2016/2/18

「拾遺」a〜子どもたちの危機I  教育・学校・教師


「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる誇り高き4歳児」
をどう育てるかという問題について書き漏らしました。

 昔、大学で学習心理学を教授する若い先生と授業研究について話しているとき、どうも噛み合わないなあと思っていたら“研究”に対する基本的概念がまったく異なっていてびっくりしたことがありました。
 彼は、“研究”という以上、当然、「『新しい授業法で学習する群(実験群)』の成績と『旧来の授業法で学習する群(対照群)』の成績は比較検討されなければならない」と考えていたのです。新薬の開発などの場合と同じ考え方です。
 しかし学校の授業研究はそうはいきません。効果があると信じた授業法を特定のクラスに“施さない”ということが教員にはできないのです。
そう言うとくだんの先生は当然、「それじゃあ効果があるかどうかなんて、わからないじゃないですか!」と言うに決まっています。けれど教育とはそういうものなのです。

 幼児教育について語るときも同じで、実証研究といってもひとつの幼稚園を二つに割って実験することは(研究者としては可能でも)教育者にはできません。別の幼稚園と比較することはできますが、それでは基礎的条件がそろいませんから厳密には実証と言い難いでしょう。
 通常、教育に関する研究、そこから得られる多くの知見はつまるところ「私はそう信じる」といった信念に基づいて語られるのであり、外れたからといって責任を迫られるようなものではありません。スポック博士を始め、多くの学者がそのようにしてきました。
(と、長い長い言い訳めいた前置きのあとで)

「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる誇り高き4歳児」
を育てるにはどうしたらいいのかと考える時、まず頭に思い浮かぶのは“我慢をさせる”ということです。
「踏みこたえる」わけですからそこには当然“我慢”や忍耐”があるはずです。ただし闇雲に我慢させたのでは子どももたまりませんし大人も苦しくなります。どこかに“我慢させるポイント”とか“我慢の要諦”とかがあるはずですが、それが良く分からない。

 さしあたってひとつ思い当たるのは、「希望のある我慢」と「絶望の我慢」です。
「希望のある我慢」というのはその先に何か価値のある我慢のことです。手っ取り早い例はオリンピックを目指すアスリートたちの日々の訓練で、苦しいのは当たり前ですが我慢できる我慢です。
 逆に我慢したところで何の利益もない、利益の予感すらない我慢は「絶望の我慢」ということになります。同じ強制労働でも日本の刑務所と独裁国の強制収容所とでは労働の意味が異なるでしょう。前者には出所の見通しとその先の世界がありますが、後者には何もありません。見通しもなければ働くことに意味さえわからないのです。

 もっともほとんどの場合、子どもの成長の過程で強いられる我慢は強制収容所のそれとは異なります。大人は通常なにかの意味があるからその子に我慢させるのです。その我慢の先に何があるのか、それが子どもに見えれば事態はかなり違ったものになるかもしれません。

                                    (この稿、続く)


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