2016/1/29

「鬼とピエロ」  教育・学校・教師


 不登校が社会問題となったのは私の記憶によれば1975年以降のことです。
 当初は親のしつけのまずさや子どものわがまま・怠けの問題としてとらえられていたのが、次第に「学校の受験偏重主義と管理教育」の問題になり、受験競争が廃れ校則が過剰なまでに減らされてもなくならないとわかると、今度はいじめがクローズアップされるようになりました。「いじめで自殺するくらいなら不登校を貫け」は不登校の問題をあまりにも一面的にしてしまいました。もちろん言っていることは間違いないのですが、余りにも極端な二者択一です。

 一方、学校の現場やカウンセラーの一部からは不登校の中に相当数の発達障害の子どもたちがいて、一般の不登校とは異なった対応が必要だという話もささやかれるようになっていました。その割合は2割だという人もあれば4割以上という声もあって確定しないのですが、これまで私たちに欠けていたのが「不登校にもいろいろなケースがあるという観点からの分析」だということは明らかになってきたのです。
 それまでは不登校すべてを網羅するような原因究明や対策を考えるか、「不登校といっても子どもは全部異なる」と言って本質的な究明を怠るか、ふたつにひとつしかないような状況が長く続いたのです。

 不登校の子の〇パーセントには明らかな発達障害が見られる。この子たちのことは不登校ではなく発達障害の問題として考えていこう。その他の子についてはさらにグループ分けができるかを考え、その上で原因究明と対応を考えていく。家庭環境が劣悪で学校に来れない子もいる、不良行為に忙しくて学校に来ていない子もいる、単純に学業不振だけが理由の不登校もいる・・・。
 おそらくそれが正しい態度でしょう。

 さて、先ごろ、埼玉県狭山市の虐待死事件に関して私は「まったく理解できない」と書きました。実の母親が同居する男とともに長期間にわたって子どもをいたぶるということは、私の想像力の及ぶところではないというお話です。
 ところがそれから十日もたたないうちに起こった東京都大田区の事件の方は、「同居する男が女の連れ子を虐待する」という比較的ありがちなかたちであるとともに容疑者が暴力団の組員だということで、何となく手の届く範囲にあるような気がしています。

 報道によれば虐待は同居し始めた1月8日以降すぐに始まったそうですが25日昼の時点で身体にアザなどがないこと保育園で確認されていますから、その夜に1時間にわたって行われた暴行が際立って激しかったと想像されます。
 かかと落としを繰り返したボーリングのように投げた、刃物で脅した自殺を教唆したなどはどれも正常ではありません。しかし救急隊が駆け付けた時は逃げもせず玄関先で携帯をいじっていた、「ガンを飛ばされたので暴力に及んだ」「人生に悔いはないと発言した」といった周辺のことも、いくら容疑者が二十歳の子どもとはいえまったく理解しがたいものです。
 対立する組織の組長の首を取ってきたというような話ではあいのです。「人生に悔いはない」と偉そうに言ったって、「三歳の子どもを殴り殺した」ではそのスジの人だって相手にしてくれません。何をしでかすかわからないような人間は、暴力団でも困るのです。そんなこともわからない。
 もしかしたら彼も大分県の自衛官のように、「不安とおびえ」から無我夢中で暴行を続けていたのかもしれません。三歳の子どもに追い詰められるような何を持っているのです。

 ついでに、
 今週は、政務活動費をめぐる詐欺などで在宅起訴された元兵庫県議・野々村竜太郎被告の初公判を、面白おかしく取り上げるニュース・ショーがいくつもありました。
 丸坊主で出廷したとか被告人質問で「記憶にない」「覚えていません」を90回以上にわたって繰り返したとか、2年前の号泣記者会見を交えて半ば笑いものにしながら番組を構成しているのです。
 ここまでやるのは人権問題ではないのかという疑問もありますが、果たしてこの人を通常の裁判で裁くのが適切なのかという指摘がどこからも出ないのが不思議でもあります。
 検察に対して「記憶にない」「覚えていません」というのは当然としても、打ち合わせ済みであるはずの弁護人にまで同じ答えを繰り返し、別のやり取りでは明らかに弁護士を呆然とさせているのです。
 考えてみればあの号泣会見も常人のものとは思えません。まずあんなことは思いつきませんし思いついてもやりません。そしてなによりもやろうとしてもあれはできないのです。
 芸人が真似をするのも見ましたし宴会で学生がウケを狙ってやるのも見たことがありますが、まったく面白くない、うまく行かない。あれができるのは、あれが地であるような人だけだ、そんなふうにも思えてきます。

