2015/6/30

「昭和の風景」E  政治・社会・文化


 私はもちろん戦前の生活は知りませんが、“第二次世界大戦が終わって生活は一変した”というのは政治や社会制度の変化であって国民の意識自体はそう変わってはいなかったのではないかと思っています。

 確かに軍国主義や国家主義は瞬く間に霧消しましたが、そんなものは一時の悪夢であって本質的な問題ではありません。15年戦争と呼ばれる長期消耗戦は1931年の満州事変に始まりますが、そのわずか5年前までは大正時代だったのです。大正ロマンの時代です。
 大正デモクラシーが先端の政治思想であり、白樺派が文学界を闊歩し竹久夢二や野口雨情が歌を書いた時代です。銀座をモボやモガ(モダンボーイ・モダンガール)が自由に歩き回り、銀座でブラジルコーヒーを飲む「銀ブラ」が流行語となった、それが20年の空白期(昭和元年〜昭和20年)を経て元に戻っただけです。

 ほんとうの生活の変化、日本人の変化はむしろ高度経済成長によってもたらされたと考える方が自然です。
 例えば、私が3歳の時に我が家いなくて、15年後の高校卒業の時にあったもの、思いつくまま間に書くと次のようになります。
 洗濯器、冷蔵庫、電気炊飯器、電気ジャー(ご飯の保温専用機)、ガスレンジ、電気掃除機、丸い形の蛍光灯(サークライン)、テレビ、トランジスタラジオ、ステレオセット、自家用車、バイク・・・私のところではついに家まで買ってしまいます。

 簡単に言ってしまうと、3歳の時には戦前と同じ生活だったのに、18歳の時は今とほとんど変わりない生活を送っていたのです。

*注
 現在あって18歳の時になかったものはコンピュータくらいしか思いつきません。もちろん温水機能付き便座やIHなどありませんでしたがコンピュータを除けば、それは生活に画期的な変化をもたらすほどのものではなかったのです。

 生活の変化は当然、心の変化ももたらします。
 昨日は、テレビの出現によって家族関係が変わったというお話をしましたが、自家用車の普及は親の人間関係を変化させるとともに子どもの人間関係も変えてしまいました。
 日本人は、自分の好きな人とだけでつき合っていればよくなったのです。

 私の子どものころ、人々の生活範囲はせいぜいが半径50m以内で納まりました。広く見積もっても半径100m以内、映画「ALWAYS三丁目の夕日」で言えば、まさにその三丁目の内部です。
 人は好きも嫌いもなく、その中で生活するしかありませんでした。その中に嫌な奴がいても、何とか折り合っていくしかなかったのです。
 ところが現代、私たちは歩いて数十分の距離を自家用車でいとも簡単に移動して好きな人とだけつき合うことができます。子どもも当然一緒について行きます。
 少し大きくなると、今度は子ども自身が親の送り迎えで“好きな人”とだけで交際しはじめ、さらに進むと親に頼らず自転車で気の合う仲間のところに入り浸ってしまうのです。
 嫌な奴と我慢しているのは学校の中だけで十分! と子どもたちは思っています。私がケンちゃんとのやり取りで苦労させられたようなことはまったくしなくて済むのです。

                                   (この稿、続く)

2

2015/6/29

「昭和の風景」D  政治・社会・文化


 朝ご飯が終わって家族が仕事や幼稚園に行ってしまうと、母は洗濯に取り掛かりました。「桃太郎」に「お婆さんは川へ洗濯に・・・」という部分がありますが本当に川に洗濯に行くのです。洗濯物を小脇に挟んで「たらい」と洗濯板を持って堤防の向こうの河原に行きます。
 近所の人たちもだいたい同じ時刻に出てきますから、楽しくおしゃべりをしながらの洗濯になります。

昼食は母ひとりですから朝ご飯を温めなおして食べたみたいです。しかし夕食はそういうわけにはいきません。そこで午後は買い物ということになるのですがなにしろ冷蔵庫のない時代です。毎日買い物をして毎日食べきらなくてはならないのです。特に夏はそうでした。
 買い物から帰ってくると、朝と同じように薪に火をつけてご飯を炊くところから始めます。毎日毎日同じ生活です。

