2014/11/19

「体罰の問題」F最終〜体罰のない社会へ  教育・学校・教師


 私が子どものころ、そしてそれ以前の教師は二重の下駄を履いて教育活動を行っていました。「体罰」と「保護者からの絶対的信託」です。
 昔の教師の教育力というのはそういうもので、それが“坊ちゃん”や“うらなり”、“野だいこ”でも教員が務まった主な理由です。「二十四の瞳」の大石先生など(小豆島ならいざ知らず)今の都会近郊の、厄介な地域に赴任したものならあっという間に学級崩壊です。子どものあとを泣きながら追いかけているようでは、現代の教員は務まりません。

 しかし今や二重の下駄ははずされ、その分、教育力が低下したと言われても仕方ありません。「昔の教員は偉かった、それに比べると現代の教師はずいぶんと教育力が落ちた」、その言い方は、一面で間違っていないのです。

 私たちはこの二つの強力な武器を失い、しかしそれに代わる武器を手に入れることができませんでした。しかしそれでも何とかなってきたのは、平成以降(つまり学校から暴力が排除され、保護者の絶対的信託が抜け落ちて行ったこの四半世紀)、20倍〜30倍というとんでもない競争率を勝ち抜いてきた若い教師たちが、実に優秀だったからです。
 彼らは苦労しながらも、保護者の信頼を引き寄せ、暴力抜きの教育に道筋をつけてきました。それは若いころの私たちがなしえなかったことです。彼らの存在抜きに、この20年あまりの教育を語ることはできません。

 けれど個人的な能力や努力によってようやく支えられている組織はいつか崩れていきます。崖っぷちの戦いを延々と続けることは不可能だからです。うまく行っている時にこそ何かを変えなければならないのであって、崩れてからの対応では原状に復帰することなどとてもおぼつかなくなります。ではどうしたら良いのでしょうか。

 かつての日本には体罰以外の罰はほとんどありませんでした。あっても反省文20枚といったものです(これだって子どもによっては体罰ですが)。そこから“体罰”がなくなるわけですから“罰”自体がなくなってしまったのと同じになります。体罰肯定あるいは擁護派の一部は、そこに恐れを持っています。
 授業を荒らしても罪を問われない、いじめで友だちを追いつめても責任を負わないそれで子どもが育つのか、罪を犯しても責任を問われない社会など学校以外のどこにあるのだ――彼らは恐怖とともにそう叫びます。それも理解できるものです。
 したがって体罰に代わる“罪と罰の体系”をつくりなおすことが、体罰を二度と起こさないためのひとつのアイデアとなります。授業を荒らしたらこうなる、万引きや恐喝などを行ったら学校としてこういう処分を行うといったことを明確にし、粛々と実施するのです。ことが起るたびに処分内容を考えていたのでは、対応が遅れますしばらつきも出ます。そして何より、子どもに見通しというものがないので抑止力が働かないのです。

 これについて一時期、「ゼロ・トレランス」という考え方が話題になったことがあります。罰則を定め、むやみに容赦しないできちんと対処せよというものです。しかし「寛容なき処罰」と訳されて日本では極めて不人気で、いつの間にか忘れられてしまいました。
「教師は“きまり”に頼ることなく、生徒に寄り添った肌理の細かな指導をするべきだ」というのがその人たちの基本的な考え方です。

 だとしたらゼロ・トレランス方式の代わりに、ひとりの生徒と2時間も3時間もじっくりと話せるだけの職員配置をすればいいのです。これが二つ目のアイデアです。
 そのためにはとりあえず各学年にひとり、“余計な教員”を置いておくだけでよいでしょう(3学級に一人程度の配置。したがって4学級以上の学年には2名)。ほとんどに時間、ただ学校にいるだけの存在になるかもしれませんが、肌理の細かな指導をするためには絶対に必要です。

 部活については、顧問の(教員としての)負担を極端に減らし、勤務時間内に繰り返し研修に行ったり指導研究をしたりする時間を確保するより外ありません。
 体罰の誘惑にかられやすい部活顧問の状況は、「短期間に部員の実力を高め、試合に間に合わせて勝利しなければならない」というものです。しかしそうした指導技術は簡単に身につくものではありませんし、日々の練習計画などをじっくりと考える中で次第に生み出されるものです。熱心な指導を10年も続ければ自然に身につく部分も少なくありませんが、学校を替わるたびに違うスポーツの顧問をさせられるのが普通です。そのたびに一から始めなくてはなりません。中途半端な技術しかない教員が高い目標を持たされると、自然とそこに“体罰”への誘惑が生まれます。それを避けるためには教員の指導技術の向上が不可欠です。それには時間が必要です。

