2015/4/30

「日本教について」〜賢い消費者の話B  教育・学校・教師


「社会規範」は民族・国家ごとに異なります。また一部は成文化しています。法律や条例がそれです。だたし法令は人為的につくられたものですから、自然に身につくとか放っておいても守られるといったものではありません。自動車免許取得の際に道路交通法などを勉強して実地教習をうけるのもそのためです。

 他方、慣習や伝統など自然発生的に生まれ遵守される内的社会規範の多くは、明文化されず政府による強制などがなくても自然に守られます。無言のうちに皆が“そうだ”“それは当然だ”と思えばいいのであって、いちいち文書で統一性を計る必要などないのです。

 だたしすべてが不文律なのではなく、一部は成文化されていて私たちにも読むことができます。聖書とかクルアーン(コーラン)、タルムードといったものです。それぞれ特定の時期に編纂され統一性を計ろうとしたものですが、今では信者たちの心の奥深く入り込んで一定の社会規範を構成しています。あまりに深く入り込んでいるためにいちいち聖典に当たり必要はありませんが、微妙な問題になると聖典に立ち返り、宗教裁判所の裁可を仰がなければならないこともあるようです。

 日本にはキリスト教国やイスラム教国のような意味での民族宗教はありません。ウチは神道だ、ウチは浄土宗だと言っても生活の隅々まで行き届いて制約を受けているといった家庭はそうはありません。しかしそれにもかかわらず、私たちは日本人同士、同じ思考や同じ信念、同じ感性を共有していると信じることができます。

 たとえば交通事故を起こした時、「大丈夫ですか」もしくは「済みません」といって話を始められるのは、最初から相手が同様の態度で来るとほぼ信じているからです。「バカ野郎!」「責任取れよ!」がスタートラインかもしれないと思えば、とてもそんな態度には出られません。
 東日本大震災の際、新宿駅周辺にはバスやタクシー待ちの列が気の遠くなるような長さで続いていました。何千人という人々がいても、大部分は自分と同じように辛抱強く待ち続けるだろうと信じているからああなるのです。隙さえあれば人は列に割り込むものだと思えば争っても前に出るはずです。

 私たちの内部には無数のそうした「社会規範」があって、一行の文章にもなっていないのに、ほぼ順調に守られている――40年ほど前、山本七平が「日本教」と呼んだのはまさにそうした日本独自のものです。
 教祖も伝道者も聖典もなく、教会も教主もいないのに1憶2千万人も信者を抱え、しかし信者たちは自分がそうであることを意識してもいない完璧な宗教、それが日本教なのです、山本七平は日本では外来の宗教ですら変質させられてしまう、日本人キリスト教徒といってもそれは日本教キリスト教派でしかないと言っています。
 ただし、教会も教主もなく聖典すらない日本教ですが、この宗教を常に支え繰り返し教義を教え、血肉にしようとしている組織はあります。それは通常、私たちが義務教育学校と呼ぶ組織です。

                               (この稿、続く)


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2015/4/28

「市場規範に侵される学校」〜賢い消費者の話A  教育・学校・教師


 夜のニュースを見ているうちにウトウトと眠ってしまい(こういうことは現職時代にはなかった)、寝返りを打った瞬間にリモコンを肩で押してテレビがEテレに切り替わってしまいました。そこではお笑いの又吉直樹が出ていて、対談形式で「市場規範」と「社会規範」という難しい話をしていたのです。内容が面白くて思わず身を乗り出したのですが、すでに終了間近で最後の部分しか見ることができませんでした。
 そこではこんな話が紹介されていました。
「ある保育園でお迎えの時刻に遅れる保護者があとを絶たず、そこでお迎えの遅刻には500円の罰金を科すという方針を示した。ところが遅刻者はさらに増えてしまった。そこで園は罰金を廃し以前と同じように無料としたが遅刻者が昔のように減ることはなかった」
 というのです。
 番組ではこれを「市場規範の不適切な適用によって壊れた社会規範は、容易にもどらない」と説明していました。
 
 最初の段階(まだ罰金の創設される前)では、保護者は保育士さんたちに残業させてはいけないという想いで必死に迎えに行っていました。実際には遅刻することがあっても、それなりに努力していたのです。そこには「遅れて迷惑をかけてはいけない」という「社会規範」がしっかり根付いていました。

 ところが第二段階になって罰金制度が導入されると、「お金を払えば遅刻できる」という市場規範が幅を利かせるようになるのです。保護者は500円さえ払えば堂々と遅刻できるようになりました。「対価を払えば必要なサービスは受けられる」――それが市場原理であり、その原理に基づいて構成されるのが市場規範だからです。

