2015/2/27

「上村くんのこと」  教育・学校・教師


 川崎市の中学1年生の上村遼太くんが殺された事件。今日にも犯人が逮捕されそうな様相です。早くから特定されていたみたいですから、証拠固めのための一週間なのでしょう。
 この事件について当初、上村君が学校に来なくなってからの一か月半、学校側が接触していないことに非難が集まりましたが、その後学級担任の女性教師が30回に及ぶ電話連絡、5回の家庭訪問を繰り返していたという発表があって学校の責任を問う声は少なくなりました。

 ただし「夜回り先生」として有名な元高校教師・教育評論家の水谷修先生は、学校が殺したようなものだと痛烈な批判を展開しています。
 論拠はまず、生徒が学校に来ていないという状況で児童相談所に通告するなどの手を打っていないではないないかということ。教育を受けることは国民の権利であるとともに義務であるのに、その義務を果たしていない生徒がいるのに通告しなかったというのは怠慢であるというのです。
 第二に直接上村君に会っていないではないかということ。夜は家にいたこともあったのだからなぜ毎日行って会う努力をしなかったのか。
 第三に、同級生の中には上村くんが不良グループと付き合っていて、顔にひどいアザができるほどの暴力を受けた上に「殺されるかもしれない」と言っていたことを知っていた生徒がいる、その生徒が教師に訴えなかったのはそこに信頼関係がなかったからだ、生徒との信頼関係をきちんと築かなかったのは、それ自体が怠慢なのだというのです
「同級生たちは状況を知っていたのだから、教員もちゃんと聞かなければ・・・。生徒たちに居場所を聞いて、行けばいいだけ。上村君は狭い範囲で動いているのだから、いくらでも会えます。教師は授業だけでいいわけではないし、文科省や教育委員会も何も指示していません」

 しかしどうでしょう。
 報道によれば保護者はこの件でほとんど悲鳴を上げておらず、担任の求めに応じて上村君を合わせるための努力もしていません。その状況で、保護者の意向を越えて生徒に手を伸ばすのは、難しいというよりむしろ危険です。保護者の意向を無視して児童相談所に通告するのは、保護者との人間関係を切断することになりかねないからです。

 水谷先生が間違っているとは言いませんが、高校の札付き連中つきあってきた先生と、一般の中学校教師はずいぶんと違っているようです。高校教員は道徳や総合的な学習の時間の授業をしたりしませんし、部活動の指導にも全員がのめり込んでいるわけではありません。高校では生徒指導担当が専任という場合だってあります。

 1月以降の対応としては、上村君の担任教師はむしろ優秀だったと思います。一カ月半に30回の電話連絡と5回の家庭訪問、それだけでも大変なのに全記録が残されているとなると、私のような古い人間にはとうてい太刀打ちできるものではありません。
 平成もすでに四半世紀を越えて平成不況の初期に教員になった先生もすでに40代半ば。この人たちはほんとうに優秀です。

 ただし、学校に来なくなってからの一か月半はこの程度でやむをえないとしても、それ以前、入学してから12月までの間に学校が何をしたのか、それは現在まったく報道に出てきません。離島の人気者が不良グループの一員になるまでの年月、そこにはさまざまな状況があったはずです。
「素直で明るい人気者が不良に拉致されて強制的に仲間にさせられた」では説明になりません。その間、上村君の心性に“先輩たち”と同質のものが育っていたはずです。
 それは別に問うべき問題です。

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2015/2/26

「研究授業と手洗い・歯磨き・インフルエンザ」B  教育・学校・教師


 教員になりたてのころ、ある中学校に見学に行ったら教室の後ろに「うしの数」というグラフがあり、横軸にずらっと生徒の名前が並んだ上に赤い棒が立っていました。「さすが田舎の中学校だ、ウシでグラフを作るとは!」と思ったのですが、ウシの数を教室に掲示することの意味が分かりません。さらによく見ると右上に「(本)」と書いてあるのです。この地方ではウシの数を「本」で数えるのかと首を傾げました。
「うし」が実は「齲歯」であって虫歯のことだと知ったのはずいぶん後のことです。
*今日では虫歯の数をグラフにするのは人権上問題があるということで厳しく禁じられています。今日、強権をもってしても歯科医に行かせる方が、将来「健康で文化的な最低限度の生活を営む」(日本国憲法第25条)うえでさらに重要だと考える人は少なくないと思うのですが。

 さて、手洗いを諦めた私たちは結局「歯磨き」に辿りつきます。前述の通り学校ではしょっちゅう歯磨き指導をしているので「いまさら」という感じものないわけではなかったのですが、も一度考えるということでは意味があるかもしれないと思ったのです。そして実際、新しい発見はたくさんありました。もちろんそれは「私にとっての新しい発見」という意味で、詳しい先生には良く知られたことだったのかもしれません。
 私の新鮮な知識とは以下のようなものです。