 いずれにしろ金と人数をかけなければ始まらない話です。
 教科ばかりでなく道徳を教え、社会性を育て、家庭生活の営み方から芸術の指導までしてさらに競技スポーツの基礎まで培おうという遠大な目標をもち、実際に世界最高峰の教育を実現している日本の公教育を、今後も維持していこうとすれば今まで通りというわけにはいかないのです。




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2014/11/18

「体罰の問題」E〜それでも許容できない  教育・学校・教師


 3回に渡って体罰の教育力というものを考えてきました。
「体罰は子どもを傷つけ怨みを残すだけで何の教育的効果もない」という人がいますが、そんなことはない、「体罰」には子どもをコントロールし、自らを伸ばそうとする強い力がある――私が証明したかったのはそういうことです。

 40人もの子どもを教科や社会性の学びに導き、努力させ続けるのは容易ではありません。暴力はそれ自体に教育力があるわけではありませんが教師と真剣に対面させ、その指導に向き合わせるという点で最後の手段となります。
 暴力は教師と生徒、人間と人間が真剣に向かい合う場を提供します。子どもを一気に異次元へ運び、内省させる力をもつのです。
 暴力には生徒たちが自らに設定した“限界”を乗り越えさせる力があり、普通の努力、真剣な思いだけでは突破できない壁を、それは一気に突き崩す力があるのかもしれません。
――それらはすべて私の経験に基づくものです。

 中学生時代、私はたぶんそれほど悪い子ではありませんでしたが、殴られる回数は5段階でおそらく「4」、一週間一度も殴られずに帰ると幸せでした。罪と罰が対応しませんが、それは私が「殴りやすい子」「殴るに都合の良い生徒」だったからでしょう。

 教員としてはその初期、人並みに“殴る教員”でした。正確に言えば“なり立て”のころには強い抵抗感があったのに、暴力に頼らなければ押さえられない状況に追い込まれ、さらにその後、暴力でも収拾のつかない段階へ追いつめられたのです。
 暴力には使い方がある、それがそのころ手に入れた教訓でした。そしてそれ以後、体罰を行うことをやめてしまいました。
 教育上、そうとうに効果のあるこの武器を、使いこなす自信がなかったのです。まだ修行が足りませんでしたし、そもそもそういうタイプではなかったからです。そしてそうこうするうちに、時代が変わって、学校は「体罰禁止」に大きく舵を切り始めました。
 私はそれで良かったし、そうあるべきだと思いました。
 なぜかと言えば、暴力を許容するといつかどこかで子どもが殺されるからです。 

「体罰も正しい使い方をすれば・・・」という言い方がありますが、暴力の正しい使い方というものは存在しません。全員が自分の思う“正しい使い方”を始めても、教師と呼ばれる人は全国に100万人近くもいますからその程度には大きなブレが生じます。その一方の極で、子どもが殺されることになるのです。

 体罰の話を始めるに際して、「たったひとりの冤罪も出さないために、何人かの殺人鬼が世に放たれることにも耐えて行かなければいけない」というお話をしました。私はその不条理を受忍できると書きました。同じように教師によって殺される子を一人も出さないために、体罰という武器は放棄しなくてはなりません。それはどんな犠牲を払っても行うべきことなのです。

                                    (この稿、次回最終)
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2014/11/17

「体罰の問題」D〜障壁の超克、体罰の普及性  教育・学校・教師


 桜宮高校の場合がそうでしたが、体罰がもっとも頻繁に使われる場は部活です。それには理由があります。顧問の一部は“体罰”がチームや選手の限界(力の障壁)を超えさせる力があると信じているからです。

 部活というのは学校生活の中でも極めて特徴的なもので、目標と到達点、評価がはっきりした活動です。それに匹敵するのは“受験”だけですが受験がしばしば生徒たちのモチベーションを高めるのに苦労するのに対し、部活はそういうことはありません。多くの場合、部員は選手やメンバーに“なりたい”と思っていますし、試合やコンクールではコートやステージに “立ちたい”と願い、“勝ちたい”“賞をとりたい”と本気で念じています。そうでない子はもともと部活には来ていません。ですから組織をまとめる、個人を伸ばす、あるいは言うことをきかせるという意味で最もやりやすい場なのです。普通にやる分には。