 もちろん政務活動費の問題は追及され究明されなければなりません。しかし同時に、野々村元議員の精神的な問題についても切り込んでおかなければ、事件を意味もなく一般化したり逆に特殊な問題として闇に葬りかねない気もするのです。



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2016/1/28

「キレる」  教育・学校・教師


 一昨日のニュースに「大分子供4人焼死  父親、起訴内容を大筋で認める 初公判」というのがありました。
 それによると、
 昨年7月に大分県杵築(きつき)市の民家が全焼し、子供4人が焼死した火災で、重過失失火と重過失致死傷の両罪に問われた父親で海上自衛隊1尉(起訴休職中)の末棟(すえむね)憲一郎被告(41)=広島県江田島市=は26日、大分地裁(今泉裕登=ひろと=裁判長)の初公判で起訴内容を大筋で認めた。
ということですが、妻が見送りに出なかったことに腹を立て、家に火をつけて子供4人を焼死させたというこの事件、非常に心痛み、そして記憶に残るものです。

 しかし今回の裁判についていうと、私は、
 起訴内容について「『立腹』ではなく不安やおびえと表現した方が合っている」と主張した。その後、声を震わせ「灯油をまいてライターに点火したことは覚えていない。自分でやったとも、やっていないとも覚えていない」と述べた。
という部分に心惹かれます。
 4人の実子を死なせてしまった被告は、事件と真摯に向かい合おうとしています。その被告がこだわるふたつの部分は、事件を考える上でとても重要な意味を持つかもしれないからです。

 私は2年ほど前、このブログで児童自立支援施設に付属する中学校(分校)の先生に関する話を書きました。(「止められない人たち」2013/12/4)

 分校では担任教師と生徒が「落ち着いて勉強を続ける」とか「静かな生活をする」といった目標を立て、日々コツコツと小石を積み上げるように努力を重ねている。しかしその膨大な積み重ねを、衝動の強い子どもたちは一瞬にして破壊してしまうことができる。
 些細な怒りのため友だちに尋常ではない暴力をふるったり、ありとあらゆる物を破壊したり――その次の瞬間の子どもの落ち込みは見ていられないほどのものだが、ともに努力してきた担任教師の落ち込みもまた大きいく深い。その教師たちのモチベーションを支えていくのは容易ではない、といった話でした。

 大分の事件の被告は8人の子持ちでした。子ども好きでなければ持てるはずのない人数です。
 事件当時の新聞記事に、
 一家は近所の畑を借り受け、トウモロコシなどを栽培していた。土日は一家そろって畑仕事をする姿がよく見られた。
とあるように、子煩悩な愛情深い人です。それがいかに腹を立てたは言え、家に火を放って焼き殺すなど、普通の論理では説明できないことです。

「『立腹』ではなく不安やおびえ」
「灯油をまいてライターに点火したことは覚えていない。自分でやったとも、やっていないとも覚えていない」
 この理解しがたいふたつの言葉は、けれど4人もの実子を焼き殺してしまった子煩悩な男の述懐だと思うと、むしろ納得ができます。
 「立腹」は自分の内から起こるものであり、「不安やおびえ」は外からやってくるものに対する内部の反応です。「外からやってくるもの」が存在する以上、自分ではどうにもコントロールできなかったかれはそういっているのかもしれません。
 そして事件は「自分でやったとも、やっていないとも覚えていない」状況で起こされたのです。

 今日も私の職場では「〇〇ちゃんがいきなり殴った」「何もしないのに擦れ違いざまに蹴った」といった話が目白押しです。その中には明らかに「不安とおびえ」のために無自覚に振るわれる暴力があります。それもかなり多くあります
 あの子たちを何とかしなければ、やがて彼らはヤクザな道に入るかそのまま刑務所か、あるいはまっとうな人生を歩みながらある日突然4人の子どもを殺す殺人者になってしまうのかもしれません。
 できることは多くないのです。しかしそれでも丁寧に見ていきたいと思いました。
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2016/1/27

「野蛮人でいいや」  政治・社会


「三寒四温」・・・辞書には「冬季、三日間ぐらい寒い日が続き次の四日間ぐらいが暖かく、これがくりかえされること」とあります。確かに冬の天気はそんなふうです。
 ところが、子どものころは気づかなかったのですが「3+4」は「7」です。つまり「三寒四温」が正確に繰り返されると毎週日曜日から火曜日までは寒くて水曜日から土曜日までは暖かいということになります。もちろんそんなに正確に繰り返すものでもありませんが、それでも今月18日に大雪が降ったら今週の日月も超ド級の寒波で大雪、今週末はまた雪あるいは雨との予報です。うまくできたものです。