@歯は視力と同じように、大人になって体が固まると虫歯にならない(極端になりにくくなる)。それはエナメル質が強固になり、虫歯菌を寄せ付けないためである。したがって少なくとも大人になるまでは本気で口腔衛生に頑張らなくてはならない。
Aただし歯の根の、歯茎に覆われた部分はエナメル質も薄く、不摂生によって歯茎が下がるとその弱い部分で大人も虫歯になる。
Bそうならないために、子どものころから歯とともに歯茎のマッサージ磨きの癖をつけ、習慣化しておかなければならい。
C日本人の失われた歯の半数は虫歯によってではなく、不衛生によって歯茎が後退し、健康まま歯が浮き上がって脱落する歯槽膿漏のためである。
等々です。

 実際Cについては、中学高校と同級で歯磨きもしないのに虫歯が一本もないことで私を羨ましがらせた友人が、50代前半までにすべての歯を失って証明して見せました。落ちた歯も一本の虫歯もなかったそうです。

 虫歯を教材とした授業研究は非常にうまく行きました。2年間の取り組みの結果「500人規模の小学校で毎年のべ100本もの虫歯が消え、全体で数本しか残らない」というところまで持ち込めたからです。
 その2年目、市内でインフルエンザが大流行し、各校で学級閉鎖が相次ぎました。しかし不思議なことに当時の勤務校はほとんど被害がなかったのです。そのころは歯磨きと結びつけて考えることはなかったのですが、2015年の今になって“インフルエンザ予防に歯磨き”という話が出てきます。
 口の中に残るウィルスを掻きだすとともに、雑菌を取り除くことで口や喉の粘膜を守るからだそうです。
 いかにもありそうな話です。

                                     (この稿、終了)

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2015/2/25

「研究授業と手洗い・歯磨き・インフルエンザ」A  教育・学校・教師


 私が関わった授業研究の中で最も面白かったのは、都道府県レベルの保健教育の研究でした。題材は何でもいい。とにかく子どもの保健意識を高め、ひとつでも体にいいことをやり始めるように仕向ける、それができたら授業は成功したということになリます。そこでまず題材を何にするか、先生たちに問いかけます。

 栄養バランスを考えた食事はどうかとか、規則正しい生活はどうかとか、いや歯磨きだ、手洗いだとやって行くわけですが、頭の隅には常に「それって家庭科じゃない?」とか「保健体育の体育に傾き過ぎじゃない?」とか、あるいは「授業のかたちになるのかな」といったことが渦巻いているわけです。例えば3時間の単元で授業を始めたはいいが落としどころがない、といったことにならないかということです。
 その結果というか、どういう経緯でそうなったのかは忘れてしまいましたがその時勤務していた小学校の実態からして、どうやら「手洗い」あたりが感触がいいのではないかということになり、全員で調査活動に入ります。現在だったらほぼ間違いなく全員がネット検索に走るところですが、20年近く以前のことですからそうはいきません。書籍に当たったり養護教諭に聞いたり、医者に知り合いがいればそちらに問い合わせたりといったことになります。そしてその結果は、散々なものでした。

 分かったことはまず、私たちのやっている手洗いというのは衛生面から言えばまったく意味がないということ。中途半端な手洗いは、爪の間の汚れを適度にほぐして雑菌の繁殖を促進してしまうこと。
 きちんとした手洗いというのはテレビで見る外科医が手術前にやるように、袖を肘までまくり上げて石鹸をたっぷりつけ、爪で汚れをがいがいと引きはがすようにやるものであること。しかしそこまでやってしまうとかえって危険で、外科医的手洗いは日に何度も繰り返さなければならないこと、などです。

 手や顔の表面には表皮ブドウ球菌や黄色ブドウ球菌など無害な雑菌がいっぱい繁殖しているのだそうです。これを常在菌と言います。外科医的手洗いは当然この常在菌もそぎ落としてしまいますがそうなると手は一種のノーマンズ・ランドになってしまうわけです。
 皮膚の表面にも先住権があって常在菌が繁殖している限り、他の菌の入り込む余地はグンと狭まっていたはずなのに、先住者を追い払うことで今度は有害な菌やウィルスの絶好の繁殖地になってしまうのです。
 そうならないためには外科医的手洗いを何度も繰り返さなくてはなりません。

 さらに別の先生はこんな情報も持ってきます。
「そもそも誰が触ったか分からないドアノブや手すりに常に触れている手と、(男性の場合)一日中パンツの中に納まっていたもとどちらが汚いのか。その観点からすれば、トイレに入る前にこそ手洗いすべきだ」
 何か妙に説得力のある話でした。