 しかし“普通”の枠を超えて“県大会に出場する”とか“全国大会に行く”とか、そのチームや個人の今の実力ではかなわない夢を追い始めると事情は変わってきます。どこのチームでも誰でも持つようなモチベーションだけでは、そうした高みには立てないからです。より多くのアメ(たとえばプロからのスカウト)を与えてモチベーションを高めるか、大きなムチがなければダメだと考える人が出てきます。
 もちろんムチなしで偉大な成果を上げる優秀な監督・コーチはいます。しかし割合からすると、やはりそれはごく少数のエリートで、彼等と伍して戦うには普通の監督の普通の采配ではムリなのです。そこで暴力が顔を出します。

 選手を殴れば成績は上がるのかという問題には深入りしません。実際のところ私には分かりません。ただしチーム全体が引き締まり、実力以上の力が発揮できるかもしれないと思うところはあります。それは「体罰の抑止力と効果の普及性」のためです。

 前に「体罰を行うのは必ずしも“その子”を抑えようとか育てようということではない」と申し上げました。多くの仲間の前で叱責されたり殴られたりする子が、素直に反省する例は稀です。それにもかかわらず教師が体罰を行うのは“その他の子”がターゲットだからだというお話です。

 部活の場合も同じです。体罰によって果たそうとするのは“その子”ではなく、“その他の子”のの意識変革・技能向上なのです。殴られる“彼”がこの次も殴られないように、ほかの子ががんばるのです。その子が指摘された欠点や問題性を、“その他の子”が克服しようとするのです。このときの動機付けは「ああは、なりたくない」とともに「アイツを殴らせたくない」です。

 したがって(以前の学級で問題を起こす子の場合もそうですが)、殴る相手は誰でもいいというわけにはいきません。ひとつの暴力で簡単に凹んでしまう子も、すぐにギャーギャーと大人に訴える子もダメです。ある程度タフで怒られたり殴られたりすることに耐性のある子でなければなりません(その点で「クラスの悪い子」はとても貴重な存在です。小さなころから怒られ慣れていますし、それで凹んだり傷ついたりしないから今も「悪い子」なのです)。そしてもう一人、立場上、殴られる理由のある存在も殴るに値します。主将・キャプテンです。

 桜宮高校の事件では亡くなった生徒が「なぜ自分ばかりが殴られるのか」と自問していたそうですが、それはキャプテンだったからです。さらに皆が「殴らせたくない」と思う存在、それだけの人格者だったから殴られたのでしょう。チームにとって「どうでもいい子」は、殴っても監督のこぶしが傷むだけで何のメリットもないのです。
  (この稿、続く)


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2014/11/14

「体罰の問題」C〜事態の昇華、ステージ・アップ  教育・学校・教師


 あるとき、中学校の三年になってから、無着先生が私たち全員をゲンコもちでぶんなぐったことがあります。みんな目をつむらせられて、ゴツンゴツンくらつけられました。みんなも、自分がぶんなぐられていたかったのも忘れて、「先生にぶんなぐられるようなことをしたのはだれだ!」「いつもいつも人をなぐったり、人の生命にきずがつくようなことをするのはわるいことだ、と教えている先生に、ぶんなぐらせねばならないようなことをしたのは誰だ!」とみんなどなりました。

 有名な「山びこ学校」(1951年)の一節です。
 この子たちが何をしたかというと、火鉢の中に紙を入れて煙をくゆらせたという実に他愛ないものです。その程度で全員が「ゲンコもちでぶんなぐ」られるわけですから、いかに終戦直後の山形県の学校が平和だったかが分かります。無着先生がそれまで暴力を振るわずに済んだのも理解できます。しかしここで注目すべきはそのことではありません。

 大切なのは無着先生がゲンコツを食らわしたことで、子どもたちは事態を特別なこと、看過できないことと見直したという点です。火鉢の中で紙がくすぶっているという、よくありがちな、取り立てて問題とも思えない事実が、実はとんでもなく重大なことだと、ゲンコツを契機に捉えなおしたのです。体罰にはそうした効果があります。
 体罰の第二の有効性は、事態の昇華、ステージ・アップ、と表現できるものです。

 年配で体罰を肯定あるいは容認する人の一部はノスタルジーに支配されています。彼らは「先生にぶん殴られて眼が覚めた」とか「先生に殴られて本気で考えるようになった」とかいった強烈な思い出を持っているのです。
 それは自分にとって重要な転換点であり、それがなかったら現在の自分もない、人生はもっと悪いものになっていたろう――そう思える経験です。彼らはその日のことを長く忘れず、それゆえ自らに大変革をもたらした“体罰”に強い親近感を持ちます。