 さて、今週の日月曜日(24日・25日)、私の地方は幸い大雪ということにはなりませんでしたが、強風のために畑に積もっていた雪が道路に移動してしまい、一部の農道では大変なことになっていました。圧雪されて氷となったデコボコ道に雪がさらに15センチ以上も積もってしまったのです。降雪があったわけではないので除雪も出ません。

 片道一車線、対向車がらくらく擦れ違える道路に轍(わだち)が三本、そういう風景は雪の少ない地域の人々には想像がつかないでしょう。中央の一本は共有の線なので対向車が来るとどちらかが譲らなくてはなりません。しかし道を譲った先は多くの場合、雪の下が氷の山脈みたいになっていますから、下手な登り方をすると滑り落ちてしまうのです。すれ違いざまに滑ったものなら譲った相手に側面から「ズルッ」「ドン」ということになりかねません。かといって大きく左にそれるとそこはもっと深い雪ですから今度は抜け出せなくなる危険性があるのです。一昨日はまんまとそれにはまってしまい、えらい難渋しました。
 途中、通りがかりの車から運転手が顔を出し、「手伝いましょうか?」と声をかけてくださいましたが、もう見通しのついたころだったので丁寧にお断りしました。自分でできることは自分でしなくてはなりません。たまたま持ち合わせた雪かきでエッサカホッサカ雪を掘って地ならしをしすると、発進は案外すんなりとしたものでした。

 今度の大雪では市町村に抗議や問い合わせの電話が殺到したそうです。
「いつになったら来てくれるのか」「ウチの前はやってくれないのか」などというのはいいのですが、その中に「除雪車がウチの玄関口に壁をつくってそまま行ってしまった、どうしてくれるんだ」という抗議が多数あったというのには少し考えさせられました。除雪ドーザで雪を寄せながら進むと、どうしても排雪板の端で路側に壁ができてしまうのです。それが出口をふさいでいるから何とかしろというのです。
 たいした大きさではないはずです。雪かきで4〜5回も運べば何とかなる量です。それがなぜできないのか。多くの人は黙って――あるいは一気に除雪してくれたことに感謝しながら、その部分の雪かきに精を出しているはずです。しかし一部の人たちは、なぜその程度のことでわざわざ抗議の電話など入れるのでしょう?

 文明人というのは昔の人なら自分でやったことを、次々と他人や機械や社会システムにゆだねようとする人々のことを言います。抗議の主はきっとそんなひとなのでしょうね。
 しかしだったら私は野蛮人でけっこうです。自分でできることは自分でしないと気が済みません。


5

2016/1/26

「ブラック&ブラック」  政治・社会


 息子のアキュラが大学3年生でいよいよ就活の時期となりました。
「今どんな様子?」とLINEで訊くと、
「他の人はもう第一コーナーを回ってた」
「おまえはどのあたりなの?」と訊ねると、
「発馬機は出た」
 うかつにもスケートか何かの第一コーナーのことを考えていたので競馬の話には面食らいました。

 継がせる家業があるでもなく近くに多様な仕事があるわけでもない。小さいながら家屋はあるものの、いざとなれば売って現金で継がせる時代です。一人息子ながら遠方に就職することも覚悟しなければなりません。
 それはしかたないのですが、親として心配なことはひとつ、そこがブラックで身も心もボロボロにされないかということです。アキュラはブラック・バイトでかなり苦労したことがありますし、私の友人の子がやはりボロボロにされて帰郷しているのでとても心配なのです。
 私がやっていた教員だって労働環境はかなりブラックでした。しかしそれでも生きがいがあった。公務員だから安定もしていた。これが過酷な上に生きがいもなく、いつ潰れてしまいかわからないとなれば人は気持ちよく生きていくことはできません。
 アキュラにそう言うと、
「そうなんだけど、企業案内を見ても『ブラック』って書いてないんだよ」
 たしかにそうではありますが――。

 さてここ10日あまり、ニュースのトップを飾り続けたのは軽井沢のバス事故とココ壱の冷凍カツに始まった廃棄食品横流しです。このふたつはよく似ていて、共通するのは企業の徹底した不道徳です。
 バス会社の「イーエスピー」は、運行指示書にルートの記載がない、ツアーの法定基準額を守らない、出発前の点呼はしない、到着する前に終了報告を作成してしまう。健康診断はしない車両点検もおざなり、計画通りの運行もさせない、大型は苦手だと言っているのに夜行の大型バスの運転をさせる――と不正のオンパレードです。「乗務員を2名配置したこと以外に何か守っていたことはあるの?」と訊きたくなるくらいです。