 第三の段階で、保育園は再び前の状況に戻します。しかし社会規範の多くは自然発生的なものであり構成員全員の(いわば)「思い込み」によって成り立っていますから、一度崩れると元には戻りません。保護者たちに共通の思い――少なくとも一部の保護者が強烈に感じていた思いを、園が裏切ったからです。
 
 ウツラウツラしていた私がこの話に飛びついたのは、昨日ここでお話ししたことを「市場規範」「社会規範」はうまく説明してくれると感じたからです。

 子どもを学校に上がったからPTA活動に参加するというのは社会規範です。保護者も学校に時間やエネルギーを出すべきだという暗黙のルールなのです。けっして「任意団体だから入らなくていい」ということに無知だから行っていたわけではありません。
 家庭訪問で先生を部屋に上げ、子ども部屋などを見てもらった上でもてなす、というのも「社会規範」です。賄賂を贈って子どもの利益を引き出そうといった「市場規範」によって行われてきたものではありません。

 そうしたものをひとつひとつ削り、
「保護者の皆様には一切ご負担をおかけしません。『より少ないご負担でより高い学力と情操を!』それが本校のモットーです」
 と言い始めるから厄介なのです。

 その責任のすべては政治家や社会・マスメディアあるとは言いません。
 一部の「エエカッコウシイ」の教師や学校が、進んでそう言い続けたことを私が知っているからです。
                               (この稿、続く)

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2015/4/27

「賢い消費者の話」  教育・学校・教師


 家庭訪問のシーズンです。
 最近では部屋に上がらず、玄関先だけで済ませる学校も少なくないと聞きます。けれど家を覚えるだけだったら放課後の会議を減らし、数日かけて回ればいいだけのことです。それなら仕事に出ている保護者の方々も、わざわざ時間休を取って帰宅する必要もないでしょう。そんなふうに考えるのは私だけではないでしょう。もっとも親の顔を覚えるというのも家庭訪問のもうひとつの役割ですから、まったくなくすということ訳にも行かないのかもしれません。
 
 家庭訪問を玄関先で済ませてくれという話を初めて聞いたのは、もう20年も前のことになります。そのときはまるっきり虚を突かれた感じでほんとうにびっくりしたのですが、今となればある種の保護者の先駆的な人々であったことが分かります。
私たちはしばしば“それは当然”と考えてまったく思考停止に陥っている場合がありますが、そんなところにも思いのいたる知恵者はいくらでもいるのです。

 PTAは任意団体だからムリに入る必要はないだろう、というのも新鮮な発想でした。しかしそこからさらに一歩進んで、学校は入学式などの際それを保護者に明らかにすべきだ、というのにはほんとうに驚きました。任意団体と知る人は少ないから知らせるべきだというのがその理由ですが、要するにひとりで抜けているのはいやなのです。

 結局、通りませんでしたが「憲法に『義務教育はこれを無償とする』と書いてある以上、給食費を払う必要は認めない」と言って不払いを続けた人がいます。これなどは「ムリかもしれないが一応試してみよう」といった感じで行ったものでしょうが、学校教育を相手に“試してみよう”という根性が気に入りません。

 しかしこうした人々の態度は間違ったモノとは言えません。
 一部の政治家は「学校はサービス業だ」といった言い方をしますが、その場合サービスの受益者は当然『消費者』ということになります。消費者は「より少ない支出でより高いサービスを受ける」のが仕事です。したがってPTA活動や給食にエネルギーや資金を出し惜しみ、家庭訪問のために年休を取ったり部屋の掃除をしたりといった余分な支出をすることは愚かな行為ということになります。賢い消費者はそんなことはしません。

 教師というのは子どもに関することなら何でも知っておきたがりますから、うっかり家庭訪問で家に上げたりするとさまざまな情報を持ち帰ってしまいます。子どもや家庭の情報はできるだけ渡さず、その上で最良の教育を引き出すのが優秀な消費者としての保護者の腕の見せ所でしょう。そうした意識の高い人々によって、家庭訪問は現在のような形なってしまいました。

 ただし、ほとんどの保護者は自分を教育サービスの消費者だとは思っていません。玄関先だけの家庭訪問に不満を持っている人も少なくないのです。
 彼等の一部は家庭訪問のような機会でもないと、担任の先生とじっくり話ができないと思い込んでいます。大事な話があっても参観日の後の時間で先生を独り占めにするのは気が進まないのです。普通日に学校へ訪ねていくなど、さらに考えられません。
 また別の人々は、一年に一回くらい「ウチの子の担任の先生」をもてなしたいと本気で思っていたりします。ウチの子だけをかわいがってほしいと思っているわけではありません。感謝の気持ちを何かの形にしないと気がすまないのです。
そんなひとはいくらでもいるのに、世の中は少数の合理主義者のために動かされることがあります。
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2015/4/24