 またアンケートを取ったら大人でも手洗いで菌やウィルスが落ちると考えている人は少なく、大半は「人が見ているから手を洗っている」「不潔と思われたくないのでやっている」という程度のことでした。要するに、これまでかなりいいかげんな手洗いで済ませてきてしかも困っていない、だから必要感がない、その程度のことなのです。

 せっかく時間をかけて授業をしたところで「毎回トイレに行くたび帰りがけに外科医並みの手洗いをする」、そんな子どもを育てられるはずもなく、そんな異常潔癖の子を育てていいはずもありません。せっかく苦労して調べたのに、手洗い説はここで頓挫しました。


                                       (この稿、続く)
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2015/2/24

「研究授業と手洗い・歯磨き・インフルエンザ」@  教育・学校・教師


 授業をどう改善するかという研究を「授業研究」と言い、その研究に従ってやってみせる公開授業を「研究授業」と言います。教員の方には言わずもがなの話ですが。
 では具体的にどう進めるのかというと、学校関係者以外の方には何の想像もつかないところではないでしょうか。

 大村はまという伝説の国語教師は研究者の論文を元に「先生の御説を現実の授業に乗せるとこうなりますがいかがでしょう」という立場で授業を組み立てたと言いますが、普通の教員はそうではありません。
 基本的には研究グループで何回もの授業を見学し、うまくいった点、つまづいた点などを拾い上げ、検討し、原因を探ったり対応したりしながらよりよい授業のポイントを紡ぎ出し、公開の場でそのいくつかを実際に示してほんとうに有効かどうかを検証してもらう、そういうものです。
 ただし戦後教育だけでも70年。一教員、一グループがどんなに頑張ったって画期的な授業法が発見されるわけでも生まれるわけでもありません。そもそも研究者が提示する授業法・学習法も、今日まで至ってみると定評があるのは「繰り返し学習(反復練習)」と「先行学習(学校の進度より先を進み、授業で復習する)」くらいしかありません。
 私も一時期、小学校の算数で新しい教具(学習のための道具)を開発したり、社会科で誰も扱ったことのないような地元教材を発掘して授業に乗せたりすることに熱中しましたが、確かに面白いことは面白いにしても、“画期的”というわけにもいきません。
 ただし一つの授業について数か月、場合によっては数年にわたって研究するのですからまったく無意味というわけではなく、若い教員を育てるという意味では非常に有効な方法だとは思っていました。

 もっとも、以上は算数・数学あるいは社会科といった“普通の教科”について言えることであって、キャリア教育、保健教育など、いわゆる“追加教育”となると違ってきます。なにしろ大枠が決まっているだけで中身が細かく決まっていないからです。とにかく「何をあつかいましょうか」というところから始まるので「何ともつかみどころがない」と言うか「何でもあり」と言うか、とにかくやれること、やらなければならないことが山ほどあるのです。
 それはとても面倒くさいことであると同時に、うまくはまればやりがいのある仕事でもありました。

 ところで、授業研究で今年は算数をやるか国語をやるか、はたまた追加教育かという問題は、必ずしも学校が自由に決められるというものではありません。そのおよそ半分は文科省、都道府県教委、市町村教委から割り振られてくるのです。特徴的なもので言えば文科省が「30人以下学級はほんとうに有効か」という疑問に答えを出そうと思ったら、どこかの学校で試して見なくてはなりません。そのとき都道府県教委を通して、「文部省指定」という形でどこかの学校に降りてくるのです。
 運不運があって、「視聴覚教育の文部省指定」などということになるととんでもない額の補助金がついてきますから苦労があっても教員の士気は高まります。しかしたいていの場合はタダ働きです。
                                           (この稿、続く)


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2015/2/23

「教育は科学であってはいけない(かもしれない)」  教育・学校・教師


 昔、大学の先生と授業研究について話している最中にこんなことを言われたことがあります。
「で、対照群はどうするのですか?」
 私はポカンとしてしまいました。意味が分からなかったのではありません。学校教育の研究に“対照群”という概念を持ち込む可能性を全く考えていなかったからです。

 “対照群”というのは、たとえば新しいがん治療について、効果があると予想される薬や治療法を施すグループ(実験群)に対置して、同じ薬や治療法を施さないグループのことを言います。一定の期間を経て、両者の治療成績に有意差がなければその薬や治療法に効果がないことになり、有意差があれば“効果あり”と判断されます。
 対照実験の基本的な考え方で、科学が科学であるための最低条件です。しかしそれは学校教育にはさっぱり馴染みません。なぜなら、私たちは“効果がある”と信じた教授法や学習法について1組にはやってみて2組には行わず、両者の結果を比較するという発想自体がないからです。児童はモルモットではありません。それぞれのクラス、そこに所属する児童生徒にとって、その単元のその授業は一生に一回しかないのです。教師が“効果がある”と信じた授業をやらないわけにはいかないのです。

