2015/1/30

「いびつな言語感覚」B  教育・学校・教師


 学校に関わる重大な事件が起こった時、それぞれの管轄教育委員会が「子どもの心のケアのためにカウンセラーを派遣します」と発言することが常となっています。とりあえずそう言っておかないと済まない、そう言っておけば当座はやり過ごせるといった感じも受けないわけではありませんが、だからといって別に有効な方策があるわけではなく、それはそれで仕方ないという思いもあります。

 ただし私は「心のケア」というものをあまり信じていません。
 身体の中に「心」という実体があって、それが治療可能だという感じがいまひとつピンときません。少なくとも医師が同じ病気に標準的な治療を行い同じように治す――そんな感じでカウンセラーが「心のケア」に成功するとは思わないのです。
 うまく行った場合も多くを個人的な能力に負っているのであり、人格者と言っていいような人に出会えばうまく行き、そうでなければうまく行かない、そういった印象を持っています。
 同じ修行を積んでも成功する者とそうでない者が出るのは、科学とは言えません。芸術です。そして芸術である以上、結果にはおのずと差が出ます。
(以上、ここまでが前置きです。ただしカウンセリングに対する恨みつらみは、20年以上以前、不登校の指導を通して子どもを休ませたがる精神科医や臨床心理士と、繰り返し対立してきた私怨があるからで、その分は差し引かなくてはなりません)

 さて、「心のケア」は信じないにしてもそれが最終的に目指すものは理解できます。問題を抱える子がどうなると「心のケア」が果たされたことになるのかと――それは「問題の対象化」です。しばしば「モノ化」とルビがふられるように、心の中にあるものをまるで外部の「モノ」であるかのようにしげしげと眺め、語ることができるようにすることです。

 例えば事件に遭遇して何かを感じ、何かを動かされて凝り固まった内側のものを、温め、解きほぐし、言葉の形にして外部に押し出すこと、それが対象化で、対象化が終われば治療は終了となります。それは病巣を取り出すのと同じですが、切り取るのではなく、絞り出すといった感じになるものです。

 対象化は日常の中でもしばしば経験させられます。
 偶然読んだ小説の一部分に、ぼんやりと聞いていた歌の歌詞の一部に、「ああこれが私の思っていたことだ」と感じる、あの心の動きです。仲のいい友だちとの話の中で自分の話を反芻する友人の言葉の中に「自分の本当の気持ち」を発見すること、逆に、友だちに相談される中で相手の悩みの中に自分を発見すること、それらはすべて同じ「対象化」です。

 だとしたらそういった偶然を介さず(精神科医やカウンセラーも介さず)、常に自分の力で問題を対象化する能力を高めれば、多くの問題はおのずと消えて行ってしまうはずです。

 そのために何をするのか――。
 それは言うに簡単で成すに難しいことですが、要するに言語感覚を磨くこと、そして表現力を高めることです。自分の内なるものをいつも言葉として外部に押し出す訓練を続けることです。

 まだ言葉がきちんと話せない時期から、時間をかけ丁寧に、その思いが言葉にできるよう支援を続けることです。

2

2015/1/29

「いびつな言語感覚」A  教育・学校・教師


 子どものいびつな言語感覚を考えるとき思い出すのは、1997年5月に起こった「神戸連続児童殺傷事件」、いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件の挑戦状です。

「さあゲームの始まりです。愚鈍な警察諸君、ボクを止めてみたまえ」
で始まる有名な文章は、のちに出される第二の挑戦状ととともに多く専門家たちに分析され、ある人は「非常に知的レベルの高い人物」と推定し、別の人は「いやそれほどでもない」といった論争になりました。しかし誰ひとり14歳の中学生を予想した人はいません。
 あとから考えると、「school killer」とすべきところを「shool kill」としていたり「報道陣」と書くべきところを「報道人」と記述したりとずいぶん拙い面も見られ、挑戦状が(活字に打ち直したものではなく)画像で提供されると、明らかに子どもの手によるものと分かるのですが、当初はその殺人の残虐さと「子ども」はなかなか結び付かなかったのです。

 この挑戦状は犯人少年が多くの書籍、特にマンガ本を引用して組み立てたものです。どれほど知的に高い子だったかは分かりませんが、少なくともそれらを組み合わせ高邁に見える文章をつくるだけの能力はあったわけです。しかしそれはいびつな思考です。全体として統一されたものでなく、一部が肥大し別の一部が矮小化した非正常な頭脳です。言語がいびつなのに思考が統一的だといったことはありえません。

