2015/7/24

「しておけばよかった」  いいこと


 昔しんどかったこともあって若い時代に戻りたいとは思いませんし、自分の人生にそこそこ満足しているのでどこなの時点に戻ってやり直したいという気持ちがあるわけでもありません。しかし今度生まれ変わったら、と思うこともないわけではないのです。
 それは卒業したK高校ではではなく、隣の学区のS高校に進んでヨット部に入ればよかったとか、漁師を目指しても良かったなとか、あるいは現在が予測できたらウナギの研究などといったものも面白かったかな、といったことです。

 年を取るにつれて、自然に勉強させられたことの中にはかなり魅力的なものがいくつもありました。
 18歳の時には経済学など何が面白いのかと思っていましたが、40歳過ぎたころからしばらく取りつかれたように勉強しました。もちろん大したことはできなかったのですが、調べ始めると面白くてなぜ経済学部に進まなかったのかとほんとうに後悔しました。
 子どものころから心理学には興味がありましたが人の心を考える臨床心理より認識だの知覚だのに関わる認知心理学の方が面白かったかなとか、キリコやマグリットに夢中な時期もあったけど結局印象派かなとか、音楽も高校生くらいの時にプロコフィエフやショスタコービッチとかにもっと触れておけばいろいろ違っていただろうにとか――。

 一方、自分はやはり仕事は向かないと不埒なことを考えることもあります。気が向いたら海に行って釣り糸を垂れ、釣れても釣れなくても半日そこで過ごす、そういう生活が実は向いているのではないか(そんなことが許されるならかなりの人がそうなってしまうのではないか――といったことはとりあえず頭に浮かびません)。だとしたら若いうちにもっと釣りの技術を磨いておけば人生はさらに豊かになっていたのかもしれません。

 スキーも下手なまま終わってしまいました。酒を極めるとかコーヒーの通になるといったこともせず、何でもおいしく飲食できる代わりに、食に何の薀蓄もない人間のまま終わりそうです。

 しかし今の私が最も後悔するのは、そうした私自身の後悔を反映した教育を、十分にして来なかったのではないかということです。
 社会科の教員でしたから経済の面白さをもっとも伝え易い立場にありました。だったら中学生の段階から、「将来は経済学部へ進もう」と決心するような子どもを大勢生み出すこともできたはずです。しかしそうはなりませんでした。
 釣りでもスキーでもヨットでもボートでも、やってみたいことには何でも挑戦し、しばらく熱中するような子どもをたくさん育てておけばよかったものを、それも十分できた気がしません。
 何かほんとうに中途半端だったなあと思いながら、自分の後半生をどう過ごして行こうか、ビールでも飲みながらじっくり考えていきたいと思います。

 ふと気がつけば世間は夏休み。私もお盆過ぎくらいまでブログを休んで、英気を養いたいと思います。
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2015/7/23

「私はそう信じて疑いません」  教育・学校・教師


 総合病院の受付で会計の順番を待っている時、ひとりの2〜3歳くらいの女の子がこちらに走って来て、私の横にあった飲み物の分別ボックスにジュースの紙パックを投げ込みました。 
 私は「あっ」と思いました。残念なことに空き缶の入れ物に紙パックを投げ込んでしまったのです。三つ並んだボックスはあいにくなことに「カン」「ペットボトル」「ペットボトル」で、可燃物はその向こうの小さなゴミ箱にいれることになっています。きちんと説明書きがついているのですが小さな子では読めません。しかたないので私は、目で、『お利口だね』と言って(というのは偶然その子と目が合ったからなのです)そのままにしました。一個くらいの間違いは許してもらえそうですし、何よりもそんな年頃で分別ボックスのところまで持ってくるのが偉いと思ったからです。
 お母さんは財布をバッグに入れて中を整理していたので、その瞬間は見ていません。偉いなあと思ったのは、そのお母さんが確認に来たからです。
「あれ? できたのかしら?」
 そう言いながらボックスの中をのぞき込むのですが、深くて底の方までは見えません。母親も近づいて見るまで、それが「カン」「ペットボトル」「ペットボトル」だと気づかなかった様子です。
 私は、
「間違えて『カン』のところに入れちゃいましたけど、いいでしょう」
と言いました。
 関係者でも何でもない私ですが、母親も安心した様子で「ありがとうございます」と言ってその場を立ち去ろうとします。私もやっと「いい子だね」と声に出して言えたのでよかったなと思いました。