「教科書の話」B  教育・学校・教師


 教科書検定の過程は、たとえばA社の教科書はこういった問題点をこのような文言で指摘され、こんなふうに書き改められた、といったふうに様々な方面から検証されているのでずいぶんわかりやすくなっています。しかし教科書採択の部分についてはなかなか表には出てきません。国の検定を通過している以上、どの教科書を採択してもさほど問題はないという前提がありますから、「A社を差し置いてB社を採択するとは何事だ」という不満があるならそもそもそれを通した国の検定基準を問題とすべきです。

 教科書採択というのは、検定を通った教科書のうち、それぞれの市町村がどの教科書をつかって学ばせるかを決める選定の場です。それが秘密裏に行われるのはひとえに教科書会社からの圧力を避けるためです。
 教科書というのは単価は安いですが採択されれば、数百万部におよぶ隠れたベストセラーです。膨大な収入をもたらします。しかし採択がゼロなら執筆者に支払う原稿料も印刷費用も、すべてパー。したがって出版社も必死です。
 
 義務教育学校の教科書採択は市町村教育委員会の権限ですが、教育委員会事務局で決めているとは思えません。何といっても事務局職員の大部分は行政の人ですから、教科書やその教え方については何の知識も経験もないからです。また、大きな市町村の場合は事務局内部に学校現場からの出向職員(多くは主事と呼ばれる)を抱えている場合もありますが、それとて小中全教科の専門家がいるわけでもありません。したがって現場の教師を集めて意見を集約することになりますが、それが誰なのか、いつ集まってどのように決めているのかは前述の通り秘密です。現場の教員ですら知りません。
 もっとも採択理由は各教科ごと文章にして公表されますので、教科書会社はそれを参考に次の教科書に取り組めばいいのですから、細かな過程を知る必要もないのです。

 ただし私は、その教科書採択の場はおそろしく保守的な場だと信じています。私が採択委員だったらA社からB社に変えるというのはよほど勇気のいることだからです。
 それは授業の組み立て、運び、資料、指導技術などすべてが“現在使用している教科書”に基づいて教師たちが蓄積してしまっているからです。極端な話、国語の教科書を変えてしまうと、それまで国語教師たちが蓄えてきた作者に関する知識、作品成立の時代背景、作品の価値・評価、味わい方などが全部使えなくなってしまいます。なにしろ掲載されている作品自体が違うのですから。
 理科や社会はそうではないだろうと思われるかもしれませんが、こちらも楽ではありません。教科書会社は採択されるために独自色を出しますから、指導の順や軽重の掛け方、使う資料などが異なってくるのです。

 したがって教科書会社は変えないのが原則――だれもそんなことはあからさまに言わないでしょうが――採択委員の胸の内には、きっとそんな思いがあるはずです。私だったらそう思って参加します。
 また、だからこそ逆に、あるとき長年使ってきたA社からB社に変更されるというようなことがあればそれは極めて異常な状況と考えることができます。新しく選んだ教科書のできがよほど良いか、委員会に何らかの圧力がかかっている場合です。もちろん後者については、圧力をかけるのが首長である場合も組合的なものである場合もともに考えられます(教科書会社の攻勢に屈したということはまずないでしょうが)。
 教科書が変えられたとき、そう思って手にすれば、また新しいことも見えてくるはずです。

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2015/4/23

「教科書の話」A  教育・学校・教師


 教科書を薄く、軽く、鮮やかにという方向はここ数十年一貫して続いてきたものです。かつてのB5判からA4判になり平面的サイズは大きくなりましたがそれにつれて文字ポイントも大きくなり、図版やイラストが大量に入ったために文字情報としてはかなり少なくなっています。小学校の教科書ではドラえもんが引き回し役をやったりしています。
 教科書が薄くなれば子どもの負担が軽くなるというのは大人の思い込みで、実はかえって難しくなります(もちろんランドセルに入れた場合の肉体的な負担は別です)。

例えば、
「1560年、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破って天下統一の道を歩み始めました」
という文を読んで、普通の大人はあまり違和感を持ちません。なぜなら織田信長がだれか知っているからです。
 今川義元の名前は忘れても、わざわざその名前が出ている以上、信長のデビュー戦にはふさわしい大物だったろうという想像はつきます。また「関ヶ原の戦い」や「川中島の戦い」の記憶から「桶狭間」が土地名だろうということも何となく理解できます。だから違和感がないのです。しかし次の文はどうでしょう。

「阿波では三好長治の実弟・十河存保と三好康俊が激しく抵抗しましたが、長宗我部元親は1579年、重清城を奪って十河軍に大勝しました」

 取りあえず「だから何?」が最初の感想でしょう。高知県もしくは四国の人でないとあまり関心のないところです。歴史に興味のある人なら三好長治や長宗我部元親くらいは知っていますが普通は「長宗我部」すら読めないでしょう。「十河存保」となるとさらに読めない。
 この文章はWikipediaから適当に引っ張ってきたものですから私にも何のことかさっぱり分かりません。十河存保も「とかそんぽ」と読めばまるで保険会社です。正しい読みは「そうごう まさやす」だそうですが、この人が何者か、私はまったく知りません。