 私はWebの最初の方のページにスティーブ・キングの一節を掲げています。
「子どもってのは、誰かが見守っててやらないと、なんでも失ってしまう」「スタンド・バイ・ミー」
 私自身もそうでしたが、子どもはいつもつまらない見栄や意地・行きがかりのために大切なものを捨ててしまいます。
 不良グループと一緒にいてもろくなことはないと知りながら、抜けるのは根性が座っていないみたいでカッコウ悪い。 “いじめ”が悪いなんて百も承知だが行きがかり上、はずれることもできない。こんな生活を送っていても将来に何の展望も開けないと分かっていながら、今さら真面目になるのは気恥ずかしい――そうした、穏やかな説得や切々とした説教では動かない頑固で依怙地な自分の気持ちを、“先生”は暴力まで使って止めてくれた。

 彼等が懐かしんでいるのは“暴力”そのものではありません。自分の行為や状況を一瞬にして日常から切り離しまったく別のものとして提示してくれた、 “先生”はそれを通して本気で生き方を考えさせてくれ、自分は自己変革に成功した――そういう精神浄化の物語なのです。

 同じ体験は一部の教師にも共有されます。現状に疑問を持たずに気ままに暮らしている子どもたち、あるいは肩で風を切って歩く不良少年には、そうした強硬な手段が必要なのだ。通常の指導、言語を介した取り組みでは劇的な変化は望めない、教師と生徒が真剣勝負の土俵に同時に登って自己を見つめ返すためには、強烈なインパクトが必要だ――彼らはそう主張するのです。

「けれどそれは暴力抜きでもできるはずだ」
 そんな反論が聞こえてきそうです。実際その通りです。
 暴力抜きでも立派な実践をする偉大な教師はいくらでもいます。しかしそれは誰にでもできる技ではありません。基本的に、経験の少ない若い教員には難しいことで、ベテランでも能力に欠ける教師は大勢いるのです。

                                       (この稿、続く)



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2014/11/13

「体罰の問題」B〜体罰の優れた教育力  教育・学校・教師


「体罰の優れた教育力」。副題にそう書くのはなかなか勇気のいることです。誤解されやすいに決まっていますから。しかし日本の教育が長く体罰の伝統としてきた以上、そこには誘惑的な魅力があったことは確かです。教育学は基本的に経験の学問ですから理論的に説明できるかどうかより実質的に教育効果があるかどうかが問題になります。そしていつのころから“体罰”の教育力は教師によって認知され、学校社会に根づくようになったのです。

 体罰はどのように教育に有効なのか。
 その最初の答えは、規律保持です。体罰を支持する人々の多くは組織運営上すべての集団には信賞必罰が重要だと考えています。“賞”が「賞賛」や「賞状」なら、“罰”は叱責ということになりますが単に怒鳴っただけでは通用しない場合、何らかの措置が必要になります。日本の学校は安易に自宅謹慎や停学、他校への転校勧告といったことはできないので残るのは“体罰”ということになります。
 もちろんそれは一人ひとりに丁寧な指導ができれば克服できる問題です。しかし「40人近い児童生徒一人ひとりへの丁寧な指導」は形容矛盾です。ひとりひとり丁寧にやっていたら40人の指導はできませんし、全員くまなく平等に扱っていたら一人ひとり丁寧にするだけの時間は残っていません。「即座に」「短時間に」となると体罰への依存が高まります。

 ところで「学校は“いじめはぜったいに許さない”という強い態度で児童生徒に臨まなければならない」といった言い方があります。マスコミによってしばしば提示されるものですが、「絶対に許さない」と宣言したあとでそれにも関わらず“いじめ”が起こった場合、学校はどう対処したら良いのでしょう。
 大昔だったら答えは簡単でした。“絶対に許さない”といったことをやった生徒はボコボコに殴られたのです。生徒の側もそれを覚悟でやりました。
警察のない国家がないように、暴力装置を持たない権力は存在しません。昔の教師はこうして力を振るったのです。

 しかし、そうした話をすると必ず持ち上がってくるのは、「体罰は人を育てない」「恨みを持つだけで心から反省することはない」というものです。
 これはまったくその通りです。
 学級のような集団の中で一人を立たせ、体罰にまでいかずとも嵐のような罵声で怒鳴りつけてみればわかるのですが、立たされた本人は素直に反省したりはしません。下を向いて唇を噛み、密かに復讐心を燃やしているのがオチです。
 しかし周囲にいる「その他の子どもたち」は別です。彼らも下を向き、怒られる仲間を見ないようにしていますが考えているのはまったく別のことです。
《あんなふうに、なりたくない》
 これが体罰の抑止力です。昔の教師が体罰を多用した本当の理由はそこにあります。目標は本人ではなく「他」なのです。