クリックすると元のサイズで表示します 今、私が読んでいるのは「『昔はよかった』と言うけれど: 戦前のマナー・モラルから考える」(大倉 幸宏 新評論2013/10/8)という本です。
 簡単に言ってしまうと「昔はよかった。道徳もマナー・モラルも現在は地に落ちてしまった」といった言い方に対して、「そんなことはないだろう、昔だってひどかった」という反証を提示するものです。ただし私の場合は「昔だって〜」ではなく「昔はひどかったが今は素晴らしい」という立場を取っています。
 もちろん今でも道徳的に問題な人はたくさんいます。しかし平均的なレベルで言えば現在の方が圧倒的にいい、息苦しいほどの道徳性が求められている――と考えるのです。
 その異常に高い道徳性は、少なくとも組織的には、学校がつくってきたのです。私はそう信じて疑いません。もちろん前述のお母さんのような賢く誠実は人々が、長い時間をかけてその基礎を築いている事実も見逃せません。しかしそのお母さんも私たちが育ててきたのです。
 私はそう信じて疑わないのです。



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2015/7/22

「ストレス・トマト」  オススメ


 トマトやミニトマトというのは、苗を買ってきて植えてそのままにしておくと、四方八方に枝を伸ばして小さな藪のようになってしまうものです。そのくせ実は小さく数も少ないのが常です。ですから枝が広がらないように脇芽(葉の付け根から出て来る新しい枝の芽)が出るたびに掻きとって、主枝だけを伸ばしていくというのが通常のやり方です。
 ただしそれだとひたすら上へ上へと延びてしまい、支柱の丈を越えると仕方がないので反対側に落とし、それでも足りないとまた持ち上げるといったふうで途中からかなり面倒くさいことになります。
 10年以上前、ある農業雑誌を見ていたら、そうではなく、ある程度上に伸ばしたところで花の下に出て来る一本の脇芽を大切にし、主枝の方は花二房を残して先端を止める(切ってしまう)という方法を知りました。
 伸ばした脇芽も、花が二つ付いたところで先端を止め、花の下から横に伸びた枝(脇芽)を伸ばします。同じことを繰り返すと全体はSの字状にくねくねと進んで行く形になり、枝の主軸は2mあまりになってもつづら折れになった分、支柱の高さを越えることはないのです。これを私は「鼻(花)の下を伸ばす法」と呼んであちこちで吹聴してきました(本ブログ、2008年7月24日「ハナの下を伸ばす」参照)

 ところが今年、テレビを見ていて新しい方法に出会いました。それは言わば「地を這うトマト栽培法」ともいうべきもので、要するに脇芽を掻きとるばかりだと上へ上へと延びる主枝を、ひたすら横へ横へと流していく方法なのです。むろんトマトは上へ伸びたがりますが、それを無理やり横に縛り付けるのです(写真)。
クリックすると元のサイズで表示します

 テレビで紹介されたのは枝が伸びすぎて困るからというのではなく、トマトにストレスを与えて美味しい実をたくさんつけさせる方法としてです。そしてそれはとても理にかなったことなのです。

 そもそも植物はなぜ美味しい実をつけようとするのか――それは結局、美味しい実をつけることでさまざまな動物に食べてもらい、種子を胃袋や腸に溜め込んで遠くまで運んでもらってそこで肥料(糞)とともに地に蒔いてもらいたいという欲望があるからです。この欲望は個体によって強さが異なり、より生存の危機にある個体ほど意識が高く、できるだけ多くの種子を、より条件の良い土地に運んでもらおうとします。つまり必死の思いで美味しい実(種入)をつくろうとするのです。逆に言えば、植物に生存の危機を自覚させることが美味しい実をたくさんつけさせるコツなのです。