 昔の子どもはそうではありません。たとえば私の子ども時代はもっと平準的な思考や感じ方がありました。
 私だって「憂鬱」だの「晩餐」だのと言った難漢字を覚えて好んで使った時期もありますが、それは高校生の後半から大学生のころのことで、小中学生のころはその年齢にふさわしい漢字でその年頃にありがちな文章を書いていました。
 小学生なら小学生、中学生なら中学生という枠の中にいたのです。
 
 文章ではなく音楽の話なのですが、「枠」について、私には一つの象徴的な思い出があります。それは小学校の修学旅行のバス車内でのできごとです。長い長い行程の帰り道、車内レクリエーションでマイクを回し、一人ひとり歌を披露していたとき、ずいぶんと後の方でひとりの女の子が当時流行していた歌謡曲を歌い始めたのです。それはとてつもないカルチャー・ショックでした。それまで誰一人、学校の公式行事で歌謡曲を披露しようという発想を持っていなかったのです。みんながおとなしく、授業で使う歌集を見ながら「小学生にふさわしい」歌を歌っていました。それが当然という意識すらありませんでした。
 それが「枠」です。そして多くが「枠」を守りながら、全体として同じように成長の階段を上っていたのです。ところがその枠が崩れていく。

 難解な言葉を駆使して思考の一部だけを肥大化させて他を貧しくする子がいる、異常に早熟な子のいる陰で、いつまでも未熟なまま繭の中にこもろうとする子がいる――。
 改めて考えると今はそういう時代なのです。


2

2015/1/28

「いびつな言語感覚」@  教育・学校・教師


 小学校3年生の女の子に、この字は何と読むのかと問われました。
「蠱毒」「髑髏」

「蠱惑(コワク:あやしい魅力でまどわすこと)」という言葉を知っていたので「コドク」ではないかと思ったのですが、自信も持てないのでネット検索に頼ることにしました。
 すると、
「蠱毒(こどく)とは、古代において用いられた、虫を使った呪術のこと。蠱道(こどう)、蠱術(こじゅつ)、巫蠱(ふこ)などともいう」
 具体的には、
「器の中に多数の虫を入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った最も生命力の強い一匹を用いて呪いをする」(Wikipedia)
とのだそうです。
「髑髏(ドクロ)」の方はもちろん知っていました。

 ところで、なぜそんな難しい字を知っているのかというと、マンガに出てきたのだそうです。それを一生懸命、写してきたらしいのですが、現代の小学三年生女子、恐るべしです。

 これは以前、ブログにも書いたかと思いますがもう40年も前のこと、私は勤めていた学習塾で不思議な少年に会いました。当時全盛だった暴走族に限りなく憧れる子で、自転車(そのころもチャリと言った)の荷台に座り、1m四方もある大きな白旗をはためかせて得意になっているような子です。白旗の意味も知らなければ、その旗に絵を描くだけの根気もなかったようです。右の二の腕に「Spector」、左には「愛國」とマジックで書いて、両方とも読めない子でもあります。しかしおそらく「髑髏」も知っていたはずで、「極道」とか「死んで貰います」とかも平気で書けたはずです。当時の不良たちは難しい漢字が大好きでした。
 しかしこの子の場合、漢字や英単語の知識はそれ以上、増える可能性はありませんでした。何といっても不良少年の単語力には限界があったからです。しかし現代のマンガ少女は違います。マンガやアニメが提示する知識はハンパではないからです。

 私は歴史の授業で平安時代を教えるとき、しばしば呪術の話をしました。なにしろ平安貴族というのは、朝おきてまず自分が属している星の名を7回唱え、楊枝で歯を磨き、手洗いをしてから仏や神に祈る、食事を終えて爪を切る。丑の日であれば手の爪を、寅の日であれば足の爪を切る。それから吉兆を占って今日行くべき方向、忌むべき方向を占うといった調子ですから、一日中、呪術・占術に縛られているのです。もちろん家の建て方も街づくりもすべてその世界にあります。
 だから陰陽道だとか四神信仰だとかは触れざるを得ず、そういった話はとても新鮮だったのです。ところがある時期から、それがまったく新鮮ではなくなってきた。たぶん「ポケット・モンスター」が流行し始めたころから、子どもたちは妙に難しい世界に顔を突っ込み始めたのです。
                               (この稿、続く)



2

2015/1/27

「学ばぬ人たち」  親子・家族


 児童生徒は一人ひとり違うのだから、それぞれに合わせた教育が必要である――と、それはごもっともなのですが、それを突き詰めていくと個別教育以外の教育はできなくなってしまいます。