 一方、産廃処理企業の「ダイコー」と食品会社の「みのりフーズ」――この2社を通すとどんな食品でもどんどん市場に流れてしまう。
 異物混入を疑われる4万食の冷凍カツを廃棄にしたのはココ壱の誠意です。しかしココ壱が偉かったのではありません。それが日本的企業風土で普通はどこもやっていることなのです。それをいちいちちゃぶ台返しでひっくり返すのだからかないません。
「みのりフーズ」に横流しにするところは分かりますが、「ダイコー」はどんな顔をしてココ壱から廃棄料を受け取ったのでしょう? 空恐ろしいことです。

 それぞれの企業に事情を知る多くの社員がいました。進んで不正を指示した人も黙って実行者となった人もともに存在します。指示したのは悪意ある人ですからかまわないのですが、黙って働き続けた人たちはかわいそうな気もします。切なかったろうな、と思うのです。
 私にもかつてブラックといっていい企業の活動に手を貸していた時代があります。悪いと思っていても内部告発など思いもよらぬことでした。自分も悪に手を染めている以上、“自首”するような気持ちがないと訴えられないのです。しかし嫌だった。

 心配なのはアキュラだけではありません。
 これから何十年も日本を背負っていく若者が、この国は背負っていくに値する、この国と人々のために十分に働きたい、そう思ってもらえるように私たちがこの国を守らなければならないです。
3

2016/1/25

「雪の日の暗い空の下で思いだしたこと」  教育・学校・教師


 雪のせいか何か心が沈み、身体も重くなります。めったに過去を振り返るということのない性質ですがこうなると何かと想いが昔に向かいます。

 現職中、私は人生の半分を学校教育にかけ、もう半分を自分の子どもの子育てに尽くしてきたと考えていました。他に何もしてこなかった。
 大した趣味もあるわけではなし遊びに出ることもほとんどなく、家族や学校以外に夢中になる何かを持ってもいませんでした。それで寂しいと思ったことも、これではいけないと考えたこともありません。だからそれでよかったのですが、 近ごろ、別の想いに捉われることも少なくありません。
 学校時代のことについて嫌なことばかり思い出すのです。

 何かで失敗したこと、人に嫌な思いをさせたこと、さまざまにうまく行かなかったこと・・・。
 30年も教員生活を送っていたわけだし全体としては大過なく全うできた、それなりに一生懸命やっていたから何らかの成果もあったし人の役に立ったこともあったに違いない。いまだに連絡をくれる元生徒もいるのですからまんざら嫌われたり疎まれていたわけでもないだろう、なのに良いことは何も浮かんでこないのです。
 もう教員だったときのことはいい。もしも墓碑銘を刻むなら、自分の墓は
「彼は子の親となり、子を育てた」
だけでもいいのかなと思ったりもします。

 しかしそんなふうに考えているうちに、ふと思い出したことがあります。それは私が小学校の教員免許を取ろうとしていたころ、指導教官をやってくれた先輩の先生の言葉です。
「この仕事、例えばT先生がね、ものすごく苦労して、子どもの逆上がりができるようにしたとして、そのときその子は家に帰って、『先生のおかげで逆上がりができるようになった』とは絶対に言ったりしないよ。
『ボクできるようになった』だけだ。そして親も『先生ありがとう』などと考えたりしない。その子に向かって『頑張ったね』と言うだけだ。自分の努力がまるで見えない、そういうことに耐えられなければ、この仕事はやっていならないんだ」

 そう言えば教師の仕事の大半はそういうものです。
 音楽会や運動会、中学校の文化祭などはすべてうまく行くように教師が周到に計画し、準備し、訓練する。けれど最後は「子どもたちの頑張りと集中力でここまでできた」という擬制に押し込めるのです。教師の手やそのあとが見えたり残ったりするようではまだまだなのです。教師の姿が見えなくなるまでやってその仕事は完成ということになります。
 しかし失敗したこと、うまく行かなかったこと、その結果だれかに迷惑をかけたこと、それらは計画がずさんだったり準備が不十分だったり、あるいは訓練が不足していた結果ですからすべて教師の責任です。責任を取らされるという意味ではなく、全過程を責任もって行っているのは教師だからです。

 そして私は少し安心し自分を慰めます。
 すべて良きことは児童生徒と保護者の勝利として預けてしまった、だから自分のところには残っていないのだと。
 実際にはそうでもないのですけどね。


3

2016/1/23

「更新しました」  教育・学校・教師



「キース・アウト」(2016.01.23)

 <教科書閲覧問題>不適切行為12社 文科省調査



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