しかしやがて、遅れた我が家にも文明が押し寄せます。
 まず台所に水道が入ります。
 石油コンロが入って七輪がなくなります。石油ストーブのようなものです。それは間もなくガスコンロに代わります。ガスはとても火力が強く、煮炊きはずっと便利になりました。
 しかし我が家の台所事情を決定的に変えたのはおそらく電気炊飯器でした。これで朝から薪を炊く生活は終わってしまったのです。さらにその電気炊飯器にタイムスイッチを接続すると、夜のうちに準備しておけば朝には炊けているという魔法のような生活が始まります。あんなに大変だったご飯の準備がとんでもなく楽になったのです。

 それから数年の間に、家に電気洗濯機や冷蔵庫、電気掃除機が入り込んできます。
 川で洗濯をする必要もなくなり買い物は一週間に一度ということがしばしば起きます。電気掃除機を使い始めてわかったことは、結局、箒で掃き出すという掃除はチリの半分も空中に投げ上げているのと同じだったということです。あれほど頑固で律儀だった父が、朝の掃除を怠けはじめたのにはほんとうにびっくりしました。掃除機を使えば、朝清掃など二日に一度でもいっこうにかまわないと気づいてしまったからです。

 高度成長期に日本中の家庭で起った「昭和の文明開化」ともいうべきこうした革命は、様々なものを一新してしまいました。
 例えば、電気炊飯器や冷蔵庫、電気洗濯機を手に入れたことで、母はどれくらいの時間を浮かせることができたか――これについ熱心に計算したことがあります。母と話しながらやったのでほぼ正確だと思うのですが、それはおよそ6時間半から7時間です。3度の食事の準備後片付け、洗濯や買い物に費やしていた無駄な時間がそれだけあったのです。
 ただしこの6時間半から7時間という余剰は、中途半端で非常にこまったものとなります。なぜなら「何もしないでいるには長すぎる」、しかし「勤めに出るには短すぎる」そういう時間だからです。結局パートタイム労働か、死ぬほど忙しいフルタイムかといった選択しかなくなります。その悩みは現在も続いています。
 テレビが家庭に入ることで、家庭生活も決定的に変わってしまいました。家族があらぬ方を見て食事をし会話をするという時代が来たのです。同じ屋根の下にいながら全員が横(テレビのある方)を向いて時間を過ごすということはそれまでは考えられませんでした。ラジオの時代であっても目は否応なく家族を追っていたからです。
「親の背中を見て育つ」というのはそういう時代だからできたことで、テレビが来て以来、背中どころか姿も見なくなってしまいました。

                                        (この稿、続く)
3

2015/6/26

「昭和の風景」C  政治・社会・文化


 高度経済成長は私が生まれた翌年に始まり、高校を卒業して間もなく終了しました。前にも言った通り、ですから私はまさに“高度経済成長の子”です。他の人たちとは違う景色を見て育ってきたのです。
 とにかく父のボーナスが出るたびに生活のガラッと変わる。全く違った世界が訪れる。去年より今年の方が豊かになったから来年はもっと豊かになるだろう、そう信じてその通りになる時代です。逆に言えば高度経済成長期以前の生活は、ほとんど明治時代と同じだったのです。

 私の生まれ育った家が二軒で一棟の市営住宅だったことはお話ししました。6畳間と4畳半が一つずつ、あとは台所とトイレだけの建物です。その住宅の台所には最初は水道もガスも何もありませんでした。
 水はどうしたかというと屋外に二軒共用の水道が一本だけあって、そこから毎日運んだのです。地面から1mほどの高さにある立水栓で、蛇口はあるのにひねるためのハンドルがない、という不思議な代物です。今でも安全のために屋外灯油タンクのバルブのハンドルを外しているお宅がありますが、あれと同じで両家がそれぞれ所有しているハンドルをもって行っていちいち水を出すのです。ご丁寧に、ハンドルの接続部分は三角柱になっていて、ペンチでは簡単に回せないようになっていました。水を盗む人がいると考えられた時代なのです。

 その水道からバケツで水を汲んできて、台所の流し(シンク)脇にある大きな水がめにためておきます。母は炊事のすべてをその水で行いました。例えば食器を洗うとき、左手で柄杓を持って水をかけ右手で皿をなぜるようにして洗ったのです。丁寧なことはできません。けれど油料理などほとんどなかった時代ですから、それで困ることもありません。
 