 実際には、子どもは(というか人間は)一人ひとり違っていると同時にかなりの類似性・普遍性を持っています。同じ個所で同じように間違えるし、同じように躓きます。冗談や笑い話だって「聞き手の大半が笑う」と想定できるので口に出せるのであって、数名は笑うけどあとは無表情だったり冷淡だったり、中には怒り出すヤヤツもいるかもしれないと思ったら、怖くて言えるはずもありません。

 三歳未満の子どものほとんどは「テレビ」を「テビレ」と発音し、「こども」を「こもど」と言い間違えたりします。小学校の低学年の子は「私は」を「私わ」、「学校へ」を「学校え」と書き間違えます。それはありふれたことです。

 家庭教育も同じであって、現代の家柄と言うべき家風や家庭の雰囲気があり、子どもも親もそれぞれ違っている――にもかかわらずなぜか同じことが起ってしまう。
 先日お話しした、ゲーム機を取り上げ隠し、子どもの懇願と「堅い約束」にほだされてそれを返し、約束を反故にされてまた怒鳴り声をあげゲーム機を取り上げる、その繰り返しを延々とやっている家庭は呆れるほど多いのです。
 携帯電話にしてもそうです。ケータイ・スマホの弊害があれほど言われながら、なぜ親は買い与えてしまうのか――。
 「約束は守る」「やり過ぎない」「夜の11時以後はしない」「勉強も頑張る」
 ケータイ・スマホを買い与えるときに子どもと交わす基本的約束ですが、この言葉、ゲーム機を買うときも、取り上げてそれを返すときも、繰り返しくりいかえし、くりかえし繰り返し交わしてきたものとまったく同じです。なぜ懲りないのか。

 中学校で「テストで〇〇点とったら××を買ってあげる」といった不毛な約束――。もちろん達成できればいいのですが、こういう時はたいてい達成困難な目標です。目標値が上がれば上がるほど高価な商品であることが通例ですから普通は達成できない。親も子も失望する。そして(親の方は失望だけで済みますが)子の方は無力感を学び続け、ついには試みる前から諦めてしまう切ない子に育ってしまう(これを「学習性無力感」と言います)。
 してはいけない約束の代表例のようなものですが、そんな罠にはまる家庭はいくらでもあります。繰り返し繰り返し出てきます。

 さらに・・・と言い始めるときりがないのでやめますが、これを何とか止めることはできないものでしょうか。
 人間は学ぶ生き物なのですから、他の親のやるような失敗はしてはならないのです。

(以上、私は基本的に保護者を悪く言わないようにしている人間ですが、今日は少しイライラしているので感情的なまま書きました)


3

2015/1/26

「教育のドクター・ショッピング」  教育・学校・教師


 よりよい医療を求めて次々と医者を変えることを「ドクター・ショッピング」と言うのだそうです。

 セカンド・オピニオンと異なるのは、後者が主治医の了解のもと、治療方針の確認や補強、場合によっては新たな選択として別の医師の診断を仰ぐのに対し、前者「ドクター・ショッピング」は患者の自由意志によって医師を変えることを言うといいます。
 またこの「より良き医療」というのは「もっと優れた医療」という意味であると同時に、「自分に都合の良い医療」「自分の意に沿う医療」という場合もあります。例えば私はこの言葉を、「“うつ病”乃至は“うつ状況”という診断を受けて療養休暇に入るために医師を変える人々」の話、として知りました。診断書が欲しいのです。しかし「都合の良い」は必ずしも“自分の利益になる”という意味ではありません。
 例えば「自分はガン」だと信じた患者が、それ以外の診断をすべて排除して「ガンだ」と言ってくれる医者が現れるまで病院を変え続けるといった例がそれです。実質的な利益より個人の納得の方が重要なのです。

 教育相談の場でもしばしばそういうことがあります。
 古いところでは不登校の指導の場で、病院や保健センター、児童相談所などを次々と渡り歩いた後、結局「それは受験中心主義のせいだ」とか「管理教育がすべての元凶だ」といった学校批判の立場に立つ人々のもとに多くの保護者が寄って行ったことなどが挙げられます。
 家庭における指導にほとほと疲れ果てた保護者が、「子どもをゆっくり休ませましょう」といった甘い言葉に引き寄せられていったのも同じです。そして多くの子どもが不登校から引きこもりに移行していきました。
 かつて子どもが非行に走ったとき、「六本木が悪い」と言って顰蹙をかった芸能人がいましたが、この人など、一緒に「六本木が悪い」と言ってくれる人がいたらすうっと近づいて行ったはずです。しかしそれで問題が解決しないことは誰の目に明らかです。

