2015/8/26

「児童館の子どもたち」  教育・学校・教師


 私の児童館には近隣の小学校の児童のおよそ三分の一が登録しています。しかしその全員が毎日来ているというわけではありません。おけいこ事があるから今日は来ないとか、お父さんが水曜日休みなので水曜は来ないとか、あるいはお祖父ちゃんが遊びに来ているとか本人が病気で学校を休んだとか、様々な理由で3割ほどは来館しませんから、学校の児童の2割強が放課後の児童館を利用していることになります。
 また、登録児童は無作為に抽出されてくるわけではないので一定のバイアスがかかっています。
 例えば、家にお祖父ちゃん・お祖母ちゃんのいる三世代家族の子は来ません。母親が専業主婦かそれに近いパートタイマーの場合も来ません。ひとり親の家庭の子は多く、ひとりで家に置いておける高学年の子は少ないという傾向があります。もちろん高学年でも「一人で家に置いておけない」から児童館に来ているという子もいます。私がそう思うのではなく、保護者がそう言うのです。
「もう、先生! この子ったら家に置いておいたら何をするのかわからないので、来月からもう一度児童館にお願いすることにしました」
《児童館は収容所じゃないのだけどな》
と思いながらも、厚労省の「放課後児童健全育成事業」いわゆる学童保育は就労支援の制度ですから、子どもが心配で働きに出られないようでは困ります。家で何をするのかわからないような子は児童館でも何をするか分からないのでとても心配なのですが、一応、喜んでお引き受けします。
 登録児童の数に比例して私の収入も増えるというなら、もろ手を上げて歓迎するところですが、微々たる固定給で働いていますので、“喜んで”は顔だけの話になります。

 児童館の先生たちは「子どもたちは三つ目の顔で過ごしてる」という言い方をされます。学校とお家庭とも違った第三の顔という意味です。
 確かに、カリキュラムや日課がしっかりして何を求められているかが分かりやすい学校や、長い年月の間に「その子仕様」に変形した家庭と異なり、児童館というのは枠も緩くかなり自由に過ごせる場所です。それだけに「自由意思で何でも決められる場で、その子はどう振る舞うか」ということが見やすいところでもあります。しかし第三の顔というほどのものではなく、その子の持つひとつの側面が強調されているにすぎません。そしてその側面というのは、おそらく大人になり家庭からも学校からも自由になったとき、その子が社会に対して向ける面なのです。

 ところで、同じ子ども相手でありながら学校と児童館で何が一番違うかといえば、それは毎日お迎えに来る保護者と顔を合わせるということです。
 制服のまま、作業着のまま、急いでお母さんたちは迎えにきます。迎えは必ずお父さん、というご家庭もあります。迷彩服で跳び込んでこられたお父さんにはさすがに驚きましたが、遅刻ギリギリなので、真っ直ぐ慌ててきたという自衛隊勤務の方でした。
 そうしたお父さんやお母さんの後ろ姿を見送りながら、私は予言者のような気持ちになることがしばしばです。
「良いお子さんを持たれましたな、きっと暖かい未来が待っている」
 そう思える時はいいのです。しかし暗澹たる未来しか想像できない場合もあります。
「お母さん、確かに今は生活することで精一杯だ。けれど今、どんなに貧乏をしても、あるいは不本意に家族や他人に膝を屈するようなことがあっても、この子のために十二分な時間を持ちしなければならないことがある。
 もう遅いかもしれないが、万が一にも間に合わないとも限らない。今、たっぷりと時間と愛情をかけてこの子を何とかしなければ、あなたとこの子の将来は、とんでもなく惨めで暗く、苦しいものになってしまうかもしれないのだ」
 しかしそう感じながら、私は具体的にその子と保護者を動かす権限を持っていないのです。

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