2015/12/2

「教育用語の基礎知識」B  教育・学校・教師

(毎年出版されている「現代用語の基礎知識」をもじっただけなのですが、「おう、おう、分かってもいないのに偉そうに」と難癖をつけたくなるようなタイトルです。いやいや、とてもそんなつもりはございません。ただちょっと言ってみたかっただけです)

 近年海外留学する学生が少なくなったと一部の文化人を嘆かせていますが、英語ができなくてもノーベル賞の取れる(益川敏英教授)国です、何が哀しくて海外留学などせにゃならんの、留学なんて研究者が必要に迫られていくものだ――学生たちがそんな風に考えても不思議はありません。実際、外国に行かなければ学べないことがどれほどあるのかは疑問ですし、それがある人は行けばいいだけのことです。みんなで嘆くほどのことはありません。
 もっとも「遊学」なら、それにはそれなりの意味がありますから、これも行きたい人は行けばいい。けれどあえて行かせることもないと思っています。

 ただしまじめに「留学」を考えるなら、行くべきはアメリカ合衆国です。
 ほかの国でもいいのですが、イギリスに行く、フランスに行く、あるいは中国の行く、シンガポールの行くとなると「なぜ、その国なのか」という説明が必要になります。ファッションの勉強に、美術の研究のために、と言えば「なるほどそれならフランスだ」ということになりますし、陶磁器の発祥について研究したいから中国だと言えばそれも納得できます。しかし特別な理由がないならアメリカでしょう。なぜなら、総合的に言って今のアメリカが世界中でもっとも科学的に進んでいるからです。
 すべての文化は高いところから低いところへ流れます。かつて芸術家はフランスへ、医者や科学者はドイツへ、文学者はイギリスへ留学しましたが、それはそれぞれの分野でトップがそうした国々だったからです。しかし現在は、特別のことがなければアメリカなのです。

 天平の遣唐使以来つねにそうでしたが、留学生たちは現地で最新の学問を手に入れて帰国し、それを広めようとします。そうしなければ行った意味がないし、彼らの持っている最大の価値がそれだからです。受け手である私たちも、積極的に受け入れようとします。なにしろ最も進んだ国の最新の文化です、彼の国でやっていることは間違いがありません。
――と、ほんとうにそうでしょうか?

 松居和という人は「子育てのゆくえ」(エイデル研究所 1993)の中でこんなふうに言っています。
『家庭の問題に関して「欧米では」ときたら、まず反射的に「それは真似してはいけないこと」と考えるような癖がついている』
 激しく同意!です。
 留学するならアメリカですし、アメリカ帰りの研究者たちが最新の科学を広めるのはけっこうですが、家庭問題や教育問題で余計なアドバイスをして、この国を混乱させないでほしい。非常に豊かな日本の教育を、アメリカン・プラグマティズムでズタズタにしないでほしい、そう思うのです。

 アメリカ型経営学の果実「マネジメント理論」で学校を測ると、本来数値化できないものまで数値化し始め、
「授業中、席を立つ1年生が8%からポイント減の6%へ、鉛筆が正しく持てる子が24%から44%へ急増」
などといった愚かな計測を始めかねません。
 道徳性についても今後、
「《目標》朝のあいさつを10人以上にできる児童を70%以上に、家庭で10分以上のお手伝いのできる児童を半数以上に高める」
といったことになりかねません。それは恐ろしいことです。こと教育については、絶対に欧米を真似してはいけないのです。
・・・とここまで長々と書き、本日の分をすべて使って欧米の悪口を言ったのは、「私は欧米至上論者ではありませんよ」と無罪証明をしておいた上で、それにも関わらず「子どもと向き合う」「子どもに寄り添う」を考える上で、欧米の理論を援用しようと考えているからです。

 デーモンの調査とコーチング理論です。
                                  (この稿、続く)
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2015/12/1

「教育用語の基礎知識」A  教育・学校・教師


 教育に関するアドバイスや提言にはかなり情緒的なものがあって、聞いた時には一瞬わかったような気になっても良く考えるとわからない、あるいは具体的にどうすればよいのかわからないような話がたくさんあります。

 たとえば「子どもを信じろ」。
 世の中には子どもを信じたばかりにバカを見た親はいくらでもいます。というか大抵の親はそうです。ウチの子は天才だと思ったらバカだった、家に帰ったらすぐに宿題をやるといったのにまるっきりやらない、ゲームを買ってくれたらテストで頑張ると言っていたのにそのゲームばかりやっている・・・。
 万引きか何かで警察に捕まって、「どうしてこれだけのことをしていたのに親御さんは気付かなかったのですか」と問われたら静かに黙っているしかありません。そんな場で「子どもを信じていましたから」と言ったりしたらバカにされます。

 子どもを信じじてはいけないという示唆が、子ども自身からもたらされる場合もあります。ためしにやってみればいいのです。
「お父さんはお前を信じる。お前はこれから毎日10時間15時間といった猛勉強に耐えて必ず東大に入ってくれる。お父さんはお前の事を絶対に信じっているからね!」

 要するに「子どもを信じろ」というアドバイスないしは指示の背景には、何かしらの条件とか制約とか、場面とかがあるのです。むやみに信じてもいけませんし、全部を疑ってもいけない、しかし信じていい何か、です。
 子どもの非行問題や不登校に悩んでいるときに「子どもを信じて待ちましょう。必ず良くなります」と言われたとしても、ただ漫然と何もせず、子どもの言いなりになって待っていてはいけないのです(もちろん「何もしない」ことが有効な場面もないわけではありませんが、その場合は期限を区切ったり、どういう条件がそろったら「何もしない」ことを止めるのか、決めておく必要があります)。

 一方、「待つ」のではなく、何かしら行動が求められる場合もあります。
「きちんと子どもと向かい合いましょう」「もっと子どもに寄り添って・・・」「子どもの目線で考えてみてください」「一歩踏み出しましょう」
しかしどれもこれも具体的に何をすればよいのかわかりません。
 崖っぷちの人間が「一歩踏み出」したら危険です。親子関係が険悪になっている最中に不用意に「向かい合」ったらこれも危険でしょう。「寄り添って」何をしたらいいのか。
 言われた方はさっぱりわかりません。言っている方だってわかっていないのかもしれません。

 ただし、もちろんこれらの助言・指示がまかり通っているのは何らかの意味があるわけで、何かの成功例があるからなのでしょう。言われた側が何らかの適切な態度や行動を取ったからうまく行ったとか、言った内容が直截効果を発揮するのではなく、言われた通りにすることで別の要素が生まれ、その要素に力がある、といったケースです。
 ですから、すこし考えてみたいと思います。

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