 子どもの危機に関して、親は最高の注意を払い最大のエネルギーを注ぎ込まなければなりません。まさに子育ての危機管理です。
 その原則は「危機管理のさしすせそ」と呼ばれる一般的なものと同じで、
(さ)最悪のことを考えて、
(し)慎重に、
(す)素早く、
(せ)誠意を持って、
(そ)組織的な対応を
いうことになっています。

 自分の都合の良い結果をもとめ、あるいは自分の推論に合致する判断だけにすがって問題解決に当たろうとしてはいけません。
 幾多の方針の中でもっとも苦しいものを受け入れる、それが「最悪のことを考えて」の対応だからです。



3

2015/1/23

「ゲーム機をいかにせん」  親子・家族


「ネットゲームにはまり込んでまったく勉強しなくなった息子からモバイルを取り上げた。ところが三日も経たないうちに『今度こそ勉強を頑張る』『時間を決めてきちんとやる』『夜10時以降は絶対にやらない』と繰り返し訴えられている。今までだって約束を守れたためしはないじゃないかと言うと、『今度は違う。ほんとうに反省した。絶対に約束を守る』、そんな言い方をして涙を流さんばかりに哀願する。どうしたものか」
 そんな内容の相談を受けました。その返事を以下に載せます。これまでもたびたび相談を受けていたお宅への返事なので、少しつっけんどんで冷たい感じがするかもしれませんがご容赦ください。

(以下、本文)
  ―−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−――

 何度も約束を破った息子ともう一度約束をするべきかということですが、誰が考えてもその約束が守られないことは目に見えています。彼は約束を“守らない”のではなく“守れない”からです。
 では約束をしない(機器を渡さない)ということになると、そのあとはどうなるのか。
 ひとつ考えられるのは、果てしない交渉が延々と続く可能性です。「今度は絶対守る」「一週間頑張ったらいい?」「どうしたら返してくれる」「少しぐらいならいいじゃない」・・・その結果、親が根負けして機器は再び本人の手に渡り、また同じように「時間を決めてやりなさい」「守れないなら取り上げます」が繰り返されます。これまで続いたことと同じです。

 機器を返さない場合の第二の可能性は、息子さんの果てしない探索です。家中かき混ぜて少しでも隙があれば機器を探り出し部屋に運びます。見つかれば返しますがまたいつか持ち出します。その果てしない繰り返し。
 第三の可能性は、友だちのところに入り浸ること。いつまでも帰ってきません。
 第四の可能性は、暴力による奪還です。この場合は母親が標的になります。父親が単身赴任だとさらに可能性は高まります。

 以上は一般的な反応で、お宅に必ずしも当てはまるものではありません。しかし中学校の現場では、そんな話は山ほど聞かされます。

 では今回、もう一度約束をするとして、そのあとどうなるか。
 その場合も一手遅くなるだけで結果は同じです。今までと同じことが今後も続くだけです。
 それを避けたければ、家中にあるゲーム可能な機器をすべて壊してしまうか、これまで続けてきた“約束ゲーム”を放棄して機器を息子に明け渡すか、最終的にはふたつにひとつだと私は思います。しかし普通の家庭は、そのどちらも選択しません。

 ちなみにそうなることを恐れて、私の家ではゲーム機を最初から一台も買いませんでした。中学生のころ、親に内緒で中古を友だちから買ったことがありますが、すぐに私が発見し返させました。高校生のころ、母親の古いコンピュータをネットにつなげて遊んでいるのを見つけたとき、そのコンピュータは私が踏み潰しました。おかげで息子は他のお子さんよりずっとゲームの時間が短かったはずです。しかしそれで勉強時間が伸びたわけではありません。極めて不勉強で、その報いを受けました。

 ゲームのせいで勉強ができないのではありません。勉強しないことをゲームで紛らせているのです。最初はゲームにはまっていましたが、途中からはゲームに逃げているのです。それが本質です。ゲーム機を持っていてもいなくても、壊してしまっても手元に置いても、隠しても、どっちみちたいして勉強時間は増えも減りもしなのです。

 問題の核心は、なぜ彼は勉強をしないのかです。
 他から遅れてしまったか、努力してもトップを取れないとか、もともと勉強なんか大嫌いなのだとか、本人に関わる問題はすぐに(いくらでも)思いつきます。しかし家族全体の問題として突き詰めることは、これも普通の家庭ではしないことです。


5



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