 トマトについて言えば、ひとつは極力、水を与えないことです。もともとがメキシコ高原の岩場で地に這いつくばって水を探していたような植物ですから、少しぐらいのことでは枯れたりしません。葉が黄色くなり、茎から白い産毛のような毛が生えだして空気中からも水分を吸収しようとするまで枯渇させると、トマトは必死になって美味しい実の生産を始めます。家庭菜園でトマトの上にビニールのドーム型テントを張っているのは、保温のためではなく雨除けなのです。意図的な灌水以外の水を避けるためです。
 美味しい実をたくさんつけさせるもうひとつの方法は、トマトに素直な生育をさせないことです。上へ上へ伸びたがる枝を横へ横へと伸ばしていくのは、そのやり方のひとつです。

 さて今回の新しい方法、それだけ美味しい実をつけてくれるのか――来週あたりから本格的な収穫になります。

 適切なストレスを与えないと美味しく育たない――人間だってその通りです。

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2015/7/21

「後拾遺」〜岩手いじめ自殺事件の違和感F  教育・学校・教師


3 人は何によって死ぬのか
 だいぶ昔のことですが、新作の小説に立て続けに二回、“歯が痛くて自殺した男”の話が出てきたことがあります。あまりにも突飛な話ですから一方が他方の剽窃ということはないでしょう。小説家の心を駆り立てるそうした事実があったのかと思うのです。
 人は歯痛で自殺することができるのか――。
“最期の引き金”という意味では大いにあり得ると思います。莫大な借金が銃を買わせ、家族の離反が弾倉に弾を込めさせ、孤立無援が銃口をこめかみに向けさせ、そうしたぎりぎりの状態でにっちもさっちも行かない時、たまたま歯が痛くなって“最後の引き金”を引かせるといったものです。このとき、歯痛は自殺の原因とも言えますが、原因ではないという言い方もできます。非常に厄介なところです。
 村松君のことについてはこれから調査が行われるので別ですが、これまで「いじめ=自殺事件」と呼ばれる者の多くが「いじめはあったが自殺との因果関係は分からない」という形で落ち着いてしまうのはすべてそのためです。
 いじめの被害者が生き残って加害者との間で事実の摺り合わせが行われれば、「何があったのか」も「それが被害者・加害者双方にとってどういう意味をもったのか」も明らかにできたはずです。いかし一方が亡くなってしまうとそれもできません。
 よほど明確な事実の出てこない限り、ほんとうのことは本人にしか分かりませんし、もしかしたら本人にも分からないのです。自殺は、その意味でも大きな損失といえます。

4 解釈可能ないじめと暴力
 しかし、世の中の「いじめ事件」の一部には非常に分かりやすいものがあります。
 ひとつは金の動いている場合です。暴力を使えば金が引き出せる、あるいは暴力をちらつかせるだけで資金が提供される、そうなると暴力は収まりません。被害者が出ししぶればその分、暴力は苛烈になって行きます。
 もうこれ以上お金は出せないというところまで至ると被害者は死を考えます。困っているのに親に相談できないのは、多くの場合、親を裏切ってそこから金を盗んでいるからです。裏切っている相手に助けを求めるわけにはいきません。
 もうひとつ、暴力が苛烈になるのは「裏切りの代償」が求められている場合です。
 今年(2015年)2月の神奈川県川崎市の中1年生殺害事件は、グループのリーダーに他の不良グループが説教をしたからだと私は思っています。可愛がっていた舎弟が他の組織に助けを求めた(と考えた)のです。リーダーは傷つき、報復は当然と考えました。こういう場合、暴力は容赦なくなります。“悪いのはアイツ”だからです。
 ただしこの二つは、前者を「恐喝」、後者を「カツ入れ」だと言えばずっと分かりやすかったはずです。これらを「いじめ」と呼ぶから話が厄介になるのです。