 いや、話を炊事の最初から始めましょう。
 朝、母は起きるとまずかまどに火を入れます。火を入れるというのは薪に火をつけることです。
 今でもキャンプの飯盒炊爨などで体験する人は多いのですが、薪に火をつけるというのはそう簡単なことではありません。私の家ではまず新聞紙にマッチで火をつけ、その新聞紙の上に使い古しの割り箸を何本も乗せて種火とします。当時は料理屋さんが店で使ったあとの割り箸を乾かして売っていたのです。それを買ってきて火をつける。それから細めの薪、太目の薪と次第に火を大きくしていくのです。
 ご飯は五右衛門風呂みたいな形のお釜で炊きます。朝いちばん最初にやるのが、このご飯を炊くということなのです。
「はじめチョロチョロ、中パッパ、プチプチいったら火を落とし、赤子泣くとも蓋とるな」
という言葉があるように、はじめはゆっくりと温め途中からガンガン薪をくべる。お釜の中の水がなくなってプチプチ言い始めたら火を落とす、つまり薪を取ってしまい、あとは赤ちゃんが腹を空かせて泣くようなことがあっても絶対に蓋を取らない、つまりしっかり蒸しましょう、ということです。

 かまどから外した火のついた薪はどうするかというと、いったん炭壺と呼ばれる壺に入れて火を消し、それからよく火の入っている部分を取り出して七輪に入れます。
 主な煮炊きはこの七輪の上で行うのです。

                                       (この稿、続く)
3

2015/6/25

「昭和の風景」B  政治・社会・文化


 ケンちゃんは何でも知っていましたからさまざまなことを教えてもらいました。メンコの遊び方だとかコマ回しだとか、かくれんぼうでもカンけりでも何をやってもうまいのです。
 小学生になるとケンちゃんはお父さんの自転車を引っ張り出して、それを乗りこなして周囲を驚かせます。当時、子ども用の自転車などありませんでしたからたいていは母親の自転車(今で言うママチャリ)の立ちこぎでしたが、ケンちゃんのは大人の男性用ですからあのひし形のフレームの中に半身を突っ込んで自転車を斜めに傾けたまま走るのです。今から考えてもものすごい技術でした。
 また、ケンちゃんはとても悪い子でしたから、自転車用のポンプで水をまき散らす方法を発明したり、池の鯉を捕まえでいじめたりするやり方、女の子をだましてお医者さんごっこをする方法なども教えてくれました。
 今はどうしてそういうものがなくなったのか不思議なのですが、当時は水田に“スズメ脅しのテープ”というものがあって、赤と銀の表裏のテープがよじって何本も並べられていました。それを盗む方法もケンちゃんが教えてくれたことです。
「伏せろ!」と叫ぶので何のことか分からずボーっと立っていたら近くの小母さんに私だけが捕まってしまい、長いお説教をいただいたこともあります。私はケンちゃんの名前だけは出すまいと頑張りました。けれど小母さんは共犯者の存在に気がつかなかったのか一言も聞いてくれず、それで言いそびれたという面もありました。

 しかし私が学びそびれたこともあります。私たちは新開地の第一世代の子どもですから、先輩の知恵とかいったものとは無縁だったのです。
 数年後、家族は別の土地に引っ越し、私の弟はそちらの地域子ども社会に属することになったのですが、弟の学んでいたのはさらに豊かなものでした。
 それは隠れているカエルの追い出し方だとかカブトムシの匂いのたどり方、手作りの道具で釣りをする方法だとか、川魚の追い込み方とかいったものです。
 新参者のくせに、弟はやがて地域のジャイアンに成長していきます。優秀な学習者だったということでしょう。

 私はケンちゃんを通じて、自分より強い者、ワガママな者に対する対処の仕方も学びました。
 ゴマの擦り方だとか口の利き方、大切な何かを獲得するために予め別の何かを与えておかなければならないこととか、予防線を張ることとかいったことです。リーダーシップの取り方は学びませんでしたがナンバー2の生き方には精通することができました。
 授業料はけっこう高くて痛い思いや辛い思いもしましたが、得たものは非常に大きかったはずです。

 秘密基地をつくったり花の蜜を吸ったり、クローバーの花をつくったり、今の子どもたちはそれらを「生活科」の時間にやっています。もちろん盗んだりイジメたり小動物をいたぶったり友だちとケンカしたりといったことは厳しく制限されていますが。

                                      (この稿、続く)
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