 ところが大学の先生にはそれが信じられない。言わせれば「小中学校の教員は、自分の確信といったまったく根拠のないものに基づいて研究授業をしているのか」ということになります。
もちろんこの場合、間違っているのは向こうであってこちらではないのですが、私たちもまた自分の仕事が必ずしも科学的根拠に基づいて行われているわけではない、ということを肝に銘じておく必要があります。
 
 教育学は経験の学問であって、多くの場合、「あの子にとって有効だったから、この子にとっても有効だろう」とか「あの場面で効果があったからこの場面でもうまく行くだろう」という推論の積み重ねの上に成り立っているだけなのです。なぜそうなるのか、脳内のメカニズムを解き明かす必要はありません。

 たとえば「小学校4年生くらいまでは具体物を示さないと数の概念を掴むのは難しいが、それ以上の年齢になると抽象的な概念で数を操作できるようになる」とか、「歴史の学習では中央政府のダイナミックな動きよりも自分の住む地域の、身近な事象から学ぶ方がさらに知識の定着が計られる」とかは、経験から導かれた仮説にすぎません。もちかしたら違っている可能性もあります。

「朝夕きちんと挨拶のできる子は、社会性豊かで人間性にあふれている(だから挨拶をきちんとさせよう)」とか、「好き嫌いなく何でも食べられる子は、忍耐強くものごとの飲み込みも早い(だから何でも食べられる子どもに育てよう)」とかいったことも同じで、「なぜそうなるのか説明しろ」とか「科学的証拠を示せ」とか言われても困るのです。
「そういう子はみんなそうだったから、そうに違いない」それだけのことなのです。

 逆に言うと、だからこそ子ども観察を良くしなければならないということですし、別の観点から言えば、「成果を見える形で出せ」「数値として示せ」といった圧力に抵抗しなければならないということです。“数値で示すことができるものだけが教育”となれば、それはほんとうに貧弱な教育です。

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2015/2/20

「親としてすべきこと」H〜最終  親子・家族


 私は30年も教員を続けて見てきた子どもの数も半端ではありません。たくさんの問題にも携わってきました。それにも関わらず、子育てはこうすべきだという確かな図面を描くことはできません。子どもには“個性”があり、それぞれの“環境”の中で成長しているからです。地盤や気候風土の異なるところに同じ建物を建てられないのと同様です。
 したがって、私も私なりに手探りで努力するしかありませんでした。

 初めて父親になったとき、人の子の父親としてはまったくのど素人でした。二番目の子が生まれたときも、その子の父親としては初心者でした。女の子と男の子の違いもありましたが最初の子で学んだことがまったく生かせない場面が多々ありました。私は臆病者ですからしかたなく、ほんとうに多くの時間とエネルギー子どもに注ぎ、そこからひとつひとつ学んできたのです。
 しかしそれでもときどき子どもを見失い、子どもを迷わせるようなことになってしまいます。今回は娘の不登校についてお話しましたが、小さな危機は何回もあったのです。
 教育の専門家である私でさえも、これほど苦労し、時間をかけ、しかも心の中に怯えを抱えながら何とか子育てをしてきたのです。それなのになぜ、世の中の保護者の一部はああも子どもに無頓着でいられるのか、それが私の最大の謎です。

 もちろん世間には子育てに天分を持っている天才的な保護者もいます。そういう人たちは無頓着でもかまいません。なんといっても子育ては自分たちが受けてきた養育や教育の結論ですから、普通に生活しながら優れた子育てのできる人もいるのです。またそこまではいかなくても、大多数の家庭は試行錯誤を繰り返し多少の間違いを犯しながら、そしてたくさんの支援を受け続けて何とか子育てを成し遂げます。

 問題は、危機を胚胎し、あるいは最初の危機の兆候が明らかに見えながら、それでも何もせずにやり過ごそうとする人たちです。危機を察知できなければ仕方ありませんがそうではなく、そばで警鐘を鳴らす人が何人もいても頑として受け入れず自分の思いにすがり続ける人たちでもあります。あの人たちの、あのすさまじい自信、頑固さはどこから来るのか。
 繰り返しますが、私のようなプロでさえ怯え続けたというのに。

 私は「しばらく様子を見る」「信じて待つ」というのが苦手です。何かの手を打ってその期の熟すのを待つと言うのならいいのですが、台風が去るのを待つように、あるいは天恵の降りて来るのを待つように、何もせずに時を過ごすことには我慢がなりません。

 その怠惰のツケは、親だけでなく子ども本人が人生で支払っていかなければならないからです。

*以上、ある親子のことが念頭にあるのですが詳しく書けません。詳しく書けないので、なんとも分かりにくい文になっています。


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