5 事実が確定しない段階で、簡単にいじめを認めてはいけないと思う
 今回の村松君の事件では、相当早い段階で教委が「いじめ」の可能性を示唆し、「いじめがあったという前提」での調査を始めています。教育長は「事実上(いじめが自殺の)一因であると言わざるを得ない」と語ったと伝えられていますが、私にはこの対応が正しいとは思えません。なぜならそれ以前から、「事実上(いじめが自殺の)一因」となった首謀者の詮索が行われているからです。
 教育長の一言によって、矢巾中学校の生徒のひとりが村松君を死に追いやったという事実が確定しました。やがて“犯人”は暴き出され、現実社会では問題にならなくてもネット社会で永遠に糾弾され続けるかもしれません。
 私には、それが正しいとはどうしても思えないのです。

                                (この稿、終了)
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2015/7/17

「拾遺」〜岩手いじめ自殺事件の違和感Y  教育・学校・教師


 いくつか書き遺したものがありますので拾っておきます。

1 なぜ担任は保護者との連携を取ろうとしなかったのか。
 ひとつ考えられるのは、そのくらい事態を甘く見ていたということです。自殺はほのめかしていても訴えてくるいじめの内容は大したものではなく、それもひとつひとつ解決している。改めて家庭に伝えるほどのことでない、そんなふうに考えていたのかもしれません。事態の見積もりを誤っているとそういうこともあります。
 あるいはもっと早い時期から報告しておけばよかったのに、怠ったばかりにずるずると引きずってしまったというような場合です。今さらどのツラ下げて報告に行けるのか、といったケースです。
 しかし一番考えられるのは村松君自身に口止めされていた可能性です。
 1年生の時、部活で肩をぶつけられることで父親にボヤいたらどうなったか――。顧問に訴えられ、友人3人との話し合いになって友人は村松君に謝罪することになる、いわば大騒ぎになってしまったのです。
 一般に子ども社会の問題を大人に通牒することはタブーとされます。問題が大きすぎて子どもの手に負えないと子ども自身が納得すればいいのですが、本来は自分たちで解決すべき(と子ども自身が考えるような)問題を外に漏らせば、たいていは馬鹿にされるか怒られます。
 1年生の時は話したのにその後まったく親に相談した形跡がないことには、そうした事情があったのかもしれません。村松君は懲りてしまったのです。
「親には絶対に言わないで」というのが、教員と生徒で情報を共有する際の重要な約束である場合は少なくありません。そして基本的に、生徒との約束を守ることは絶対条件です(守れない約束はしない)。生活記録ノートに見られるような担任との親密さ、2年生になってから親はいじめの事実をまったく知らなかったという事情はこうして生まれたのかもしれません。

2 情報共有の問題
 15日(水)の「ニュースウォッチ9」で、「かつて深刻ないじめ問題を経験した2都市の新たな試み」という特集をしていました。大津市と名古屋市の例です。
 大津市の場合は各校に「いじめ担当職員」というのを配置し、担当者は授業を持たないで、一日中いたずら書きやら教室の汚れをチェックしたりアンケートを実施してその内容を分析したりしているのです。結果はすぐに担任と共有され、指導に生かされます。
 名古屋市の場合は少し異なります。空き教室に外部の人間を入れ、「カウンセラー」「ソーシャル・ワーカー」「元警察官」「アドバイザー」の4人でいじめ対策の司令塔の役割を担うのです。担任が必要に応じて、いつでも相談できる体制をとっているのです。
「ニュース・ウォッチ9」では結論として「こうして情報の共有を図ることがもっとも重要なポイントなのですね」という言い方をしていましたが、深く考えさせられる内容でした。現有の教職員だけでは情報共有はできないと言っているのと同じだからです。
 本気でいじめをなくそうとするなら人を入れなければならない、つまり金が必要だということです。

