ」とか「お祖父ちゃんにご馳走を与えましょう」とか言う子どもたちが出てくるわけで、年配者としては覚悟をしておく必要があります。言われたからといって怒ったり卑屈になったり(まるで犬みたいじゃないか・・・)することはないのですから。
 それにしても、まだ私のような古い人間がいる以上、せめて「勇気を届けたい」とか「喜んでいただきたい」とかに替えられないものか、と思ったりもします。


その2

 89歳になる母のとの会話(ニュースを見ながら・・・)。
「地震は怖いねえ」
「ああ、怖い」
「ニュースを見ているだけでガタガタ震えちゃう」
(そこまでは怖くない)
「やっぱ家具とか固定しておいた方がいいんじゃない? 今度の日曜日にやってくれるかい?」
「うん(だけど仏壇を壁に打ち付けたりするのは抵抗あるなあ)」
「水も用意しておかなくちゃね」
「うん(物置に五年前に買ったやつが2ケースもあるけど。しかもあの時は手に入れるのに2か月もかかった)」
「食料も買い込んでおこうか」
「・・・(そこまでは必要ないだろう)」
「防災頭巾とかも売っているかねぇ」
 イライラしていた私はそこでキレかかります。

 こんなド田舎の、崖もない山もない洪水になるような川もない場所で、何が怖ろしいのか。押し入れの中には布団も毛布も腐るほどある(もしかしたら一部はほんとうに腐っているかもしれない)。自宅に畑があり(というか母のところと私のところと弟のところと、家庭菜園が三つもある)、周りは農家だらけだからどうしても必要なら分けてもらえばいい。そうりゃあ家具が倒れてきたり家そのものが潰れたら大変だけど・・・と、ここまでの言葉は全部飲み込んで、
「だけど毎日のように『長生きなんてするもんじゃない』『早く死にたい』『お迎えが来ない』って言って周囲を暗くさせてる人が、なんで地震が怖いわけ? 地震で家が潰れたら渡りに船みたいなものじゃない」
 私が言わずもがなのことを口にすると母も逆にキレて、
「だからお前には何の話もできない。意見が聞きたくて言っているんじゃない、言われたらただ『そうだね』って言って聞いていればいいのに」
 そう言って寝室へ行ってしまいました。

 この「意見が欲しくて話しているんじゃない、ただ黙って聞いていればいい」というのは妻もしばしば使う言葉ですが、ただ黙って『そうだね』と聞いていると何が起こるかわからない恐ろしさもあります。
 話を元に戻すと、もしかしたら私は週末、家じゅうの家具を固定し、水や非常食やその他の防災グッズを求めてあちこち奔走することになるかもしれないのです。今の時期(大地震直後)、それがとんでもなく大変なことは5年前に経験済みです。

 それにしても女性というのは揃いも揃って同じようなことを言い、子や夫に反論を許さず、言うことをきかせたがるものです・・・と、もちろんそんなことは言いません。今度はセクハラだと責められかねないから。

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