 少し修行を積むと教師たちは心に響く良い話や指導法を身につけます。熱心な教師なら積極的にそうしたものを採取して回ります。しかしそうした良い話や指導も、とりあえず耳を貸してもらわなければ始まりません。子どもにはまず、“聞く”姿勢が求められているのです。
 体罰という抑止力によって、学級全体に広まった静けさ素直さの中でようやく話が通る、そして子どもが育つ。そう考える教員は少なくなかったのです。

 体罰の抑止力と効果の普及性についてはあとで再び触れるので、今日はここまでとします。体罰の第二の有効性は、怒りの昇華、ステージ・アップ、そんな言葉で表現できるものですが、それについても明日以降、お話したいと思います。紙面が足りなくなりました。                  
                                 (この稿、続く)

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2014/11/12

「体罰の問題」A〜悪いものの魅力  教育・学校・教師


 これほど強く非難され社会的制裁も厳しいのに、なぜ学校から体罰がなくならないのか――。この問題は一筋縄ではいきません。
「暴力に寛容な社会性」や「教師の自覚の欠如」に答えを求める向きもありましたが、そう言われてずいぶん年月が経ちました。その間、研修は果てしなく繰り返され、厳罰化も進んでいます。校内はすでに暴力に対して寛容ではなく、暴力が正しいと思っている教員もいません。しかしそれでも体罰はゼロにならない。不思議なことです。

 不思議と言えば、校内で起ることで“体罰”くらい因果のバランスの悪いものはそうはありません。多くの場合、体罰を誘発する原因はさほど大きなものではないのです。しかし体罰に対する処分はどんどん重くなり、普通は懲戒免職、稀に停職または減給です。懲戒免職となれば退職金はゼロになり年金も減額、教員免許も取り上げられます。停職や減給なら大したことはないと思うかもしれませんが処分を受けた事実は一生付きまとい、昇給や退職金にも影響します。一説には35歳で減給処分を受けると生涯賃金で350万円違うと聞きました。

 他人のお子さまの些細な罪に対し、体罰を行って自分の生活を根本から崩してしまう。そんなバカなことがあっていいはずはありません。しかし実際には存在する――そう考えると体罰の本質がはっきりと見えてきます。
 教員による“体罰”は十分に考えた上での行動でないのです。「カッとなると自分を見失い抑制の利かなくなる人いる」「やってはいけないという判断力が決定的に落ちてしまった人がいる」そう考えないと説明がつきません。いわば大人の発達障害と心神耗弱の問題なのです。そうなると体罰撲滅への道は研修や厳罰化ではなく、治療やトレーニングなのだということが明らかになってきます。
 体罰と発達障害、その観点から体罰を考察しようとする動きのないことを、私はとても不思議に思っています。

――と、ここまでは、実は以前からずっと話してきたことです。そしてずいぶん長いこと、それで体罰がなくならないことについてはすべて説明がつくと信じてきたのです。大阪市立桜宮高等学校の体罰事件が起こるまでは――。

 桜宮高校事件が起こって初めて、今でもなお、体罰の教育的効果を信じて行っている教員がいる、しかも全国規模ではかなりいる、ということに気づきました。驚きました。
 彼らは暴力の教育的効果に絶大な信頼を置くとともに、子どもが大きな成長を遂げているかぎり本人も保護者も絶対に訴えない、信じ切っています。だからためらうことなく暴力を振るうことができました。自分のやり方について来れば全国レベルの実力を持てるはずの生徒がまさか自殺するなど、夢にも思っていなかったのです。

 体罰には良いところがある、優れた教育的効果がある――これからお話ししようと思うのはそういうことです。しかしだからといって私が体罰肯定派ないしは容認派であるわけではありません。
 体罰は撲滅すべき目標です。少なくとも肯定したところで昔に今が戻るわけはなく、やればほぼ確実に懲戒免職になる体罰を現職の先生方に勧めることもできません。ただ体罰を考える上で、「よくない」「何の利もない」というところから始めると、本質的なものを見失ってしまいます。
 煙草はよくない、麻薬や覚せい剤はよくない、そんなことは誰でも知っているのになくならない、それと同じです。簡単に言えば、特定の場面で、煙草も麻薬も覚せい剤も「かなりいいもの」「そうとうにいいもの」だからです。
 私は煙草しか知りませんが、長い禁煙のあとの一服、強い緊張のあとの一服には、他に代えがたい至上の喜びがありました。「将来ガンや心臓病になりやすいからやめましょう」では済まない魅力があったのです。それを前提としないで「なぜ体に悪いと分かり切っていながら煙草はやめられないのか」と首を傾げていても始まらないのです。
   
                                  (この稿、続く)


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