 私はその方向は間違っていないと思います。いじめにしろ不登校にしろ「学校問題」と総称されるすべては、人を入れる、つまり金で解決できる面が少ないからです。
 情報共有と言われても、たとえば小学校の場合、他のクラスのことを知らされた教師たちができることはほとんどありません。自分のクラスがあって常にそこに縛られているからです。
 中学校の場合は少しましで、学級担任は教科担任として他のクラスにも入っていますから授業時間を使って生徒の様子を見たり指導の手を入れたりすることもできます。あるいは部活の顧問として生徒に語りかけたり相談したりすることも可能です。しかしそこまでです。よほど状況が切迫していない限り、彼らもまた自分のクラスや自分の部活、自分の教科指導で手いっぱいなのです。
「ニュースウォッチ9」は取材した内容を「情報共有の問題」としてではなく「人手確保の問題」として提示すべきだったと思うのです。



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2015/7/16

「事態の見積もり」A〜岩手いじめ自殺事件の違和感 X  教育・学校・教師


 もしかしたら今後、村松君が数百万円の恐喝にあっていた、あるいは激しい暴力にさらされていたというような事実が出て来るかもしれません。しかし現在のところは「しつこく砂をかけられていたとか」「悪口を言われた」とか、あるいは「部活動の際、すれ違う時わざと肩をぶつけられるのをくり返された」とかいった日常よくみられる事象だけです。担任が聞かされていたのもそうしたトラブルだったのかもしれません。

 ほんとうにひどい暴力やいじめがあったとすれば、たいていの教員は怯えて周りに相談するはずです。これは教員を信じるかどうかと言う問題ではなく、暴力を放置した教員がどういう処分を受けるかはみんな知っているからです。処分が出ないまでも保護者が校長や市町村教委に訴えれば、少なくとも面倒くさいことこの上ない――。教員が暴力やいじめや不登校を放置するはずはないという私の信頼は、そうした状況に基づいています。

 岩手の事件についても村松君の現在の担任は、1年生の担任や部活顧問と同じように、丁寧に対応しひとつひとつを解決した、そしてそれでいいと思っていた――そんな気がするのです。けれど実際に村松君が抱えていたのは、具体的な事象をひとつひとつ潰していけばいいといったものではなかったのです。
 もしかしたら村松君は崖淵を歩いていたのかも知れません。
 崖淵を歩く人を横からつつこうとする動きは、何としても阻止しなくてはなりません。しかしそれでこと足れりと考えるのも間違いです。ほんとうに解決すべきは、崖淵を歩いているその行為自体なのですから。
 
 何が村松君を崖に追い詰めたのかは分かりません。
 もしかしたらそれは、さまざまな集団の別々に行う小さな嫌がらせだったのかもしれません。それぞれは大したことでなくても、朝から晩まで行く先々で嫌がらせを受けたとなるとたまったものではありません。しかし“やる側”は横の連絡を取っていませんからそこまで追い詰めていることに気づきません。
 あるいはもっと別の、本人が語ることのなかった何かが村松君を崖まで運んでいたのかもしれません。それは本人に自覚できている場合もあればそうでない場合もあります。
 さらにあるいは、中学校2年生らしい、思春期の悩みがベースにあったのかもしれません。それも、今となってはわからないことです。
 崖淵の村松君を最後に押しやったのがいじめだったのかどうか、それも分かりません。崖まで追い込んだのがいじめで、最後の一押しはまったく別のものということだってありうるのですから。

 以上は私の憶測です。したがってまったくのお門違いだということも十分あり得ることです。しかし憶測で語っているのは私だけではないでしょう。世の教育評論家たちも私と違う特別な事実を握っているわけではないのです。そして双方憶測だとしたら、どちらが社会にとって有益か。
 ほとんどありえないような事象を前にして、それでも学校や社会を信頼し、そこに何らかの事情があるのだと考えるのと、「生徒殺人学校」「教育殺人」「こんな危険な学校 見たことも聞いたこともありません」と憤って、「わが子学校に行かない選択ありですよ♪」(オギ☆ブロ2015-07-14 08:04:21 )と学校不信を煽るのと――。

 繰り返し申し上げますが、いまの段階では憶測でしかものが語れないのですから。

                               (この稿、次回最終)
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