 最初に挙げた、
「1560年、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破って天下統一の道を歩み始めました」
に初めて出会う子どもたちも全く同じなのです。ここには「織田信長」「桶狭間」「今川義元」「天下統一」という四つの新出単語があり(というか新出単語だけで文ができており)、その意味ではまるで巻末の索引みたいなものです。これでものを覚えなければならないのですから大変です。
 ほんとうは、
「日本中の武将が戦いあった戦国時代を終わらせ、日本を一つの国にまとめようと最初に立ち上がったのは尾張(現在の愛知県)の織田信長でした。1560年、信長は東の大大名、今川義元を桶狭間という場所で戦いの末に破り、全国に名を知られるようになりました」
とでも書けば、まだましでしょう。しかしできるだけ教科書を簡単に(短く)しようとすると、内容はやたらに難しくなってしまいます。

 国語や算数・数学でも事情は似ています。国語の教科書は、それを読んだだけでは何をどう学習していけばいいのかさっぱり分かりません。算数や数学は手順のしっかりした教科書になっていますが、何のためにその手順を踏んでいるのか、実に分かりにくいのです。そうした簡単すぎる教科書と児童生徒の現状との差を縮めるのが教師の仕事です。そしてその手助けとなるのが指導書と言えます。

 指導書は「教科書を教える、教え方の本」ですから、左右両極端な意図をもってつくられた教科書でない限り、検定など行わなくてもそう簡単に偏ったものにならないのです。

                                     (この稿、続く)

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2015/4/22

「教科書の話」@  教育・学校・教師


 日曜日の「そこまで言って委員会」で所功(ところ・いさお)という法学者、歴史学者、法制史学者が面白い発言をしていました。それは過去に教科書の検定委員をやった経験から、
「教科書自体は細かな検定を受けて学習指導要領に沿ったものになっているが、先生たちが実際に授業を行う際にタネ本としている指導書については一切検定を行っていない。したがって教科書会社はその中で自由に偏向的な内容を盛り込むことができ、先生たちは自ずとそれに従ってしまう。また指導書は1冊1万円以上するので先生方個人では購入できず、どうしても公費で買うことになる。偏向教育に公費が使われるという意味で大きな問題である(大意)」
というものです。
 ああ、そういう見方があるのかと少し驚きました。
 出演者たちはまず「教科書にタネ本」があるということ自体に驚いていました。大昔、書店で売っていた「教科書ガイド」(今もあるが内容が同じものかどうかは最近、中を見ていないので不明)のようなものを思い浮かべるらしく、それさえ手に入れれば学校のテストは満点が取れるのか、といった方向に話が流れそうになります。しかし違います。もちろん購入して丁寧に勉強すれば確実に成績は上がりますが、だったら市販の参考書の方がよほど安くて便利です。それに普通の小学生や中学生に理解できる内容でもありません。語の細かな説明や背景・歴史、教え方などについて解説しているわけですから。

 私の若い頃、中学校では指導書を見て授業内容を考える教師などほとんどいませんでした。それどころか教科書を使わずに授業を行える教師こそ本物の教師だといった雰囲気がありました。教材は自分で用意し授業は自分でアレンジすべきもの、他人(教科書会社)に頼るのは二流の教師のやることでした。

 ところが平成2年の福岡伝習館訴訟あたりから雰囲気が変わってきます。
この裁判では福岡県の伝習館高校に勤務していた3人の教師が、授業における教科書の不使用などを理由に懲戒免職に処分を受けたことの是非が問われ、最高裁は処分の正当性を支持したのです。つまり授業で教科書を使わないことは違法と判断されたのです。
 そのあたりからそれまでとは違った風が吹いてきます。「教科書もなかなかいいところがある」とか「教科書さえ扱えない教師に本物の授業はできない」とか――その変わり身の早さには私も少々あきれました。

 一方、小学校では別の事情がありました。私はちょうどそのころ中学校から小学校を覗きに行って(というか異動して)、指導書に繰り返し目を通す教師たちに出会います。彼らは実によく指導書を利用します。
 そこにはもちろん一人で一日に4教科も5教科も教えなければならないという小学校の特殊性があります。全部自前で用意していたのではとても追いつかないのです。
 しかしもっと大きな理由は「とにかく教科書が薄すぎて内容が簡略化され、なぜそういう流れになっているのか、どうしてその一項が置かれているのか、教科書を読んだだけではさっぱり分からない」というものです。
  
                         (この稿、続く)
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